final section-2

2024-08-25

final section 「ジェイルブレイク」

 二

 卒業が近づいてくると、サイン帳、と呼ばれる、自分宛のメッセージカードをクラスのみんなに書いてもらい、それを一冊にまとめて中学校の思い出として作る、というものが女子の間で流行り始めた。明日香はどうもそういう「女の子」っぽいことが苦手なので、明日香自身はやらなかったが、仲の良かった女子生徒たちには、書いてくれと頼まれる。メッセージカードを書くのは結構楽しかったので、文房具屋で色とりどりのボールペンやマーカーを買ってきて、一人一人の思い出なり、彼女たちの明るい未来を祈る言葉を書いて渡していった。もちろん仲良し四人組の三人にも頼まれたが、最後まで何を書こうか悩んだのが潤子のサイン帳のカードだった。

 書きたいことはいっぱいあった。毎日のように話して、毎週のようにどちらかの家に泊まっているのに、まだ言いたいことも書きたいことも溢れるくらいにあった。潤子より後に頼まれたカードはどんどん書き上げて渡せていたが、潤子のサイン帳はルーズリーフ型だったので、一冊のどこか一ページを書くのではなく、渡されたカードを書くことになるので、自分のせいで後ろが止まる、ということがないこともあって、どんどん後回しになっていた。

 このことは正直に潤子に話していた。

 「なんか明日香らしいね。あたし、いつまでも待ってるから!」

 潤子はそんな風に、なんだか悲恋の物語の主人公のようにふざけて言うから、二人で大笑いしてしまう。

 明日香のクラスは一人二人二次試験を受けないといけなくなったようだが、無事全員高校進学を決めた。学年では、結局一人、高校へ進学できなかった子が出てしまったようだ。明日香はそれを聞いた時、学校が無理に生徒の希望を変えさせたから、やる気がなくなったせいじゃないのかと邪推した。それに希望通りの高校の受験に失敗した悔しさならまだ受け入れられるだろうけれど、受けたくもない学校の受験に失敗した悔しさは、どう処理したら良いというのだ。明日香には想像がつかなかった。明日香たちよりもう少し前の世代では、中学校卒業後就職、というのも珍しくはなかったようだが、時代の流れで高校は出ておくべきという同調圧力のようなものが世間一般にあって、それに中学校の教育方針が変に、頑なに流されてしまっている。

 卒業式が近くなると、卒業式の練習というのが行われるようになる。式事の進行とか、答辞とか、歌の練習、卒業証書授与の一連の動きの練習とか。そんな時でも、声が揃わない、歌声が小さい、卒業証書授与の一連の動きでミスをする子が多い、などがあると学年主任は、卒業できるからとなめんじゃねえ、卒業させねえぞ、と脅して態度を改めるよう言うのだが、そのしゃがれた、堅気の職業の人とは思えない声で、「大きな声で歌え」とか言われても、何の冗談なのかな、と明日香は鼻で笑ってしまいそうになることがあった。

 二年の体育祭の練習の時もそうだ。ある日二年生全員、校庭でフォークダンスの練習をさせられていた。明日香のクラスは男女仲がこの年頃の少年少女にしては良かったので、手を繋いだり踊ったりすることにそれほど気恥ずかしさもなくやっていたが、他のクラスの男子女子は手を繋ぐというより、手を近づけて触れなかったり、指先を触れるだけとか、そんな感じだったらしいので、学年主任が練習を中断し、そのことを例のごとく脅迫するように怒り、「手を繋げ」とか「踊れ」とかあのしゃがれ声で脅すように命令するから、明日香はそれが可笑しくて笑ってしまわないよう我慢するのが大変だった。「踊れ」って踊りを脅迫するように強制するのって何、と声に出してしまいそうだった。

 卒業式が近づくと、頭髪ももう伸ばしていいだろうと男子が髪を伸ばしたり、女子ならちょっとしたブロー程度のパーマをかけたり、目に前髪がかかるようにしたり、髪留め、靴下に色付きのものを着けてきたりする子が増えた。それが教師の視点から目に余るようになると、卒業式の練習の場で突然「検品」が始まり、学年主任の海老島が、なめるなと違反者をひっぱたいたり、卒業させねえぞと脅したり。もうこの人は病気なんだろうかと、明日香は思わずにはいられなかった。

 しかし、最後まで気を引き締める、ということの大事さは、この年齢の、普通の少年少女にはまだ実感としてわかることではないから、それを伝えたいがために、最後まで生徒全員が理不尽だと思うくらい、厳しかったのかもしれない。そう明日香は後年になって思うこともあった。理不尽だと思うことにも対応していかなきゃいけないことなんかいくらだってある。それは大人になれば誰もがわかることだ。もっともだからと言って、彼のやり方が正しかったかと言われれば、後年の明日香にも判断が難しいのだけれど。

 明日香は最後まで校則で決められたことには従おうと、真面目さと言うよりは、「反骨心」のようなものから思っていた。うるさいなあ、と思ってはいたけれど。確かに、お洒落をしたい年頃の男子女子にとっては、高校進学が決まった今、これ以上「出獄」の決まっている、この鉄の校門と金網に閉ざされた、「収容所」のルールなんかもう守る必要はない、そう思われても仕方がなかったかもしれない。ここは本当に「収容所」みたいだった。卒業式の練習もジャージでやっているのである。

 学年集会で海老島の理不尽な脅迫のような爆発の後は、今までであれば、教室に帰ってから文句を言ったり、愚痴を言ったりする子はほとんどいなかったのだが、この「卒業させねえぞ」には、もうほとんどの生徒たちが十五歳になり、物事の分別を自分でつけられるようになる年頃でもあったし、卒業も間近で、卒業してしまえば、この憤怒の形相の学年主任の説教を聞く必要も、脅迫めいた指導も受ける必要がないのだから、あれは言い過ぎじゃないのか、教師の権力を笠に着てやりたい放題じゃないか、と文句を言う生徒たちの声が教室の中で聞こえるようになった。一年の時からそうなんだよ。明日香は言ってやりたかった。

 二年生の時まで、男子女子を通してクラスで一番背の小さかった茅ヶ崎だが、三年生になって、ものすごく背が伸びた。特に夏休みに。三年時の夏休みは、受験勉強で忙しかったし、四人で会う予定はなかったのだが、一日だけ会おうよと、夏休みも終わる頃に、みんなで会うことになった。待ち合わせ場所へ先に到着していた明日香と潤子に、声をかけた茅ヶ崎は、明日香に「誰!」と言われてしまったくらいだ。もちろん潤子はいつもの通り、茅ヶ崎だとすぐに認識出来、挨拶をした後に、背が伸びたことに驚いていた。明日香と潤子よりもちょっと背が高いくらいにまでなっていた。

 三年生だというのに、制服や体操服、ジャージを作り直さないといけなくなったと、言う言い方も、なんか大人びてしまったような気がして、明日香は、何だよー、急にオトナぶってー、と駄々をこねる子供のように言うから、茅ヶ崎は可笑しそうに笑うのだが、その笑う様子も、仲良し四人組の中で、明日香と一緒に「子供班」の茅ヶ崎とは思えないくらいだ。もともとおかっぱ頭の似合う可愛らしい顔だったが、もっと可愛らしくなって、高校受験が終わった頃には、芸能界行けるんじゃない、と声が上がるくらいになった。だから当然、随分と自クラス他クラス問わず受験が終わった男子から告白を受けたようだ。ただ、全部断っていた。

 「なんでー?」

 卒業式が近づく日の中で、茅ヶ崎と二人きりで話す機会があった時、明日香は聞いた。

 「あたしずっと言えなかったけどさあ、あたしすごく嫌だったんだ。あの「何々菌」って男子たちがやってるの。全員参加してたじゃん。一年の頃からあったって聡美言ってたし。だから嫌だ。この学校の男子は。好きになれないよ…。あたしも一年の時はちゃんと考えられてなかったし、二年の最初の頃何にも考えずに参加しようとして、聡美にすっごい怒られちゃったけどさ…。」

 明日香は、全員じゃないよ、と言おうと思ったが、止めた。その男子は「人殺し」と今は記憶されているのだ。明日香が知っている茅ヶ崎は、あまり男子と話したがらない子だった。単に思春期の女の子にありがちな、男子と話すのが恥ずかしいという、ちょっと過剰な自意識のためだろう、と思っていたのだが、それは明日香の思い違いだったらしい。子供のような笑顔で、子供のように振る舞うことが多く、茅ヶ崎が自分で言っている通り、あの「菌移し」が始まった頃、男子に移されて、その追いかけっこに「自然に」参加しようとした茅ヶ崎の襟足を、思いっきり桐谷が掴んで、ものすごい勢いで茅ヶ崎を叱っていたのは、明日香もよく覚えている。

 そう言えば、なんであの時茅ヶ崎は男子に移されたのだろう。そもそもあれは男子の中の「仲間」であることの証しだてのような行為のはずだ。この話を茅ヶ崎とした後で、桐谷と二人で話す機会を持った時に、桐谷にきちんとこの辺りを聞いてみた。桐谷によれば、一年の頃桐谷の隣のクラスだった茅ヶ崎は男子と良く話していたし、いわゆる「男子と仲の良い」女子だったそうだ。あの時茅ヶ崎に移してきた男の子は、茅ヶ崎と一年時クラスメイトだった子だという。そういう「気軽さ」もあったようだ。

 しかし、例の桐谷に怒られた一件から、教室で、学校で、自分の身の回りで起きていることを、茅ヶ崎は冷静に見るようになり、それ以来だんだん男子と話すのを避けるようになった。明日香はいつも茅ヶ崎とふざけてばかりいたので、茅ヶ崎がその小さな体で、たくさん悩んで、たくさん考えていたんだ、ということ知らなかった。こんな近くにいつもいたのに申し訳なかったな、と少し明日香は落ち込んだ。思い返せば、四人で明日香が真面目に疑問に思っていることや、憤りを感じていることを話している時、潤子と桐谷は、そういう話題から決して逃げようとしないので、二人を頼るように話していたのだが、茅ヶ崎もいつもきちんと明日香の目を見て、耳を傾けてくれていた。だから、あたしたちは四人で仲が良かったんだ。そう明日香は改めて気がつかされた。

 「まあ、でもその考え方は極端過ぎるけどね。男子たちだって、「悪気があったわけじゃない」と言っているのは、責任逃れなだけじゃなくて、本当に気づけていなかった、ってところもあるだろうし。潤子があの日言ってた通りね。それじゃ単に自分のその時の行動を否定したいだけで…。まあ、ひろももう少し成長すればわかるでしょ。」

 桐谷は最後の方は笑ってしまいながら言うので、明日香も笑ってしまった。あたしまだあの子見守んないといけないのかー、と桐谷がやれやれという体で言うので、二人で大笑いした。でも茅ヶ崎もきっとその方が嬉しいはずだ。明日香はそう思った。

 潤子も下駄箱や机にラブレターを入れられることが、受験が終わってから、ちょいちょいあった。潤子はもともと可愛らしいし、明日香が小学校の頃、絶大な人気を保ったまま芸能界から引退した伝説のアイドル歌手に雰囲気が似ているところもある。まして今や「天使」とあだ名されるくらいだ。いわゆる「やさしい」女の子だし、柔らかい所作、話し方、これでモテないわけがなかった。そして意外に誰も言わないのだが、結構な美声の持ち主である。明日香は潤子の話を延々と聞いていられるくらい、潤子の声が好きだった。明日香はピアノが弾けるから、明日香の家で明日香がピアノを弾いて、潤子が歌う、という遊びをよくやるのだが、明日香はずっと潤子の歌を聴いていたいといつも思う。今日佳もいれば、潤子にリードボーカルをとらせて、明日香と今日佳でピアノを連弾しながらコーラスをつけて、60年代の有名過ぎるイギリスのロックバンドの曲をあれこれ歌ってよく遊ぶ。

 明日香と一緒に登校するから、明日香も潤子の下駄箱や机の中のそれを見るわけだが、潤子は中も開かず、ごめんなさい、と言って、幾つにも折ってしまって、学校のゴミ箱に捨てるのは申し訳ないからと言って、カバンの中にしまって、家へ帰ってから、捨てていた。

 「読むくらい読んだらー?」

 明日香はその度に言う。

 「だって、あたしには明日香がいるもの!」

 その度に潤子はそう言う。

 「潤子!」

 「明日香!」

 誰も見てなくても、このちょっと馬鹿なんじゃないかというふざけた惚気のやり取りをして二人で笑ってしまう。一度、たまたま早く登校した小林と東川に見られて、お前ら馬鹿じゃないの、と二人から呆れ気味に言わたけれど、まるで惚気のふざけを見られたことが恥ずかしいのではなく、すごく嬉しいかのように、明日香と潤子は大笑いしてしまった。

 「うらやましいー?」

 二人で嬉しそうに声を揃えて聞いてしまう。

 「はぁ?」

 また呆れ気味に小林と東川も声を揃えて返すから、四人で大笑いになる。