section 1-1

2024-08-26

section 1 「茶髪と癖毛」

 一

 明日香は生まれつき髪の毛の色が少し茶色かった。夏の強い日差しの下などに出ると、紅茶の色のように見えて、子供の頃は遊び友達や小学校のクラスメイトに羨ましがられたものだった。明日香自身にとっても自慢の髪の毛で、少し癖っ毛だから、いつも跳ねたような髪型だったけれど、この茶色の髪の毛は、その跳ねた髪型になることも含めて、自分でもとても気に入っていた。親戚の叔母たちには、明日香ちゃんは髪の毛染める必要もパーマをかける必要もないわね、などとよく言われたものだった。

 流れが変わったのは、中学校に入ってからだ。家からそんなに離れていない、歩いて十分もかからない場所に立地する公立の中学校は、とても校則が厳しいことで知られていて、明日香より六つ年上の姉はそれを嫌い、小学生にも関わらず、かなり勉強を頑張って、中高一貫の私立学校へ入学していた。明日香ほどではないが、明日香の姉も光の当たり方によっては、茶色に見えるし、癖っ毛は明日香よりも全然弱いので、背中まで伸ばしてもいたから、茶色は余計に目立つとも言えた。だから絶対に揉めると、この公立学校への進学を嫌がり、明日香と違って勉強があまり苦にならない姉は、中学受験を突破、穏便な中学校生活を送り、今はいわゆる六大学の一つで心理学を専攻している。

 明日香が小学校五年生になったあたりから、姉は、明日香も勉強して自分と同じ私立へ入るべきだ、絶対あの公立中学校へ行ったら嫌な思いしかしないよ、と口酸っぱく言っていたが、元来勉強が好きではない明日香は、聞く耳を持たなかった。姉はいつもどこか現実的で悲観的なところがあり、明日香はどこか夢想的で楽観的なところがあった。

 「あたしの名前は今日佳で、明日香の名前は明日香。だからあたしは今日生きて行くことを考えないといけないけど、明日香は明日だけ見てれば良いからね。」

 姉の今日佳は時折そう言って、明日香の楽観的すぎる子供らしいものの見方を、なんだか子供の明日香には難しい言い方で揶揄するのだが、明日香は姉が大好きだったし、言い合いになることは普通のきょうだい並みに多いけれど、年がいくらか離れているせいもあるのか、姉妹仲はとても良かった。いろいろなことをよく話す姉妹だし、姉は買い物なんかにもよくつきあってくれる。

 今日佳の不安が的中することになるのは、明日香が中学へ入学してわかった。クラス担任、教科の担任、会う教師会う教師に、お前は何で髪を染めているのかと、まずは決めつけで叱責の調子を持って言われ、その都度生まれつきだということを説明しなければならなかった。教師によっては、髪の毛の根元を引っ張って地肌を広げ、黒い髪が出ていないか、頭頂部から側頭部、後頭部などを何か所も探して見つからないと確認してから、渋々納得する教師も少なくなかった。

 髪型についての校則によれば、男子は前髪が眉毛にかかってはならない、脇は耳にかかってはならない、襟足も学生服のカラーにかかってはならない、などとほとんどスポーツ刈り以下の長さを強要するようなもので、女子は襟足が隠れる程度の長さ、それ以上の場合は髪を縛ること、耳が隠れる場合や、目が隠れるような場合はピンなどで止めること、ピンの色は黒、紺など華美ではないものに限る、などと細々とした規則があり、もちろん染めることも脱色することも禁止、パーマも禁止と、ご丁寧に書かれていた。

 明日香が小学校高学年の頃から、日本中で人気になっていた女性アイドル歌手の髪型が流行ると、このパーマ禁止の校則を守りながらも、ドライヤーとブラシでウェーブをかけて、その女性アイドル歌手と同じような髪型にすることが学校中でも流行った。それがある程度当たり前になってくると、突然授業を一時間潰して、一年生全員屋上へ整列させられ、髪の校則違反をしているものが多いと、学年主任の体育教師から、説教というような大層なものではなく、ただふざけるな、なめているのかと、喧嘩のような威圧をして生徒たちを緊張で静まり返らせ、各クラスの担任が、自分の担当するクラスとは別のクラスの生徒について、一人一人髪の毛の「検品」をしていくという、「催し物」が始まったりした。ドライヤーによるウェーブは厳密には校則で明言されているわけではないが、「中学生らしい清潔な髪型にしなければならない」と書かれた文言に抵触するらしい。神妙な空気は、祭儀か何かのようで、一体ここは学校なのかそれとは別の何かなのか、明日香は自分が自分でないような気持ちになる。それはつまりこの空気から逃げたかったからそう感じたのだろうけれど、そんな風にこの検閲集会から俯瞰した気持ちへと逃げ込んだりした。

 こういう「催し物」の時は、知っているくせに、何故か明日香は教師の「検品」に引っ掛かる。「催し物」開催時の髪型検査は、クラス担任以外の教師が「検品」をすることになっているから余計だ。誰かをあぶり出すことが、それが本当に校則違反だろうがなかろうが、疑わしきものを一人でも検挙することが、教師の成績にでもなるのかのように、いつも、お前は染めているんじゃないのか、パーマをかけているんじゃないのか、ゆるくかけていればバレないと思っているのか、などと、聞かれるというよりは、テレビの刑事ドラマの尋問シーンのように詰られ、その度に生まれつきだということを返さなくてはいけなかった。

 そんな校風だったから、明日香が事件を起こすのは当然の理だったかもしれない。

 それは秋になって、ようやく涼しく過ごしやすい日が続くようになった頃だ。体育の授業は、男子と女子別々に、それぞれ隣のクラスの男子・女子と一緒に受けることになるのだが、その事件の日、明日香のクラスの女子は、隣のクラスの女子と一緒に、体育館でバスケットボールの授業だった。この二クラスの体育を担当している担当教員が出張だか研修だか何かで、学年主任が代わりに受け持つということが事前に告知されていて、クラスメイトみんなで嫌だ嫌だと授業の前から言い合っていた。

 この学年主任は男性教師で、大学時代ラグビーの選手だったとかで、ごつい体格をしているだけではなく、忿怒を常に現した仏像のように、睨みつける生徒たちに恐怖を植え付ける冷徹な目、日本人離れした彫りの深い顔つき、ラグビーで大声を出し過ぎたせいなのか、その低くしゃがれた声も生徒の恐怖を煽る。生活指導も学年主任が担うから、常に生徒のちょっとした怠惰や、浮かれた逸脱を見つけては、怒鳴り、鉄拳制裁を食らわす。教職という「聖職」とされている職業についているから、彼の存在は底上げされてしまって、その存在は生徒たちにとって単純な恐怖というより、まるで「怒れる神」のような畏怖の対象となっていた。

 おかしなことだが、男女平等とか言われているけれど、怒れる男性教師は「神」のごとき畏怖の対象となるのに、怒れる女性教師は年増のヒステリーだと揶揄されるのは、明日香には納得がいかなかった。学年集会などで、その学年主任が怒り出すと、他の教師たちも黙り込んでしまうくらいで、何か粗相のあった生徒は、一学年全生徒の衆目が集まる位置へ呼び出され、学年の全生徒、教師全員の前で何発も殴られるままにされ、痛みに悲鳴をあげても、女子生徒が恐怖で土下座を試みても、他の教師が止めに入ってくれないから、学年主任の気が済むまで、殴られっ放しになる生徒もいた。そんなことがあると、学年主任の爆発が終わった後のクラスは、まるで何事もなかったかのように、大人しく振る舞い、別の話題を務めて話したりするが、女性教師に怒られた時は、その女性教師が教室からいなくなれば、悪口のオンパレードだ。

 明日香は、ごく真面目な、普通の生徒だったから、この恐怖が、台風のようにただ過ぎ去るのを待てばいいものだとしか思っていなかった。平穏な日は、ただただ嵐が発生しないことを祈りつつ。

 その教師が明日香たちの体育の授業を、教科担任教師の代わりで受け持った日、準備運動が終わり、二人一組になって、片方のゴールポストの下から、ドリブル、パスを繰り返して、反対側のゴールへとどちらかがボールを入れて、入ったにしろ入らないにしろ、ボールを拾って、体育館の壁沿いを戻り、スタートした側のゴールの後ろの列に並ぶ、という反復練習をやらされていた時のことだ。

 「おい!」

 ドスの効いた、怒鳴り声がした。よく考えると学校では聞くはずもないような声なのだが、明日香も、他の生徒たちも、この脅迫めいた怒鳴り声を聞くのが学校だという固定観念が出来上がっていた。もちろんそれは、その学年主任の教師が発したものだ。誰に対して怒鳴っているのかわからないから、誰もその練習を止めなかった。上履きのラバーソウルが体育館の床を擦る音と、バスケットボールの革が体育館の床を擦る音だけが、ギャラリーの通路よりもはるかに高い天井に、ただ響くようになった。ちょっとしたおしゃべりや笑い声、掛け声は消えていた。再度、その教師は、「おい!」と怒鳴ったが、誰も止まらず、誰も返事をしなかった。ひょっとしたら、女子生徒全員が、おしゃべりをしながら楽しそうにドリブルパスからのシュート練習をしていたのが気に入らず、全員に怒りを向けている可能性もある。授業に集中していない、というわけだ。

 「おい、お前ら、止めろ。」

 明日香は暴力団やヤクザの人には会ったことはないけれど、テレビで見るアクション刑事ドラマに出てくる暴力団の人のようだと思った。しかし、テレビの刑事ドラマで見るヤクザの人は細身の人が多い。彼は違う。明らかに発達した筋肉で大きく見せる体格。力では誰にも負けない、この中学校という金網に囲まれた聖域の中では、最強を誇る人間。それに加えて憤怒の仏像が動き出したような畏怖も伴うのだから、ただただ、生徒たちは固まってしまうしかない。明日香はその時、組んだ相手と一緒に、ドリブルパスをしていたので、ちょうどセンターサークルを過ぎたあたりでボールを受け取ったところだった。明日香はまた、嵐が過ぎ去るのを待てば良いのだろうと、嫌々ながらも、この時間さえ耐え抜けばいいのだと、祈るように強く思うしかなかった。

 しかし、学年主任は、明日香を睨んでいた。