section 3-2

section 3 「痣黒子」
二
横から見る顔の輪郭や、鼻梁線は可愛らしい顔立ちのそれで、その白目の大きい瞳と、これ以上は何も語らないとでも決心したかのように結んだ唇が、無愛想というより、想像するに難くない経験から、頑ななほどに引っ込み思案で大人しい子になったのだろうことを思わせる。多岐川は自分の朗読の番が終わったことを理解すると、着席した。多岐川の後ろの席の男子生徒、島原が起立し、次の段落を朗読し始めると、多岐川が起立した時から始まった、奇妙な静寂、残酷な好奇心の集中は終わり、特にうるさくなったわけでも、誰かが私語を始めたわけでもないのだが、校庭で体育の授業を受けている生徒たちの声や、教室の中の誰かが椅子を少し動かす音などが聞こえるようになった。明日香の席からは、多岐川が着席してしまうと顔は全く見えなくなるのだが、彼女の向こうにある形になる、教室の廊下側の壁を、明日香はしばらく見つめたままになってしまった。
「明日香、どうしたの、元気ないよ。」
放課後、いつものように二人で一緒に帰り道を歩く明日香に、潤子はそうは言うけれど、それでもそう声を掛けるまで、結構いろいろ二人で喋っていたはずだ。
「は?今の今まで二人で笑ってたばっかじゃん。なにー。」
明日香はそう驚いて笑うしかなかった。潤子が言うには、明日香は常にまっすぐ前を向いて、背筋を伸ばして歩く。でも今日は帰り道ずっと少しうつむき加減だし、何だか背中も丸い、と言う。そんなところ父親に見られようなら、軽く小突かれて、背中丸まってるぞ、とか前向いて歩け、とか叱られたことだろう。明日香の父は、どちらかと言えば二人の娘については放任主義だし、明日香、姉の今日佳のやることなすことにいちいち口を出したりしなかった。だから明日香が子供の頃、まるで「女の子」らしくなく、男の子と外を遊び回ったり、喧嘩したりしても、そのこと自体についてはどうこう言わなかった。しかし、ご飯の食べ方と、座っている時、立っている時の姿勢についてだけはとてもうるさかった。
「さすが親友、良く見てるねー。」
明日香は、潤子がそんなところに気が付いてくれたことを嬉しく思った。潤子は自慢げにちょっと力こぶを作った。
明日香は、正直に自分が今ひとつ元気がない理由を潤子に話した。国語の時間、初めて見た多岐川というクラスメイト。その左頬から首にかかる大きさで、形が不定形な痣黒子に驚いたこと。いや、驚いただけじゃなくて、明日香は正直に、気持ち悪いと思ってしまったことを、潤子に打ち明けた。そして、そう思ってしまった自分がものすごく嫌だったこと。今も、そう思ってしまった自分をどう考えたらいいのか良くわからないこと。
「明日香はやっぱり優しいね。いつもそう。あたしなんか、考えるのやめちゃうもん、そういう時。」
「いや、優しくなんかないよ。あたしは…。」
あたしは結局良い顔をしたいだけの卑怯者だ、そう言おうとして明日香は言えなかった。そんなに自分を否定したくない、自虐的過ぎる、そんな自分に対する自尊心なのか甘えなのか、そんなものもあったろうが、それよりも、今目の前で明日香の正直な気持ちの吐露に、驚きも引きもせず、笑顔でそばにいてくれる潤子の友情までも否定するような気がした。
「ほら、そういうとこ。うちのお父さん言ってるもん。明日香はきっと普通に出会うことのないような、とっても良い子だから生涯の友達として大事にしなさい、って。」
潤子はどこか自慢げな笑顔で言った。
「何それー。それはパパあたしを買いかぶり過ぎだよー。」
明日香は笑ってしまうしかなかった。明日香は自分の父母をお父さん、お母さんと呼ぶのだが、潤子の家へ行くと、潤子の父母をパパ、ママ、と呼んで甘えさせてもらっていた。そう呼ぶようになったきっかけは忘れてしまったが、明日香は良くも悪くも遠慮がなかった。潤子はきちんと、明日香のお父さん、明日香のお母さん、という呼び方を、明日香の父母に対してしている。
「でも、そういう時考えるのやめちゃうあたしが言っても説得力ゼロかもだけどさ、そうやって考えるのって大事なことじゃない?すごく。とっても。」
あまり話したくない話題が会話の中で上がると、それとは違う話へ誘導したり、黙ってしまったりして、その会話を打ち切ろうとする子は多い。今の明日香のように、こんな風に自家中毒のようになってしまったら、そんな他人の自家中毒の話なんか、誰も聞きたくなんかないだろう。それなのに、潤子はいつもきちんと話を聞いてくれて、何か答えを、それが完全な答えじゃなかったとしても、返してくれようと、何かを二人で一緒に引き出そうとしてくれる。普通に出会うことのないような良い子は潤子の方だ。あたしはただの酷い人間だ。そんな自虐的な思いがまた頭を過ぎった。
「潤子は平気なの?」
意地悪で聞いたのではなく、純粋に明日香は、潤子はあの多岐川の左頬から首を覆っている不定形な形の痣黒子を見て、なんとも思わない、つまり気持ち悪いと思ったりしないのかと。
「あたしは、ほら、考えるのやめちゃうから。きっと逃げちゃうんだよね、自分が本当にどう思っているか。それと向き合いたくない。そんな風に。」
潤子は明日香に元気がないのを気遣ってだろう、努めて明るい調子で話していた。それは明日香にとっては嬉しかったし、慰められもした。
「でも、もし自分の顔にあんな大きな痣黒子があったら…。って、これも考えるのやめちゃうんだけどね。」
潤子は遠い目をして、一瞬真面目に言ったが、すぐ明日香の方を向いて笑顔でそう言った。明日香は思わず笑ってしまった。
明日香は、明日香の茶髪が生まれつきなのか、時々クラスメイトにも疑われて、生え際を見せてくれと頼まれる時がある。そういう時は見せてやるのだが、地肌から茶色い髪の毛が生えているのを見て、「うわ、気持ちわる」と男子に言われたことは何度もある。しかし、明日香は自分のこの生まれつきの茶髪と癖毛は気に入っていたから、何言ってんだ、お前失礼だな、とすぐに言い返して、まわりを笑わせて、その「気持ち悪い」はそこで終わりになる。
しかし、明日香がもし、生まれ持ったものが、多岐川と同じ、頬から首を不定形におおう、黒い痣黒子だったら、明日香は今のようにいつも前を向いて、うるさいくらの大きい声で、元気よく潤子や、クラスメイトたちと話せていただろうか。男子から「うわ、気持ちわる」と言われて、何言ってんだ、お前失礼だな、と即座に言い返せていただろうか。