section 5-2

2024-07-11

section 5 「x軸上の衝突」

 二

 明日香と倉嶋の女子混合クラスを担当している体育教師、國木田は、倉嶋が連れてきてくれた。そのタイミングで桐谷だけ教室からプールへ戻ってきて、教室に明日香の水泳バッグはなかった旨伝えた。東川と小林が、男子のバッグに入れられてるかも、と半分冗談で言って、男子全員が自分の肩掛けカバンや、スポーツバッグを確認してくれたが、なかったと言う。掃除用具入れは桐谷が確認したが入っていなかったそうだ。明日香のクラスの次の授業は国語なので、クラス担任兼国語教科担任の城田に断って教室を出てきたと言う。明日香が水着で教室に入ってくるから驚くな、とクラスのみんなに言っておいた、と桐谷が言ったところで、全員で笑ってしまった。

 体育の教科担任、國木田は、事情を了承した旨と、やはりこの教師も女性なので、明日香の、証拠がないから誰が犯人というわけにはいかない、というので察してくれたのか、深く事情を聞いてこなかった。國木田は先日のバスケットボールも見ているから、大方想像はついているのかもしれない。國木田は教師たちの方でも、明日香の水泳バッグを探しておく、と言ってくれた。

 倉嶋に迷惑をかけたこと、協力してくれたことにお礼を何度も言った。全然大丈夫、と朗らかな笑顔を返してくれた倉嶋と、それに潤子、桐谷と一緒に、明日香は潤子の着替えタオルをオフショルダーワンピースのように着て、肩には潤子のバスタオルをショールのようにはおり、頭を潤子のタオルで拭きながら、女子更衣室を出た。プールの入り口の上履きを脱ぐ場所に、明日香の上履きは残っていた。念のため、中を確認したが、何もされていなかった。

 明日香たちが教室に戻ると、男子たちが、ひゅーひゅー、大沢が水着で登場です、と冷やかすので、お前ら、バカか!と明日香が言うと、笑いが起きて、それで収まった。逆に、黙っていられて、腫れ物のように扱われるよりは良かった。このおちょくりは有難かった。

 桐谷と明日香が席に戻った時、明日香の前の席の男子、陸上部に所属しており、整った顔立ちと高い背と長い脚、そして穏やかな性格とで、女子に人気のある川端という男子が、災難だね、と苦笑いで気遣ってくれたが、そのもう一つ前の、小さな不良少女は不自然なくらい、固まっていて明日香の方を振り向きもしなかったし、ちらと見ることすらしなかった。席の離れている、「白い魔女」と美しい鷲鼻の女子がどうだったかまでは明日香は気を巡らせられなかった。着席してしまうと、明日香の座席位置からこの二人の様子を見ることは不可能だ。

 湿気の残る水着を着たままで授業を受けるのはあまり集中できないし、タオルも体に巻いた上で肩からかけているようなものだから、だんだんと暑くなってくる。もうタオルだけで水着脱いじゃうか、と急に開放的になりたくなったあたりで、少し教室がざわついてきた。何だろうと思ったが、明日香は特に原因を探ろうとも思わなかった。それよりも、体操服やジャージ、下着とか、焼却炉に入れられていたらどうしよう、と教科書に目を落としながら考えていた。国語の授業が終わったら、潤子と一緒に見に行ってみようと思っていたら、教壇の城田が可笑しそうに笑いだした。

 「海老島先生、どうしたんですか。」

 最後の方は笑いで声にならないような感じだった。明日香がふと顔を上げると、クラス中が、教室の後ろ側の扉の方を見ている。明日香もそちらを見ると、海老島が少しだけ扉を開けて、顔だけ教室の中へ入れていた。普段生徒に笑顔など見せない海老島が、城田の笑いに笑顔を返していた。それは教師という同じ職場に勤める大人たちだけの、同じ共通認識を持つもの同士の笑いで、生徒たちには全く共感も何もないものだったが、確かに、あの恐怖と戦慄とを二年生の全生徒に叩き込む学年主任が、顔だけ扉から覗かせているのは、あまりにも普段のイメージと不釣り合いすぎて、だんだん教室の中からもくすくすと笑い声が起きてきた。

 「城田先生、ちょっといいですか?」

 海老島は生徒には恐ろしいものでしかないいつものしゃがれ声だが、生徒には絶対にすることのないような、丁寧な物腰で城田に聞いた。

 「あ、はい。」

 城田は、教科書を教卓の上に置いて、低いヒールのついた上履き用のパンプスで、教室の床から一段高くなった木製の教壇をドタバタと音を立てて、急いで教室の前扉から廊下へ出た。海老島も、後ろ扉から顔を引っ込め、扉を閉じた。教室の中は、何だろう、と少しざわついてきた。

 「…明日香のことかなあ。」

 斜め前の桐谷が明日香の方に体を向けて言った。前の席の川端も背中を窓側の壁へつけて明日香の方を見た。

 「どーする?あたしがこんな格好してるのをさあ、そんなおかしな格好しやがって、とか殴りにきたんだったら。」

 明日香はそんなに声を低めることなく言った。それは川端の前の席の小さな不良少女に聞こえるようにだ。

 「いやー。それはないでしょ、流石に。」

 川端が苦笑いしながら言った。

 「まあ、でも間違いなく明日香のことだよね。」

 桐谷は川端を見て言った。川端は大きく頷いていた。すると教室の後ろ側の扉がまた開いて、今度は城田が顔を覗かせた。

 「大沢さん、そんな格好のところ悪いけど、ちょっといい?」

 「あ、はーい。」

 明日香は普通に呼ばれた時のような、気持ちの良い返事をした。

 「んじゃあ、ぶっ飛ばされてきます。」

 そう桐谷と川端に立ち上がりながら言うと、二人は笑っていた。明日香はオフショルダーの着替え用タオルや、ショールのように肩にかけたバスタオルが肌蹴ないよう抑えながら、小走りに向かった。

 廊下へ出ると、海老島はその格闘家のように太い腕の手に、明日香の水泳バッグを下げていた。プールサイドの更衣室などがある一角にはポンプ室、と呼ばれるプールの水の注水・排水を管理する設備の部屋があるらしいのだが、そこにあったと言う。その辺りは生徒立ち入り禁止となっているから、明日香は素直に最初からそこは疑っていなかった。明日香はお礼を言いながら頭を下げて、受け取った。

 「國木田先生から聞いた…。大沢、お前誰にやられたのか、大体見当はついてるんじゃないのか?」

 海老島はしゃがれ声で脅すように言うから、明日香はやられる明日香が悪いのだ、と言われている気分になって、不機嫌さが態度に出てしまったかもしれない。

 「さあ。あたしにはわかりません。証拠も何もないですから。それなのに、誰々かもしれない、なんて言ったら、あたしが誰かを悪者にしようとしてるみたいじゃないですか。」

 こんな逆らうようなことを海老島に言って良いわけはなかったが、明日香も明日香で海老島の態度に納得が行かなかった。明日香は引き下がるもんかと、海老島を睨むように見上げた。

 「…。まあ、お前の言うことももっともだな…。末原先生にも聞いたが、お前はどうも考え方が「男らしい」から、そうやって自分に降りかかった問題を、あまり俺たち先生には「言いつけ」たくないらしいな。それは心構えとしては立派だ。お前を良く知っている先生たちの話によれば、お前は男子にも女子にも多く慕われているようだが、そういうところに皆惹かれるのだろう。だがな…いいか、俺は卑怯な奴が卑怯は許されていると思っていやがるのが一番気に入らねえ…。そんなことはな、今のそいつらにとっても、この学校を出てからのそいつらにとっても、何の役にも立たねえし、そいつらのためにならねえんだ。…だからあまり一人で抱え込むな。何かあるなら、城田先生に相談しろ。もちろん、俺や末原先生、國木田先生にでも良い。」

 海老島がこんなに喋るとは明日香には意外だった。怒鳴るか殴るか、どちらかしかしない教師だと明日香は思っていたので、少し驚いてしまった。なんか海老島に褒められたり気を遣ってもらったりしたみたいなのだが、そのしゃがれ声とこんな話を生徒にする時でも脅すような調子なので、全くそんな感じがない。

 「ありがとうございます。」

 明日香はとりあえず頭を下げて、お礼を言った。

 「大沢さん、ほんとに誰だか心当たりないの?」

 城田が重ねて聞いた。もちろん城田は、心当たりあったとしても、言えない難しさはわかっている。

 「んー。」

 明日香はどこを見るとでなく、瞳を上に向けた。

 「…まあ、じゃあ聞いてみますか。適当に。」

 明日香はそういうと、一旦ため息を吐いてから、教室の後ろ側の扉を開いた。

 「ねーえー、原さん、佐々田さん、上川さん、あたしの水泳バッグ、プールのポンプ室?ってとこにあったらしいんだけどー、何か知らなーい?」

 明日香は教室の誰もが聞き漏らさないよう、大きな声で言った。原とは、美しい鷲鼻の女子、佐々田は小さな不良少女、上川は「白い魔女」、とそれぞれ明日香が勝手にあだ名している女子生徒だ。