section 1-2

2024-08-25

section 1 「茶髪と癖毛」

 二

 「おい、お前!」

 そう低く唸るような、食物連鎖の頂点に立つ猛獣の咆哮と言って良い声を出しながら、両手をジャージのパンツのポケットに突っ込んだまま、どすどすと音がなっているように感じるさせる威圧感を持って、それは明日香に近寄ってきた。実際に鳴っているのは、彼のバスケットシューズのラバーソウルが体育館の床と立てる摩擦音だけだ。

 明日香に近づくと、明日香の名前を確認するため、体操着の胸に書かれた明日香の名札を見た。名札を見たのだろうけれど、明日香はこの胸に書かれた名札を男性教師や男子に見られるのが、胸を見られているようですごく嫌だった。

 小学校高学年になっても、低学年時と同じように、男子も女子も上半身裸になり、身体測定のため体育館で、測定をする保健の教師が構える測定器の列に並ばなければならなかった。児童によっては、体つきが既に女子のそれになっていて、測定値を記入してもらう紙で胸を隠している女子児童もいた。明日香も胸の発達が平均よりも早く、既に膨らみを持った胸を晒しながら体育館に突っ立っていなければならないことがすごく苦痛だった。他の発達の早い子のように、隠したかったが、隠したら隠したで、顔が可愛らしくて男子に人気のある女子ほどそうしていたから、逆に自分の「女子」らしくなったからだを自慢しているのだと取られかねず、明日香はそんな女子と同じように「女の子」に扱われるのが嫌で、隠さず何事もないような振りをしていた。男子たちが自分の胸から目が離せなくなっているのはわかったし、からかうような、いやらしい小声の男子たちの囁きが悔しくて仕方なかった。

 そんなことも思い出すから、こんなところに名札をつけるなんて、どんないやらしいやつが考えたんだと、明日香はいつも思っていた。この忿怒の形相の男性教師も裏で何を考えているのかと明日香は思ったが、それは目の前の恐怖から逃げようと、別の考え方へ指向性を変えようとした反射だったのかもしれない。

 「おい!大沢!」

 そう明日香の名字を怒鳴ると、学年主任はいきなりその大きな手で明日香の髪の毛を掴み、自分の顔の近くまで引っ張り上げた。体育の授業の時は、跳ねる癖っ毛の前髪が邪魔になるからと、プラスティック製の髪留めをいくつか使って、前髪や脇を止めているのだが、それらのいくつかが飛んでしまう。あまりの痛さに明日香は、うぎゃあ、と変な悲鳴をあげた。だから、最初は笑いが起きた。それももしかすると、明日香の変な悲鳴が可笑しかったからではなく、目の前で繰り広げられている、元ラグビー選手だという、少年漫画の拳法家のような体格の男性体育教師が、中学一年の女子の髪の毛を鷲掴みにし、足も浮いてしまうくらい釣り上げているという、映画でもドラマでも見ないような恐ろしい光景から、逃げようとして起こった反射なのかもしれない。その反射は、二クラスの女子に一斉に起こって、それは静かな水面に投げた小石が作る波の輪が、綺麗に一面に広がっていくようにすら、明日香には思えた。

 「なんでお前は髪染めてんだよぉ!」

 そう力を込めながら言うと、一旦明日香の髪の毛をつかんだ腕の肩を後ろへ動かし、明日香を体育館の床へ叩きつけるように放り投げた。明日香は床に投げられ肩や腰をぶつけた痛さよりも、良いように引っ張られまくった頭皮の痛さが酷く、声に出ない呻き声を吐いた。髪を留めていた髪留めは全部飛んでしまった。

 「今からすぐ帰って、髪黒く染めて来い!」

 そう怒鳴りつけると、この男性体育教師は、今まで何度も受けてきたであろう、そう怒られた生徒の謝罪と、明日行ってきますから今日は授業を受けさせてください、のような、忿怒の「神」に跪き、平伏するような土下座を待っているらしく、明日香の悶絶が治まるのを見下ろしたまま、仁王立ちしていた。明日香もその場面は、何度か学年集会という「舞台」の上で見たことがある。男子生徒だけではなく、女子生徒でもその「生贄」になったのを見ている。そう言った意味では、この学年主任は男女平等にやっている、と言えるのかもしれない。おかしなことだけれど。

 明日香は強気な性格だった。幼い頃から、男の子と喧嘩をしたり、遊ぶ相手は男の子ばかりだったり、「男勝り」と言われたりと、いわゆる「女の子」らしい女の子ではなかった。明日香の姉今日佳もそんな感じだったらしいが、明日香の姉はもうちょっと変わっていて、強気かつ、理知的という、妹から見てもかなりめんどくさい子供だったんだろうなと思ってしまう子だったようだ。それに対し、明日香は拳には拳で対抗するので、男の子を泣かせてしまったり、逆に泣かされたりで、父母が相手の親に謝罪に行ったり、逆に謝罪を受けたりと、手のかかる「お転婆娘」だったと、折に触れて父母に笑って言われることが今もある。

 そんな明日香だから、これだけ痛い思いを黙ったままさせられて、何か言い返せないでいられるわけがない。この男性教師の威圧感や圧迫感に対する恐怖よりも、こんな時ですら怒りの方が勝ってしまった。明日香には何も後ろめたいことはないのだ。これは持って生まれた髪の色なのだ。

 「あたしは生まれた時からこの髪の色なんだよ!なんで生まれつきの髪の色でこんな目に合わなきゃいけねーんだよ!」

 明日香の「女の子」らしくない言葉遣い、まして目上の人、教師という「聖職」者に向けるようなものではない悪態は、彼の逆鱗に触れたらしく、まずはその大きな手で、言い返すために割座で起き上がっていた明日香の頬を引っ叩く、というよりは吹っ飛ばした。明日香は1メートルくらい文字通り飛ばされながら寝転がるように倒された。口の中と鼻の中の血管が切れたらしく、痛みはまるで感じないのに、鼻血が水のように流れ出し、口の中は血の味がする。

 「口答えするんじゃねえ!」

 そう怒鳴ると、その体育教師はまた寝転がっている明日香の髪の毛を掴み、引っ張り起こすと、二度、三度と頬を引っ叩き、最後にもう一度明日香を体育館の床に放り投げた。明日香は圧倒的な力の違いに、ただ恐怖し、殺されるんじゃないか、土下座をしてでも許しを乞う方が良いんじゃないか、そんな考えすら頭を過った。

 しかし、そこは元来の気の強さが上回ってくれたけれど、この体育教師には全く敵わない現実からは逃れようがない。それは力の上でも、立場の上でも。小学生が見るようなアニメーションの主人公のように、超能力やら魔法やらはこの現実世界には存在しない。それは金網と鉄の校門に囲まれた、この箱庭のような世界でも「現実」だ。所詮この公立中学校の生徒なんて、教師の奴隷のようなものじゃないか。それが明日香が中学校に入学してしばらく経ってから、絶望的に知覚した、この金網と鉄の校門で囲まれた「聖域」での自分の立ち位置だった。そのことが激しい悔しさとなって、明日香の大きな瞳からは涙がとどめなく流れ始めた。女だから泣けばいいと思いやがって。子供の頃そうやって泣かされた男の子に言われたことを、その時感じた激しい悔しさと一緒に思い出しもした。

 「わかったら早く行け。授業の邪魔だ。」

 明日香のすすり泣く声だけが、体育館の高い天井に響いていた。明日香は立ち上がり、溢れる涙と鼻血とを体操着の袖で拭うと、二回も大人の男性、しかもラグビーの選手だったという一般の男性よりも力のある体育教師に放り投げられたことが与えた体のダメージで、足を引きずりながら、体育館の出口の方へ向かった。飛んでしまった髪留めはどこにあるかすらわからなかったし、出ていけと言われているのだから、探すわけにもいかない。明日香がサイドラインを跨いだところで、その体育教師は残った生徒に練習を再開するよう、声をかけた。普段から怒っているというか脅しているようなものの喋り方なので、明日香のことでまだ怒っているのか、そのことはもうどうでも良いのかは区別がつかなかったが、残った生徒は何事もなかったかのように装うことが、今目の前で起きた恐ろしい事件からの唯一の逃げ口であるかのように、この恐ろしい「神」のような存在に唯一謙る方法であるかのように、互いに声を掛け合い、練習を再開していた。明日香に声を掛けるものは誰もおらず、明日香は一人すすり泣き、体育館と校舎を渡す屋根付きの渡り廊下で足を引きずりながら、自分のクラスの教室に戻った。

 誰もいない教室の、自分の席に座ると、明日香は嗚咽し始めてしまった。悔しかった。何が男女平等だ、力で叶わないからと、男は女を腕力で圧倒することしかできないくせに。暴力に訴えなければ、何もできないくせに。かと言って、ただの中学一年生の自分に、あの体育教師にどうやって勝てる算段があるというのだ。もしあるとすれば、少年院に放り込まれるような罪を犯さないわけにはいかないだろう。悔しかった。親からもらった自慢の髪だ。それを引っ張られ、詰られ、殴られ。抵抗も出来ない。

 嗚咽が止まらないが、隣の教室には聞こえないように頑張った。この時間は男子も体育だから、誰か教室にいるわけではないが、いつも女子はみんな、男子のいる教室で体操着に着替えないといけないからそうしているように、一旦セーラー服の上下を体操着の上から着て、器用に体操着の半袖シャツをセーラーカラーの中から脱ぎとり、スカートの下からジャージのパンツを脱いだ。体操着の上で鼻と口を押さえてから、一旦離してみると、真っ赤になっている。まだ血が止まっていない。セーラーカラーは紺なので、血がついても目立たないが、カラーの縁を飾る二本の白線に血がついていないか気になった。明日香はまだ夏服を着ていたから、セーラーカラー以外の白い部分に血がつかないかも心配だ。そんなことが気になるくらい、少し落ち着いてはきたが、嗚咽は止まらなかった。

 明日香は机の中から教科書やノート類を学生鞄へ仕舞って、学校指定のスポーツバッグにジャージの下を仕舞い、体操着の上で鼻と口を押さえながら、教室を後にした。

 姉の今日佳があれだけ驚いた顔をしたのを見たのは、明日香は初めてだったかも知れない。明日香の家のある、新興住宅街を通る街道は、東京行きの電車の駅とを繋ぐバスの停留所へ向かう方向と、明日香が通う公立中学校へ向かう方向は逆だ。偶然午後休講になったとかで、バイトも入れてないからと早く帰宅してきた姉と明日香は、通りの角を曲がると、道のこちらとあちらとで正面向かうことになった。

 今日佳は駆け寄ってきて、どうしたの、と本当に心配そうに大きな声で言うから、明日香は一気に気が緩んでしまい、足も痛かったから、膝から崩れ落ち、声を出して泣き始めてしまった。今日佳は自分が肩からかけていたカバンを投げ捨てて、明日香を守るかのようにしゃがんで明日香を抱きしめた。おそらく頭を撫でようとしたのだろう、頭を触ると濡れているのに気がつき、触った手のひらを確認すると、血がついているから、今日佳まで変な悲鳴を上げた。

 近所の明日香の家と親しくしている家の人が、明日香の泣き声と姉の悲鳴を聞いて出てきてくれて、その後は色々と助けてくれた。姉はとにかく明日香を近所の医院街へ連れて行き、必要な医者を回ることになり、その近所の人が明日香の父の勤め先と、母のパート先とへ連絡してくれることになった。

 幸いなことに医者に通わなくてはいけないような怪我は一つもなかった。とは言っても、頭皮の出血は整形外科と皮膚科を兼ねる医院の医者が軟膏と、念のための痛み止めとを処方してくれた。足が痛かったのは、足首を軽く捻挫していると言うことで、湿布薬と、湿布薬を固定する包帯を一巻き出してもらったが、どれも放っておいても治るようなものだったようだ。今日佳は一緒に診察に付き添ってくれたり、待合室にいる間も、ずっと明日香の手を握っていてくれた。それは明日香にとってはとても心強かった。

 「お姉ちゃん、ありがとう。」

 病院回りが終わって、帰路の道中、明日香は少し恥ずかしかったが、姉に礼を言った。明日香はまだ涙声だったが、もう泣いてはいなかった。

 「いいえ、どういたしまして。」

 今日佳は何でもないことのように返した。明日香は足が痛いから歩くのが遅かったが、今日佳はしっかり明日香の手を握って、歩調を合わせてくれた。