section 6-3

2024-08-06

section 6 「y軸上の衝突」

 三

 「潤子!あたしの水泳バッグ持ってきて!」

 今日の午後の体育の授業はプールだったから、ちょうど持ってきていたのは運が良かった。

 「うん!」

 明日香は小林のそばでしゃがんでいて、机の陰に隠れてしまっているから見えないが、教室の窓側の方から、明日香の大声に対する潤子の返事が聞こえた。潤子はすぐに明日香のロッカーから明日香の水泳バッグを取り出した。教室の後ろ側から向かうと、後藤を取り押さえている一団とぶつかると判断したのだろう、どたんばたんと木製の教壇を駆ける音が聞こえると、小林の頭の方向から走ってくる。

 「潤子、中からあたしの着替えタオルまず出して。」

 潤子は小林の側にしゃがむと、急いで言われた通りにして、着替え用のタオルを明日香に渡した。明日香は急いで四つ折りにし、小林の腹部に、小林の左手の上からまず当てた。

 「ひろ!保健の先生呼んできて、急いで!」

 「はい!」

 明日香の大声に茅ヶ崎がきちんとした返事をしたことは、後で笑い草になるのだが、この時はとにかく茅ヶ崎も、そのクラス一小さな体で一所懸命走った。

 「聡美!一番早く呼べる方法で救急車呼んで!」

 「わかった!」

 明日香が言いたかったのは、教務事務室へ行って、救急車呼んでくれと言うのが早いのか、どこか近くの教科担任室へ行って、119番してくれと言う方が早いのか、すぐに判断がつかなかったから、それも考えてくれと、桐谷に頼んだつもりだった。桐谷は全部察してくれたようで、茅ヶ崎を追うように教壇方向を二人が走っていくのが音でわかる。こんな非常時なのに、どうしたの、何があったの、と理由を聞かれている暇はないのだ。桐谷なら学級委員であるし、一年時から学年単位の成績上位者として教師の間では知られているので、その子が真剣な顔して救急車と言えば、兎にも角にも呼んでくれる所へたどり着いて欲しかった。

 「小林、手離せる?あたしのタオルで押さえるから。」

 明日香はできるだけ優しくそう言うと、出血のショックとかからだろうか、少し震えている小林は目を閉じたまま頷くと、ゆっくりと手を傷口から離した。明日香はすぐにその場所をタオルで押さえた。白い体操服の背中には全く血がついていないことから、傷は貫通してはいないようだ。

 「小林、仰向けになれる?無理だったらいいよ。」

 横向きだと止血はしづらいと、明日香は思った。きちんと押さえられているか、押さえられていないのかもわかりづらい。小林はゆっくりと背中を床へ転がそうとしているが、痛いのか苦しそうな表情を浮かべている。

 「無理しなくていいよ。…潤子、小林の頭ぶつけないように、小さいタオル敷いてあげて。あと、肩とかぶつけないようにちょっと見てて。」

 明日香の指示に、まるで二人で訓練でもしたことがあるかのように、潤子はてきぱきと、明日香が濡れた髪を拭くのに使うハンドタオルを、薄い枕のようになるようにと六つ折りくらいにして、小林の後頭部がくるあたりへ敷き、小林が背中や肩をぶつけないよう、自分の手を小林の肩甲骨の下敷きになるように広げていた。潤子がいてくれて本当にありがたかった。これだけの意思疎通が取れるのは、潤子とそれだけ分かり合えていた、単純に馬が合う、お互い親友と呼び合うほど仲が良かった、二人の関係の全てがすごく効いていた。

 小林はなんとか仰向けになった。明日香はこれで止血がしやすくなった。小林は脚が苦しそうな形になってしまったので、楽な形、膝で折って、足を床につく形に直してくれるよう、潤子にお願いした。明日香は止血をするのにちょっとづつ力を入れていくから、痛いところで止めて、と小林に言った。小林は頷いていた。明日香は本当に少しづつ力を入れていった。小林は腹筋が割れているくらい筋肉がしっかりしているので、逆にちょっとでも力を入れると傷に響きそうで怖かった。小林が少し苦しがったところで明日香は力を緩め、このままの状態で保健の先生か、救急隊が駆けつけるのを待てば良い。潤子にはもう一枚バスタオルを明日香の水泳バッグから出してもらって、一応止血用の予備に四つ折りにしておいてもらった。しかし、二枚目も使わなきゃいけないくらい出血が多ければ、小林は大丈夫なのかよくわからなかった。

 「潤子、ごめん、小林の手握っててくれる?」

 「うん。」

 潤子は何も躊躇うことなく、茶色い教室の床でその色と混じり、赤黒い池が広がっているところへ膝をつき、小林の血まみれの右手を取り、両手で優しく握りしめた。しばらくすると止血が効いているのか、小林は喋る元気を取り戻した。

 「…二人とも、ありがとうな…。天使に見えるよ、ほんとに。」

 小林は薄く目を開けてかすれがすれの声で言った。

 「そんな冗談言えるなら、大丈夫かな。」

 明日香は優しく声をかけた。近くに、美しい鷲鼻の癖毛の女子、原が来ているのがわかった。

 「原さん、原さんも小林の手握っていてくれない?」

 明日香が原に自発的に声をかけたのは、これが初めてだった。原は、うん、と頷いてもう片方の小林の手を潤子と同じように両手で握りしめて、大丈夫、と弱々しいと言っていいくらいの優しい声を掛けていた。

 「これ…。俺死んだのかな…?天使に囲まれている…。」

 小林はそう冗談を言う余裕が出てきたのか、それともそう言える矜持がもともと備わった、それはアメリカ映画の軍人が死ぬ時まで冗談を言っているような、そんな性格の持ち主なのか、明日香にはわからなかった。それだけ重傷者の手を握っていてやる、というのは大事なことなのだ。それは確かなようだ。明日香、潤子、原の三人は笑顔を小林に返してやることしかできなかった。

 危険が去って小林の様子が心配になったのだろう、男子たちは机の列がその「事件現場」を囲う非常線のように、その「非常線」から身を乗り出し始めた。その男子たちの中に東川がいて、お前、もうこんな時ないと思った方が良いぞ、と冗談を言うと、小林はまた目を閉じてしまったが、口元は可笑しそうにしていたから、周りにいた他の男子たちからも小さな笑いが起こった。笑いが小さかったのは、とても笑えるような状況ではないけれど、小林を励ますには笑うことも効果があるのではと、小林の無事を祈る男子たちの共通の思いからだったろう。

 危険は去ったから、小林を心配して近寄ってきた。それは別に卑怯なことでもなんでもなく、こんな異常な状況、クラスメイトがクラスメイトを刺傷する、ということもそうだが、そもそもこの鉄の校門と金網で「閉鎖された空間」の学校内で、突然殺傷を目的とした凶器を握った人間が現れた、しかもクラスメイトから、という、想定すらしていない状況下では誰もが混乱し、誰もがまずは自分の身を守ることを考えるのは当然だ。それは生物としての本能だ。自身の安全を確保出来たら、次に隣人の、クラスメイトの、友人の安否を気に掛けるのは、人として立派な振る舞いだとすら言えるはずだ。

 明日香は単純だったからなのか、あるいは子どもの頃から男の子の中に混じって遊んだり喧嘩したりしていたことで、ちょっとした男子よりも喧嘩が強くなってしまっており、その経験が先んじたのかはわからない。しかし、明日香の脳内で一番最初に認識した自己の思考の発露は、潤子はどこ?潤子にかすり傷一つ負わせるもんか、というものだった。明日香はただそれを真正直に行動に移しただけだった。

 誰も想像したくなかったが、下手をすると小林はこのまま目を開けないかもしれない。しかもその考えたくもない結末は、同じクラスメイトで、普段大人しく、一番そんなことをしそうにない男子によって引き起こされたことになる。そんな異様な事態に、誰もがどうにか対応しようと、もがいている。

 すると、教壇側の黒板の方へ避難していた生徒たちの中から、一人、小林の方に向かって歩いてきた。危険は去った、ということなのだろうが、小林の頭から二つくらい離れた席に、まるで全て解決したかのように着席した生徒がいる。それはこの事件の、ある意味「発端」である「菌移し」の「菌」として扱われた、多岐川だった。