section 7-2

section 7 「Love Your Neighbor」
二
男子の誰かが、わざと多岐川に触れて「菌」をもらい、他の男子に移していく。そんないつもの「遊び」が始まった。明日香は、やめなよー男子ー、といつも大声で言っていたのだが、もう言う気すら起こらなかった。何故止めないんだろう。あんなことまであったのに。明日香は男子という生物とは一生わかり合うことはできないんじゃないか。そんな疑念すら頭に浮かんだ。以前、桐谷が言った通り、これは男子たちの「仲」を、同じ集合体に属している「証」を、「一体感」を確認するための儀式なのだろうか。それは明日香と潤子が互いに手を握ったり、時々抱きしめあったりするとの似たものなのだろうか。
桐谷はいつものように、テスト前だー、遊ぶなー、と注意しているが、もちろん効果はない。ばたばたと、男子の追いかけっこは机の列の合間を縫って暫く繰り広げられる中、意外な人の声が上がった。
「ちょっと、もうやめなよ、みんな。」
潤子だった。普段は静かな声で喋るが、大きい声を出さなければいけない時はちゃんと声は出るし、何しろ結構美声なので、よく通った。意外な人の大きな声というのは、誰もが慣れていないから、一瞬注目せざるを得ない。だから教室は一旦静かになり、男子たちは追いかけっこを止めた。明日香は、潤子どうしたんだろう、と思って、自然と席を立ち、潤子が声を上げた方へ歩き始めた。
潤子は多岐川の席の隣に立っていた。よく見ると、多岐川の背中は震えていた。泣いているのだ。感情を一切出さない、あるいはこんな扱いを子供の頃から受け続けているせいで出せなくなったのかも知れないが、怒りもしなければ悲しみもしない、それが多岐川だ。そんな印象は覆された。それは背中から見ても悲しくて泣いている。そうはっきりとわかるほどの、「激しい」感情の発露だ。
「辛いよね、こんなことされて…。ごめんね、ちゃんと止めてあげること出来なくて。」
潤子は身をかがめて、多岐川を抱きしめ、そう言っていた。多岐川は潤子を受け入れたらしく、潤子の肩で嗚咽していた。潤子は明日香にそうするように、多岐川の頭を撫でていた。潤子は多岐川のあの大きな痣黒子のある頬に自分の頬をつけていた。流れる多岐川の涙は、潤子の頬も伝う。明日香は、潤子が自然にこういうことを出来てしまうことが、すごいと思ったし、そんなことを出来る子が自分の一番の親友であることは誇らしいけれど、明日香自身は全くそのレベルに達せていないことを心苦しくも思った。けれど正直な気持ちは、多岐川さんいいなあ、潤子に抱きしめてもらって、という素直なヤキモチだった。
小林のこともあったのだ、さすがにこれはまずいと思ったのか、男子数人が寄ってきて、「悪気はなかったんだ」のようなことを言って謝っている。
「悪気がない、っていうのは一番良くないよ。だって、それじゃ自分たちのしていることが、どれだけ多岐川さんを傷つけていたか、どれだけ嫌な思いをさせていたか、気にもせずに今まであんなことやってたってことでしょ?だめだよ、そういうの。」
謝る男子たちをそう嗜める潤子の声は優しくて、嗜めているのではなく、まるで今まで本当にどれだけ多岐川を傷つけているか知らずにやっていて、そのことに初めて気がつき、そのことに男子たちがショックを受けているから、それを慰めようとしているかのようだ。東川が、潤子はあまり緊張した空気を作りたくないからそういう言い方をしていると解釈したのか、ちょっとふざけた調子で、澤井先生、申し訳ありません、と、気をつけの姿勢から腰を折って謝っている。他の男子もそれに倣って同じことをしている。
「ちょっとみんな、先生って何ー。謝る相手あたしじゃないでしょ?多岐川さんに、だよ。」
潤子は可笑しそうな笑顔を浮かべて、多岐川の大きな痣黒子のある頬に頬をつけたまま、片手で多岐川の頭を撫で、片手で、多岐川の背中を優しく叩きながら、言った。潤子の周りで、和やかな笑いが起きていたけれど、明日香はこの時、自分も今すぐああやって潤子に慰められたいなあ、とただただ嫉妬していて、そんな自分が可笑しかった。潤子の周りにやってくる男子たちは、多岐川、ごめんな、と各々言っている。代わる代わる男子全員来たんじゃないだろうか。潤子の肩に突っ伏したままの多岐川がそれを受け入れたかどうかわからないが。
この日以降、多岐川を「菌」扱いする遊びは、男子の中で行われなくなった。
この子供らしい残酷さが良くあらわれた「遊び」をしなやかに止めさせてしまった潤子は、一部で「天使」というあだ名をつけられていた。これは潤子の周りの席の男子や女子の間では、授業でわからないことがあると、潤子に聞けばすごくわかりやすく説明してくれることから、以前からあったあだ名なのだが、多岐川が感情を露わにしたこの日の潤子の振る舞いから、余計にそう呼ばれるようになった。潤子はそう呼ばれることをとても恥ずかしがっていたが、そんなはにかむ笑顔も天使だよね、と明日香は桐谷や茅ヶ崎と言っていた。原や上川ですらも、潤子を「天使」と呼んでいた。それは明日香が持っている彼女たちが常に皮肉屋だという偏見を通り越して、素直にそう呼んでいるようだった。
潤子が「天使」だったその日の帰り道、潤子はすごいね、という話を明日香はした。潤子は、今まで明日香や聡美が言ってきたり、やってきたことが効いたんだよ、と謙遜した。
「でも多岐川さんが泣いたのって、たぶん自分が辛いから、とか傷つくから、とかじゃなかったと思うんだよね。」
「そうなの?」
明日香はその方向では全く考えていなかったので、潤子のその言葉に素直に聞き返してしまった。
「あんなことがあったのに、あのことのきっかけになった「遊び」なのに、どうしてやめようとしないんだろう…。それが悲しかったんじゃないかな。そんな気がしてる。」
「…そっか。…そうかもね。」
明日香は暫く間を置いてから、そう答えた。後藤の顔がふと浮かんだ。
「でも、あたしはとりあえず多岐川さんが羨ましかったー。あたしも潤子にほっぺたくっつけてぎゅってしてほしいーぃ!」
明日香はカバンを持ったまま両腕を上げて、訴えるように、恥ずかしいことを打ち明けるかのように言った。潤子は大笑いしてから、明日香に飛びついて、頬をくっつけた。ちょっと汗ばむ二人の頬がくっつくのはべたつくけれど、気持ち良かった。潤子のいいにおいがする。
「明日香って、ほんと、そういうとこ可愛いよねー。」
潤子は可笑しそうというよりは、どこか嬉しそうだった。