section 1-3

2024-09-03

section 1 「茶髪と癖毛」

 三

 結局、謝罪することになったのは、明日香だった。翌日、体のあちこちがまだ少し痛むものの、足を引きずって歩く必要もなくなっていたので、普通に登校すると、朝会の後、明日香のクラス担任の教師に廊下へ呼び出された。昨日のことは聞いている、学年主任は明日香が悪態をつくように口答えしたことに怒っている、そのことを体育教官室へ行って謝ってこいとのことだった。まるで明日香の生まれつきの髪の毛の色について酷い扱いを受けたことには問題がなかったかのように。

 明日香は、この中学へ入学して以来、いや、幼少の頃から、小学生の頃から、そんな扱いには慣れっこになっていたから、まるで本当に自分が悪かったかのように、担任にも迷惑をかけたと、頭を下げて謝った。ほんとうはそんな風に思ってもいないくせに。担任は、明日香の生まれつきの髪の毛の色に疑いを持たれたことには同情しつつも、目上の人間に、しかも教師に、しかるべき口のききかたをしなかったのは良くない、と明日香を諭した。明日香は聞き分けの良い子を演じ、「はい」と「すみません」だけを繰り返した。明日香はそんなことよりも、明日香が担任に呼び出された時、クラスの誰もが、何事もなかった、見なかったふりをしているかのように、まるで教室の中が演劇部の舞台にでもなったかのように、明日香が通り過ぎる席席の子たちが次々と、台詞を思い出したかのように演技に入っていく、みんなが一色の色に染まっていくかのように見えたことが気になった。何か宇宙の不思議でも実際に見たかのような、小学生の頃、あの日食というものが起きると本当に世界が暗くなるという不思議な現象を実体験した時のような、そんな奇妙な気持ちがした。それは、明日香が髪の毛を鷲掴みにされ、変な悲鳴を上げた時、他の子たちがみんな、いっせいに反射のようにどっと笑い声を上げた時の感覚と同じだ。

 一時限目と二時限目の間の休憩時間に、明日香は一人で体育館の端に造られた形になっている、体育教官室へ行った。昨日は目上の人にきくような口のききかたをしなかったことを、申し訳ありませんと、テレビの刑事ドラマで何かしくじった部下が上司にするようなやり方で、昨日の格闘戦で全く力が敵わなかったどころか、抵抗すら出来なかった、学年主任に頭を深くさげた。

 「わかった。次から気をつけろ。」

 学年主任は、吸っていた煙草を口から離すと、灰皿に灰を落とし、ゆっくりと煙を吐き出してから、椅子の向きを変え、その嗜む紫煙のせいで余計にしゃがれ、濁った、威圧感のある太い声で言った。明日香は立っていて、学年主任は座っているから、女子の中でも背の高い方ではない明日香でも少し見下ろすような形のはずなのだが、学年主任は首を少し上げ、まるで明日香を見下ろすような目つきだ。その目つきは堅気の人間とは思えないような凄みで、明日香は昨日のこともあって、恐怖で震えそうになるが、子供の頃から、女のくせにとか、女だからとか、男の子と喧嘩して負ける度に言われた悔しさが、ここでも湧き上がってきて、堪えた。

 「お前の髪の毛の色のことは、末原先生から聞いた。…黒く染める気はないのか。」

 威圧的な声、今にもその大きな手が明日香の頬にすっ飛んで来そうな空気は変わらないが、それは命令ではなく、質問のように聞こえた。末原とは明日香のクラス担任の名で、彼も体育教師だからこの体育教官室にいるが、煙草をくわえながら机に向かって何か書き物をしていて、明日香と学年主任のやりとりには無関心に見える。

 「はい。両親からもらった大切な髪の毛です。染めるつもりはありません。」

 明日香は自分が涙声になってしまうのが、とても悔しく、そのことで泣いてしまいそうだった。目には涙がいっぱい溜まっていく。しかし、ここは譲るわけにはいかなかった。たとえまた、張り倒され、殴られたとしても。

 「…わかった。…そうだな、お前に髪を黒く染めろ、ということになるなら、天然パーマのやつは全員ストレートパーマかけて来い、ってことになるからな。」

 「海老島先生、大沢は癖っ毛でその色ですから、そしたら大沢、髪染めとパーマでものすごい不良少女になりますよ。」

 くわえ煙草のまま、明日香のクラス担任の末原が、彼の机の上に積まれた書類やら書籍やらの山の上から顔を出し言った。末原の方が学年主任の海老島より若いのだが、気軽な声の掛け方に明日香には感じられた。そんな声の掛け方生徒がしようものなら、海老島の大きな手の張り手が、威圧的な濁った太い声と一緒に飛んでくるはずだ。教師同士の世界と、生徒たちの世界の間には、とてつもない大きな壁があるのだと、明日香はふと思った。それは、その末原の軽口の後、体育教官室にいた体育教師の間で笑いが起きたことでも、余計にそう感じた。その笑いは、昨日明日香の変な悲鳴の後起こった、反射のような、鳥の群れが一斉に人間から逃げるようなものではなく、本当に仲間内で、ちょっとした冗談が全員の価値観と一致して可笑しく、お互いが同じ方向を向いていることを確認するために発信した信号のようなものだ。

 別世界に一人だけ入り込んでしまった。そんな不思議な感覚さえ明日香にはあった。そう言えば、父が仕事関係の人を家に招き、父たちの会話を耳にした時、いつも普段自分が接する父とは全く別世界にいる人間に思えたことを思い出した。この人たちは、脅かすように生徒たちを指導をしているくせに、こんな風に面白がっているのだ。明日香は素直に怒りが顔に出ないよう気をつけた。

 「あー。まあ、そうだなあ。そうなるよなあ。」

 海老島はその太い腕の先に伸びる大きな手を明日香の頭へ伸ばし、明日香の髪の毛を少し摘んでから、末原の方を振り返り、そう言って笑った。笑い声すら、野太く濁っているから、生徒の立場からは恐ろしいものにしか感じない。しかし、明日香は海老島が手を伸ばしてきた時、昨日その手に髪の毛を鷲掴みにされ、放り投げられただけではなく、叩き飛ばされた挙句往復ビンタを食らったばかりだと言うのに、警戒心も、驚きすらもなく、ただ自分の髪を摘ませていた。

 「わかった。次から気をつけろ。」

 そう明日香を睨みつけながら、脅かすような濁った太い声で言うが、明日香の腕を、その太い腕の大きい手で、宥めるかのようにやさしく二度ほど叩いた。その手には温かみすらあって、明日香は本当に自分が悪かったのだと思いそうになる自分に腹が立った。

 明日香が体育館から校舎へ繋がる外廊下へ出ると、外廊下の真ん中あたりに、ボーイッシュなショートカットの女の子が、人待ち顔で外廊下の屋根を支える柱の一つに背中を預けていた。明日香の顔を見ると、明日香の名前を呼んで、すっ飛んできた。お互いに「親友」と呼び合う、澤井潤子だ。

 昨日、姉と医者から帰宅すると、近所の人の連絡で仕事を早退した、母、父、と帰ってきて、明日香の変わり果てた姿に、親だから当たり前と言えばそうなのかもしれないが、ひどく憤慨し、学校へ電話するだ、これから学校へ文句を言いに行くだ、警察に言うだ、と大変だったが、明日香はやめてほしい、と声を大きくして言った。明日香の父と母は、可愛い娘をこんな目に合わせられて、親として黙っているわけにはいかない、その学年主任に直接文句を言ってやるだとか言って、怒りまくっていた。明日香にしてみれば、これは自分と学校の教師との問題なので、親に間に入って欲しくなかった。もし親が入ってくれば、どこかで親に言いつけた、とか、女だから親を頼った、とか、陰で言われるのだ。それが一番明日香には我慢ならないことだった。

 もう一つの心配もあった。明日香の父は若い頃、当時「カミナリ族」と言われた暴走族出身で、東京の下町で喧嘩ばかりしていて、喧嘩がとても強いことは、叔父や叔母、父の旧友などから聞かされていたし、喧嘩の強さは、力が強いとか、武道の有段者だとか、そんなことはあまり関係なくて、経験の多さがそのまま強さに繋がることを、明日香も子供の頃から男の子と喧嘩ばかりしていたから、よく知っていた。学年主任と父とで喧嘩になってしまうと、いくら相手が元ラグビー選手で、少年漫画の拳法家のような体格に見合った強大な腕力を持っていようとも、父が経験の差で勝ってしまう可能性もあり、それはそれで、また女だから親に頼った、と言うことになってしまい、明日香としては、譲れないところだった。だいたい父は大人だから、そんな子供の教師と暴力沙汰を起こしたら、父はきっと警察に逮捕されてしまう。

 「明日香が自分でやる、と決めたんだから、任せようよ。もし、明日以降、問題が大きくなるようだったら、警察行くなり、学校行くなりしようよ。その時はあたしも行くよ。だから、ちょっと明日香に任せてみよう?」

 姉の今日佳が、そう言って父母を説得してくれた。姉は頭の回転がともて良いので、論理的に父母を説得してくれた。父母が渋々納得し始めたところで、家のインターホンが鳴った。母が出てみると、潤子だった。

 澤井潤子。明日香のクラスメイトの一人だ。明日香が自分の姓名の大沢と、旧字体と新字体の違いはあったが、同じ漢字が姓名に含まれることが話すきっかけになって、馬が合ったと言うか、大人しく物静かな潤子と、活発で大きな声で笑う明日香と、正反対な性格だったことが、逆にジグゾーパズルの凹凸の部分がかっちりとはまるような、気持ちの良さを二人で感じ合ったこともあったのだろう、ちょうどそんな言葉を使う相手を探したい年頃でもあったし、お互いに「親友」と呼び合う仲になるのはあっという間で、夏休みには、明日香の家族旅行に潤子を連れて、潤子の家族旅行には明日香が連れて行ってもらってと、家族公認の大親友になった。

 明日香がこんな状態なので、母はどうするかと、つまり帰ってもらう、門前払いにしてしまうか、と聞いてきたが、明日香は潤子だと聞くと立ち上がり、足が痛いのに駆け出して、玄関の自分のビーチサンダルをつっかけると、玄関を開けた。