section 5-1

section 5 「x軸上の衝突」
一
明日香はプールの授業が大好きだった。子供の頃から夏の水遊びが好きで、プールや海には両親や姉によく連れて行ってもらった。泳ぐのも得意だ。
学校のプールをコースロープで半分に分けて、男子と女子別々に授業をするとはいえ、水着姿で男子の前に出るのは恥ずかしいといえばそうなのだが、明日香にしてみれば、あのブルマとかいう、一体誰がこんなもの考えたんだ、としか思えない、履いているだけで恥ずかしい、下着のようなパンツ姿の方がよっぽど恥ずかしい。水着はこれからプールに入るんだから仕方がない、というより水に入れる、という楽しみの方が勝ってしまう。男子のショートパンツ型の水泳パンツみたいに、脚の付け根を隠せるようになっていれば良いのに。なんで脚の付け根でカットされているデザインなのかは、いろいろ疑問だった。
例の夏のセーラー服問題で、登校したら体操着を着るような「ルール」になってから、こういう脚の付け根でカットされているデザインの水着では、体型のラインがはっきり出てしまうし、気をつけていないと下腹部の形がはっきりと出てしまうことすらある、ということが気にさわる。男子がそういうのを目ざとく見つけて淫靡な考えを抱いているのは知っている。女子であることを嫌が応にも強調される。男子が女子の水着姿が好きなのは、テレビのアイドル番組や、雑誌を見ていればわかることだから、そういうことを考え出すと、この学校指定の水着もなんか嫌だな、という気になってきてしまう。
しかし明日香も勝手なもので、授業以外で、姉に潤子と一緒にプールや海へ連れていってもらう時、そもそも開放的な服装が好きな明日香は、三角ビキニを着たがるのだから、自分の論理矛盾が、よく男が言う、「これだから女は」の論拠になりかねないもので、自分ながらやれやれ、と呆れてしまう。学校と遊びに行く時は違うんだ、とまた勝手なことを考えたりする。
潤子と明日香が初めて一緒にプールに入ったのは、一年生のプール授業の時だったが、潤子は当時泳げなかった。けれど明日香が手取り足取り教えたら、すぐに泳げるようになった。明日香教え方上手い、と潤子はビート板や浮き輪なしで泳げるようになったことを喜んでいたし、明日香も親友だからね、と得意げに言ったものだが、よく考えると、潤子を担当していた小学校の教師たちは一体何をしていたのだろう。潤子は確かに運動はどちらかといえば苦手な方だ。逆上がりも出来なかったし、跳び箱も飛べなかった。しかしこちらも明日香がちょっとしたコツを教えたら、逆上がりはいくらでも出来るようになったし、跳び箱も六段までなら難なく飛べるようになった。潤子は明日香のおかげと嬉しがってくれるけれど、明日香は潤子の小学校の時の教師は本当に何をやっていたんだと訝しく思う。
明日香の通った小学校では、五、六年生の時、クラス担任が器械体操の選手だったこともあり、クラスのみんなでバック転を出来るようになろうと、体育の時間だけでなく昼休みの時間なども、体育館の一角に走り高跳び用のマットを出して、クラスみんなで練習したものだ。昼休みでも担任が付き合ってくれたりした。明日香のように運動神経の良い子は、担任が率先して細かく補助をしてくれたり、コツなんかを実際に児童の体を触って教えてくれたりしたから、明日香も数回の練習でコツを掴み、バック転が出来るようになった。出来るようになれば、あとは普通の器械体操用のマットレスでバック転を繰り返しできるよう、一人で練習をするようになれる。でも運動の苦手な子は、背中を反って引っくり返る、という動作でさえ苦労するのに、明日香の当時の担任は、そういう子たちには一言二言助言を送るだけで、手取り足取り教えていなかった。だから出来る子と出来ない子とがはっきりと分かれてしまって、当初立てたクラス全員が出来るようになろう、という目標も、いつの間にかうやむやになってしまった。
明日香は当時、運動苦手な子にバック転は難しいのかな、程度にしか考えていなかったけれど、運動が苦手な潤子に、ちょっとしたコツや補助をしてあげるだけで、泳げるようになったり、逆上がりができるようになったり、跳び箱が飛べるようになったりする現実を目の当たりして、当時を振り返ってみると、そんな担任の、運動が得意な子に対する教え方と、運動が苦手な子に対する教え方の違いを今更のように思い出し、担任がもっと平等に、クラスの全員に手取り足取り教えていれば、当初の目標も達成できたんじゃないかと、当時の担任の児童に対する姿勢に疑問を感じるようになっていった。もしかすると、やはりバック転というのは全員が出来るようになるのは困難な演目で、出来るようになる子、出来ないで終わる子の区別が当時の担任にはついていて、出来ないで終わる子はとりあえず「可哀想だから」参加だけさせていた、ということだったのだろうか。
小学校五、六年時の明日香のクラス担任は、とても児童から人気があって、子供たちに好かれる先生だったのだが、授業参観や家庭訪問、三者面談などを通して、母はわかっていたのか、家で団欒の時間にこの担任のことを良く話す明日香に対して、あの先生は多分依怙贔屓の強い先生だからあまり信用しないようにしなさい、と言っていた。当時はそんなことないと思っていたのだが、母は正しかったようだ。
泳ぐのが好きな明日香が、いろいろ考えていたことは忘れてしまった頃に、水泳の授業は終わった。流石にプールには男女別の更衣室が付いているので、目を洗ってから、潤子と連れ立って女子更衣室へ着替えに入った。
「あれ?明日香ぁ、明日香の水泳バッグって、あたしの隣に置いてあったよねぇ?」
先に二人の水泳バッグを置いてあった棚に辿り着いた潤子が異変に気が付いて、混み合った、むせ返るような湿気と消毒液のにおいのする更衣室の中で、人を避けるため遅れた明日香に声を掛けた。
「うん、そーだよー。」
明日香はその時はただ、潤子に聞かれたことに、いつものように親しさをいっぱい込めた調子で答えるだけで、何の危機感も持っていなかった。一度水泳帽を取って、濡れた髪を全部後ろへやってから、水泳帽をちょっとはすに被り直しながら潤子に近づいた。
「…ない。」
「へ?」
潤子の聞いたことのないような真剣な口調に明日香は間抜けな声を出してしまった。しかし、確かに、潤子の水泳バッグの隣に置いておいたはずの、明日香のビニール地で口をロープのような紐で縛るかたちの、タオルや着替えを入れた水泳バッグがなくなっている。更衣室は混んでいるので、二クラスの女子たちが着替えている人混みを潜り抜けて探し回るわけにはいかない。隣のクラスのバスケットボール部部員の倉嶋が、明日香と潤子が立ち尽くしているのに気がついた。
「どうしたの?二人とも。」
倉嶋は短い髪をタオルでがしがしと拭きながらやってきた。潤子が状況を説明した。
「えー?盗まれたってことぉ?」
驚いたような声で倉嶋は言うから、少し更衣室の中が静まり返ってしまった。倉嶋は、明日香とよく喋るようになった縁で、潤子とも喋るし、明日香と潤子が付き合ってるみたいに仲の良い大親友同士というのも知っている。とても明日香と潤子の水泳バッグが別のところにあるなんて考えられなかったのか、即そういう結論になったらしい。
「何、どうしたの?」
眼鏡をかけていないと全く印象が異なるのに、その上三つ編みが解かれ濡れた長い髪が、さらに大人っぽい印象を醸し出す桐谷は、同じように髪の毛をバスタオルで拭きながらやってきた。やはり潤子が状況を説明した。
「ちょっとみんなー。なんか余ってる水泳バッグ、自分の目の前の棚にないー?」
桐谷は学級委員をやっているので、こういうことで声を上げることに違和感はない。あちらこちらで、ないよねえ、ないよ、などと周りの子たちと話す声が聞こえる。
「とりあえず、あたしはいいからさ、みんな先に着替えちゃいなよ。更衣室空けば探しやすくもなるし。」
明日香はそういったが、潤子も倉嶋も桐谷も、でも、という顔をしているので、ほら、次の授業もあるんだから、と明日香は発破をかけた。それで桐谷と倉嶋は自分の水泳バッグが置かれた方へ戻ったが、潤子はまだ心配そうな顔で、水泳帽も外さず、明日香を見ていた。
「さあ、潤子、あと2分で着替えて!よーい、どん!」
明日香はそういって手を叩くと、120から一つづつ数字を減らして数え始めるから、潤子はそれが明日香の気遣いだとわかった上で、ちょと待って待って、と笑い慌てながら、急いで水泳帽を取り始めた。
女子更衣室に残ったのが、明日香、潤子、桐谷、茅ヶ崎、倉嶋だけになると、着替えを置くための棚は空っぽになってしまい、明日香の水泳バッグはどこにもなかった。むせ返るような湿気は、人がいなくなった分収まったが、じっとしていると暑い。そして明日香以外の四人は体操着とジャージパンツに濡れた髪だが、明日香だけまだ学校指定の水着姿のままだ。はすに被った水泳帽もそのままで。
「まいったなあ…。どうしよう。もう水着で授業受けるか。」
明日香は腰に両手を当て、冗談とも本気ともつかないような言い方になってしまったが、それでいいやと覚悟は決まっていた。
「またあの子たち?」
倉嶋は、先日の明日香の上履き事件の時、バスケットボールのゲーム形式の授業で執拗に明日香をマークし、明日香の裸足の足をわざと蹴ったり踏んだりしていた、例の「不良少女」たちのことを言っている。
「証拠はないから。疑うのもやめとこーよ。」
明日香は、潤子や桐谷が何か言いそうだったので、先にそう言った。そう、たとえ彼女たちの仕業だとしても証拠はないのだ。変に倉嶋が疑うと、隣のクラスとはいえ、倉嶋まで攻撃対象にされかねない。美しい鷲鼻の女子生徒とは、一年時は別のクラスだったにも関わらず、明日香は絡まれていたのだから。まして潤子、桐谷が変に真面目に犯人探しを始めてしまうと、二人が逆恨み的に狙われても嫌だった。攻撃対象は自分だけで良い。
「実は教室の明日香のロッカーに入ってたりしないかな。」
桐谷はそういう悪いいたずらだったらいいのに、という希望的観測で言ったが、本心はそれはなさそうだと思っているのは、明日香と潤子にはわかった。ただ、確認は必要だ。
「あ、じゃ、あたし見てくるよ!」
茅ヶ崎はそう言うと、女子更衣室から出ようとした。
「あたしも見てくるね。もしあれば明日香の着替え持って戻ってくるよ。なければ…。」
「うん、いいよ。次の授業もあるしね。あとであたしは水着のまま教室へ登場だよー。」
桐谷の言いかけに被せるように明日香は冗談ぽく言うから、桐谷は苦笑いするしかなかった。
「あたしちょっと先生に言ってくるね。水着のまま教室へ帰るにしても、先生に事情言っとかないと。」
倉嶋は運動部部員なので、プールの施設内でも、体育教師がどこに詰めているか、どこにいそうかがわかるので、その役を引き受けてくれた。明日香と潤子はお願い、と見送った。
「潤子、ごめん、悪いんだけど、潤子の着替え用タオルと、もう一枚バスタオルも借りて良い?使ったので良いから。」
「もちろん。」
申し訳なさそうに手を合わせて頼む明日香に、濡れた髪をすでに髪留めであちらこちら押さえ終わった潤子は笑顔で了承した。
「まあ、これでなんとか。」
そう明日香が言うと、潤子と二人で笑ってしまった。水着の胸のあたりから、オフショルダーのワンピースのように着替え用タオルを被り、肩にはバスタオルを羽織った。水泳帽もはすに被ったままだ。
「意味不明だ、この格好。」
笑う明日香はまだ髪の毛すら拭いていないので、動くと水滴が少し散った。
「ほら、明日香、髪の毛拭こうね。」
潤子はそう言うと、明日香の水泳帽を取って、濡れているのも気にせず自分の水泳バッグにしまうと、自分が髪を拭くのに使ったタオルを明日香の頭に被せて、優しくごしごしと拭き始めた。あまりにも優しい手つきなので、明日香はずっと拭いていてほしいな、と思ってしまったくらいだ。
とんでもない嫌がらせをされているはずなのだが、なんとなく明日香は楽しくなってきてしまっていた。それはそばに潤子が離れないでいてくれていて、桐谷も茅ヶ崎も、隣のクラスの倉嶋までも最後まで付き合ってくれたことからくる、自分にはこれだけ頼もしい味方がいるんだという、安心感のようなものからだろう。






