section 3-4

section 3 「痣黒子」
四
もうすぐゴールデンウィークだ、という頃にそれは突然始まった。
この頃には、授業の合間の休み時間になると、明日香の席には潤子がやってきて、桐谷の席には桐谷の幼馴染で、家も隣同士だという女子生徒、茅ヶ崎がやってきて、仲良し四人組のように、一緒にあれこれしゃべっていることが多くなった。茅ヶ崎は桐谷と正反対に背がこのクラスで一番小さく、良く桐谷の席へ来ては桐谷の膝の上に座ってちょこんと収まっていた。茅ヶ崎の綺麗に切り揃えた真っ直ぐな髪のおかっぱ頭は、余計に収まりが良く見えて可愛らしかった。潤子がそれを見てあたしもやるー、と言っては明日香の膝の上に座るのだが、明日香と潤子は背丈が全く同じなので、潤子前が見えない、と何だかお笑いコンビのお決まりのネタのように、ふざけて遊んでいた。
桐谷はどこか大人っぽいところがあるのだが、潤子も大人っぽいんだと、明日香はこの四人組で連むようになってから気が付いた。桐谷と潤子の話は、内容も話し方もいつもどこか大人っぽくて、明日香は、潤子が遠くに行くー、と素直にヤキモチを焼くから、潤子と桐谷は笑っていた。逆に明日香は茅ヶ崎と子供っぽいふざけ合いをよくしているので、桐谷に子供だなあお前ら、と時々突っ込まれているのを、潤子は可笑しそうに笑って見ていた。
それが初めて始まった時も、四人で教室の窓側の一番後ろの隅に集まって、なんだかんだと話していた時だった。
「グロ菌ー!」
男子の声でそう上がると、教室の中で男子生徒たちの追いかけっこが始まった。何かを、というよりは誰かをばい菌扱いして、その誰かにわざと触れ、「菌を持った」ことになる男子が、他の男子にタッチすることで菌を移す、という子供らしい残酷さがむき出しになった「遊び」だ。一年の時も、明日香のクラスに時々普通の授業を受けさせるということで、特殊学級の子がやってきていたが、休み時間にその子を菌扱いして、同じような追いかけっこを男子生徒はやっていた。
「やめなよー!男子ー!」
明日香はいつもそう大きい声で怒っていたが、効果は全くなかった。効果がなかったのは、自分はこいつらとは違うんだ、と言いたいがために、大声を張り上げていただけだったからかもしれない。自分は特殊学級の子を菌扱いなんかしない。明日香が抱きがちな、まがい物の正義感、嘘っぽい公正さ。それをクラス中に主張したがっただけじゃないのか。実は不良少女たちに絡まれるのは、こういう嘘くさい正義感を振りかざす明日香が気に入らないという、痛いところを突かれているだけじゃないのか。
また始まった、と思うと同時に、「グロ菌」という名前だけで、明日香は誰が菌扱いされているのかすぐに連想がついてしまって、そのことに明日香は動揺した。一体自分が、人を菌扱いして遊んでいるこれらの男子生徒たちと、どこか違うというのだ。明日香が、この「グロ菌」という言葉を、二年生最初の登校の日、二年次のクラス名簿の書かれた模造紙が張り出された掲示板の近くで、見知らぬ男子生徒たちがささやいていたのを思い出したのは、その後だった。
「や…。」
明日香は一年の時と同じように、立ち上がって、やめなよ、男子、と大声で怒ろうと思ったが、言葉が出なかった。自分だって、そう思ったんじゃないのか。あの頬から首にかけて、不定形に広がる痣黒子を。
「…二年になったらちょっとは大人になるかと思ったんだけど…。男子はほんとに成長しないね。」
桐谷がそう言った。
「え?」
潤子が何のこと、と桐谷に尋ねるように言った。
桐谷は多岐川と一年時も同じクラスで、この「グロ菌回し」は一年時からのものだと言う。明日香は自分が偽善者だろうとなんでも良かった。この金網と鉄の校門で閉ざされた、「隔離」された空間だからと言って、一人の生徒が、教室中で菌扱いされるなんてあっていいわけがない。
「やめなよー!男子ー!」
明日香は大きい声を出したが、男子が追いかけっこをする時のドタバタした足音や、椅子や机を障害物にするため引きずったりする音、男子たちがきゃあきゃあ上げる騒ぎ声にかき消されてしまう。明日香はふと気がついた。それまで男子たちは、まだ照れからなのか、クラス全体で互いの顔と名前が一致していない、あるいは喋ったことがいない相手がいる状態で、元同じクラス同士、部活が同じ同士などで固まっているから、いつまでもどこか分断された、一体感などのかけらもない男子生徒群だったが、この遊びが始まった途端、急に男子たちが一つにまとまっていく、お互いに一体感か連帯感を抱き始めて、何か見えない気泡にでも一気に包まれていくような、そんな光景に映る。それは明日香が学年主任に髪の毛をふんづかまれて変な悲鳴を上げた時に、その場の二クラスの女子生徒たちが上げた笑い声と一緒に全員を覆った何かが、明日香との間に障壁を設けたような、障壁の向こうに見える一体感、それに似ている。
「グロ菌ー!」
そう言いながら男子生徒は、何故か茅ヶ崎の肩に触った。茅ヶ崎が「菌保有者」と言うことらしい。茅ヶ崎は素直に反応し、桐谷の膝から飛び降りると、周りから逃げる男子生徒たちのあとを追いかけようと走り出しそうとしたが、セーラーカラーの襟足を桐谷にふんづかまれて、足が止まった。
「ひろ!あんた何やろうとしているのかわかってんの!やめなさい!」
桐谷は子供か年の離れた妹でも叱るように怒った。かなり本気で怒っていて、一瞬周りが静かになってしまうくらいだ。桐谷は普段低い声で静かにしゃべるので、彼女が大きい声を出したことに皆驚いたところもあったろう。叱られた茅ヶ崎は、振り返って一瞬びっくりした顔をしたが、本気で怒った桐谷の顔を見て泣きそうになり始めた。
「ふふふ…。」
全く場違いと思える、抑えた笑い声を漏らしたのは潤子だった。
「聡美、ひろのお母さんみたい。」
潤子はそう言うと、余程可笑しかったのか声を出して笑った。すると静まっていた周りからも笑いが起きて、追いかけっこをしていた男子たちも、桐谷お前ほんと茅ヶ崎の保護者みたいだよなあ、とか言っている。桐谷は、この子未だ子供だから、色々教育が必要なのよ、などと返していた。茅ヶ崎は、桐谷に本気で怒られたことがショックで、とうとう瞳から涙が溢れ始めてしまった。そしてそれを拭ってやるのも桐谷だから、潤子は、ほんとうにお母さんだね、と笑っていた。桐谷は、もう小学校の頃からそれ言われているよ、と苦笑いだった。そしてこの潤子の何気ない一言と笑い声が、一気に教室の空気を変えてしまって、この休憩時間の「グロ菌回し」は終わった。
さりげない一言、感じた可笑しみからの明るい笑い声で、しなやかにこの騒ぎを終わらせてしまった潤子はすごいな、と明日香は素直に思った。明日香の姉今日佳は、潤子はいつもその人の本質を、その人がどういう人であるのかを、常に見つめている、彼女にとって人の外見上の特徴はあまり意味がないのかもしれない、そんな風に言っていた。明日香は、自分もそうやって人を見ることができるようになるのだろうか。そんなことを考えながら、ずっと潤子の横顔を見つめてしまっていたら、潤子が明日香の視線に気がついて、ピースサインをしながらとびきりの笑顔を明日香に見せてくれた。