section 3-3

section 3 「痣黒子」
三
明日香は、バイトで遅く帰ってきた今日佳を玄関まで出迎えに行った。
「おかえり、お姉ちゃん。」
夜だから静かに言ったのか、元気が今ひとつ出ないから小さい声になったのか、明日香は自分でもよくわからなかった。
「ただいま。どうしたの?なんか相談?」
今日佳はお気に入りの革製のデッキシューズを脱ぎながら、ちょっと面倒臭そうにそう言った。
「うん。」
普段居間や自室から、おかえりー、と大きい声を出すだけの妹が、わざわざ玄関まで迎えにきたのだ。用事はお見通し、と言うことらしい。明日香はその面倒臭がった言い方に突っかかりたかったが、自分の中で繰り返される自分を責める気持ちをどうにかして欲しかった。今日佳はつっけんどんに振る舞ったり、明日香にこれ見よがしに上からものを言うことは多くて、喧嘩になることも少なくない。それでも明日香は、本当にちょっとしたことでも今日佳に相談していたし、今日佳もちゃんと一つ一つ相談に乗ってくれた。
「いいよ。先にお風呂入っていい?」
今日佳は玄関に上がると、洗面所へ手を洗うために向かいながら、明日香の方を見て聞いた。
「うん。」
もちろん、とも明日香は言いたかったのだが、なんとなく言葉が出なかった。
「あれ、作り置きあったっけ?」
今日佳は面倒臭そうな調子を外して、そう聞いてきた。
「あー。もうあんまし残ってないかも。」
「あ、じゃあ作っといてよ。お風呂出たら、氷入れて一緒に飲もうよ。」
そう言うと今日佳は洗面所の方へ向かった。
「うん。」
明日香はちょっとだけ元気にそう返して、廊下をどたばたさせないよう気をつけながら、小走りに台所へ向かった。
今日佳が「あれ」と言ったのは、明日香が小学校高学年の頃から日本に入ってきた、スポーツドリンクと言われるもので、1リットルの専用のプラスティック製ボトルに、アルミパックに入った粉末を入れて、水道水で混ぜ、冷やして出来上がり、というものだ。今まで味わったことのない味がして、美味しい、と今日佳と明日香には受けたものだが、父と母は変な味だと、最初あまり興味を示さなかった。しかし、運動後の水分補給に良いということも言われ始めて、外で遊ぶことが多かった明日香のためにと、母が買い物のついでにいつも粉末を買ってきてくれた。風呂上がりに飲むと美味しいということもわかって、結局明日香の家は全員が飲むようになった。専用のボトルは二つ買ってあって、残りが一本の半分を割ったら、それに気がついた人が一本作り足すこと、という家族内の決まりになっていたが、父がこれを守らないので、飲もうと思ったら、なかった、という時は最後に飲んだのは父なので、よく今日佳と明日香に文句を言われていたが、父は悪びれもなく二つ返事をするだけだった。
明日香が冷蔵庫を開けて、一本だけあった冷えたスポーツドリンク専用のボトルを持ち上げると、もう量が少なかった。コップ一杯くらいだ。明日香はいつも母が粉末のアルミパックをしまっている棚から新しいものを一つと、洗って乾燥済みの専用ボトルを食器棚から取り出して、作り始めた。台所は居間の一番奥という位置なので、明日香がやっていることは居間で仕事の勉強の本を読んでいた父に見えたらしい。
「悪いねー。お父さんのためにわざわざ作ってくれて。」
明日香は父の方を振り返って、思いっ切り舌を出した。母は大笑いしていた。
「…んー。そっか。そう思っちゃうかもね。」
明日香の話を聞き終わって、一旦グラスのスポーツドリンクに口をやって、氷がぶつかる綺麗な音を立ててから、そう今日佳はため息混じりに言った。
「あんたはそういうところ、信じられないくらいマジメだからねー。」
今日佳はからかい混じりに言ったが、明日香のまっすぐなところに時々感心させられるのは事実だった。そう思ったとしても、口に出すな、態度に出すな、というのは簡単だが、あまり問題の解決にならない。それはごまかしだ。
「潤子はさあ、考えるのやめちゃうって言ってたんだけど…。」
明日香は潤子とのやりとりも今日佳に話した。
「あー。明日香、それは潤子ちゃん、明日香に気を遣ってくれたんだと思うよ。あの子は人の見た目よりも、なんだろうな…、その人そのものを見るというか。現象学で言うところの事象そのものへ、って感じ?」
今日佳は他に良い言い回しがなくて、そう言いながら一人で笑ってしまう。明日香には何が可笑しかったのかさっぱりわからなかった。
「あのさ、あんたが潤子ちゃんと連み始めてからさ、結構後になってからじゃない?潤子ちゃんがさあ、明日香とかあたしが生まれつき茶髪なこと知ってびっくりしたの。」
今日佳にそう言われて明日香は思い出した。あれは夏休み最後の方だ。明日香の家の居間で、今日佳と明日香、潤子でお茶しながら話していた時に、何かの流れでその話になった。
「そう言えば、明日香も今日佳お姉ちゃんも髪の毛茶色いね。あんまり気にしてなかった。」
潤子はそう言うと可笑しそうに笑っていた。そう、明日香の髪の毛が茶色いことも、ちょっと癖っ毛なことも、潤子にとっては明日香という友達のごく一部でしかなく、何も珍しいことでも、特別なことではなかったのだ。それよりも自分とこれだけ馬が合い、なんでも話せて、お互いの家族旅行について行っても、楽しい思いしかしなかったり。友達の姉が自分の姉のように思えたり。そんな「親友」と呼び合える友達と出会えたことの方が、余程彼女にとっては特別だったのだ。
「ほら、あたしがさ、去年明日香と潤子ちゃんを市民プールに連れて行った時に、タカ坊に偶然会ったことあったじゃない。あの時もさあ、タカ坊が自分の友達のところへ帰った後に、明日香に言われて初めて潤子ちゃんタカ坊の火傷の跡に気がついてたじゃない。」
タカ坊、とは明日香が小学校中学年くらいまでよく遊んでいた男子で、首から身体中全身にかけて、ひどい火傷の跡がある。ガスストーブの上で蒸気を出すのに沸かしていた薬缶をひっくり返してしまって、沸騰した湯を浴びて負ったものだと本人から聞いた。子供の頃から水遊びをしていると目立っていた。明日香は子供の頃から見慣れていたが、初めて見る潤子はびっくりしただろうと思って、彼が自分の友達のところへ戻った後に、潤子にびっくりしたでしょ?と聞いたら、例によって何のことという感じだったのは、明日香も良く覚えている。
「あたしぼんやりしてるからねー。」
そう潤子が自虐的に可笑しく笑う可愛らしい笑顔で終わりにしてしまっていたのだが、あの時も明日香は、人の外見上の特徴について、自分だったら受け入れられない、という感情が先に来てしまっていたことを、今更のように重く感じざるを得なかった。今日佳が言うように、潤子はまずその人がどんな人なのか、そのことだけに集中して人を見ているのだ。外見上の特徴は、彼女にとっては二の次のことで、タカ坊の時も、この男の子がどういう人となりで、どういう子なのか、明日香とどういう関係なのか。そんなことに頭を巡らせていたのだろう。
「でも、たとえそう思ってしまっても、そう思ってはいけないんだ、と思い直せるってことは大事なことだよ。考えてしまうと辛いかもだけど。そこで考えるのを本当にやめてしまったり、ただ嫌だ、と思ってしまうよりは、ずっと良いよ。だから悪いこと考えてしまったのは確かかもしれないけれど、それを省みることが出来ているんだから、そこは自信を、っていうとちょっと変だけど、物事に正面向かって取り組んでいるんだ、と考えて良いと思うよ、あたしはね。明日香が悪い子だ、なんてことはないよ、絶対に。あんたのそう言う真っ直ぐなところは良いところだよ。そうやって時々自家中毒みたいになっちゃうと辛いかもだけど。そう言う時は、あたしとか、潤子ちゃんに話すようにしなさい。聞いてくれる人に話せば、少しはすっきりするでしょ?」
今日佳にそう言われて、明日香は少し心が軽くなったような気がした。
「お姉ちゃん、ありがとう。」
「いいえ、どういたしまして。」
明日香のお礼に、ちょっと面倒臭そうにそう言うと、今日佳はグラスに残った氷を一つ頬張り、ガリガリと音を立てて噛み砕いていた。







