19-08

19-08
ゼリーを食べ終わって、ちょっとお茶を飲み、トイレを済ませると、備え付けの机の上に乗せた都のスマートフォンが振動した。間宮さん、私そろそろ行けます!と、岸谷からチャットが来た。メッセージの後に、おかしな造形の細身の人間が、ダッシュで走るスタンプが送られてきていて、都は声を出して笑ってしまった。都はちょっと待ってと送ってから、脱いでしまっていた浴衣をちゃんと着る。都の身長では、フリーサーズの浴衣だと結構端折らないといけない。帯を蝶結びで止めて、ドアの近くにある全身鏡まで行き、きちんと着られているか確認する。可愛く着れた、と一人で悦に入る。
都は一人で温泉旅行へ行くのが好きなので、ホテルや温泉の浴衣を着るのは結構得意だった。本物の着付けが必要なやつは、とてもじゃないが一人では着れないし、着物は窮屈であまり好きではないから、大人になってからは着ようとも思わなかった。もちろん着付けを覚えようとしなかった、というのもある。子供の頃は、兄に近所の夏祭りに連れて行ってもらったりした時や、夏休みに家族四人で旅行に行った時などに、母に浴衣を着せてもらったりしたものだ。中学、高校時代の夏には、仲の良かった幼馴染みと、二人で浴衣を着て過ごす、という遊びもしていた記憶もあるが、今ではちゃんとした浴衣はすっかり着なくなってしまった。
ユニットバスの棚に、バスタオルやボディタオルがあるので、それを取り出し、財布、スマートフォン、家の鍵や車の鍵なんかを吊るしてあるキーホルダー、それと持ってきた洗顔フォーム、化粧水と乳液を入れた小さな携帯ボトル、携帯用のヘアブラシを乗せる。岸谷にチャットで、準備オーケーであることを知らせると、すぐにじゃあ行きましょう、と絵文字の感嘆符付きで返って来た。
都は、思わず裸足のまま廊下へ出そうになり、慌てて、クローゼットの中にあった、館内履き用のスリッパを出したが、ビニール袋に密封されていて、一度持ったバスタオルなどの荷物をベッドへ一旦置き、両手を使って破り開けないといけなかった。すぐ出る、みたいなことを書き送っておいて、バタバタしているので、都は自分で自分が可笑しくなってしまい、笑って手に力が入らない。何とか密封のビニール袋を開けて、ぺらぺらのタオル地のスリッパを出して履いた。
すでにドアの向こうでは向かいのドアが閉まる音がしていて、都はきゃあきゃあ、言いながら慌てて出た。岸谷は、ジャケットは脱いでいたが、まだカットソーシャツとタイトスカートで、足には都と同じスリッパを履いていた。スーツにホテルの薄いスリッパ、という姿は、出張の仕事がようやく終わって、リラックスタイムに入ったビジネスパーソンといった雰囲気だ。裸に浴衣だけというだらしのない格好の都には、とてもそんな空気はないだろう。一瞬、これが新卒で正社員として採用される人間と、派遣社員として何とかこの通信業界で食べて行っている人間との違いなのだろうかと、卑屈な思いが過った。
「間宮さーん、もー浴衣なんですかー。言ってくださいよー。」
岸谷は、目を丸くしながら、小さい声で不満そうに言った。静かな廊下で、岸谷が声を低めて喋るときに聞こえてくる、舌が口蓋に当る音が良く耳に届いて、都はその声をずっと聞いていたくなる。
「あたし、お風呂出てから着ようと思ってー。」
岸谷は両手で抱えたバスタオルの上に積まれた、畳まれたままの浴衣を見やりながら言った。
「じゃーあー、お風呂出たら、一緒に浴衣でお酒飲も?ね?」
都は面白がって、あやすように言った。
「はーい。」
岸谷は、そんな風にあやされるのが嬉しいのか、にこにこしながら不満そうに言っている。都にはそんな岸谷がとても可愛らしく思えた。
エレベーターで大浴場のある最上階まで行く。二基あるエレベータのうち片方は動いていて、もう片方は最上階で止まっている。都たちと同様、大浴場を使う宿泊客だろう。空いてるといいなあ、むしろ貸切状態希望、などと思っていたが、ちょっとさすがに難しそうだ。
「二人でお風呂なんて、どきどきしますね!」
岸谷がエレベータに乗ると、ふざけているのが丸わかりな調子で、恥ずかしそうに言うが、笑ってしまっている。
「ばかじゃないの!」
都が岸谷の語尾に被り気味に突っ込むので、二人で大笑いしてしまう。
可笑しさが収まらないうちにエレベーターが最上階へ到着し、扉が開くと、エレベータを待っていた四、五十代の浴衣姿の男性が、タオルをマフラーのように首から下げて立っていた。都と岸谷は笑ってしまいながらも、頭を下げて会釈をしながら、その人と入れ替わった。エレベーターの扉が開く前から、中で女二人の笑い声が聞こえたからだろう、かなり怪訝そうな顔をしていた。もう日付けも変わっているのに、女二人がきゃあきゃあしながらエレベータから降りてきた。しかも笑いながら自分の横を通り過ぎるのだ。不審なことことの上ないだろう。
大浴場の手前にある、貴重品を預けるロッカーに、それぞれ財布やスマートフォンなどを仕舞う。隣の下足箱には同じスリッパが並んでいるが、数的にはそんなにはない。6、7人くらいだ。全部男性だとしたら、女湯は貸切だと、都はまだ期待してしまっていたが、実際に脱衣所へ入ると、脱衣カゴが並ぶ棚には、浴衣やバスタオルが入った脱衣カゴが二つあって、先客はいるようだった。その既に使用中の脱衣カゴ二つは、他人同士のものらしく、かなり間隔が空いていた。都と岸谷は、その2つから距離が取れる位置のカゴを二つ選んで、それぞれバスタオルなどを入れた。
都は帯を解き、丸めて脱衣カゴへしまってから、浴衣を脱いだ。隣で岸谷が、きゃあ、とびっくりしている。
「間宮さーん、下何も着てなかったんですかー。」
「そーだよー。」
都は変に恥ずかしがる方が恥ずかしいので、もう堂々と浴衣をたたんで、脱衣カゴへ放り込み、持ってきた私物の洗顔フォームと、ボディタオルだけ持って、岸谷の方を向いて当たり前のように突っ立ってみる。でも、やっぱりちょっと恥ずかしので、空いている左手でうなじのあたりを掻いたりしてしまう。脱衣所の床は畳敷きになっていて、裸足には気持ちが良かった。大浴場の脱衣所だから、裸でいることは何もおかしくはない。しかし、今は脱衣所に二人しかいないし、隣の岸谷がカットソーシャツにタイトスカートでいるので、居心地がちょっと悪い。
「菜奈ー、早く脱げよー。」
都は恥ずかしいのを誤魔化したくて、ふざけて意地悪に言った。都はふざけた勢いなので、下の名前で岸谷を呼んだ。
「やだー、恥ずかしいですぅー。」
岸谷は、わざとらしく恥ずかしがって見せて、結局語尾で自分が可笑しくなってしまい笑ってしまっている。
「あたし先入るー。」
「あー、待って、待って!」
都が踵を返そうとすると、岸谷は笑いながら慌てて、スカートのホックをはずし始めた。都は、岸谷が服を脱いでいく様子を見ていようかと思ったが、それもなんだかいやらしいので、脱衣所の洗面台などの調度品を見て回った。鏡には脱衣所を歩き回る裸の自分が映っていて、公共の場で裸でいることに奇妙な開放感を覚えたりする。ここは大浴場の脱衣所なので、そうすることは別に珍しいことではない。そう冷静に捉え直してしまうと、その開放感も大して感じなくなってしまう。洗面台ごとに試供品のような使い切りの化粧水や乳液、香水などのパック、携帯用に使えそうな小さなブラシなどが入った小さなカゴと、ヘアドライヤーが置かれている。脱衣所に無料の給水機や扇風機、体重計なんかもあるのは、どこでも同じだろう。
「間宮さーん、お風呂行きましょー。」
振り返ると岸谷もすっかり全部脱いでいて、持ったボディタオルでなんとなく裸が隠れるようにしている。こういうところでは、それが正しいエチケットというものだ。都みたいに、素っ裸で堂々と歩っている方が変だ。
「ほっっっっんとに、嫌味なくらい胸おっきいよねー。」
都はまじまじと岸谷の大きな胸を見つめた。
「そーですかー?そんなことないですよー。」
岸谷はそう言いながら、自慢げに腰に拳を当てて、大きな胸を揺すって見せる。都は笑ってしまいながらも、むかつくー、と言うと、岸谷は楽しそうに笑っている。
「…ちょっと触ってもいい?」
都は興味深そうに岸谷の大きな乳房を覗き込みながら言った。
「やん、恥ずかしいです!」
岸谷は、両腕で胸を隠しながら、コケティッシュに恥ずかしがって見せる。
「ばかじゃないの!」
都がそう突っ込むと、二人で大笑いした。誰もいない脱衣所だからと言って、深夜にきゃあきゃあ騒ぎ過ぎだ。都はちょっと調子に乗り過ぎている自分に気がつく。自分をこれだけ慕ってくれて、都自身も一緒にいると楽しくて、一回りも年が違うのだけれど、こんな風に付き合える他人に出会ったのは一体どれくらいぶりだろう。都は慣れない楽しさに変に浮かれてしまっているのだ。
大浴場はその名の通り広く、天然石を敷き詰めた床が広がっていて、その向こうに大きな湯船があった。水の音が広い空間に心地良く響いている。天然石に見えるだけでイミテーションかもしれないが、それにしては足触りは本物っぽい。湿気のある湯煙で、間接照明は滲んでいる。露天になっている湯船は奥のガラス戸の向こうにあるが、ガラスについた水滴でよく見えない。水避けのための仕切り板の向こうに、洗い場はあるので、都と岸谷はまずそこへ行く。湯船に一人入っているのが見えた。洗い場は誰もいない。もう一人の先客は露天の方だろう。
都は体から洗うのだが、岸谷は髪の毛から洗うので、洗う順番が全然違うと二人で笑った。岸谷は耐水のポーチの中に、小さなボトルやクリームケースをいくつか入れて持ってきていた。それぞれのボトルやクリームケースには、普段使っているシャンプー、トリートメント、化粧落としや洗顔フォームを詰めてある。洗顔フォーム以外は、ホテルのものでいいやと思っていた都とは大違いだ。だいたい、宿泊になってしまうことは、出来れば想定外のままであって欲しかったのだし。用意も最低限しかしていない。都はそう言い訳しようとしたが、おそらく岸谷にとっては、これが最低限の用意、ということだろう。
「女子力が違うよねー。」
都は自虐的なのでもなく、自分をフォローして欲しいのでもなく、素直にそう思った。少し雑なところは、自分の可愛いところだと、都はある程度の自負を持って思っているところがあって、一般的に言われる女子力と言うものは低くても良いんだと、開き直ってもいる。
「そんなことないですよー。間宮さん、すっごい可愛いじゃないですかー。」
岸谷はシャワーで髪を濡らしながら言った。シャワーから流れる湯で濡れて行く長い髪が顔を隠してしまって、表情は見えなかった。
都の方が髪が短いこともあって、洗い終わるのがちょっと早かったので、体を洗っている最中の岸谷の、自前のシャンプーなどが入っているポーチと、都自身の洗顔フォームを脱衣所へ片付けてくることにした。
「すみません、ありがとうございます!」
岸谷は笑顔で送ってくれた。
絞ったボディタオルで、体を拭いてかから脱衣所へ入ると、おそらくさっきまで湯船に浸かっていた人だろう、バスタオルを体に巻いて、扇風機を回して涼んでいる。都は、こういう裸になって良いのだけれど、他人がいるのであれば、それなりに隠すことがエチケットになっている公共の場で、どこも隠さず裸で歩くことに、何か快感のようなものを覚えて、ゆっくりと都たちの脱衣カゴのところまで、畳の足触りを楽しみながら進んだ。よく今まで社会的規範を逸脱せずに生きてきたものだと、自分自身に感心して、都はくすりとしてしまう。
風呂場へ戻ると、洗い場の仕切りの向こうで、岸谷が立ち上がっていて、都を待っていた。脱衣所から戻ってきた都を見つけると、手を振っている。長い髪は洗った後、持ってきていたハンドタオルで綺麗に巻いてあるから、白く長い首が綺麗に見えている。
最初から露天の方へ入ろうと思って、露天の方へ出るガラス戸を開けたら、温度の差で外の空気は酷く寒く感じ、いきなりは無理だとなり、中の湯船で温まってから行こうとなった。二人で並んで湯船に浸かる。ため息をつきながら、気持ち良い、と二人で声を揃えて言ってしまって、二人の笑い声が広い大浴場に響く。
「くっついてもいいですかー。」
「もーくっついてるし。」
岸谷が断りを入れた時には、岸谷はもう都の腕をとって、体をくっつけてきていた。裸でくっつくとちょっとくすぐったいような、すごく仲良くなったような気がする。自分の前向きな気持ちを、素直に捉えるのが苦手な傾向が都にはあるけれど、ボディタッチの多い女子を好きではなかった都が、こうやって岸谷と肌を触れ合えるほど仲良くなっていることを、シンプルに嬉しいと感じていた。
いい湯ですね、などと月並みなこと言いつつ、ある程度温まったので、露天になっている湯船へ移動しようとなった。露天の湯船のあるスペースとを仕切るガラス戸を開けると、照明などで星空は見えないのだが、それでも高いビルの最上階で空が抜けていることから得られる開放感はあった。もっとも全天が抜けているわけではなく、近隣のビルから見えないような箇所が抜けている、という構造になっている。
深夜になれば、流石にもう11月の夜風は、湯に温まった体には冷たい。露天の浴場スペースは木張りの床に、いくつかの小さめの湯船が埋め込まれるように設えてある。真ん中の一つには一人入っていたので、都と岸谷は、角にある湯船へ入ることにした。いざ湯船に入ろうと思ったら、熱くてすぐに入れなくて、入らなければ寒くなって来るしで、二人できゃあきゃあ言ってしまった。一人で入っていた人は、こんなやかましいのが二人やってきて、さぞかし迷惑だっただろう。都が逆の立場だったら、間違いなくそう思っているはずだ。湯船に入って落ち着いてから、背中をこちらに向けているその人の、濡れた肩を見つめながら都はそう思った。
「ねー、間宮さん。」
露天の湯船に入り直した後も、都の左腕を取ってくっついている岸谷が、都と視線を合わせるために少し背中を曲げて、都に声をかけた。白い肌はすっかり湯でピンク色に染まっていて、汗をかいた赤い頬は、どこか爽やかですらあった。
「キスしません?」
「なにそれ!」
岸谷の冗談に都がそう返すと、二人で声を出して笑ってしまう。先客の一人は湯船から出て、大浴場の方へ戻っていく。細身の女性だ。鍛えている、というよりはあまり食べない、という感じだ。都と同じ歳くらいだろうか。綺麗な人に見えた。都たちが騒がしいから、静かな宵の湯を楽しめなくなったのだろうと思うと、ちょっと申し訳なかった。
都と岸谷が脱衣所に戻った時には、もう誰も大浴場にも脱衣所にもいなくなっていて、すっかり貸切状態になった。
髪の毛が短いのと、少々雑なのとで、都はドライヤーで髪を乾かすのにそんなに時間がかからないから、岸谷がバスタオルを体に巻いて、髪の毛を乾かしている間、都は裸のまま、脱衣所をウロウロしていた。ウロウロするのに飽きると、岸谷が髪の毛を乾かすのに使っている、大きな洗面台の鏡に映る位置に立って、裸のまま、ペンギンの羽のように腕を斜めに広げて、体を左右に振って踊ってみせる。岸谷は鏡に映る都に気がつくと、最初は間宮さんかわいいー、と言って喜んでいたが、都が調子に乗って踊るのを止めないので、次第に笑ってしまって、一度ドライヤーを止めて、振り返った。
「間宮さーん、子供じゃないんですからー。」
岸谷は、ちょっと裏返った声で叱るように言うので、都は大笑いしてしまった。ふと、やはり都は年ばかり取って、子供っぽいのだなと思った。それは良い意味ではなく、悪い意味でだ。大人になるべきときになっていなかった。そんな思いが都の胸底に淀む。
岸谷が髪の毛を乾かし終わってから、ようやく都は浴衣を着る気になって、袖を通し始めるが、肌に直接着るので、また岸谷が驚く。脱ぐ時に驚いたでしょ、と都は笑ってしまう。岸谷も都の真似をすると言って、肌に直接浴衣を着てみるが、ホテルの薄い生地の浴衣では、大きい胸の形が綺麗に出てしまって、下着をつけていないのが丸わかりになってしまう。二人でいやらしいだの、破廉恥だのと大笑いした。それでもバスタオル胸に抱えて歩けば良いですね、とか言って、結局浴衣だけを着て、大浴場を後にした。
部屋のある階へエレベーターで戻ると、物音一つしないくらい静かだ。歩くと二人のスリッパの音と、浴衣の衣擦れの音しかしない。二人の部屋が向かい合わせになっているところまで戻ると、都は、今日一日の労を労う挨拶をしようと思って口を開きかけたのだが、岸谷に先を越された。
「間宮さん、じゃーあー、お酒持ってー、間宮さんの部屋行ってもいいですかー?」
岸谷はわざとなのか、自然になのか、首を少し傾げながら聞くが、その様子はとても可愛らしく、あどけなさすらあって、都はちょっと照れ臭かった。普段の都であれば、これだけ長い間仕事で一緒にいたのだから、そろそろ一人にして欲しいと思うところだ。けれど、もう少し岸谷と一緒にいたい、そんな風に都は思っていたらしく、岸谷がそう言ってくれたのがとても嬉しかった。一緒にお酒を飲もうと言われていたのも覚えてはいたが、都は自分からは言い出せなかった。もしかしたら、それは社交辞令だったかもしれないからだ。
岸谷は、自室でスーツをハンガーにかけたり、片付けをしてから、貴重品と自室のカードキー、それとチェックイン前にホテル近くのコンビニエンスストアで買ったお酒だけを持って都の部屋に来た。シングルの部屋に二人でいると、とても狭いが、今の都にはそれがちょうど良かった。ベッドの上に二人で並んで座るのだが、例によって、岸谷は都にくっつきたがる。洗い立ての岸谷の髪からする、いつもの柑橘系のシャンプーの香りには、焚き始めのような新鮮さがあった。テレビをつけいないので、薄手の浴衣の衣擦れの音が良く聞こえてくる。
じゃあ、飲みましょうとなって、買ってきたサワーの缶を開けるのだが、深爪なくらい爪を短くしている都は、缶を開けるのがいつもすぐに出来なくて、もたもたしてしまう。岸谷が自分の缶を一旦机の上に乗せて、都の缶を開けてくれた。二人で小さくお疲れさまでした、乾杯、とやってまずは一口飲む。都はビールをコップ3分の一でも二日酔いになってしまうくらい、お酒が飲めないのだが、甘いお酒は美味しかった。甘いから飲むペースには気をつけないといけない。
今日の工事って、大変な方でした?と岸谷が聞いてくるので、そうでもない、と都は答えた。トラブルも大したことはなかったし、そもそも都たちの責任区分範囲は問題なかった。しかし、お客のコアスイッチを切り替えた後のトラブルが起きた時には、少しパニック気味になってしまったり、L2の問題が起きた時には、知らないことでサポートを求められたらどうしようと、不安に苛まれていたりしていたはずだ。そんな情けない有様をまるでなかったことのようにしているようで、喉元過ぎれば熱さ忘れる、という諺が、自戒の念とともに都の頭に浮かぶ。
もう岸谷は眠いのか、あまり喋らなかった。都はもともと、自分から喋るのが苦手なので、こういう相手が喋ってくれない空気は、自分が喋らなきゃいけない、でも何を喋ったらいいのかわからない、と焦燥感だけが募り、酷く苦手だ。しかし、相手が岸谷の時は、こうなっても全く平気だった。それは何度かプライベートで二人一緒に出かけたりした時もそうだった。喋らないで二人でいるのも、都にはとても居心地が良くて、落ち着いて過ごせる。岸谷と体をくっつけて一緒にいることも、都には安堵のようなものすらもたらしてくれる。それは、岸谷の初めての現場作業員業務に帯同した工事の帰り道、体の震えが止まらない都の手を、岸谷が握ってくれた時から、そうなのかもしれない。
「…ねえ、間宮さん…。」
岸谷は、声を低めて喋る時の、口蓋に舌が当たる音をさせて、いつもとはちょっと違う声の掛け方をしてきた。持っていた缶を机の上に置いていた。
「…キス、…してもいいですか?」
甘えるようなのか、それとも包むように優しくしてくれているようなのか、都が判断に困るような静かな笑顔で、岸谷はを都を見つめた。
「…え?…うん…。…いいよ。」
雰囲気に飲まれた、ということなのかよくわからなかったが、都は冗談で切り返せなかった。都も持っていた缶を机に置いて、岸谷の方に体を捻った。岸谷は、都がゆるく着ている浴衣の肩口をそっと掴むと、ゆっくりとおろして、都の上半身をはだけさせる。衣擦れの音が少しうるさい。
「…やだ…。…えっち…。」
都はそうは言うが、岸谷の、お酒で濡れている、少し厚めの、口付けたらきっと気持ち良さそうな唇に、左手の指を伸ばしてしまう。都の肌蹴た背中を抱く岸谷の手のひらはいつもと違って冷たくなかった。
人と唇を重ねたのは、一旦何年ぶりだろう。甘いお酒の味と、岸谷の柔らかい唇は、都にはとても愛おしかった。しばらくお互いに何度も甘く噛み合いながら重ねていた唇を、一旦離した後、都は自分から岸谷の唇を求めた。