section 7-1

2024-08-06

section 7 「Love Your Neighbor」

 一

 明日香は潤子と一緒にいつも通り帰宅した。びっくりしたねー、とか言ったり、小林大丈夫かな、とか話しているうちに、まるで一瞬というくらいの感覚であっという間に明日香の家に着いた。道中潤子は明日香の手をずっと握っていて、離さなかった。いくら汗ばもうとも構わずに。

 父母が帰宅してからはいろいろと忙しかった。とにかく無事で良かった、それは父、母、姉、全員に言われた。そしてやはり父母、特に母には、そういう時は立ち向かうなんて考えずにとにかく逃げて、明日香に何かあったら、お母さんたちは悔やんでも悔やみきれない、と泣いて訴えられた。警察や教師には楯突いた明日香だったが、涙を流して自分の無事を願う母には、ただ一言、ごめんなさい、と言うしかなかった。

 しかし姉には、潤子ちゃんを見捨てられなかったんでしょ、と言われた。あたしなら逃げちゃったかもしれないけど、明日香にはきっとそれは難しかったと思うよ。この子、そういうところは、芯が通って真っ直ぐだから。お父さんとお母さんがそう育てたんだよ、と明日香を庇ってくれた。

 父はしばらく考えてから、極力お母さんの言った通りにしろ、お前は喧嘩が強いから、相手の強さを読み違えることはないだろう、ただいつも言っているが凶器を使うやつは卑怯者だ、こっちが想像しない動きをすることがある、一番良かったのは、潤子ちゃんを連れて逃げることだったが、結果的にお前はたくさんのクラスメイトを助けたのだから、正しいことをしたんだ、間違ったことをしたとは思わなくて良い。そうまとめていた。そんな会話をしている間も居間の電話が何度も鳴るので、明日香は一言一言を噛み締めている余裕がなかった。

 警察からも連絡があり、明日香の性格や行動について、普段どういう子なのか、どんな生活習慣なのか、など事情聴取めいたことも電話口で父母姉に行われたようで、父はまるで明日香が何か悪いことでもしたみたいじゃないかと、ちょっと憤慨していた。

 小林の親からも電話があった。電話に出た明日香の母にも、代わった明日香にも、涙ながらにお礼を言っていた。明日香としては、刺される前に止められなかったのだから、お礼を言われるのもおかしな話だと思ったけれど、搬送された病院の医師から、傷は深かったが、止血が早かったことが功を奏した、それがなければ危なかったかもしれない、そう言われたとのことだった。明日香が一生懸命止血をし、まわりのクラスメイトたちに適切に指示を送って、小林が冗談を言えるまでになったことを、小林の母は原から聞いたと言っていた。明日香はそれを聞いて、そっちの方に少しびっくりした。

 担任の城田から電話があったり、潤子の母と明日香の母が、お互いの娘が無事で良かったと、泣いて喜びあったりと、居間の電話は忙しかった。

 明日香を家まで送った潤子は、本当は明日香と一緒に居たかったし、側を離れたくなかった。

 「潤子ちゃんのお父さん、お母さんも潤子ちゃんの無事をきちんと確認したいし、安心もしたいはずだから、今日は潤子ちゃんちへ帰らないとね。もし明日、中学校休校だったら、一日明日香の面倒を見てあげてくれるかな。」

 大学の期末試験勉強のため、たまたま家にいた今日佳にそう諭されて、潤子は自宅へ帰ったが、自身もそれなりにショックを受けていたようで、玄関へ入り母の顔を見た途端泣き出してしまい、しばらく母の腕の中で泣いてしまったと、後日潤子から明日香は聞いた。明日香の側を離れたくなかったのは、自分が不安だったからかもしれない。明日香を支えているようで、あんなに身を呈して、あんなに小林を助けて、あんなに大人たちから質問責めにあって、押し潰されそうになっているであろう明日香に寄りかかっていたのは自分だったことを思うと、潤子は今すぐにでも明日香の元へ行って、明日香を抱きしめたかった。そんなことも後で聞いて、明日香は思わず泣いてしまった。潤子がいてくれて本当に良かった。潤子がいてくれなかったら、今頃自分はどうしていただろう。想像も出来なかったし、したくもなかった。

 結局翌日は休校にはせず、普通に授業をするとの連絡は、連絡網で夜に伝わってきた。期末試験直前で、一日授業が空くのは「好ましくない」という判断だったらしい。この公立中学校らしい、と姉は皮肉を言っていた。

 「お姉ちゃん、あたし、今日学校行きたくない。」

 翌朝、明日香は朝起きられなかった。目は覚めた。しかし体が起きようとしない。鉛でも体のどこかに入ってしまったかのように動けなかった。いつも居間におはよー、と言いながら下りてくる時間に明日香がやってこないので、起こしに来た、というよりは様子を見に来た今日佳に、明日香は甘えるように言った。今日佳には、明日香の調子がおかしくなるのは今朝からだろうとわかっていたようだった。

 「…そっか。お父さんとお母さんには言っておくよ。今日はゆっくりしてなよ。ご飯は?」

 いつもはどちらかといえばつっけんどんな態度を妹に対して取る今日佳も流石に、優しい態度をとってやるしかなかった。

 「今食べたくない。」

 「うん、わかった。なんか飲みたくなったり食べたくなったりしたら、言いなね。あたしも今日家に一日いるから。」

 今日佳はそう言って、明日香の部屋から出て行こうとした。

 「お姉ちゃん。」

 明日香はそう言って、今日佳の方へ両腕を広げた。今日佳は、ちょっとため息をつきながら、明日香のベットに被さって、明日香を抱きしめてあげた。妹の頬にキスなんかしたのは、一体どれくらい振りだろう。今日佳が小学生で、まだ赤子の明日香をあやしたり、よちよち歩きの明日香を抱き上げたり、公園へ遊びに連れて行ったり、そんな日以来だ。そんな明日香をあやしていた頃、子供心に、この子はあたしが守る、と決意したことをふと思い出した。よく喧嘩もするけれど、愛おしいたった一人の妹であることは、今も昔も変わらない。今日佳は涙で濡れている明日香の頬に何度もキスをした。

 明日香は結局その週の残りの日は学校を休んだ。具合を悪くした生徒は明日香だけではなく、数人が一日二日、あるいは明日香と同じようにその週一杯休んでしまったと聞いた。他のクラスや学年の子でも、事件を知って、学校へ行きたがらなくなった子も出てきていた、という。後藤のように、凶器を学校へ持ってきているものがいないか、抜き打ちの持ち物検査もあったらしい。この事件で学校自体が混乱していることもあったので、結局期末テストは一週間延期された。

 潤子は翌日から学校へは行けたので、毎日学校が終わると明日香の家へ来て、話し相手をしたり、明日香の調子が良ければ、ちょっと勉強を教えたり、としてくれた。今日佳は、大学がテスト期間に入っていたが、今日佳が受けなければいけないテストが、たまたまその週にはなかったこともあり、合間に入れていたアルバイトも、アルバイト先に理由を説明して、休むことを承諾してもらっていた。小さな記事だが、新聞記事にもなっていたので、今日佳の雇い主は、記事の現場が今日佳の住所の近くなので、気になっていたと、すごく心配も同情もしてくれ、明日香にお見舞いの言葉もくれたという。

 明日香は、潤子が学校が終わってやってきてくれて、今日佳と三人で過ごす時間がとても幸せに感じた。居間のソファに座っていることが多いのだが、今日佳と潤子で明日香をサンドイッチして、二人で腕を明日香にくっつけてくれているから、明日香はすごく心地良かった。金曜日の夜にはだいぶ元気になり、食べる量もかなり戻った。土曜の午前中の授業が終わって、一度着替えてから明日香の家へ来た潤子は、今日佳と連れ立ってケーキを買いに行って、午後は三人でケーキを食べることもできた。そして翌週からは学校に通うことができるようにもなった。

 「明日香ー。大丈夫ー、心配したー。」

 明日香と潤子は登校が早いから、既に体操着の上、ジャージの下に着替えて、明日香の席で潤子と一緒にいる明日香を発見した茅ヶ崎はそう言うと、涙を流しながら明日香に駆け寄って飛びついてきた。あまり桐谷とはボディタッチをしたりしないのだが、桐谷ですら、明日香の首に抱きついて、心配したよー、と言ってくれたし、普段よく喋る女子生徒や、前の席の川端、クラスのお笑い担当みたいになっている東川にも、良かった、良かったと、安心されて、結構いろんな人に心配かけてしまったんだな、と明日香は申し訳なく思ったし、照れ臭くもあった。

 潤子や担任の城田から聞いてはいたが、小林はもう暫く入院が必要だと言う。おそらく今学期はもう登校できないだろうとも。ただ、夏休み中には退院して、二学期からは戻ってこれるとのことだった。

 後藤についてどうなったのかは、担任には聞けなかったし、城田からも特に何も言われなかった。おそらく少年鑑別所へ収容になるだろう、明日香たちがこの中学校を卒業するまでに戻ってくることもないだろう。そんな噂が流れている。

 あれほど話してみたい、と密かに思っていた男子に、もう生涯二度と会うことはないのだ。そう思うと、少し寂しい気もしたが、それ以上に、あの子供らしい残酷さの発露である「菌移し」遊びに参加せず、「別に菌じゃないし」と言ってのける、それは強さなのか、頑なさなのか、判断するのは難しいけれど、多岐川は確かに「菌」ではないのだから、この文脈において、後藤は唯一男子生徒の中で「正しい」ものの見方を持った男子だったはずだ。その子に、初めて、そして最後にかけた言葉となったものが、凶器使うなんて卑怯な真似すんじゃねえよ、だったことは、その「別に菌じゃないし」と言って、このクラスの男子生徒たちの一体感、仲間意識の醸造に一役買っていた「菌移し」に参加しなかった、彼の行動そのものも「卑怯だ」と断じてしまったような気がして、明日香の心には、何かしこりのようなものが残り続けた。

 喉元過ぎれば熱さ忘れる、とはよく言ったものだ。その週も後半に入ったある日の休憩時間、またそれは始まった。

 「グロ菌ー!」