section 1-4

section 1 「茶髪と癖毛」
四
「あ、明日香…。」
潤子は明日香の顔を見るなり、辛そうな、すまなそうな、何か明日香と口もきかないくらいの喧嘩をして、それを謝りに来たかのような、泣きそうなと言っていいくらいの顔をしていた。明日香は自分の頭や顔、軽く捻挫した足や、体育館の磨かれた床へ放り投げられた時に打った体のあちこちが痛いのを忘れた。
「どーしたの?潤子?」
明日香は何か潤子に悪いことでもしてしまったのかと、全く早合点に心配して、びっくりしたような声を上げた。つっかけたビーチサンダルで、門のところまで歩いて潤子を出迎えに向かった時、やっと足が痛かったことを思い出して、足を引きずりながら、鉄製の門に掴まり、門の掛け金を外した。
「ごめんね、明日香…。あたし、何もできなくて…。止めに入るべきだったのに…。あたし…。」
そこまで言うと潤子の大きな瞳から涙が流れ出し、すっかり涙声になってしまい、ただ、ごめんね、を繰り返すだけになってしまった。明日香はようやく潤子が何を気にしているのかを悟った。
「なぁんだ、そんなこと。ぜんぜん気にしないで。返って潤子止めに入らなくて良かったよ。そうしたら絶対あいつもっと怒り出してさあ、潤子までぶっ飛ばされたかもしれないもん。そしたらもうあたし多分堪忍袋の緒が切れちゃってさあ、噛みつきにかかっていたかもしれないし。」
明日香はそう言って笑うと、ちょうど同じ身長くらいの潤子を抱きしめた。潤子は明日香の肩で嗚咽を始めて、ごめんね、ほんとうにごめんね、と繰り返していた。明日香は潤子の背中を優しく叩いてやることしか出来なかった。そして全く無関係なことを思い出していた。
あの時、学年主任に髪の毛を掴まれて、振り回され放り投げられ、口答えしたら張り手が飛んできて。そんな中、もしかしたら潤子なら止めに入ってこようとするかもしれない、そんなことはやらないでくれ、潤子まで痛い目に会うのなら、この教師を許すことなど出来なくなる。自分と彼との圧倒的な力量差について頭を巡らすことなく、そう一瞬考えたのも事実で、明日香は心の底から、潤子が止めに入ってくれなかったことに安堵していた。しかし、それと同時に、自分を除く、潤子を含む全員が、自分たちはこの見せしめの罰を受けている人間とは別の人種なのだとでもいう、何か一体感のようなもの、全員の輪というのか、結束というのか、そういったものが形作られて行く、まるで何か気泡状のものが、形を作り、全員を包み込んでいくという幻でも見たような、そんな知覚を、あの太い腕の先に付いた大きな手の張り手を食らう前に感じて、一瞬注意が逸れてしまった。あれは一体何だったのだろう。しかしそれは、何か目の前の恐怖から逃れようと、明日香が現実逃避しただけなのかもしれない。
潤子を抱きしめたまま、嗚咽の収まらない潤子の背中をぽんぽんと優しく叩いたり、短いショートカットの頭を撫でたりしながら、そんなことを明日香が考えていたところ、母、姉が出てきて、潤子ちゃんどうしたの、とか、とりあえず上がりなよ、とか言っている。近所の人に何事かと、おそらくは各家庭のレースのカーテン越しに覗かれているだろうから、それを心配したのかもしれない。明日香も潤子が嗚咽してしまっているのを、近所の人の好奇の目に晒しておくのは嫌だった。
居間へ入る頃には、潤子も少し落ち着いて、居間のソファに腰掛け、考えごとをしているような父を見つけて、まだ涙声だったけれど、挨拶が出来るまでにはなった。父は最初潤子までが酷い目にあったのかと思ったらしいが、ただ明日香のことが心配で学校が終わると飛んで来てくれて、明日香の無事を確認すると泣き出したことを聞いて、安堵していた。潤子は、明日香が酷いことをされているのに、止めに入ることが出来なかったことを謝りたいし、出来なかった自分が悔しいことを話し出すと、一見しただけで、この子は優しい子なんだろうなと思わせる大きな瞳から涙が溢れ始めてしまう。父は、そんなことは気にしなくて良い、むしろそんなに明日香を気遣ってくれることは親として嬉しいし、とてもありがたい、でもそういう時、つまり力で明らかに上回る男と、明日香が喧嘩、父は「喧嘩」と表現した、しているようなところへ割って入ってはいけない、返って潤子ちゃんが危ない目にあってしまうし、最後にはうちの娘たちは頑丈なので、そんな簡単に大怪我にならないから大丈夫、と冗談まで言っていた。冗談を言えるくらいには父も落ち着いたらしかった。「娘たち」と父は言ったものだから、明日香と今日佳は二人で、父に、なんですって、と冗談で詰め寄るくらいには落ち着いていた。そんな親子のやりとりを見て、ようやく潤子は笑顔を取り戻した。
結局その日は、潤子は明日香の家で夕食を取り、今日佳が夜、車で潤子を家まで送っていった。帰る直前になって、潤子は、大変、大事なことを忘れるところだったと言うと、体育館で全部外れてしまった明日香の髪留めを拾っておいてくれて、それを渡してくれた。明日香は喜んでお礼を言ったけれど、思い出すの遅いよ、と潤子をからかう余裕が出来ていて、二人で笑い合った。
「明日香!」
体育館から出て来た明日香を見て潤子は、明日香の方へ駆け寄って来た。
「なんかね、納得いかない気もするけど、口のききかたがなってませんでした、って謝ったらとりあえず丸く収まったみたいだよ。まあ、もうめんどくさいから、いいや、これで。」
そう言うと明日香は声を上げて笑った。潤子は納得いかないような、心配をしているような、どっちつかずの顔をして明日香を見つめていた。
「いろいろ心配かけてごめんね。でも、潤子が気にしてくれててすごく嬉しかった。ありがとう。」
明日香は素直な気持ちを潤子に言った。明日香は他人に素直に自分を表現することをあまり躊躇しない性格だったから、潤子は時々照れ臭くなってしまって、どうごまかしたものかと混乱してくると、とりあえず明日香の手を握ることにしていた。
「いいえ、どういたしまして。当然だよ、親友だもん。」
潤子は自分がしていた心配や、学年主任や学校側の態度に感じていた義憤のようなものは、明日香の笑顔が打ち負かしてくれたような気がした。二人は一旦繋いだ手を離すと、腕を組んでからまた手を繋ぎ直して、ちょっと早足で自分たちの教室へ戻った。