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2022-02-09

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 それがあるのはわかっていた。昨年度は、都が派遣社員として勤めるこのグローバルMPLSサービスの構築を主に担当する部署に、配属された新入社員は、ヨーロッパの大学を卒業して、入社時期が秋になった植松だけだったので、本年度は誰もトレイニーとして、海外現地法人へ一年間出向するというプログラムは実施されなかった。しかし、英語は発音だけではなく、ディスカッション能力もネイティブレベル、明るい性格とその通る声で、はきはきと応答し、物おじもしないという岸谷が、今年度入社として配属されてきた。この会社が、これからのグローバル戦略にとって、岸谷はかなりの戦力になるはずだと踏んで、この毎年のプログラムを飛び越し、どこか海外法人へ異動させたとしてもおかしくはないとすら、都は思っていたくらいだ。四月から、植松と岸谷の二名が、海外トレイニーとして、一年間、海外現地法人へ出向することになった。つまり次年度一年間、二人は海外出向となる。岸谷と同時にこのグローバル担当へ配属されたのは三人だが、構築に回ったのは岸谷だけだった。
 もっともこの、大企業で知られる国内で大手の通信会社に、新卒で採用されるからには、それなりに戦力になると見込まれているのだ。ましてグローバル案件に対応しなくてはいけないこの部署には、良くも悪くも個性的な面々が配置されることは多い。植松も、岸谷も、とても個性的な人物だ。だいたい、都と分け隔てなく話ができる二人は、変わり者ですらある。そんな風に、都は自分自身を卑下気味にではあるが、可笑しく思っていたりもした。
 昨年の十一月以来、とっても仲の良い先輩後輩、年齢が一回りも離れた友達、恋人同士のような親友、どんな言葉でも二人の関係を説明するのには過不足があるが、そんな関係に都と岸谷はなった。馬が合って、たまたまその趣味というか性癖が合ってしまうから、ちょっと普通の友人同士とは異なる付き合い方をしている。都の部屋に、もう岸谷の服や荷物の衣装ケースが一つじゃ済まないくらい、しょっちゅう泊まりに来るようになったが、この海外トレイニーの話を具体的にしたことはなかった。それは、もしそれがあるのであれば、今年の四月から一年間は、ほぼ会うことが出来なくなるからだ。そんな少女のような、友達への執着心があるということが、都が三十半ばを回っても、今ひとつ大人になりきれていないということの証左に感じられ、都は自分への嫌悪感がまた増してくる。
 一度、そんな英語できるんだから、将来海外で働こうとかあるの、と都は岸谷に聞いたことがあった。確か二人でご飯を食べた後、軽くお酒を飲んでいた時だったと思う。岸谷は最初、みやちゃんと離れ離れになるの嫌だから、ないです!、と言い切って、二人で大笑いした後、住むのは日本の方が絶対良いから、あまり海外で働こうとは思わないけれど、英語を使う仕事はずっとしていたい、と言っていた。将来的には、外資系に転職とはあるかもしれない、とも言っていた。
 岸谷は、父親の仕事の都合で、十代後半を北米で二年間過ごしたが、何事も勉強ということで、日本人学校ではなく、現地の学校へ通ったということだから、人一倍、外国人として異国で生きることの、大変さや辛さを知っている。この頃のことについては、あまり都は根掘り葉掘り聞かなかった。岸谷は、割と何でも話したがるのだが、この頃のことはあまり積極的に話したがらないから、何かあったのだろう。時間が経てば、話してくれるかもしれない。そう思って、都は岸谷が話したがらないことにはあまり触れないようにしていた。それは自分もそうだからだ。岸谷は、話したくない話題になると、決まって、上手く話を別の話題へ変えようとする癖があって、それは滅多に出ないが、急に出てくるから、都にはわかりやすかった。ただ、単純に話したいことが多過ぎて、話がとっちらかり過ぎ、そうなることもあるから、あれ、これ話したくないんだ、と都が思うと、後でその話題に戻ったりする時もあり、菜奈って面白いね、と岸谷をからかったりもする。
 人事からの正式な発表の数ヶ月前から、本人には頭出しがあり、準備をするようにということと、まだ周囲には言わないようにということを言われるそうだ。確かに、人事異動の発表があると、オフィスで異動になる人が、マイクを使って挨拶をしたりするが、驚く人や、驚かない人がいて、事前に聞いている人もいるんだな、と都は思っていた。岸谷は人事から、というよりその頭出しは直属の課長からあるのだが、頭出しのあったその日に都に教えるから、笑ってしまった。大事な話があります!だから今日、みやちゃんち泊まりに行きます!と、仕事中にチャットアプリでメッセージが来て、また急だなあ、何ー、と思って笑ってしまったものだが、結局、あると覚悟していたものが、現実にやはりなるのだ、ということを知らされた。彼女にとってはキャリアを広げる経験になるので、おめでとう、でしかないはずなのだが、やったあ、おめでとう、という笑顔を作ることは都には無理だった。
 それでも、仲の良かった幼馴染が引っ越すと決まった時の、あの何とも言えない、これでもう会うことはないかもしれないという、消えて行くように遠のくような寂しさや、兄が結婚を決めたことを聞いた時の、体が真ん中から真っ二つに引き裂かれるような心の痛みを感じたりはしなかった。それだけ、都も大人としての友人関係を、岸谷と築けていたのだろうか。毎日顔が見られなくなるのは寂しいし、泊まりに来る度、愛し合うくらいの肉体的な愛おしさが募り、肌を合わせて愛し合えないもどかしさが出てくるだろうが、それでも、岸谷との関係に何か根本的な変化があるとは思えなかった。
 三月の祝日と有給や代休を使って、温泉旅行に行けなくなったのは、この期間に、植松と岸谷は、トレイニーとして赴く現地へ行き、住むところを探して、現地で必要な準備をある程度する必要があるということだからだ。都と岸谷は、岸谷が都に出向を打ち明けた翌日の残業中に、二人の工事予定やスケジュールを確認して、なんとか二月中か、三月頭の週末のどこかで、月曜に土日工事の取っていない代休を当てるか、有給を取るとかして、どうにか二泊三日の温泉旅行をなんとかやるんだと、なんだか二人で一生懸命になっていた。仕事もこれくらい一生懸命やんないとね、と都は冗談を言った。
 「何言ってんですかー、みやちゃんはー、もっと休んで良いんですー。」
 岸谷はそんなことを言った。アドミンの子に聞いたところでは、大体このフロアで月毎の残業ナンバーワンは、都のことが多い、とのことだから、それを受けてだろう。岸谷の上長、高松の方が多いはずだが、よく考えたら、課長には残業、というものはつかないのだった。
 結局、なんとか二月最終週の土日と、翌月曜に有給を当てて、北関東の温泉地へきちんと二泊三日で行くことが出来た。露天風呂付きの個室で、ほんとうにゆっくりと二人で楽しく過ごせた。楽し過ぎて、帰る時旅行が終わるのが辛過ぎて、二人ともしんみりしてしまい、あまりにもしんみりし過ぎて二人で最後には大笑いしてしまった。
 都はほとんど会社の飲み会には出席しないのだが、さすがに岸谷と植松の壮行会だけは、出欠を取るため共有になっているスプレッドシートの自分の欄に、ほとんど書いたことのない丸をつけた。実際、壮行会へ出ると、間宮さんいるの珍しいですね、と冗談半分に、正社員、派遣社員関わらず、複数の同僚から言われた。岸谷は最初の乾杯から、都の隣の席に座っていて、座ったテーブルの食べ物の取り分け係を率先してやったり、回りと会話するにしても、都に時々話を振ったくれたりしていて、放っておくと、都が一人何も喋らないで、ただ回りの笑いに合わせて、愛想笑いを浮かべているだけにならないようにと、気を配ってくれた。自分のための壮行会なのに、年上の派遣社員に気を遣わせてしまっていて、都は申し訳ないな、と思っていた。
 岸谷は、植松と同様、この壮行会の主役だから、あちこちのテーブルに呼ばれて移動しないといけなかった。特に部長、課長がいるテーブルには長くいたようだ。都が派遣社員として勤めている、このグローバルMPLSの構築担当は、社員、派遣社員共に、特に派遣社員に女子は多いが、部課長は全員男性だから、どうしても男性のテーブルに女子が一人だと、どうも給仕役のような扱いになってしまう。さすがにセクシャルハラスメントにならないようには、酔いが回っても気をつけているだろうが、酔いが回った五十代に囲まれる岸谷が少し都は心配だった。岸谷は、可愛ければ愛想も良く、はきはきした女子で、豊満な胸を持っていることからも、男子にとっては、酒席のテーブルには欲しい人材だろう。
 岸谷が隣からいなくなってしまうと、都はほとんど喋れなくなってしまう。ただ、回りの会話で笑いが起きるたびに、合わせて愛想笑いを浮かべているしかない。都も一応女子だから、岸谷が座っていた席に、都と面識があったり、普通に話すくらいはする社員や派遣社員の男子が来てくれることはあるのだが、都が話し下手なので、あまり話も盛り上がらず、別の席へ移動されてしまう。仲の良いグループは同じテーブルでずっと動かなかったり、あちこち動いていろいろな人と会話しようとする人がいたりと、自由な宴席だが、喋る相手もおらず、同じ席から動かないのは都くらいだろう。時折、飲み屋の喧騒だけがうるさく頭に響き、人の会話が具体的に聞き取れなくなる。早く終わらないかな。そんな風にだんだん思うようになってしまう。岸谷がいる時に、ついついジョッキのビールをほとんど開けてしまったから、回っている酔いもきつい。
 一次会が終わって、店を出ると、二次会へ行く組みと、帰る組とで別れた。都は、やっと苦痛な時間帯が終わった、とまだ名残惜しそうに立ち話をしたりする人々に軽く頭を下げてから、溜息混じりに駅へ向かって歩き出した。夜なのに街や飲み屋の明かりは眩しく、やかましい。
 「間宮さん!」
 背中から都を呼ぶのは、とても聞き慣れた、通る岸谷の声だ。振り返ると、岸谷は植松と一緒に都のところへわざわざ走ってやってきて、今日出席してくれたことに対してお礼を言ってくれた。二人ともまるで最敬礼のように頭を下げるので、都は否定を返しながら、こちらこそ呼んでくれてありがとう、と返すしかなかった。
 「とんでもない、楽しかったよ。」
 都はそう言った後、二人ともがんばってね、と言おうと思ったのだが、先に岸谷に口を挟まれた。
 「嘘です。間宮さんー、つまんなそうな顔してたのー、見てましたよー。」
 岸谷は、いたずらそうな色と、放っておいてしまう形になって、ごめんなさいとでも言いたそうな色が、混じっていて、そんなに気を遣わせてしまって、都は本当に申し訳なく思うと同時に、あれだけ慌ただしい中、自分を気にかけてくれていたことが嬉しく、涙が出てきてしまいそうだった。植松も、都が飲み会が苦手で普段出席しないのを知っているので、本当にすみませんー、といつもの東南アジア風の、手を合わせて頭を下げるやり方で都に頭を下げた。植松とはこの壮行会の最中、口を交わす機会がなかった。今日初めて喋るよね、と都がちくりと刺すように言うと、岸谷は、植松さん、間宮さんに挨拶行かないってどーゆーことですかー、と詰め寄っていて、植松が先輩社員などに捕まっていて、行けなかったと平謝りするが、一番先に間宮さんでしょー、と岸谷にさらに絡まれていて、都は大笑いした。
 都が派遣社員として勤めるこの通信会社には、他の大企業と変わらず、社員のための寮があって、都内近郊に実家がない新入社員は寮に入ることが多いようなのだが、岸谷は職場から近い都内の安いアパートに一人暮らしをしていた。何れにせよトレイニーとして海外へ出向する前に、アパートを引き払わないといけない。三月の祝日からその週末にかけて、当地の住居探しなどの準備のために現地へ渡るので、その前に引き払ってしまうと言う。岸谷の実家は、東京の隣の県の一つにあるが、かなり南にあって、東京へ通えないこともないが、都の実家から東京へ出るよりも時間がかかるから、ちょっと厳しい。もっとも多くの父親母親というものは、郊外に家を買って、長い通勤時間をかけて、出社しているものだ。そうしながら、子供を育て上げて行く。都は、要するに幼くわがままなのだ。
 そもそも岸谷は、二年目に海外トレイニーがある、というのは入社時から聞いていたから、あまり荷物を増やさないようにしてはいたが、どうしたって必要なものはある。冷蔵庫なんかはどうしたって必要だ。家電や家具は整理するか、実家か弟の部屋へ送ったそうだ。しかし、衣服の一部や、普段使いの化粧道具のスペアなどは、都の部屋へ送られてきた。トレイニー期間も何回か日本へ帰って来る機会があるが、その時は都の部屋へ帰って来たい。そんな風に甘えられてしまった。都には断る理由なんかない。むしろそうしてくれて嬉しかった。最後の一週間は、都の部屋から通って、金曜に実家へ帰り、週末に現地へ旅立つと言う。
 金曜の朝二人で出社して、終業後、そのまま岸谷は実家へ帰ると言うから、木曜の夜を最後に、しばらくは二人で夜を共にすることどころか、お茶を飲んだり、手をつないだりすら出来なくなる。木曜の夜、都の部屋の、スノコの上に敷きっぱなしのマットレスとセミダブルの敷き布団の上で、いつものように裸で毛布と布団に二人でくるまった。これでしばらく会えなくなるなんて、信じられないですね。そう岸谷は言うけれど、都もそれは同じだった。ちょっと寂しいが、それでも今はチャットツールがあるし、電話機能だってカメラを使って顔を見ながらすることだって出来る。都は、今まで他人と構築したことのないような関係性を、岸谷との間に感じていた。それは深いんだけれど、どこかさっぱりしていて、一年程度離れていたからって、どうにかなるようなものとは思えなかった。今は目の前に岸谷がいて、触れることもできれば、唇を重ねることもできるから、楽観的過ぎるのかもしれないけれど。それでも将来、岸谷が結婚したり、子供が出来たりして、会う機会がどんどん減っていったとしても、この関係性は変わらないような気がした。
 「次いつ帰って来るんだっけ?」
 都は電気を消してから聞いた。
 「たぶん、ゴールデンウィークには一度帰って来ると思います。」
 岸谷がそう答えると、なんだ、すぐだね、と二人で笑った。明日も仕事だからと、一度だけ愛し合って、二人で抱き合うように眠った。目が覚めたら、しっかり一人一人離れて寝ていて、可笑しかった。
 金曜の朝はいつも通り、バタバタとしていて、これが最後の朝です、とかふざけてるばっかりで、何かしんみりしたり、浸ったりとかは全くなかった。都がいつもそうするように、敷き布団の上で留守番するように控えている、ペンギンのぬいぐるみたちに、岸谷は挨拶していた。
 「いってきます。みんなみやちゃんをよろしくね。五月に一回帰って来るから。あたしが向こうでくじけないよう、応援しててね!」
 そう言いながら岸谷は、ペンギンのぬいぐるみ一匹一匹の頭をぽんぽんと叩いていた。くじけないように、と言う岸谷の言葉に、都は少し引っ掛かった。いつも笑顔で、都と過ごしているときは楽しそうにしているけれど、仕事中は席も離れているし、同じプロジェクトに二人でアサインされたことは、CJ案件を除けばない。岸谷の案件で都がアサインされていなくても、技術的な相談を受けることはあったり、トラブル時に手伝ったり、LAN切り替えを臨時SEとして一緒に工事をしたりはあるが、常に彼女の仕事ぶりを見ているわけではないし、彼女が仕事中でぶつかる、それは業務上だけではなく、会社員としてのミッションを遂行する上でぶつかる困難を、全て知っているわけではない。岸谷は、正直に愚痴を都に吐く方だから、大体は把握しているが、それが全てではないだろうし、辛いと一人で思うこともあるだろう。都は、一体そんな岸谷をどれだけ支えてやれたり、励ましたり、慰めてやったり、出来ているのだろうか。そう考えることさえおこがましいのか。結局、都は肉体的な快楽のためだけに、岸谷を自分の部屋へ入れているだけなのか。いろいろなことが、彼女を送り出す日だと言うのに頭をめぐってしまう。
 出勤時はプライペートじゃないんだから、と別に決めたわけではないけれど、手をつないだりはせず、ただ並んで駅まで歩くのが、平日や日曜などに岸谷が都の部屋へ泊まりにきた翌朝の出勤風景なのだが、今朝は岸谷は都の左手を握って、駅まで歩いた。
 勤務時間中、都は保守担当から頼まれた相談ごとの対応と、例の構築で何も走ってなくても、構築へお客責任区分範囲のトラブル相談を持ち込んでくるお客のトラブルについて調べたりと、慌ただしかったので、岸谷と口を利いている暇がなかった。岸谷も異動直前ということで、引き継ぎやらなんやらで忙しかったらしい。
 定時の終業時刻の15分くらい前になって、岸谷のメンターをしていた社員の下山が、この広いフロアで全員に周知があるときに使う、スピーカとマイクを、部長席の横で用意をして、マイクテストを始めた。
 「みなさん、お忙しい中すみません、今日で異動というか、海外トレイニーとして旅立つ二人から、みなさんにご挨拶をしてもらおうと思います。」
 下山の声がフロア中に届くと、電話対応中の人以外は、全員仕事の手を止め、立ち上がった。異動や転入の人があると、よくある光景だ。派遣社員であっても、新しく入ったり、この現場を辞める時は、同様の晒し者の刑に処されないといけない。それから下山は、植松と岸谷について、軽く入社年度や人柄などを簡単に紹介した。人柄紹介では、植松については、植松のトレイニーをしていた岩砂から紹介があったが、彼は最初ぼんやりしていてどうなることと思いましたが、というところで、どっと笑いが起きた。それでも複数の大きいお客さんの案件を、PMとして牽引してきたことを紹介されていた。岸谷の方は、下山が担当した。最初から英語がとても堪能なので、結構まだ業務の流れなんかが、頭に入っていないうちから、海外オフショアセンターとの調整をやってもらったりと、ちょっと厳しいかな、と思っても、結構一人で乗り越えて頑張ってきた旨紹介されていた。岸谷は声が大きいから、たぶんこのフロアでは名前は知らなくても、声を知らない人はいない思います、と言ったところで、また笑いが起きた。岸谷は恥ずかしそうにしながらも、大きく口を開けて笑顔だった。
 挨拶は植松からだった。相変わらず、真面目なのか、不真面目なのか、微妙にわかりづらい口調で、それだけで都は可笑しくなってしまうが、結構メールとか喋る調子とか、読んだり聞いたりしていると、文章を構築するのが上手いので、副業で喋る仕事か書く仕事してるでしょ、と時々ふざけて突っ込んだものだ。この一年半で得た経験を生かし、さらに飛躍できるよう一年間頑張ってくる、一年後には、成長した姿を皆さまにお見せします、というような内容で、最後には拍手を受けていた。都も、親しいだけに、本当にがんばってほしいな、と素直に拍手を送った。彼がいなくなってしまうのも、都には寂しかった。
 そして、岸谷にマイクが渡された。
 「高松課長グループの岸谷です。」
 そういつもの通る声で名乗ったところ、このグローバル担当では古株の社員で、毎日起こる海外オフショアセンターとのトラブルをスーパーバイズする役割がメインなのだが、後輩社員のフォローなどもよくやっていて、若い社員からの信頼も厚い男性から、今あちこちで、ああ、あの声の、って思われてるぞ、と茶々を入れられ、笑いが起きていた。岸谷もマイクを離して、笑っている。声が大きくて、ご迷惑をおかけすることも多かったと思いますが、と岸谷自ら言うのっで、また笑いが起きていた。声が大きい、と言うより、とても通る声なだけなんだけどな、と都は一人思った。
 その後、植松と同様の、未熟ではあるが、この一年の経験を生かし、現地法人での業務に早く慣れ、成長できるよう頑張ってくる、といった旨を喋った。背筋を伸ばし、時折視線を左右に振り分けながら、相変わらずのしっかりとしたビジネス喋りですらすらと話す姿は、普段の岸谷とは全然違って、本当に頼もしく、立派なビジネスパーソンだった。しかし、岸谷はさらに続けた。
 「私は、こういう性格ですので、あまりそうは見えないかもしれないですが、何度かくじけそうになることが…、ありました。」
 一瞬、岸谷の声が揺れたのを都は聞き逃さなかった。都は岸谷の泣き言を聞いたことがないわけではないし、もーやだー、とわーわー都の部屋で駄々をこねるように、愚痴を言うこともしばしばで、都は一緒になってその愚痴に同意したり、笑ったりしてあげるしかなかったが、それなりに辛いだろうな、とは思っていたから、込み上げるものがあるのかもしれない。
 「…しかし、それでも一年間、続けることができたのは、高松課長、メンターを引き受けてくださった下山さん、多くの先輩にご助力いただき、叱咤激励いただいたおかげです。ありがとうございました。向こうへ行ってからも、引き続き私の面倒を見ていただけますこと、ご期待申し上げておりますので、何卒どうぞよろしくお願いいたします。」
 礼を言ったと思ったら、ちょっと冗談っぽく、出向中も面倒みてくださいね、のような調子で言うので、課長陣、社員陣は笑っていた。特に課長陣からは大きな笑いが起きていた。社員同士、というのは役職、先輩後輩にかかわらず、どこか家族というか、兄弟姉妹というか、要するに内輪だという意識があって、その内輪だけでしか通じない会話、というものがあり、そういうのを聞くと、派遣社員というのは、当たり前のことだけれども、外様なのだな、と実感する。こういう社員の異動の挨拶では、それを強く感じることがあって、岸谷の場合もそれは同じだった。
 「そして何よりも。」
 一度頭を下げたせいで、少し前や脇へ降りてきてしまった髪を直しながら、岸谷は続けた。
 「ものすごいトラブルになった初めてのオンサイト作業や、初めての他キャリアからの巻き取りプロジェクトのPMを担当させていただいた案件、その他、本当にいろいろなトラブルの相談など、あらゆる場面で、とても親身にサポートいただいて、それだけではなくて、プライベートでもいっぱい遊んでいただいた、間宮さん。」
 岸谷はそう言って、視線で都を探した。都は部長席の横からは柱の影になるので微妙に見えないのだが、都は岸谷が見えるよう、少し席から離れて、都の斜め後ろの席の、秋田の隣に立っていたから、岸谷と目が合った。
 「間宮さんのおかげで、私は強い自分をでいることが出来ました。本当にありがとうございました。」
 岸谷はそう言うと、客宅を出るときのように、深く腰を折って、頭を下げた。多くの人が都の方を見るので、都はどういう顔をしていいかよくわからなかった。都は、自分がずっと泣きっ放しだった兄の結婚式で、泣くのが止まってしまった、あの結婚式最後の、兄がスピーチで言った、都がいたから、僕は強くなれました、僕の妹でいてくれてありがとう、という一文をふと思い出した。
 「これ公開処刑ですか?」
 隣に立っている秋田が小声でそう言うから、都は破顔してしまった。手を叩いて大笑いしたかった。
 最後に岸谷は、それでは、植松さんと二人で、羽目を外し過ぎないよう、と冗談を言って、場を笑わせてから、一年後成長した姿を見せることを宣言して、お礼を言って挨拶を締めていた。大きな拍手がオフィス中から起きた。都も、ほんとうにがんばってね、と心から拍手を送った。都はちょっと泣いてしまいそうだった。
 マイクをこのオフィスを束ねる担当部長が取り、二人に対して、この一年頑張ってきたことを労い、四月から一年間、海外の現地法人でトレイニーとしてただ教わるというだけではなく、自発的に物事に取り組む姿勢で頑張って欲しいといった旨と、会社のスローガンに絡めた激励の言葉とを二人に贈り、再度皆で拍手で送り出しましょうと言って、オフィス中から割れんばかりの拍手が起きる。退職や異動の時は、お別れという意味で花束が贈られるのだが、今回は一年経てば戻ってくるとは言え、やはり一年間はお別れだし、頑張ってね、という意味もあるのだろう、二人にも花束贈呈があった。
 「みやちゃん!」
 その声は岸谷の挨拶の頭で、茶々を入れていた社員だ。都は彼とは事務職の頃からの付き合いで、いろいろと業務上のことだけではなく、理解するために技術的にこうだ、とか基本的な事柄から丁寧に教えてもらった縁もある。くだけた人なので、都のことはみやちゃんと結構昔から呼んでいる。すると、末谷課長や、高松課長などの課長陣からも、間宮さん、間宮さん、と手招きして呼ばれた。都は何事かと思って、小走りにそっちへ向かった。オフィス中の人が立ち上がっている中、小走りに移動するのはちょっと恥ずかしかったが、課長陣に呼ばれては、行かないわけにはいかない。
 「間宮さんが岸谷に花束渡してくれる?」
 末谷課長に、都はそう言われて、本来花束を渡す役だったのだろうか、岸谷の直属の上長である高松課長から、花束を差し出された。都は戸惑った。ただの派遣社員でしかない都が、新入社員が無事一年目を勤め上げ、海外現地法人へとレイニーとして一年間出向する。そんな会社が予算を割いて社員を育成しようというイベントに、派遣社員が関わっていいものか。
 それに、都は今の担当部長が好きではなかったし、向こうもそうだろう。いや、派遣社員を人間と思っているのかどうかすら怪しい。なぜなら、オフィス内やビル内の廊下ですれ違った時、社員の挨拶には挨拶を返すのに、都や他の派遣社員の挨拶には挨拶どころか会釈すら返さない。派遣社員の顔なんて全員覚えてられない。そうかもしれない。しかし、都が事務の仕事をしていた頃の担当部長は、都のような末端の派遣社員の挨拶にも挨拶を返してくれたし、驚くことに名前と顔と何の業務を担当しているか全て一致して覚えていてくれた。その人とどうしても比べてしまう。そんな彼が派遣社員に、こんな場での自分たちの可愛い新人部下の旅立ちへのはなむけに参加させるのを許すわけがないと思った。
 しかし、課長陣全員でそう言ってくるということは、これは事前に部長にも通してある話のはずだ。都は、もしかしたら大きく部長を誤解しているのかもしれない。そんな気もした。
 「あ…、あたしで良いんですかね…。」
 都は高松にそう言わざるを得なかった。
 「是非、間宮さんにお願いしたいです。」
 高松は丁寧に腰を折りながら、そう言った。ふと岸谷を見ると、岸谷はちょうだい、と言わんばかりに両腕を広げて、良い笑顔をしていた。都は、では僭越ながら、と言って、高松から花束を受け取った。植松には、女性の先輩の正社員が花束を渡す役を引き受けていた。
 二人で揃って、花束をそれぞれ二人に渡すと、大きな拍手がオフィス中からまた起きる。隣の女性の正社員は、何か植松に声をかけている。都は、がんばってね、とか何か声をかけながら、花束を渡そうと思った。しかし、どういうわけか、急に涙が目から、ぶわっと音が出たんじゃないかくらいの勢いで、溢れてきてしまった。
 「やだ、あたし泣いちゃったよ。」
 そう言いながら花束を渡すしかなくなった。
 「間宮さーん、泣かないでくださいよー、あたしも泣いちゃうじゃないですかー。」
 岸谷はその大きな瞳から涙をこぼしながら、そう涙声で言うけれど、涙声でも通る声なので、オフィス中に聞こえるから、また笑いが起きて、さらに拍手が起きた。
 下山の、皆さんどうもありがとうございました。と言う締めの言葉で、全員仕事へ戻った。都は涙を拭いながら、自席へ戻るが、涙が止まらなかった。すでに着席していた秋田に、本当に公開処刑だよー、と笑って言うけれど、涙声なのはどうしようもなかった。
 「なんか岸谷にまじで仕返し考えた方が良いですよ。」
 秋田は悪そうな風でそう言うので、都は大笑いしてしまった。

 仕事は毎日何かしら慌しい時間帯があったし、結局は職場なわけだから、岸谷がいなくなったオフィスにはすぐ慣れた。しかし、自分の部屋へ帰って、毎日一人で過ごしているのは、少し寂しかった。一週間以上経つと、岸谷の肌が恋しくなってきて、少し苦しかったけれど、耐えられないと言うほどでもなかった。何しろ、毎日のようにチャットのやり取りはしていたし、時折夜寝る前に、二人でカメラをオンにしてチャットの電話機能で会話をしたりしているから、顔も見ているし、どこかでずっと繋がっている感覚があって、それは都をとても落ち着かせてくれた。
 週一回、部屋を掃除をする時、家具や荷物やらを動かさないといけないのだが、しょっちゅう泊まりに来ていた時よりも、外国へ行ってしまった今の方が、岸谷の荷物は多くて、都は掃除の途中で、いつも岸谷にチャットで、もう邪魔ー、と文句を送って岸谷を笑わせた。
 兄嫁は二番目の子でお腹がかなり大きくなってきた。一人目の時は、母が今よりも若かったし元気だったので、母がよく兄の家へ行って、いろいろ手伝いをしていたし、兄嫁の姉や、兄嫁の母がやはり交代で来ていたりしていた。一人目の頃は、都は兄嫁の顔も見たくなかったし、声すら聞きたくなかったから、一切兄一家と関わらなかった。今考えると酷い小姑だ。しかし、今は母は病気もあるし、体も弱っているから、兄の家へ手伝いに行かすわけにはいかない。兄嫁の家族だけに頼りきりというわけにも、当然いかない。だから、都が兄の家に、家事を手伝いに行ったりするようになった。こんなこと、ちょっと前だったら、考えられなかった。もっとも体の弱くなった母を行かせるわけには行かないから、結局は手伝いに行っただろうけれど、今のように、割と前向きな気持ちで、兄の家へ向かえはしなかっただろう。兄嫁への醜い嫉妬は、消えたわけではないし、体の半分が千切れたままのような感覚がなくなったわけではないけれど、やはり一人目の子、都にとっての姪が、ものすごい都に懐いてくれているのもあって、兄嫁のありがとうございます、と言う言葉を、兄の家で素直に受け取ることが出来た。都の部屋と兄の家の距離の問題もあって、兄の家から直接仕事へ行かなければいけない時もあったが、兄嫁と一つ屋根の下で夜を過ごすのも平気になっていた。姪の相手をするのは、都にとっても楽しかったし、子供の体力について行くのは大変だが、姪の楽しそうな笑顔に癒されもした。都も少し大人になれたのだろうか。兄の家に泊まると都の部屋はないから、いつものように何も身につけずに眠る、というわけにはいかなくて、下着をつけて部屋着を着ないといけないのがちょっとだけ気に入らなかったが、都が泊まるというと、姪が一緒に寝たがるので、これも仕方がない。
 兄の家には兄嫁の姉、兄嫁の母、そして都で手伝いを回していた。兄嫁の家族は二人出しているのに、兄の家族は都一人だけ、と文句を言ったりするような人たちではなかったし、むしろ一番兄の家から遠く、仕事も忙しい都に気を遣ってくれていて、都の出番を出来るだけ減らすように工夫をしてくれたりと、申し訳ないくらいだった。
 ある日、兄の家の食卓で、ちょっとした姪の発言に、兄嫁と都とで一緒になって笑ってしまった。そんなことがあった。その夜、兄と二人で、兄の家の台所に並んで洗い物をしていた時に、ふと兄が言った。
 「ようやく、雪解けの季節かな。」
 都は、思いっきり舌を出して、ベー、と言ってやった。兄は大笑いしていた。
 今年は、と言うより最近は毎年そうな気がするが、四月でも夏日になってしまう日もあって、仕事以外となれば、都はもうブーツではなく、ビーチサンダルを履く日が多くなった。
 四月の中旬を回った日、早く帰ってこれたので、都は自炊しようと思って、冷蔵庫を開けて何作ろうか、と考えていると、塩が切れかかっていたのを思い出した。買い物行かないと、と思い立った。仕事から帰ってきて、いつものように着ているものは全部脱ぎ、今日は暑かったから、部屋着も着ずに過ごしていたので、買い物に行く服を選ばないといけない。都はベージュのパーカーワンピースをクローゼットから出して、それだけを被った。少し厚手なので、都の小さい胸ならこれ一枚で問題ない。都はスマートフォンはポケットに入れ、財布だけを持って、玄関側の収納の扉の全身鏡を玄関の方へ向け、ビーチサンダルを履いてから、全身をチェックした。うん、可愛い、と都は自分で思うと同時に、岸谷にこの格好見せたら可愛い、って言ってくれるかな、と思うと、自然と笑みがこぼれた。前髪をちょっと直してから、鏡に映る自分を撮って、かわいい?というメッセージと一緒に写真をチャットで岸谷に送った。すぐにペンギンがハートマークいっぱいで嬉しそうにするスタンプと一緒に、かわいいー、とメッセージにもハートマークを付けて返してくれた。
 派遣関連の法律が変わったとかで、派遣会社から、都は夏の契約切り替え時に、ここを辞めるか、派遣元と、無期雇用契約という、ただ書面だけの、本当に何の利益が派遣社員側にあるのかよくわからない契約へ切り替えるか、どちらかにする必要がある言われている。どちらにするかは決めかねていたが、どちらでも結局、正社員とは違うのだから、どっちだって同じな気もした。ただ、何か選択肢が狭まって、ますます都のように、一度普通の生き方から外れてしまった人間が、二度と通常軌道へ戻ることが出来なくなるように、世の中がなっていくようにしか思えなかった。都はお客の責任区分範囲のサポートをするプロジェクトに関わることが多かったが、これからはもっと本気でそういうものに関わって行くような仕事へシフトした方が良いのだろうか。ふとそう思った。それはSIというものなかもしれないし、企業の社内ITなのかもしれない。何れにせよ、岸谷が海外へ踏み出したように、都も新しいところへ踏み出す時機が近づいているのだ。そんな気もした。
 ゴールデンウィークはあっという間にやってくる。そうすれば、岸谷が一時帰国する予定だ。買い物のために部屋を出ると、既にすっかり夜だ。流石にまだ四月だから、裸足の指先がちょっと涼しいけれど、パーカーワンピース一枚で外の空気に触れるのは、すごく気持ちが良かった。