section 6-1

section 6 「y軸上の衝突」
一
期末試験が近づいてきたので、授業の間の休み時間になると、教室のあちらこちらで勉強の教え合いが見られるようになってきた。明日香のクラスの成績上位者2トップは、潤子と桐谷なので、この二人は試験前になると、クラスメイトたちから質問攻めにあう。そのため潤子はこの時期、授業の合間の休憩時間、明日香の席へ遊びに来られなくなってしまう。
明日香の前の席の川端は、いわゆる文武両道な男子なので、明日香は彼か、桐谷にあれこれ教わっていることが多かった。二年生になってから、姉の今日佳と潤子による、「明日香の成績向上委員会、目指せ同じ進学校入学」とか二人が勝手に言っている企画が始まっていて、週に一、二回、今日佳と潤子が明日香の苦手科目や、授業でわからなかったところを教える、という家庭内家庭教師みたいなことをしてくれているので、明日香の一学期の中間試験の成績はぐっと上がっていたが、高校受験時には潤子のレベルに達していないといけないと言われていて、明日香は、ひええ、と言いながらも、勉強をするのがだんだんと習慣づいてきてはいた。
川端はどちらかといえば数学や理科などの理数系の科目の成績が良く、桐谷は逆に国語や社会が得意なので、お互いに教えあったりもしていた。明日香はその二人の話に参加して、二人の会話のレベルが高いと、わからないです、先生!と突っ込んで、もう少し砕いて教えてもらったりしていた。
そんな中でも、時折あれは始まる。
「グロ菌ー!」
そう男子の誰かが声をあげて、別の男子にタッチすれば、男子たちはたちまち追いかけっこを始める。それは川端を含めてだ。これが始まると、明日香が、やめなよー、男子ー、といつものように大声を出すだけではなく、最近は桐谷も、お前ら期末試験前に遊ぶなー、と言ってくれるが、全く効果はない。
しかし明日香は、これがある一人の男子のところで、必ず止まってしまうのを何回か目撃していた。昼休憩時間には男子は校庭か体育館で、サッカーかバスケットボールかバレーボールをしないといけないという、新「ルール」にあまり従わず、昼休憩時間も教室内にとどまる数少ない、あるいは男子は彼一人だけのこともある、後藤だった。
「何でやらないんだよ。」
そう「菌」を彼に「移した」小林が、怒り気味に文句を言ったことがある。
「別に菌じゃないし。」
後藤はそう返していた。明日香が目撃したその時は、小林は舌打ちをしてから、もう一度小林から再開させていた。だから、追いかけっこしている男子が、苦し紛れに後藤にタッチをしたところで、後藤は一切この「菌移し」に参加しないから、場が白けたり、移した当人からやり直したり、となっていた。
桐谷が言うとおり、この「遊び」が男子の一体感を醸造するために行われているのだとすれば、後藤はこのクラスの男子全員にそっぽを向いている、言い方を変えれば喧嘩を売っているようなものだと言っても良いかもしれない。
そうなのだから、特にこのクラスの男子をまとめようと、一体感を持たせようと頑張っている小林には、相当に気に入らない人物であったようで、よく突っかかっているのは目にしていた。後藤は大体いつも無言で何も答えていないようだった。
昼休みの、男子専用の「ルール」に従わず、校庭にも体育館にも行かない時も、酷く小林が後藤に怒っているのを見たことがある。
「お前、いい加減にしろよ。決められたことには従えよ。何でお前だけ勝手に参加しないとか決めてんだよ。」
「運動苦手な僕が入って、何かいいことあるんだっけ?」
後藤が正確には何と言い返していたか、明日香はよく覚えていないのだが、そんなようなことを返していたと記憶している。しばらく言い合っていたが、最終的には小林が何か捨て台詞を吐いて、折れていた。まあ、確かに参加したくないと言っている子を説得している時間があったら、早くゲームに参加した方が良いよなあ、所詮遊びだしさ、くらいに明日香は思っていた。小林の言うことももっともだとも思ったが、「別に菌じゃないし」と堂々と言ってのけた後藤に、明日香は共感が持てた。後藤と話したことはなかったが、ちょっと話してみたいな、とも思った。男子に対して、ちょっと話してみたい、なんてしおらしく思ったことがなかったので、何だか気恥ずかしい思いもあって、声は掛けられなかった。
ある日男子に混ざってサッカーに興じてくることにした明日香は、ちょうど小林と一緒に階段を降りて行くことになったので、ちょっと聞いてみた。
「後藤今日も参加しないの?」
「あー…。あいつなー…。もうほんとに腹立つんだよなー…。あいつほんとに何にもできねえくせにさあ、口答えばっかすんだよ…。いつかぶん殴ってやりてえよ、ほんとに。」
小林と明日香は遠慮せずに話す仲だったので、小林はかなり正直な気持ちを明日香に愚痴ったと判断して良さそうだ。しかし、明日香は例の「菌移し」をやめなよ、と小林個人に直接言ったことはない。それは、もし明日香が、原や上川、佐々田と仲が良くないことを小林から個人的に、仲良くしろよ、のようなことを言われても腹を立てただろうし、それは「女子同士」の問題だから、男子が口出すなよ、みたいに反発しただろう。それの逆で考えて、言わないことにしていたけれど、そもそも問題の所在が異なるのだから、言うべきだったのかもしれない。結局、明日香の考えは「偽善」と言って良い、嘘っぽい公正意識でしかないのか。
「そーとー怒ってるねえ、小林…。」
明日香は苦笑いで、小林の気持ちを宥めるような言葉を発することしかできなかった。後藤と話してみたい、と思っていた自分自身にも、その怒りはぶつけられているみたいな恐縮さを感じてしまったのは、自分らしくないな、と明日香は思った。
中学生くらいまでは、学業成績の上下関係より、運動が出来る方が「上」だ、というのが男子の中でも、女子が男子に下す評価でも、「正しい」物差しになっている。小林の苛つきや怒りというものは、自分より「下」のものが自分に従わないことからくる、少年らしい不遜な怒りなのか、それともこのクラス男子全員が共有している「価値観」を受け入れることを拒み続ける後藤の「頑なさ」に対する「義憤」なのか。あまり楽しい話題でもないし、それほど明日香にとって大事な話とも思えなかったので、潤子にも姉にも相談することなく、一人で抱えておくことにした。抱えておく、などとそれほどの重さも感じていなかったし、そんなにしょっちゅうそのことについて頭を悩ませているわけでもないから、それでいいやと明日香は思っていた。







