09-03

09-03
「あ、あと岸谷さんって、外でも使える携帯持たされてる?」
都は聞いた。社内で使われているPHSはオフィスのビル内でしか使えないが、社員によっては外で使える携帯を持たされている。もし岸谷がそうでなければ、工事用携帯、と呼ばれる外でも使え、さらには国際電話も掛けることのできる携帯電話も借りないといけなかった。
「あたし、社内の電話番号で通話できるアプリ、自分のケータイに入れてますけど、それじゃダメですか?」
この通話アプリは、アプリ以外の電話番号へ掛けられるようにするには有料になるのだが、社員は会社の経費で有料版を個人のスマートフォンにインストール出来るのを都は思い出した。
「あ、それがあればそれでおっけいだよ。」
その有料版アプリが岸谷の私用携帯に入っているのであれば、都が当日岸谷に連絡を取るためには、岸谷のオフィスの番号を自分のスマートフォンに登録しておけば良い。
「…あ、でもあたしが間宮さんに連絡したい時どうすれば良いですか?」
岸谷は少し不安げな顔で聞いてきた。このオフィスの派遣社員は通常、外でも使える携帯や、有料版通話アプリを貸与されていないので、オフィシャルな方法では連絡が取れない。工事用携帯を都が借りて、その番号を岸谷に渡しておくか、個人の携帯番号を渡しておくしかない。個人の携帯番号は仕事でしか関係のない人間には誰だって教えたくはない。そうしてしまうと、本人が休みの時でも何かあれば、携帯の方へ掛かって来てしまって、面倒なことこの上ない。オフィスの番号が使える通話アプリが好評なのは、オフィスの番号で連絡が取れることもそうだが、個人の携帯番号を他部署やお客に渡さなくて良いところにもある。休みの日には、アプリを落としてしまえば、電話もかかって来ない。
「あたしの個人ケータイの番号教えておくよ。何かの時はそこへ掛けてくれれば。」
都は一瞬、これで何かある度に電話かかってくるようになると、それはそれで面倒かもしれないと思ってしまった。かと言って、この現場作業員業務の待ち合わせ時、岸谷と連絡を取るためだけに工事用携帯を借りるのも面倒だった。それにオフィシャルな電話番号を岸谷だけが持っていると言うことであれば、営業やオフィスにいるPM・SEなどとの連絡は基本岸谷がやることになる。都は現場作業そのものだけをやれば良くなるし、現場で各方面と連絡を取ると言うのは現場作業員としての業務の一つでもあるので、岸谷にそれを実践させることもできる。煩わしい仕事を新入社員に押し付けるようで、都は少し気が引けるが、岸谷が回答に困るような内容であれば、電話を引き取って都が話せば良い。
「え、良いんですか?」
「うん。」
岸谷は、それは絶対に得ておくべきものだ、と言うものでも掴んだかのように大きな瞳を輝かせて都に確認をとった。
「あ、じゃ、ちょっと待っててください。あたし自分のスマホ持ってくるんで!」
そう言うと岸谷は、フリーアクセスの床をバタバタ言わせながら、自席へ急いで戻って行った。そんなに慌てなくも良いのに、と都は可笑しかった。
袖机の上に積み上げた、持っていくもの一式はそこそこの量があって、当然都が普段通勤に使っているハンドバックでは入り切るわけがない。明日、現場作業員をする時に使っている大きめのビジネスバッグを持って来て、そこへ全部詰め込んで帰宅しないといけない。持ち出しPCは10インチの小さいノートPCだが、付属品や工具やケーブル類を入れるとそれなりの重さになるので、そこそこしんどい。普段はハンドバック一つで通勤しているので、その差も大きい。
「間宮さん、じゃあ、電話番号教えてもらって良いですか?」
都が袖机の上のものを片付けていると、岸谷がスマートフォン片手に戻って来た。なんだか嬉しそうにしてるのが、都には可笑しかった。岸谷はスマートフォンを手帳型のケースに入れていた。シックな色合いで嵩張りも抑えたデザインのもので、センスが良いと都は思った。可愛らしい装飾もなければ、ストラップに何かファンシーな飾りもついてもいない。大人なんだろうな、と都は寝床がぬいぐるみに囲まれいてる自分との比較で思った。もっとも都はスマートフォンにカバーもしていなければ、そもそもストラップをつけることのできない構造のものなので、こんな一面的な見方で見るのであれば、都は大人だと言うことになる。
「うん、えっとね…。」
都は机の上に伏せておいておいた自分のスマートフォンを取り、指紋認証でロックを外し、ネイティブの電話アプリを立ち上げて、自分の番号を表示させ、読み上げた。
「ありがとうございます。ちょっとかけてワン切りしますね。」
岸谷は都のスマートフォンに電話を掛けた。都のスマートフォンに見知らぬ番号からの着信を知らせる表示が出る。番号は、この会社の社内電話に使われているプレフィックスから始まる番号ではなく、一般の携帯電話に割り当てられているプレフィックスから始まっていた。
「それ、あたしのケータイです。」
都が個人携帯を教えたお礼ということなのだろうか、岸谷も自身の個人携帯の番号を都に教えてくれた。
「あ、あと、間宮さん、チャットアプリ教えてもらっても良いですか?」
岸谷は少し遠慮がちな感じなのだけれど、その通る声は、遠慮がちというよりは、仲の良い先輩に少し甘えるような感じに聞こえなくもなかった。都はちょっとくすぐったいような気がした。
「あ、うん、良いよ。えっと…。ID渡せば良い、の、かな?」
都は自分の言っていることに自信がなく、言葉が細切れになって、笑ってしまった。チャットアプリは今や老若男女問わず、基本のコミュニケーションツールとなったところがあるが、都はあまり使い慣れていなかった。母とはSMSか電話だし、兄とは長いやりとりになる時はメールだが、普通は母と同じくSMSか電話だ。稀に連絡を取る古い友人知人もメールかSMSが基本だった。メンバーが4、5人いるプロジェクトに関わった際、連絡ツールとして使うから入れてくれと言われて、自身のスマートフォンに入れたのだが、そのプロジェクト終了後は都のスマートフォンでは休眠アプリだった。
「はい。…わかります?」
岸谷は、都がアプリを起ち上げて、明らかに自分のIDをどこで表示させるのかわからないでいるので、声をかけた。
「うん…。どこだっけ?」
都は苦笑いしながら岸谷を見た。岸谷は都のスマートフォンを覗き込みながら、どこを開いて、どこを押して、という風に一つ一つ丁寧に教えてくれた。ゆっくり教えてくれる岸谷が頼もしくもあり、可愛らしくも感じた。なんとなく若い子におばさんが何か教わっている風で、都は見たくない現実を突きつけられたような嫌な感じがすると同時に、そんなことで嫌な感じを覚える自分が可笑しくもあった。
金曜は結局色々な問い合わせ対応に追われてしまい、CJ案件のヒアリングシートを仕上げるのに手間取って、無申請で残業出来る22時ぎりぎりまで残業になった。そのため、酔客で無闇に混雑する電車の中、持ち出しPCや工具類などを、普段持ち歩かないビジネスバッグに詰め込んで、持って帰らないといけなくなった。吊り革につかまる手と、カバンを下げる手を一駅ごとに変えないとカバンを持つ方の手が持たない。夜はだいぶ気温が下がっていたはずだが、電車を降りた時にはそれなりに汗をかいていて、部屋へ辿り着いて玄関のドアを閉めた時、嫌な暑さからやっと解放されるという気分は、早くシャワーを浴びて早く寝ないといけないという慌ただしさが掻き消してしまう。自宅の最寄駅から明日の現場の最寄り駅までの乗り換えを調べたら、最短でも1時間10分かかることがわかった。しかし、この最短の乗り換え経路は、二回目の乗り換え時、駅間を歩かなくてはならない。都の最寄り駅も、異なる路線が3本走っていて、それらを乗り換えて通勤している人は珍しくもない。そういった徒歩による、他路線駅間の乗り換えが必要なのだろう。都は現場作業員で一度か二度、その駅で徒歩乗り換えをしているはずだが、都はひどい方向音痴で、見知らぬ土地ではすぐ迷子になるという特性があった。また、通いなれない土地の道を一、二度行ったくらいでは全く覚えられない。それに、普段乗り慣れない路線で、1時間程度同じ電車に乗っていなければならない区間があり、これは乗り過ごしそうな心配がある。なので、1時間20分程度の所要時間になってしまうが、最初の電車区間が、いつもの通勤電車の区間と同じになる乗り換えルートを取ることにした。そうであれば、最大でも一区間電車に乗っていないなければいけないのは、25分で済む。どちらにせよいつもの出勤よりも、1時間以上早く部屋を出ないといけない。
夜遅くの帰宅になったし、朝から現場作業員業務の前日だ。早く寝てしっかり睡眠を取らないといけない。そうしないと乗り換えを間違えて遅刻とか、何かミスをするような不安に駆られてしまう。早く帰れたら、しばらく着ていなかったスーツを軽く合わせてみようと思っていたのだが、そんな時間的余裕というよりは心理的余裕の方がなかった。服を全部脱いで、手だけ洗って、冷蔵庫の中からトマトと、豆腐を出して、とりあえず空腹にそれだけ入れた。お腹がちょっと落ち着いたので、とにかくシャワーを浴びてしまうことにした。
土曜日当日、その日が朝早くからの工事だとわかっていると、目覚ましや、タイマーでついたテレビにきちんと反応して目を覚ます。多分、もう5分10分目を瞑っていても良いだろうが、久しぶりに着るスーツを合わせたりしないといけない。肌にまとわりつくケットの柔らかい感触が惜しかったが、ケットを脇へ剥いでしまって、起きるしかない状態を作ってから起き上がった。窓を開けると涼しい風が入ってくる。そろそろ部屋の中でも何か一枚羽織っていないといけない季節になってくるのかと、都は何も着けずに過ごせる季節が終わるのが残念だった。
顔を洗って、お湯を沸かしながら、軽い朝食を準備する。ベーコンと卵焼き、あとはトースト。ヨーグルトも食べておく。土曜の朝のテレビは、いつも見ている早朝の経済ニュース番組はやっていなくて、明らかに休日だという雰囲気の番組が多い。それも両極端で、のんびりした雰囲気の番組か、早朝から週末になったことをまるで祝っているようにすら見える賑やかな番組。海外のニュース番組を数珠繋ぎに淡々と放送している番組がやっているので、それをつけておくことにした。
コーヒーを飲みながら、化粧を始める。今日は客宅に行くから、というよりはスーツを着るので、さすがにいつもの化粧下地だけでは合わないかも、と思って薄くファンデーションを塗っておくことにした。普段やらないので、変になったらどうしようと心配したが、そもそも薄くしか塗らないので、余計な心配だった。普段はリップクリームを塗っているだけの唇も、クリアグロスを被せようと思った。これは出かける直前にやらないと。リップクリームを塗ってからまたコーヒーを飲んでしまったり、歯を磨く前に塗ってしまったりして、また塗り直し、というのは都は良くやってしまうが、リップグロスも塗り直すのはさすがに慌てそうなので、今日は気をつけた。化粧ポーチに入れるものが増えるなあ、とちょっと憂鬱だ。携帯する化粧ポーチが軽いのが都はちょっと自慢なのだ。誰にも言わないけれど。
リップ以外の化粧が済んだので、下着をつけ、クローゼットの中からスーツに合わせるドレスシャツを探す。クリーニングから引き取って以来、ビニール袋を被せたままの白いドレスシャツを選んで、ビニールを剥がし、クリーニング屋でつけられたタグを外す。体の線にフィットするようなデザインなので、久々に着てきつかったらどうしよう、と思ったが問題なかった。玄関まで行って、玄関手前の収納の扉についている全身鏡でドレスシャツを確認する。良さそうだ。裸足でパタパタとクローゼットまでまた戻って、グレーのパンツスーツを出す。これもまたクリーニングから引き取ったままなので、ビニールを剥がし、タグを取らないといけない。パンツのお腹周りがもしかしたらきついんじゃないかとちょっと怖かったが、こっちも問題なかった。
ジャケットを羽織りながら、また玄関前のクローゼットまで戻り、全身鏡で肩やジャケットの着こなしを調整する。鏡に映るグレーのスーツ姿の自分は違和感しかない。しかしスーツを久しぶりに着ると、気持ちが整うような気もする。でも、やっぱりスーツは好きになれない。きちんとした格好をしたように自分でも思うくらいだから、きちんとした格好をしているように他人からも見えるんだろう。結局都も、世間の判断基準という金型に、自分をはめ込んでいるということなのか。自己の解放と自由を尊ぶ都には、スーツは窮屈以外の何物でもなかった。男性でスーツの方が楽、という人がいるが、本当なのだろうか。単に毎日服を選ばなくて良いという、中高生の制服のように感覚でいるだけなのか。それとも、解放と自由を毎日探して生きて行くよりも、世間という他者との関わりのなかで、型にはまっておき、そうしておけば、混み合った人のうねりの中で、様々な困難や衝突があったとしても、流れに任せて、人々が等しく正しいと選ぶ道へと導かれていけるから、ということなのだろうか。
都は玄関に置いておいた、ビジネスバックの前にスーツを着たまま座り込んで、中身を確認し始めた。持ち出しPC、電源アダプターと、電源ケーブル、持ち出しPCログイン用のカードリーダー、コンソールケーブルとそれ用のUSB変換ケーブル、スペアケーブル類、ドライバー類、ラックネジ一式、など。忘れ物はないようだ。もちろん、自分の認証カードもストラップを括りつけて入っている。あとは中身を詰め直した化粧ポーチを入れればOKだろう。現場作業員として行くので、あまり名刺交換を求められることもないが、念のため派遣先の名刺を入れた、名刺入れが入っていることも確認する。名刺だけ見ると、都がこの会社の正社員なのか、派遣社員なのかはわからない。しかし、会社によっては、見分け方を知っていれば、見分けがつく。例えばメールアドレスに一定の文字列が入っているとかだ。会社の外に向けて、社内のリソースをどう確保しているかを開示する必要はないのだろうから、それで良いのだろうが、その会社の人間でもない派遣社員に、その会社の人間です、ということを表す名刺を持たせ、そう名乗らせることに問題はあるという見方もある。
都はもう一度全身鏡にスーツ姿の自分を映してみる。いつものぼんやりとしたような、良く言えば自由な感じの、悪く言えばどこかだらしない感じの自分とは違って、ちょっとシャキッとして見える。たまにはスーツもいいかな、と素直に思った。