section 4-4

section 4 「ルール変更」
四
もう一つのルール変更は、女子生徒には関係がなかったが、男子生徒は給食後の昼休みに、必ず晴天時は校庭へ出てサッカー、雨天時は体育館でバスケットボールかバレーボールをすること、というものだった。それが「ルール」となった理由はよくわからない。男子たるもの体を鍛えろ、ということなのだろうか。戦時中かよ、と明日香は首を傾げたくなったが、この「ルール」がクラス担任の城田から周知された時、明日香は席を立って聞いた。
「先生!あたしはどうなるんですか!」
明日香が男子に混じって、昼休みの球技に興じているのは良く知られていたので、明日香のとぼけたマジメさに笑いが起きた。城田は笑ってしまいながら、女子でも男子に混じって参加したい人は自由参加だよ、と言った。この頃になると、男子の中で、こういう時に茶々を入れる係、というか、面白いことを言って笑いを取る、ちょっとした人気者というのが数人いた。その中の一人、東川がクラスの全員が聞き取れる声で言った。
「どっちにしろ大沢と小林最初に分けてから、チーム分けね。」
その言い方が可笑しかったので、また笑いが起きていた。
「そう言えばさあ、登校してからジャージに着替えないといけなくなって、唯一良かったことって、明日香のセーラー服とかスカートとか汚れなくなったことだね。」
授業の合間の休み時間、いつものように仲良し四人組で駄弁っていると、潤子がふとそんなことを言った。
「あー。潤子よく明日香昼休みから帰ってくると、明日香、ベランダ出なさい、またそんな汚してきて、とかやってたよねえ。」
桐谷が思い出したように言った。明日香はセーラー服のまま、男子のサッカーに混じるから、あっちこっち汚して帰ってきては、潤子に笑いながらそう言われて、ベランダへ連れ出され、スカートのお尻やセーラー服の背中なんかを、潤子に叩いてもらっていた。これは一年の時からそうだった。
「えー。でもお仕置きタイム今でもあるじゃん。」
明日香は不思議そうな顔をして言うから、他の三人は笑ってしまって、なんであんたが不思議そうな顔してんのよ、と桐谷が可笑しそうに言っている。今でも、ジャージのお尻や腿の後ろ、体操服の背中に土汚れがついていれば、潤子が飛んできて、ベランダへ連れ出され、叩きタイムが始まる。「お仕置きタイム」などと明日香は言ったけれど、ほんとは潤子が明日香を気にしてくれているのがとっても嬉しくて、潤子が明日香に触れてくれる、なんとなく好きな時間だった。明日香が不思議そうな顔をしたのは、とぼけた訳ではなくて、その時間なくなっちゃってないよね、という確認をしたかったのかもしれない。子どもの頃、お姉ちゃん明日いないの?、と姉に聞いたような。
「明日香はおてんばさんだからね。ずっとあるよ、きっと。」
潤子は明日香の気持ちをわかっているのだろう、嬉しそうにそう言っていた。
このルールが施行されてから、最初は二年の男子全員が校庭へ出たり、体育館へ行ったりしていて、大変な混雑だった。遊びレベルのスポーツでは、人数が多ければ多いほど、ただ突っ立っているだけの子が増える。そういう子たちは単にやる気がなかったり、あるいは運動が苦手な子だったりする。日が経つにつれ、このルールに従わず、教室に留まる男子もちらほらと出てくるようになった。明日香は潤子たちと喋っていたい日もあるので、好きな時に参加したりしなかったりする。日を置いて教室の風景の違いを見ることになるから、そういう変化を感じやすかったかもしれない。
「お前らなんで校庭出ないんだよ、出ろよ。」
ある日少し怒った調子でそう教室に残っている男子に声をかけたのは小林だった。明日香はその日は潤子たちと駄弁って過ごすことにしていたので、行かないと小林には言ってあったけれど、明日香は最初自分が言われていると勘違いしそうになった。確かに男子生徒は昼休みには校庭へ出てサッカーをするか、体育館でバスケットボールかバレーボールをすることという、「ルール」が施行されてはいる。しかしそんなことを言ったって、球技はただ人数がいっぱいいれば良いわけではないし、結局やる気がないか、苦手な子は、立ちん坊になるだけだから、そんなこと全員に強要するのは意味がない、と明日香は思っていた。
明日香の中では、小林はスポーツを楽しむタイプの男の子だと思っていたので、この学校から言い渡された「ルール」に「従わない」男子生徒に怒る、というのは少し意外だった。男子全員が出るように決められているのだから、その「ルール」に従わないのは許せない、ということなのか。「正しくない」から、だというのだろうか。しかし、小林は「グロ菌移し」に率先していつも参加している。彼の中ではそれも「正しい」ということなのか。男子っていうのはそういうものなんだろうか。
小林に怒られた、明らかに運動が苦手そうな、教室に残っていた数人の男子は嫌々な感じで席を立ち、小林に早く出ろよ、と急かされると、彼らは少し小走りになった。小林は教室に男子が一人も残っていないのを確認してから、自分の教室から出て行った。
「…小林のああいうところはよくわかんないよ。強制したってしょうがないじゃん。運動苦手な子だっているじゃん。その「ルール」に従うのが「正しい」、さっきまで教室で残っていた男子たちは「悪い」ってことなの?じゃあさあ、小林がいつも「菌回し」に参加しているのは「正しい」ことなの?」
男子が全員出て行き、女子だけになった教室で、明日香は潤子、桐谷、茅ヶ崎のいつもの面子に向かって、不満そうにというより、本当にわからないことを、本来なら避けるべき話題を避けるべきじゃないという独りよがりから聞くように言った。
「うーん…。」
空いている男子の席の椅子だけ借りて、明日香の椅子にくっつくように持ってきて座っていた潤子は、瞳を上にあげながら、考えるように唸った。桐谷も思案顔で、茅ヶ崎は潤子と桐谷の顔を交互に見ている。
「それはさ、明日香、小林としてはクラスを、というかクラスの男子をまとめたい、って思いなのかもよ。ほら、一年の時から、なんとなく男子のリーダー、みたいなところあったじゃん。学級委員長も後半やってたし。」
こういうあまり正面と向かいたくないような疑問にも、きちんと答えてくれるのは潤子のすごいところだと、同い歳だけれども、人として尊敬すべきところだと明日香は思っていた。普通の友人関係なら、唸ったまま、別の話題へ変えられてしまうだろう。そういう時は、近くにいるのに、その友達に急に距離を取られたように感じられ、明日香は何か「危険人物」のように見做されたような気持ちになる。
潤子は違った。明日香のこういう「面白くない」疑問にも、何か答えを出してくれようといつも側にいてくれる。本当に嫌なことが多い中学校生活だけれど、潤子に出会えたこと、潤子と毎日同じクラスにいられることが、もしなかったとしたら、明日香は今どうしていただろう。
「…そうかもね。男子ってさあ、なんかこう、なんだろう、全員で一体感を欲しがるっていうかさ。みんな同じことしてないといけない、みたいのあるんじゃない?うちの父も会社の付き合い?なんかで酔っ払って夜遅く帰ってくるとさ、母と喧嘩してるよ。母が、なんでこんな遅くまで飲んでんの、とか怒ると、父は仕方ないだろ、付き合いがあるんだから、付き合いは大事なんだよ、とか言い返して。」
そう言う桐谷の発言に、明日香、潤子、茅ヶ崎は、うちもうちもと笑ってしまう。どこの家でも、がんばって働くお父さんの事情は同じようだ。
そうなると、小林は、昼休みは男子全員校庭か体育館で球技を強いられる「ルール」に従うことを、「仕方がない」とか「大事なことだ」と思っているのだろうか。それと同時に、左頬から首にかけて大きな痣黒子のある多岐川を「菌」として扱い、その「菌」を移し合う「遊び」を男子全員でやることも、「仕方がない」とか「大事なことだ」とか思っているのだろうか。
潤子の家はお母さんの方が強くて、お父さんがそうやって酔っ払って遅くに帰ってくると、お父さんが平謝りだという話で盛り上がっている三人を置いて、明日香はベランダへ出てみた。校庭を見下ろすと、大勢の男子が、サッカーをしている。上から見ると、誰が何をやっているのかすらわからないくらいの人数だ。どうも、いくつかのグループごとに、あるいは学年毎かクラス毎かに組み合わせを分けて、同じコートで同時に対戦しているようだ。学年の全男子生徒が出ているのは二年生だけなので、ボールの移動と一緒に大移動をするのだが、それでも突っ立ているだけで試合に参加していない子は多いように見えた。もっともディフェンスのふりをして突っ立っているのは、本当にやる気がないか苦手な子だろうが、相手陣地で動かないのは、単に攻撃の時だけ参加する、というタイプでやる気がないわけではなさそうだ。
明日香のクラスの男子が一人、ペナルティエリアの外で突っ立ているのが見えた。名前は後藤と言ったはずだ。メガネと、縮毛と言っていいくらいの強い天然パーマの短い髪が特徴の男子だ。明日香は喋ったことがない。運動が苦手なのは見た感じでもそうだし、実際球技大会の時に、苦手なんだな、ということはよくわかった。
「どうしたの?」
「うわっ。」
一人黙ってベランダへ出てしまった明日香を気にして、潤子が出てくると、明日香に声をかけながら明日香の左腕を抱きしめるように取った途端、その後藤に遠くから飛んできたサッカーボールが、おそらくは彼の股間に命中したのを見てしまって、明日香は思わず声を上げた。後藤はグラウンドに横になるように崩れ落ち、股間を押さえ悶絶している。
「あれ痛いらしんだよねー…。」
潤子は明日香が何を見てびっくりしたのかすぐに察して、そう言った。
「あー。死ぬほど痛いらしいよ。あたしの兄がすごい力説してた。」
茅ヶ崎と一緒にベランダへ出てきた桐谷は、明日香と潤子が見ている光景を見て、そう言った。女子にはわからない痛みである。
明日香が気になったのは、後藤が一人でずっと悶絶していたことだ。誰も声をかけなかったし、誰も気に留めない。他学年の子も、同学年の他のクラスの子も。そして、全員が同じグラウンドにいるはずの、明日香のクラスの男子の誰一人も見向きすらしない。
しばらく土の上に横になったまま、悶絶していた後藤は、ある程度おさまったのか、立ち上がり、背中を丸めたまま、歩きにくそうにグラウンドから校舎の方へ歩き始めた。それでも、結局誰一人として彼に声を掛ける者はいなかった。