section 6-2

2024-08-06

section 6 「y軸上の衝突」

 二

 その日も、いつものように多岐川を菌扱いする、「菌移し」が始まった。明日香の、男子やめなよー、と桐谷の、期末試験が近いんだから遊ぶなー、は例によって効果がない。男子の中には、近くの席のクラスメイトとお互いにわからないところを教え合ったりする勉強の方に集中していて、追いかけっこに全く無頓着になっている子もいたが、そんな男子でも「菌」を移されれば、誰かに移さざるを得ず、とりあえず近場の誰かにタッチしたりしていて、結局男子は全員参加な感じになってしまっている。

 そんな中、彼は参加しないとわかっているのに、勉強に休憩時間を使いたかった男子の誰かが、とりあえず近場の誰かにタッチ、というわけで後藤に「菌」を移した。もちろん、「菌移し」はそこで止まってしまう。彼にとって、それは「菌」ではないのだから。

 「お前、いい加減にしろよ。何カッコつけてんだよ。」

 後藤に移そうとした男子が、まるで人にではなく、壁か机にでも間違えて「移して」しまったかのように、反射的にやり直そうとしたその時、小林がそう怒鳴るのが聞こえた。教室は一瞬静かになった。小林が後藤に怒ったり、クラスとしてのまとまりを欠くような行動をする男子に厳しく当たったりするのは珍しいことではないが、今日の小林は完全に喧嘩腰だった。

 「何一人で正義漢ぶってんだよ、ただの遊びだろうが。俺たちに喧嘩売ってんのかよ。いつもよぉ、そうやって気取りやがって…。ほんと一発ぶん殴ってやりてえよ。」

 明日香の席からは、後藤は見えないのだが、立っている小林は見える。見たことがないくらい険しい顔を小林はしていた。不良少年のそれといっても良い。明日香は、胸騒ぎがしてきた。そう、それは、さあ、殴り合いが始まるぞ、と自分が子供の頃対峙した相手と睨み合いや言い合いが、もうガス抜きをすることが不可能なところまで沸点が上がってしまった時の空気だ。ついこないだ、明日香と原の間に出来た、お互いにもう引けなくなった時の雰囲気もこれだ。一触即発、という四字熟語は、こういう時に使うのだろう。

 「黙ってねえで、何か言い返せよ、文句があるならよ!言い返すのがめんどくせえなら、かかってこいよ!」

 近くにいた東川や、他の男子から、どうした小林、とか、やめとけよ小林、となだめる声が聞こえる。全くこのクラスの男子の「一員」として行動したがらない後藤に対して鬱積した思いが、小林の中でついに閾値を超えてしまったらしかった。それは、このクラスの男子という「一員」にならなければ、「追放」しなければならない。そんな昔話に出てくるような、古来人間に備わった行動様式にも思えた。

 明日香の席から着席している後藤は見えない。小林の喧嘩を売った発言から少し間を置いて、突然驚くような、慄くような、現実でないものを見たような、想像していなかった現実に直面し、どう反応して良いかすぐにわからないといった、うわぁ、という小さな声が、複数の男子女子から一瞬上がった。すると校則に則った短い髪でも、強い天然パーマが目立つ後藤の頭が、生徒越しにのそりと浮かび上がったのが見えた。後で明日香が聞いた話だが、彼は立ち上がる前、屈み、ジャージの裾を素早く捲り上げ、その脚に巻かれたナイフホルダーから、慣れた手つきでナイフを引き抜いた。周りの生徒から、現実離れしたものを見たような小さな声が上がったのは、その時だった。

 周りの悲鳴が上がるのと、後藤が小林に突進したのと、どちらが早かったのか、明日香の記憶は曖昧だが、後藤は小林の胸元に飛び込んだまま動かず、小林は目を見開き、顔の血の気が引いていく。そして椅子や机が動く音がたくさんした。女子の悲鳴がたくさん上がり、男子も女子もその二人のまわりから、机や椅子にぶつかり避けたり、倒してしまったりしながら逃げて行く。明日香は反射的に立ち上がった。潤子の席は、その二人が衝突した場所からそんな離れていない。

 小林が崩れ落ちた。さらに悲鳴が上がる。男子も、うわぁ、とか恐怖や戦慄のような叫びに近い声を上げているが、誰も二人の近くに寄れない。明日香の席からは後藤の背中しか見えなかったが、だんだん二人の周りから人がいなくなって、後藤の右手に、刃渡りはそれほどないが、黒鉄色をしたその両刃の刃から、液体が滴っているのが見えた。小学校時代、明日香と仲の良かった男子には、ミリタリー好きの男の子が何人かいて、その刃物は彼らが持っている本の中に見たことがある。軍用ナイフだ。明日香は反射的に机の上に飛び乗り、机の上を走り渡って後藤の方へ向かった。

 「潤子!こっち!」

 おそらく目の前の事態への恐怖からだろう、後藤の背中を見て動けなくなっていた潤子に大声で声を掛けた。潤子は、はっとなって明日香の方を見た。明日香は、桐谷の方を指差してそっちへ走れ、ということを腕の動きだけで指図した。潤子と明日香の仲だから、それで意図は十分伝わった。潤子は散らかっている机や椅子を避けながら、明日香とすれ違うように、教室窓側の方へ逃げた。崩れ込むように教室の窓側へ逃げた潤子を桐谷が受け止めてくれた。

 どたんどたん、と机の音をさせながら、机の上を走り渡っているからだろう、その音を敵意のあるものの接近、いや、彼がそんな正確に状況を捉えられていたかはわからない。もしかしたら、単にうるさい、なんだ、と思っただけかもしれない。彼は明日香の方を振り返り、その軍用ナイフを明日香に向けた。既に一人刺してしまったことで、覚悟が決まってしまったのか、そのたった一回の凶行が「経験」となったのか。後藤は落ち着き、冷静に構えているように見えた。小林と後藤では運動神経の差が天と地ほど違う。その差をもってしても、小林が避けられなかったのは、彼があまりにも驚いたことによることなのか。それとも後藤が滞ることも躊躇することもなくナイフを、しかも軍用ナイフを扱えていて、それは習熟するために重ねた、普段からの「訓練」の賜物なのか。

 しかし、明らかに使い「慣れ」ていないのは、喧嘩「慣れ」している明日香には見抜けた。訓練だけで積み上げた技術と、実戦で積み上げた技術とでは、雲泥の差がある。そして上履き程度のソールさえあれば、刃に当たったしても、足に傷を負うことなく、叩き落すことができることは一瞬で明日香は把握した。どうして、どうして。「菌じゃない」と言ってのけた人が。なんで、なんで。こんなことを、こんな卑怯な手段に頼ったんだ。明日香は怒りなのか悲しみなのかよくわからない感情が噴き出してくるが、それは明日香の反射的な行動を邪魔するものとはならなかった。

 明日香は後藤から二つ離れた机で、飛び上がり、後藤があっけにとられている間に、彼の右手の軍用ナイフを蹴飛ばした。ナイフは、すでに生徒たちが全員散った、教室の壁側の床に鈍い音を立てて転がった。ナイフから飛んだ赤い血しぶきが、壁や机、床に点々とする。明日香は、後藤の目の前に着地すると、後藤の鳩尾に右肩から突っ込んた。

 「凶器使うなんて卑怯な真似するんじゃねえよ!」

 明日香はそう叫びながら、後藤を突き飛ばした。後藤は尻餅をついてから、背中から床へ倒れた。彼がかけていた眼鏡はすっ飛んだ。すると、近くにいた男子数人が、一斉に押さえ付けにかかってくれた。明日香は体制を立て直すと、倒れている小林の元へ飛びついた。

 「小林!小林!」

 横になって倒れている小林は、顔にいっぱい汗をかき、顔色は白く、目を閉じ、苦しそうに小さく唸っている。お腹を押さえる右手は血で真っ赤に染まり、白い体操服もその周りから赤く染まり始めていて、彼の脇腹の下の床には、床の木の色と混じり、赤黒い色の池が少しづつ広がっていた。