final section-3

final section 「ジェイルブレイク」
三
潤子のサイン帳のカードに何を書いたらいいか、結局卒業式前日の夜も明日香はまだ悩んでいた。自分の部屋の机の上に白紙のカードを置いて向き合ってみる。たくさん書きたいことがある。たくさん言いたいことがある。潤子がいなければ、本当に明日香はこの三年間乗り切れなかっただろう。ほんとうに嫌なことが多い中学校生活だったし、良い思い出なんか一つもないんじゃないかと、つい思ってしまうことすらあるくらいだ。けれど、潤子がいつも、どんな時もそばにいてくれて、そして危ない時は、そのほんとうに「天使」のようなしなやかな心配りで、緊張した場を緩めてしまう。そんな不思議な力が潤子にはあって、それに何度も、何十回も救われた。いつも明日香を気にかけてくれていて、明日香がどんな嫌な話や答えに困るような話をしても、決してはぐらかすことなく、その度に一生懸命話を聞いてくれて、何かしらの回答を必ず返してくれる。きっと、こんな友達にはもう一生出会えないだろう。潤子が潤子の両親から言われているのと同じように、明日香も自分の父と母から、潤子ちゃんはきっと生涯出会えるか出会えないかの友達のはずだから大事にしなさい、と言われていた。それは姉の今日佳からも言われていたし、今日佳も潤子をもう一人の妹のように大事に思ってくれていた。
ありがとう。そう何十回、何百回書けば足りるだろう。いくら書いたって足りやしない。思い出だっていっぱいある。夏休みにはお互いの家族旅行に毎年一緒に行ったこと。姉の今日佳が二人をあちこちに連れて行ってくれたこと。様々な学校行事や校外学習、一年の時の林間学校、二年の時の修学旅行。
二年の時の修学旅行は、明日香たちの班に多岐川をいれて、多岐川とも下の名前で呼び合うようになり、結構喋れたこと。修学旅行以降、仲良し四人組がたむろしているところへ時々多岐川が来てくれるようになったこと。その仲良し四人組と多岐川との接近は、潤子が起点となっていたことは否定しようがない。
何度も何度もお互いの家に泊まりっこしたこと。二人で夜通しいっぱい喋ったこと。明日香のピアノで潤子が歌う遊びもいっぱいした。毎年の誕生日、夏祭り、プールや海、クリスマス、初詣。とてもこの小さなかカード両面使ったって書ききれない。
どうしたらいいんだろう。明日香は泣きたいくらい悩んでしまった。明日香と潤子は同じ高校へ進学することが決まっているし、そうでなくたって卒業式の翌日は、二人で明日香の家で卒業アルバムや卒業文集、潤子が収集したサイン帳を一緒に見ようと約束もしている。その次の日は、卒業祝いだ、と言って、大学は春休み中の今日佳が二人をドライブへ連れて行ってくれる。中学校を卒業したら二度と会えないわけではない。ふざけてしまえば、潤子が笑って言うように、高校入る前までに書き終わってね、となってしまう。けれど明日香は、あまりにも明日香自身が当事者となる事件が多かった中学校生活を、親友として、大親友として支えてくれた、中学生の潤子にきちんと渡すべきだと思った。鉄の校門と、金網に囲まれた、閉じた世界だからこそ、「誰にも見られないから」と、子供らしい残酷さや、嫉妬や妬み、憤慨が、素直に発散される世界。そこから「脱出」出来ることは、考えるだけで興奮してしまうくらい嬉しい。しかし、あの伝説の詩人二人が手を取り合って煉獄を辿るのにも似た三年間は、潤子と出会い、潤子と過ごした大切な三年間でもある。
明日香は机に腕を組んで突っ伏した。
「…潤子、大好き、愛してる。」
そうなんとなく呟いた。そうだ、これだ。これしかない。明日香は顔を上げた。やっと書くことが決まった。
卒業式の日は、全く今までの中学校生活で味わったことのない、不思議な感覚がした。いつも通りに登校し、いつも通りの席に着く。ただ、もう私物は履いている上履きを除けば何もない。すでに昨日までに全部持ち帰っていた。学生カバンの中も一つのとても大事なものを除いて大したものは入っていないから軽い。そして明日からはもうここへ来なくて良いのだということが、いまひとつ実感として湧かなかった。
朝会でコサージュが生徒たちに配られ、それぞれ胸につけるようにとのことだった。もうジャージに着替える必要もない。今日は最初から最後まで男子は詰襟の学生服、女子はセーラー服だ。そしてそのままこの鉄の校門と金網に囲まれ、閉ざされた「収容所」から出て行くのだ。「出獄」と言ったって良い。卒業後、担任の教師に会いにだとか、部活に入っていた子たちは後輩の様子を見にだとか、卒業生によっては「遊びに」くることがあるようだが、明日香は二度と戻らないと決めていた。
「上手くつけられない人は誰かにつけてもらってねー。」
黒いフォーマルアンサンブル姿の城田がそう言った。上手くつけられようが、つけられまいが、明日香は潤子につけて欲しかった。潤子、と呼ぼうと思ったら、向こうから小走りにやってきた。
「明日香、つけっこしよー!」
潤子はなんだか嬉しそうだ。潤子は今日はおでこを全部出してきちんとした装いのようだ。明日香はいつものように、癖毛を跳ねさせたままで、校則に引っかからない程度に髪留めであちこち止めているだけだ。いつもは家に着くまでしているこの髪留めは、今日校門を出たら、すぐに全部外すつもりでいた。
明日香と潤子がコサージュをお互いに付けあっている隣で、桐谷と茅ヶ崎もお互いに付け合っている。結局この二年間、明日香と潤子は席が近くなることはなかった。二年生の夏休み明けは、後藤の席をどうするかについて、生徒はもちろん、教師ですら触れたがらなかったこともあり、明日香のクラスは席替えが行われなかった。生徒から苦情もなかったのは、もし席替えで、後藤が座っていた席になったら、ということへの忌避感、嫌悪感を持つ生徒が多かったからだろう。三年生の二学期の頭が最後の席替えだったが、明日香は真ん中よりちょっと廊下側の列の、また一番後ろになった。と思ったら、一人男子を挟んだ前が桐谷、隣が川端、川端の一つ前の席が佐々田と、このクラスの最初の席とほぼ変わらない班になった。すっかり下の名前で呼び合うようになった佐々田も含めて四人で二年の最初に戻ったみたい、と笑ってしまったものだった。
明日香と潤子よりも背が高くなった茅ヶ崎だから、もう桐谷が茅ヶ崎の保護者、という感じはなくなって、コサージュをお互いに付け合う二人は対等な友人関係に見える。
「ひろ、ほんとに大人になったねー。」
潤子は思わず二人の様子を見て言った。
「ほんと、あたしもようやくこの子の保護者卒業だよ。」
桐谷はため息混じりに、やれやれ、という感じで言った。茅ヶ崎は久しぶりに子供っぽく、そんなのやだ、とゴネるのが可愛らしかった。ゴネたら急に桐谷と離れ離れになるのが、卒業式という日と相まって悲しくなったのか、目にいっぱい涙を溜めはじめた。
「ひろ、早いよ!」
まだ式も始まってもいないのに泣き出すので、潤子と桐谷が、ほぼ同時に突っ込むから、明日香は大笑いしてしまった。
「あ、潤子、カード書いてきた!」
明日香は校門を出る前に渡さないと、と急に思い出した。
「明日香ー?、まだ書いてなかったのかー?今日卒業式だぞー。」
桐谷が若干呆れていた。明日香は笑顔で舌を出すしかなかった。
明日香は潤子のサイン帳のカードを、小さいサイズのノートに挟んで、カバンに入れてきた。カバンから小さいノートを取り出して、栞紐でノートを開き、カードを取り出し、書いてある面を潤子に見せた。
「ごめん、いっぱい悩んだけど、たった三行になっちゃった。」
明日香は珍しく恥ずかしそうにはにかみながら言った。カードに大きな字で書かれた三行のメッセージを読んで、潤子は万感の喜びで目を輝かせた。
「明日香ー!あたし、すっごい嬉しい!ありがとう!あたしも愛してる!」
潤子はそう言うと明日香に飛びつくように抱きついてきた。
「あたしが書いて欲しかったことば、全部書いてある。ありがとう、明日香。明日香に出会えてほんとうに良かった。」
潤子は明日香に抱きついたまま、耳元でそう囁くように、言った。潤子が勢いよく抱きついてきたから、せっかくのカードを落としそうになったので、桐谷が一旦受け取ってくれた。桐谷と茅ヶ崎がカードの文面を読んでいる。
「これは…。告白?」
桐谷は、言葉尻は笑ってしまっていた。
「ほんと、明日香と潤子は仲良しだよねー。」
茅ヶ崎は、本当にもう子供っぽい茅ヶ崎ではなくて、思春期のその時期にしか持ちようのない、爽快で鮮やかな無垢の輝きを放つ、可憐な少女だった。
明日香のカードには、最後の日付と署名を除いて、大きな字で、こう三行書いてあった。
いつも一緒にいてくれてありがとう!
これからもずっと一緒!
愛してる!潤子!