section 6-4

section 6 「y軸上の衝突」
四
茅ヶ崎と一緒に走って教室に入ってきた保健の先生は、保健体育の授業で教えているような人命救助のイラストそのままの光景を見て、だいたい大丈夫そうだ、と思ったと言っていたと、後で伝え聞いた。保健の先生が明日香と止血係を変わってくれると、明日香は貧血のような症状に襲われて、立てずにひっくり返ってしまった。潤子が、明日香!と悲鳴に近い声をあげるから、保健の先生や、机の列という「非常線」の外側で見守る生徒たちが、一斉に倒れた明日香の方を見るので、明日香は血で赤く染まった手を上げて、大丈夫大丈夫、と言わないといけなかった。
「ちょっと緊張の糸が…。」
そう明日香が言うと、失笑というか、みんな安堵してくれたような、小さな笑いが広がっていた。潤子は、本当は明日香の元に飛んで行きたかったが、明日香に頼まれた、小林の手を握っているという仕事、重傷者の手を握っていてやるというのは大事なこと、を止めてしまうことは、明日香の大親友としては出来ない、そんな思いとの板挟みに苦しんだ、と後で甘えられてしまった。潤子はやはり見た目やその場の感情といったものには動かされにくく、出来るだけ物事の本質を見極めることを、いつも自然に出来ている。姉の今日佳が言った通りなのだと、明日香も強く思った。明日香は緊張の糸が切れたと言ったけれど、それは自分の止血が上手く行っていなければ、小林の生死を左右しかねない重圧から逃れられただけの話で、小林がもう大丈夫だという保証はこの時点では何もなかったのだから。小林が天使に囲まれているようだ、と冗談で言ったけれど、潤子は本当に天使かもしれない。明日香はそんな風にすら思った。
教室の中にいても、学校の敷地内に入った救急車やパトカーのサイレンはうるさく響いた。救急隊が来たり、警察が来たり、本当にしばらく騒がしかった。他のクラスの生徒たちが廊下で遠巻きに明日香のクラスの中で起きている異様な出来事を見ようと集まってしまったが、それは学年主任の海老島が、関係ない生徒は自身の教室で待機するよう、いつもの脅迫めいた調子で散らしてくれていた。
ストレッチャーというのがとんでもなく大きいものなんだと、明日香は実物を目の前にして思った。その印象がものすごく強いのは、他の光景、小林が腹部から血を流して倒れた、後藤が血のついたナイフを持って明日香の方を振り向いた、そんな光景の印象を薄くしたかったからかもしれない。後藤は拳銃を腰に携行している警察官二人に連れて行かれた。刑事ドラマで見るような現場検証も行われていた。当然、明日香も警察の人から事情聴取というものを受けた。明日香が、ナイフを蹴っ飛ばしたり、後藤を吹っ飛ばしたりしたことは正当防衛にあたるので、悪いことをしたとは問われないよ、と婦警さんに笑顔で言われた。他の警察の人にもよく頑張ったね、とか、君のおかげでけが人が一人で済んだ、とか礼を言われたりもした。
しかし、細かい事情を聞かれた警察官には、君がやったことはとても勇敢で、結果的に一人以上の被害者を出さずに済んだことは褒められて良い、けれども、凶器を持っている人に立ち向かおうなどと絶対に思ってはいけない、基本的に逃げるべきだ、と釘を刺された。これは似たようなことを教師たちにも言われた。けれど、明日香はあの事件が起こった時、後藤が隠し持っていた軍用ナイフで小林を刺した時、教室の窓側の一番後ろの自分の席にいたのだ。どうやってそこから、クラス全員が教室にいて、全員が混乱している中で、どこへ逃げろというのだ。ベランダにでも逃げろと?二階から飛び降りろとでも?
「でも、じゃあ、結局、最後追い詰められたらどうすればいいんですか?黙って刺されろ、って言うんですか?」
明日香は苦しみを訴えるような、そんな調子で警察官やその場にいた教師たちに言った。警察官たちは、明日香の疑問には明確に回答してくれず、立ち向かうなどと考えず、まずは逃げることを考えるように、と繰り返すだけだった。明日香は、この大人たちの態度は、どこか一貫したものが、この鉄の校門と金網に囲まれ閉ざされた、中学校と呼ばれる空間で起きるどんな場面でも見る、大人、つまり教師たちの態度と一貫したものがあるような気がした。
明日香が教師たちに、明日香が受けている上履きへの嫌がらせについて知られた時、特に何もしなくて良い、これは生徒同士の問題だし、まして誰が犯人などと探したところで、先生に言いつけやがってと逆恨みされるだけだから、と放置してくれるようお願いしていた。あれほど普段生徒指導にうるさく、理不尽だと思われるような、暴言に近い叱責を学年集会の時に下したり、男子女子関わらず生徒に鉄拳制裁を当たり前のように喰らわせたり、戦前か刑務所だ、と生徒たちが揶揄するほどの厳格さで生徒たちに普段接しているくせに、明日香の放置してくれ、には簡単に応じてくれた。明日香はそれを、先生たちもわかってくれる時があるんだ、くらいに良い方へ捉えていた。しかしよく考えてみると違うんじゃないのか。
この事件に関わっている大人全員、警察官や学校の教師という大人全員に対して、何か「不信感」のようなものが明日香に湧いてくる。しかし今の明日香には、普通の十三歳、十四歳の中学二年生には、その「不信感」のようなものが何であるのか、きちんと捉えることは難しかった。ただ大人に苛つき、怒りを覚えるだけで、ちゃんとした論理付けも、理由付けも出来なかった。
明日香は、本当に自分が正しいことをしたのか、正しく行動できていたのか、それすらもよくわからなくなってきて、ただひたすらに混乱した。しかし、あの時、絶対に潤子は守りたかった。そして、もし同じような状況と機会にもう一度出会ってしまったら、やはり潤子を守ることを最優先に行動するだろう。それが逃げるか、また立ち向かうか、どちらであったにせよ。それは誰に何を言われようとも、変える気はない。誰にも言うことなく、明日香が一人で強い決心とともに胸に抱えていれば良いことだ。
警察官や教師たちが明日香の問いにはっきりした回答を返せない中、そのいつもの忿怒の形相で明日香にゆっくりと近づいてきた学年主任の海老島は、何も言わず、明日香の頭を優しく二度ほど撫でてくれた。明日香は、その格闘家のような太い腕の手が伸びてきた時、また殴られるか引っ叩かれるかするのかと思って身構えてしまったし、引っ叩かれたら、じゃあどうしろって言うんだよ、と反抗してやるとも思っていたので、意外過ぎて、唖然とした顔をしてしまったかもしれない。
その日は警察が後藤を連行し終わったあたりで、全校で授業は中止となり、中学校は休校となった。明日香のクラス以外は、校内放送も使われて、早急に下校を促されていた。翌日については、クラスごとに連絡網で連絡するとも放送されていた。
明日香のクラスの中には、事件のショックが大きい生徒も少なくなかった。特にクラスメイトがクラスメイトを刺傷させるという光景を目の当たりにしたり、小林が倒れた床に広がる血の池を見てしまったりした子たちの中には、嘔吐してしまう子、貧血で倒れてしまう子もいた。後藤はどちらかと言えば、大人しい男子で、「真面目な」生徒だ。そんな子が、実は軍用ナイフを常に忍ばせていて、それを使う機会を伺っていたのかということもそうだが、あの大人しい男子が、なんの前触れもなく、突如こんな凶行に及んだという現実は、相当な衝撃を与えていた。
嘔吐したり、具合が悪くなってしまった子たちの保護者へは個別に連絡し、迎えに来ることの出来る保護者には子供を迎えに来て欲しい旨、知らせたようだ。保護者とすぐに連絡がつかなかった子は、教師たちが手分けして、家へ送ったらしい。ただ、明日香は事件にかなり関わってしまったので、断続的に続く事情聴取が長く、他の生徒よりも遅くまで、空になった隣の教室に残ることになった。途中から潤子がやってきて、ずっと明日香にくっついて、明日香の手を握って座っていてくれたから、明日香は必要以上に取り乱さずにいることができた。潤子は学校に残り明日香に付き添うことについて、きちんと教師たちの許可を取っていた。
潤子は自分が受けた事件のショックよりも、明日香を心配していた。明日香は、とても強く、決してどんなことにも負けない心の持ち主で、それは潤子がとても憧れるところでもあったけれど、明日香が人一倍繊細で、実は人一倍傷つきやすいことも、潤子は良く知っていた。この事件の緊張が全て解れた時、明日香の心に遅れてやってくる衝撃をとても心配していた。