final section-4

2024-07-20

final section 「ジェイルブレイク」

 四(最終話)

 卒業式で式事が進んでいくと、良い思い出や、悪い思い出が思い出され、感極まるのだろう、あちこちですすり泣く声が聞こえる。そうでなければ、この鉄の校門と金網で閉ざされた「収容所」のような空間では、無責任でも、無鉄砲でも、残酷でも良かったが、これからはそうはいかないという、逆説的にこの生活指導の厳しかった三年間が「自由」だったと気づき、その「自由」から「卒業」しなくてはいけないことへの悲しみや、寂寥、絶望に似た思いからの涙なのか。

 明日香はちっとも悲しくなかった。むしろ式事が進むにつれ、さあ、いよいよあの鉄の校門を出たら、二度と振り返らなくて良くなるのだと、興奮した喜びのようなものが抑えきれないくらいだった。

 式が終わり、教室へ一旦戻って、卒業証書を入れる丸筒をもらったり、卒業アルバムや卒業文集をもらったり。明日香が小学校の頃から流行ったテレビドラマから広まって、「贈る言葉」と世間で言われる担任からの最後の挨拶を、二年間このクラスを担任した城田からもらったり。城田は最後は泣いてしまっていたが、明日香は泣くことなんか別にないだろう、と天邪鬼に思ったけれど、教師は教師なりに苦労も多かったはずだ。それにこのクラスでは色々事件があった。ほんとうにいろんなことがあった二年間でした、と城田は言っていたが、具体的にそれらが何かについては一つも触れなかった。もちろん、既にこのクラスの生徒でも、この学校の生徒でもなくなっている後藤については、何にも触れられなかった。

 よく考えれば、明日香もいろんなことで城田に迷惑をかけたし、世話にもなったので、教室を出る前に、潤子と二人で二年間のお礼と別れの挨拶に行った。

 「大沢さんは、ほんとうによく頑張ったよね、勉強もそうだけど、いろんなことで。私、大沢さんと澤井さんには、ほんと、いっぱい助けてもらった気がする。ありがとう。」

 明日香はそんなことを言われるのは意外だった。どちらかと言えば、色々面倒かけてしまったな、という印象しかない。何のこと?とすら言いそうになった。しかし潤子は城田の意図を察したらしく、全部明日香のおかげですよ、あたしはいつも明日香のそばにいただけです、と「天使」の笑顔で言っていた。

 昇降口の前には大きな銀杏の木があって、その周りは教師の車の駐車場を含めて広場のようになっている。卒業式に参列した卒業生の家族でカメラを持ってきている人は、自分の子供や友達の親子の写真を撮ったり、撮ってもらったりしている。別れを惜しむクラスメイトたちや、元クラスメイトたちが談笑している姿も多い。在校生もぱらぱらと出てきて、先輩たちと別れを惜しんだり、懇意の先輩に何かプレゼントを渡したり、恋心を抱いていた先輩から何か記念になるものをもらったり。そんな光景もあちこちで見られる。その広場から正門、裏門、どちらへ伸びる道にも桜並木があって、木によっては膨らんだ蕾をいっぱいつけているものもあるから、その木の下で写真を撮るのも人気があった。

 明日香の両親と潤子の両親はお互いを良く知っていたが、桐谷、茅ヶ崎の両親とは、授業参観でどちらか片方ずつが顔を合わせたくらいで、それほど面識がないから、改めて初めましてとか、うちの子が本当にお世話になりましたとか、挨拶をし合っている。

 「ひろ、今日大変だね。」

 明日香はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

 「なんで?」

 茅ヶ崎は純真な瞳をして聞いてきた。

 「今日保護者の人いっぱいいて。」

 明日香は笑ってしまいながら言った。

 「あすかぁー!」

 茅ヶ崎はそう声を上げると、子供のように明日香を追いかけ回すから、明日香も子供のように逃げ回る。二人とも笑ってしまってあまり本気で走れない。

 「おらー、そこの子供二人ー、卒業式くらい大人しくしろー。」

 そう桐谷が呆れ気味に二人を注意するから、ほんとにひろにはお父さんお母さん以外にもう一人保護者がいるね、と潤子が可笑しそうに言うと、四人の家族はみんな笑っていた。

 「…あの、すみません。」

 四家族が集まっているところへ、一組の母娘がやってきた。多岐川とその母親だった。多岐川の母親が、本当にうちの娘がお世話になった、うちの娘が笑うようになったのは、明日香、潤子、桐谷、茅ヶ崎のおかげだと、涙まで流していた。明日香たちの親は、いえいえ、そんなことないですよ、とか言って、謙遜しているのか、多岐川の母親を励ましているのか、よくわからない状態だ。

 「みんな…。本当にありがとう…。」

 多岐川は明日香たちに、まだあまりこなれていない笑顔で言った。こなれていない笑顔だけれど、綺麗な目鼻立ちのライン、そして三白眼の大きな瞳。きっと素敵な女性になるだろうな。そう明日香は確信していた。明日香がその左頬から左首にかけての大きな痣黒子を全く気にしなくなったように、これからはあんな「菌」扱いされるようなことは二度とないであってほしい。明日香は祈ることしかできなかった。

 もともと英語だけは成績の良かった茅ヶ崎は、語学の勉強をしたいということで、外国語の教育に力を入れている私立高校に入学することになっていた。実は多岐川もこの高校に入学することになっていて、二人でまた高校も一緒だね、と話したり、既に入学前に英文の読書の課題が出ているらしく、二人でその進捗を話したりしている。あの、全く感情というものを顔に出さない、あるいは出し方を知らない、忘れてしまった、もしくは出すことを止めてしまった、無感情と言っていいくらい無表情だった多岐川はどこかへ行ってしまったようだ。まるで二年になった時から、同じクラスになってからずっと、茅ヶ崎と友人であるかのようにすら見える。笑顔は少しこなれていないけれど、そんなことはどうでも良かった。ひょっとすると、明日香のように、多岐川もこの卒業という名の「出獄」を興奮とともに迎え、鉄の校門を今日跨いだら、二度とここへ戻らなくて良いのだということに、無上の喜びを感じているのかもしれない。

 桐谷は学区内に限らず、明日香たちが居住する都道府県内で最高偏差値の公立高校として有名な高校へ合格していた。だから、桐谷だけが一人別の道へ進むようなかたちになってしまった。ただ、桐谷と茅ヶ崎は家が隣同士の幼馴染で、隣接する家のちょうど向かい合わせになる二階の部屋が、桐谷と茅ヶ崎の部屋だという。それを仲が良くなった最初の頃聞いた時、明日香と潤子は、ありがちな幼馴染同士の恋物語を描いた漫画の舞台設定みたいだと驚いたものだ。

 「そんなんだから、嫌でも毎朝毎晩顔合わせんのよ。」

 そう面倒臭そうに桐谷が言うから、茅ヶ崎が久しぶりに子供っぽく怒っていた。それでも雨戸やカーテンを開けなければお互いの顔は見えないのだから、桐谷の本心は察するまでもなかった。

 「みんなで写真撮ったら?」

 スーツ姿の明日香の姉、今日佳はカメラを持ってきてくれていて、さっきから四家族や四人の写真を撮ってくれていたので、そう明日香たちに声をかけて、五人を一箇所に固まらせた。後日プリントされた写真を見たら、みんな良い笑顔だった。小さなピースサインを作り、やはりまだ少し硬いのだけれども、多岐川の笑顔はとても素敵だった。これからはこういう笑顔をいつも出来ると良いなと、明日香は心から思った。そしてその控えめなピースサインには、これからの彼女の人生を自ら切り開いていくような力強さがあるように、明日香には感じられた。

 結局、歩きながら潤子と話し込んでいて、校門のレールの上を跨いだ時には何の感慨も抱かなかった。けれど校門を出てしばらくしてから、まだ校舎が見えるうちに明日香は立ち止まり、学校を振り返った。明日香は聳える校舎を見上げた。これは「出獄」なのだろうか、「脱獄」なのだろうか。明日香ふとそんなことを考えた。「卒業」なのだから「出獄」のはずだ。明日香は校舎を見つめながら髪留めを全部外して、普段の自然な髪型に戻した。

 「明日香、明日香が今日してたその髪留め、全部欲しいー。ちょーだい。」

 潤子が手のひらを出しながら、おねだりをするように言った。

 「へ?なんでこんなもの?」

 そう言いながらも、明日香は片手にまとめていた髪留めを、潤子が差し出した手にぱらぱらと渡した。

 「ほらあ、二年生とか一年生の女の子がさあ、小林とか川端の制服のボタン欲しがったじゃない、先輩!、とか言って。あれとおんなじ!」

 潤子は惚気るように言うが、笑ってしまっている。

 「なにそれ!」

 そう明日香が言って、二人で大笑いしてしまった。二人の親たちと話していた今日佳が振り返って、楽しそうだね、二人とも、とどこか嬉しそうに笑っていた。

 潤子と話が盛り上がってしまったこともあり、帰路を進めば進むほど見えなくなる中学校の校舎には名残のようなものすら湧かなかった。それに、これからも買い物に商店街へ来れば、校舎はどうやっても目に入ってしまうのである。二度と戻らなくては良いが、二度と見なくて良い、という訳にはいかないのだ。

 夜、明日香は一人で卒業アルバムをめくった。どこかに一枚くらい写っていないかと探した後藤の姿はどこにもなかった。意図的に写っていないものばかりにしたのだろう。まるであの事件はなかったかのように。もっとも、小林にとっては思い出したくもないだろうから、彼の立場からすれば、そうなんだろうけれど。

 しかしあの、まだ男子の誰もが、そんな「当たり前」のことを考えつかなかった、いや、考えついていたけれど言えなかった、「別に菌じゃないし」を言えた、そのことすらなかったことにされる気がした。明日香の下の学年、あるいはそのさらに下の学年でも、「菌」として扱われる子が出てきて、その子を「菌」扱いすることで、あの不思議な気泡のような何かが、クラス全体を包んでいき、そのことでクラスがまとまり、一体感を持ち始め、その子たちにとっては、友達だったり、仲間だったりが出来る。そんな風にこれからもずっと、彼彼女たちの中学校生活の下地を作り上げて行くのだろうか。その下地作りのために、人柱か生贄のように扱われる子を気に留めることもなく。その子の立場に立って、ものごとを反対側から考えるということを思いつくこともなく。成長し、大人になって、もしその行為を詰られることがあれば、あれは「悪気はなかった」んだ。ただそう振り返るだけで。そう考えると、あの時点でそれに気がつけた明日香のクラスの男子たちは幸いだったのかもしれない。

 そうだとすれば、あの潤子が「天使」だった日以降、多岐川を供物とした「菌移し」の代替策として始まった、後藤の机をタッチして「人殺し菌」という「菌」をもらい、「菌移し」に興じていたことも「悪気はなかった」のか?明日香は、やはりこの卒業は「出獄」ではなく、「脱獄」であるような気がした。そこで解決すべき問題だったのだが、どうやったところで解決できない問題だから、ただそれから目を逸らすしかなくなって、逃げ切ることに成功しただけなのだ。明日香が卒業式の式事が進むに従って感じていた興奮は、この逃亡劇をあと少しで成し遂げることが出来るという、空恐ろしいものでしかなかったのかもしれない。

 自分の初恋の人が、教室で刺傷事件を起こして少年鑑別所に入ってしまい、最初で最後になってしまった、彼にかけた言葉が「凶器使うなんて卑怯な真似するんじゃねえよ」だったということは、その時代から離れれば離れるほど、笑い話になっていった。そしてあの「菌移し」をやっていた男子たちがその残酷さに気がつくことなく、楽しそうにやっていたように、明日香は自分の初恋を楽しそうに話すようになっていった。