section 5-3

2024-07-11

section 5 「x軸上の衝突」

 三

 彼女たちの反応は明日香の想定内だった。そうなることをわかって言った、いや、そうなることを狙って言ったのだから。つまり、明日香はもう我慢の限界だったのかもしれない。

 知らねえよ、と大きい声で返したのは、美しい鷲鼻の女子、原だった。明日香もそうだが、この女子生徒も声が大きい。「不良少女」と言って良いような女子と連んでることが多いが、クラスの男子たちともふざけあったり、テニス部の部員だったりと、見る人によっては、溌剌とした中学生らしい女子生徒と映るのかも知れない。怒ってのこの口の利き方は、そのイメージの許容範囲内だろう。標準よりも丈の長いスカートをよく履いてきていたり、許可されている色以外の靴下を履いてきたり、癖の強い天然パーマの髪にブローを当てたり、目が隠れるほど前髪にヘアーアイロンをかけたりしては、そういう逸脱を運悪く海老島に見つかって鉄拳制裁を食らってもいる。

 言いがかりつけんなよ、と言ったのは「白い魔女」こと上川だが、そんな大きい声出るのかと、明日香は、へえ、と感心してしまった。もともと聞こえないようにもそもそ喋る子だというのが明日香の印象だったからだ。呪文でも唱えてんのか、と明日香はいつも心の中で悪態をついていたくらいだ。この子もテニス部だから、声出しなんかもやらされているのだろう、大声が出たとしてもおかしくはない。明日香を睨む上川の目を見たが、相変わらず目つきの悪いやつだと、明日香は苦笑いしそうになった。

 「あっそ。知らないってことねー。」

 明日香はそう大きい声で言って、教室の扉を閉めた。教室の中では、大沢!と、原が大声で呼ぶのが聞こえる。

 「誰も知らないそーですよ。」

 明日香はまるでクラスの男子女子問わず全員に聞いたように言った。教室の中では、大沢、ふざけんなよ、こっち来いよ、と原が喚いている。すると、海老島が鬼の形相に変わり、教室の扉を開けた。

 「おい、うるせえぞ。」

 その脅すようなしゃがれ声はさらに凄みを増していて、一瞬クラス中が何の音もしなくなるくらい、それこそ外から聞こえるはずの蝉の声も聞こえなくなるくらい、静まり返った。しかし、原は引き下がらなかった。大沢は誰かのせいにしようとしているようだが、自分たちはポンプ室がどこにあるかすら知らない、プールにそんなとこあるんですか?とすら言っている。大沢の自作自演なんじゃないのか、と原が言うと、「白い魔女」は、そうですよ、と何かを打ちのめすくらいの相槌を打っている。明日香は、海老島にあたしのことでそれだけ強く迫れるなら、頭髪検査や服装検査で引っかかった時も口答えしてみろよ、と思った。

 「うるせえんだよ!ぶっ飛ばされねえとわからねえか!」

 海老島は今度は低くしゃがれた声で怒鳴りつけた。明日香は自分が言われているわけではないのだが、その圧とでもいうのか、生徒に与える強いプレッシャーを感じて、体が震えてしまった。それは教室の中もそうなようで、ついに原も上川も黙り込んだようだ。佐々田はもともと声が小さいが、そもそも何も発言していないようだ。誰もが黙り込んだのを確認してから、海老島は教室の扉を閉めた。

 「大沢、とにかく一人で抱え込むなよ。わかったな。」

 さっきの怒鳴り声もあったので、明日香は怒られているか脅されているような気しかせず、返事が出てこなかった。もっとも返事をしたところで、空返事でしかない。

 「大沢さん、とりあえず着替えてきたら?流石にその格好しんどいでしょ?」

 城田はそう言うと、改めて明日香のなりを見て、ちょっと笑ってしまっていた。それに同調するように、海老島も少し顔が緩んだように見えた。やはり教師同士は何か共通言語のようなものがあるようだ。生徒には絶対にわからない、理解できない言語かテレパシーのようなものでやり取りをしているのだ、きっと。

 明日香は女子トイレの個室に入って着替えることにした。水泳バッグの中身を確認したが、体操服やジャージ、下着などは特にいたずらはされていないようだった。潤子から借りた着替えタオルやバスタオルは洗って返さないといけないから、もう個室の扉の上にかけてしまって、明日香は水着を脱いで裸になってしまった。こんな狭く、臭い空間なのに、変な開放感を感じて、しばらくこのままでいようかとすら思ったが、とりあえず自分のバスタオルを引っ張り出して、体の汗を拭いて、下着を着け始めると、時限の終わるチャイムが聞こえた。

 二人分のバスタオルと着替えタオルが入った水泳バッグは、結構ぱんぱんになってしまって可笑しかった。明日香はいつもの通り、ジャージパンツの裾を三、四回折ってまくり、着替えのために潰していた上履きの踵も履いて、体操着もきちんと着られたので、あとは鏡を見ながら髪の毛を直したかった。水泳バッグから抜かれずに入ったままだった髪留めもつけないといけない。そう言えばさっき、髪留めをしていなかったので、完全に校則違反になるような、耳を隠す横髪と目にかかる前髪になってしまっていたが、海老島に何も言われなかったのは、この事情を察してなのだろうか。一年の時、有無も言わさず「染めた」茶髪だと勘違いされ、髪の毛をふんづかまれ、ぶん投げられたのとは随分違うじゃないか、と反感も覚えた。

 明日香が個室から出ると、トイレの入り口から、それこそ猪が突進してくるように、原、上川、そして最後に佐々田が入ってきた。原は明日香に正面から詰め寄ると、両側から逃げられないようにと言う意味だろう、上川と佐々田が脇を固めるように、明日香の逃げ道を塞いだ。佐々田はあまり表情が豊かではないのだが、この小さな不良少女はこの騒動にあまり乗り気でないように明日香には見えた。しかし、今自分の活路を塞ぐ一味にいるのだから、そんなことを気にしている暇はない。

 「てめえ、ふざけんなよ、海老島の前であたしたちを犯人扱いしやがって。証拠はあんのかよ。」

 原は脅かすような調子で、静かに言った。この子は何かドラマの見過ぎだろうか。明日香は一瞬そう思ってしまった。明日香が小学校高学年の頃から流行り始めた、中学校を舞台とした学園ドラマをふと想起させる。とにかく明日香は答える必要もないので、黙って睨み返した。それよりも、トイレの入り口にまるで工事現場の警備員のように立ち、入ろうとする女子生徒たちに廊下沿いにある別のトイレを使うようにこやかに促しているのは、木村というクラスメイトの女子だ。明日香とは下の名前で呼び合い、時々しゃべる仲だったので、これが一番びっくりした。ほんと、女子は怖い。自分も女子であるにも関わらず思った。

 「なめんじゃねえよ。恥かかせやがって。ただで済むと思ってんのか、てめえ。」

 素早くジャージのポケットから何か出すと明日香の頬に近づけた。剃刀だ。一年の時もやられているから二回目、いや多分三回目くらいだ。一年の頃に比べると、扱いに慣れているように感じたが、それでも明日香は黙ってただ原の瞳をまっすぐに睨み返し続けた。

 「ここで、トイレの床に土下座しろよ。そしたら許してやるよ。」

 明日香は答えるまでもないくだらない内容だと思った。よく他人に向かって土下座しろ、なんて言えるな、と心底思った。

 「お前、ふざけんなよ。脅かしてるだけだと思ってんだろ。」

 そう言うと原は、剃刀の刃を明日香の頬に近づけた。明日香は微動だにしなかった。

 「なめんじゃねえよ。」

 不敵な笑い、というのだろうか。なんだか芝居掛かった微笑で、少し原の方が背が高いから、明日香を見下ろすように顎を上げて明日香を睨みつけ、剃刀の刃をついに明日香の頬に当てた。刃物でどこか切った時独特の、痛みはすぐに感じないが、皮や肉が切れたという、変な涼しさ、空気が肉の内側に入ってくるような奇妙な感覚がする。原の剃刀は明日香の頬にその刃をさらに食い込ませた。原は怒りで、あるいは自分の「正当性」を保つために、自分の「心の安定」を取り返すために、引くに引けなくなっていたのだろう。

 しかし、それは明日香も同じで、明日香はこの瞬間を待っていた。自分から手を出すわけにはいかないから、相手にまず手を出させる。これは「喧嘩」の鉄則だった。それを待っていたのだ。原も、周りの上川、佐々田も反応できないくらいの速さで、原の右手を叩いて、剃刀をトイレのタイル床に落とした。鉄製の軽い剃刀が、刃に血がついたまま、タイル床に軽薄な金物の音をたて、それが低い天井に弱く反響しながら転がる。原たちが驚いた一瞬の隙に、明日香は思い切り原の体操着の首回りを握りしめ、拳が喉元に入るようにして、原の顔を自分の顔に近づけた。原は苦しがって両手で明日香の腕を掴んで離そうとするが、力は明日香の方が上だった。いや、力というより、こういう時の外されない締め方を明日香が「出来る」だけだったかもしれない。上川、佐々田が原を助けるために動こうとするよりも明日香の怒鳴り声の方が先だった。

 「動くんじゃねえ!お前らは後でまとめて相手してやる!黙ってろ!」

 何も喋っていない相手に黙ってろもないもんだと、明日香は後でちょっと思ったが、普段見せたことのない勢いで怒鳴ったので、それなりに二人を固まらせる効果はあった。それはそうだ。この一年半くらいの間、今の今まで、彼女たちにトイレで絡まれても、ただ黙り込んで睨み返すだけだの、「弱い」女子だったのだから。まともに「喧嘩」になれば、明日香の方が数段上なことは、明日香は経験上読めていた。

 「原!お前、土下座しろ、ってあたしに言ったよな?じゃあ、あんたも、もしあんたが切ったこのあたしの顔の傷が、一生残るものだったら、一生消えないものだったら、あたしの親に土下座するんだよなあ!お前、どんなつもりで人様の顔に刃物で傷つけてんだよ!親がせっかく無傷で綺麗に産んでくれた顔に、何の権利があっててめえ勝手に傷物にしてんだよ!お前自分が何したかわかってんのかよ!」

 明日香は頬がひりひりと痛み始めたのと同時に、生暖かい液体が頬を伝うのがわかった。原は苦しがるのと同時に、明日香の誰にも見せたことのないような怒りの勢いと怒鳴り声から早く逃れたいと思ったのか、あるいは明日香の頬から流れる真っ赤な鮮血そのものが、人の顔を鮮血が流れると言う異様な光景が、自分の息苦しさもあって「死」というものを連想させ、恐ろしくなったのか、瞳に涙を浮かべ始めた。

 「泣くな!泣きゃあいいと思ってんのかよ!だったらこんなこと最初からすんじゃねえよ!正面から喧嘩する気もなかったくせに、正面切ったと思えば素手で喧嘩する気もねえ!その上自分で使った凶器にも責任持たねえのかよ!おら!これも、あたしの自作自演だと、大沢が自分で自分の顔に剃刀で傷つけて、あたしのせいにしてますぅー、って海老島にさっきの勢いで言いつけてこいよ!」

 明日香は言葉尻に差し掛かるに連れて、原の体操服の首元を締めている腕を揺する動きがどんどん大きくなって、そう言う終わると、原の体操着の首回りを押しのけながら離した。よろけた原を上川、佐々田が支えたが、原は嗚咽しだした。

 すると、突然三人組の後ろから、多岐川が何食わぬ顔でトイレに入ってきて、三人を避け、明日香の横を通り過ぎた。明日香の背後で個室の扉を静かに閉める音がした。明日香は一瞬血の気が引いた。今、自分は何を言った?結局多岐川を「菌」扱いする男子たちと同じじゃなかったか?しかし、すぐに目の前の三人組への怒りが全てを覆っていった。

 「上川、佐々田…。お前たち一年の時からあたしに原と一緒んなってちょっかい出してたよなあ…。もう逃げんなよ。使いたきゃ剃刀ひろえよ。…おら!どうしたんだよ!かかってこいよ!」

 明日香は完全に喧嘩腰だった。上川と佐々田は下を向いて黙り込んだ。一年時から黙って手出しもせずにきたが、もうここで決着をつけてやる。明日香はそう決心した。

 「一対三だぞ!何も怖くねえだろ!ましてお前ら凶器あるだろうが!ほら、どうしたんだよ!ここまで陰湿にあたしを追い詰めておいて、今になってだんまりかよ!ふざけんなよ!」

 明日香はもう一度怒鳴った。明日香はおそらく今までの十四年程度の人生の中で、一番怒っていた。トイレの外がざわざわしているのはどうでもよかった。もう自分から手を出してしまう寸前だった。

 「明日香!」

 今度は潤子がそう叫びながら、上履きをバタバタと鳴らしながらトイレへ駆け込んできて、原たち三人を上手くかわして明日香の前に出ると、飛びつくように明日香を抱きしめた。

 「明日香、もうやめなよ!…もう、明日香の方が、すっごい怖いって。」

 潤子は最後の方はちょっと笑ってしまっていた。それでも潤子の右手は明日香の頭を優しく撫でていた。

 「へ?」

 潤子のその場に全く似つかわしくない笑ってしまっているその言い方、優しく明日香の髪の毛を撫でるその手のしなやかな動き、明日香を包み込むような温もり、潤子のにおい。明日香は一気に気が抜けた。するとトイレの外から、大沢怖えなー、大沢怖えー、と明日香と親しい男子たちが面白がっている、というより、おそらくこの険悪な雰囲気をなんとか和らげようと、冗談を言ってくれているのだろう。彼らにとっては、特に男子とよく喋る原や上川は、同じ「仲の良い」クラスメイトだ。

 「おらー、男子ー、女子トイレ覗くなー。」

 間延びした調子でそう言って人払いしようとしているのは桐谷だった。桐谷も、明日香のものすごい怒りをなだめようと、そんな調子でこの険悪な雰囲気を収めようとしているようだ。

 明日香が落ち着いたと思って、明日香から体を離した潤子は、いつもの潤子らしく、そこで初めて明日香の頬に結構な切り傷と、結構な血が流れているのをきちんと発見して、悲鳴を上げた。明日香は思わず、今ぁ?、と呆れてしまった。トイレの外の野次馬はそんな明日香と潤子のやりとりに笑っている。嗚咽する原を上川と佐々田は両脇から支えるように抱きかかえながら、静かにトイレから出て行った。男子の中には、原に大丈夫か、と声をかける子もいた。明日香は原たちの背中に、ものすごくひどい悪態を吐きつけてやりたかった。