section 5-4

section 5 「x軸上の衝突」
四
潤子のハンカチで頬を押さえながら、潤子と一緒にトイレから出た明日香を、桐谷や茅ヶ崎、川端や小林、東川が出迎えてくれた。学級委員である桐谷と川端は、城田に報告するか、と聞いてきたが、明日香は黙っていてくれ、とお願いした。
「どうせ先生誰も見てなかったでしょ、じゃあ、ただの女子の喧嘩だってことで。」
そう明日香は結論づけた。川端、小林、東川の男子三人が声を揃えて「男らしいー」と感心するので、女子に向かって男らしいとは何事だー、と明日香はふざけて怒ってみせ、みんなを笑わせていたが、半分は本当になぜ「男らしい」が褒め言葉なのか、納得がいっていなかった。頬の傷が少し痛くなってきた。
原の剃刀は明日香が自分のハンカチで回収した。
「これ、任せていい?」
そう明日香は桐谷に聞いて、ハンカチごと桐谷に差し出した。
「もちろん。」
桐谷はそう言って頷いてくれた。隣にいた川端も頷いていた。桐谷に手渡す時、刃物だから気をつけてね、と明日香は付け足した。
保健室で保健の先生が軟膏を塗った大きな絆創膏を貼ってくれたが、顔の傷なので、一応お医者さんに診てもらった方が良い、ということで明日香は早退することになった。明日香は保健室に入った途端、トイレで転んで顔切りましたー、おっきい絆創膏くださいー、と保健の先生に間延びした調子で言って保健の先生の笑いを誘った。そんなこと笑って言うことじゃないでしょ、と言いながら傷の確認をした保健の先生は、明日香の転倒したという怪我の原因は方便だろうとわかったようだったが、明日香の何かをやりきったような、爽快感たっぷりの笑顔を見て、そうだということにしておいてあげるよ、と苦笑いで言ってくれた。早退する旨、担任の城田に報告に行った時は、トイレで着替えている時にすっ転びました!と元気良く言ってみた。派手な絆創膏を頬に貼られた明日香を素直に城田は心配し、早退を了承してくれた。
医者に診せに行くと、普通にしておくと傷跡が残ってしまうからと、まずは傷がふさがるまでの軟膏とガーゼやテープなどを処方してもらった。ある程度治ったら、今度は皮膚の修復が綺麗になるような塗り薬に変えるから、まずは明後日再度診せに来るように、と言われた。痛み止めも処方してくれた。
早退したので、明日香が一番最初に家に帰宅した。ガーゼをテープで貼った顔を鏡に映して見ると、これは誤魔化しきれない、どう姉や父、母に説明したもんか、と考える。しかし、父母姉によると明日香は嘘をついても簡単にバレるらしいので、正直に話すしかなかった。家へ帰ってしばらくすると、多分学校では興奮していたからだろう、何ともなかったはずなのだが、急に恐怖が体を巡ってきた。息が荒くなってくるし、体も震えてくる。お姉ちゃん、早く帰ってきて。明日香はそう小さく声に出さずにはいられなかった。
一年時の海老島にぶっ飛ばされた時のように、まず父と母は怒り始めた。人の娘に、しかも顔に傷を作っておいて、学校が何もしないのは何事だとか、明日香の顔に傷をつけたその子の、つまり原の親と直接話す必要がある、とまくし立てた。母は痛々しい次女の顔を見て涙が止まらなかった。
しかし、この時も姉の今日佳が、明日香は子供の喧嘩に大人を入れるべきじゃない、って思ったから、先生に言ったりしてないんだし、まして、お父さん、明日香にいつも子供の喧嘩に大人を入れるような卑怯な真似は絶対にしちゃいけない、って明日香が子供の頃いつも明日香に教えてたでしょ、と言って間に入った。
「それから、お父さん、明日香が小学校三、四年生くらいの頃かなあ、明日香と喧嘩する男の子たちが、棒切れとか、武器使うようになったから、明日香も対抗してなんか使おうかと言い出した時、喧嘩に絶対武器とか凶器とか使っちゃいけない、それは卑怯者がすることだとか、弱いやつがすることだとか、喧嘩は絶対に素手でやれ、って、そんなこと女の子に教えんなよ、ってこと教えてたじゃない。明日香、お父さんの言いつけ全部守ったんだよ?偉いじゃない。褒めてあげたら?」
今日佳は途中で少し笑ってしまいながらも、まず自分の教育の通りに戦い抜いた娘を褒めてあげるべきだと父に主張した。明日香は、何故かわからないけれど、涙が溢れてきてしまった。
「あたしだって、可愛い妹こんなにされて、黙っていたくなんかないよ。今すぐにだって、明日香のクラスの連絡網調べて、その子の家へ押しかけてって、その子の顔思いっきり引っ叩いてやりたいよ。でも、それは間違ってるでしょ?」
今日佳がそう言うと、父は少し考えるように黙ってから、明日香の頭に手を伸ばし何も言わずに何回も撫でた。明日香は嗚咽し始めた。今日佳は明日香を抱きしめて、嗚咽が収まるまで、背中をそっとたたいてくれた。
電話が鳴ったのは、明日香の嗚咽が収まって、明日香を抱きしめたままの今日佳が、明日香の頭を優しく撫でていた時だった。
「あ、あたし出るよ。」
今日佳はそう言って、明日香から離れて、居間の扉の隣に置いてある電話台へ向い、受話器を取った。
「はい、大沢です。…あー、潤子ちゃん、こんばんわ。…うん、あ、今日ごめんね、ハンカチダメにしちゃって…。タオルとかもありがとう。…ううん、…うん、…うん。…あー、もう来たら?迎えに行くよ。あ、ちょっと待ってね。」
電話の向こうと話していた今日佳は一旦受話器を耳から外して、居間を振り返った。
「潤子ちゃんだけど、今日泊りに来てもらっても良いよね?」
明日香にではなく、父と母に聞いていた。父と母は構わない、潤子ちゃんであればいつでも来て良い、とのことだったが、夕ご飯どうするか聞いて、と母は言うと鼻をすすりながら台所へ向かった。
「あ、もしもし、潤子ちゃん?オッケーだから。…うん、お泊りセットでね。あ、あと明日うちから学校行くでしょ?明日の用意も忘れずにね。…うん、…うん。あ、晩ご飯食べちゃった?…あ、じゃあお腹空いているの我慢できるんだったら、うちで食べなよ。…うん、大丈夫。いいえ、とんでもない。明日香もよく食べさせてもらってるしね。…うん、じゃあ今から迎えに行くね。…そう、…そう!…そうなのよー。さすがだね、潤子ちゃん。ほんと、いつもありがとう…。そーそー。多分、すっごい気張り詰めてたんだと思うんだよねー、もううち帰ってきたら、泣く泣く。」
そう言うと今日佳は電話口で笑い始めた。
「お姉ちゃん!」
明日香は文句を言ったが、まだ涙声だった。
「お前はほんと、良い友達と出会ったな。」
父は呟くように言った。既に仕事の勉強の本に目を落としていた父に、明日香は笑顔だけ返した。
玄関で今日佳の後ろから入ってきた潤子を見た時、明日香はまた涙が溢れてきてしまった。明日香は裸足のまま玄関におりて潤子に抱きついてわんわん泣き始めた。今日佳は、潤子ちゃん荷物持ってるんだから、と言って潤子と笑ってしまっていた。潤子の荷物を今日佳が一つ一つ受け取って、潤子の手がフリーになると、潤子はようやく明日香の希望に応えて、しっかりと抱きしめることができた。
明日香は潤子に玄関でしばらく抱きしめられて一頻り泣いてから、ようやく落ち着いてきた。あの時、親がせっかく無傷で綺麗に産んでくれた顔に、と原に言った時、多岐川が通り過ぎた。その時明日香を襲った、言い表しようのない、罪悪感、戦慄、あるいは地下の深遠から伸びる何者かの手に足を掴まれたような恐怖に似たもの。あれは一体なんだったのだろう。それには目を瞑ってしまうことにした。