09-10

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「あ、すみません、ちょっと待ってください。解決するかもです。」
都がさっき、インターネットのWAN開通を確認するのに使ったのは、トンネルインターフェイスにコンフィグされた、トンネルの張り先のIPだ。ここへは到達するので、こちらが正しいMPLSプロバイダの、インターネットゲートウェイのIPと判断していいかもしれない。しかし、事前共有鍵の適用先としてスクリプトで指定されたIPにも到達性があると、それだけでは判断できなくなる。MPLSプロバイダの日本のインターネットゲートウェイは、それほどたくさんあるわけではないので、グローバルIPを全て暗記していれば良いのだが、それは難しい。そもそも都は3桁以上の数字の暗記が、ごく短期間の記憶でも苦手だ。
都は、事前共有鍵の適用先としてスクリプトで指定されたIPにPingを打ってみた。到達してしまう。やはり、別件で使われたコンフィグをスクリプトのベースとして使い、事前共有鍵の適用先か、トンネルの張り先のどちらかを、修正し忘れたのだろう。そこで、スクリプトのテキストファイルの一番最終行から、空行を数行作り、もともとの事前共有鍵のコンフィグを貼り付け、それを消すコンフィグをまず作成し、次の行に、事前共有鍵の適用先IPを、トンネルの張り先IPと同じものにしたコンフィグを書いた。そして、その2行を流し込んでみる。しばらくの間、最初の鍵交換の状態を確認するコマンドを、2秒おきくらいに手動で叩き続けてみたが、新しい鍵交換の相手先との状態遷移のログは出てきたが、待てども鍵交換が成立しない。
今度は、書き換えた事前共有鍵のコンフィグを削除し、元に戻すスクリプトと、トンネルの張り先を、元々の事前共有鍵の適用先と同じものに書き換えるスクリプトとを書き、それらを一気に流し込んでみる。もし、これでIPSecが上がってこないと、設計を担当したPM・SEに、そもそもの設計が間違っていないのか確認してもらうしかない。もちろん、プロバイダエッジのインターネットゲートウェイの方が間違っているかもしれないので、それも海外オフショアセンターに確認してもらわないといけない。
しかし、数秒後に、トンネルインターフェイスのプロトコルが上がり、BGPも上がってきた。
「上がったー。」
都はため息交じりに、安堵の声を漏らした。都は割座で座り込んでしまいたかったが、我慢した。BGPが確立されていること、ルートが受け取れていること、そして、BGPのピアであるプロバイダエッジルーターのトンネルインターフェイスのIPに向けてPingを1000発ほど打って、インターネット回線同様、トンネル越しでも欠けが発生しないことを確認した。一連の、都のコマンドタイピングを見て、間宮さんはやーい、と岸谷がまた裏声で言うので、都は笑ってしまった。
「平下さん、バックアップ側完了です。PMにスクリプト間違ってたと言ってください。」
都は平下を見上げて言った。
「マジですか。どこが間違ってましたか。」
平下もしゃがみこんで、工事用の小さいノートPCの画面を覗き込みながら言った。今までのビジネス喋りと言って良いような、少し畏まった口調から緩んだ、軽い調子になっていた。お客が側にいないこともあったろう。また、岸谷がメイン側のWAN開通の時も、バックアップ側のWAN開通の時も、都の慌ただしい作業を、まるで手慣れた職人の作業の一般公開でも目にするように、素直に驚いてくれたことが、この女は派遣社員だが当てになりそうだと言う評価を、平下にさせたかもしれない。彼の都に対する、きちんとしたビジネスの場に相応しい口調や態度と言ったものは、お客の目の前ということよりも、派遣社員の都に対して、評価のような判断を何もしない、と言う意味合いだったのかもしれない。
正社員の派遣社員に対する態度というのは、最初、大抵どこかよそよそしく、感じ方によっては、正社員村と言う「ムラ」から疎外されているという心細さを覚えさせるもので、明らかにどこか見下したような態度が言葉の端にも出てしまう人すらいる。しかし、業務そのもので、ある程度結果を出し、あるいは相手の期待値が低いものだから、ちょっと正社員の役に立つような、稼働を減らすようなことに貢献出来ると、刺々しい居心地だけは無くなるくらいには受け入れられる。
正社員は会社に属していて、会社が存続している限りは、部署が変わろうが、位が変わろうが、同じ目標に向かい、道程を同じくする「仲間」だと言って良いだろう。しかし派遣社員は業務そのものに属している。その業務が繁忙であるから、外部の人間を使ってでも遂行しなければならない稼働量であるから、会社という本来身内の人間だけが門をくぐることを許されている「家」の中へ立ち入ることを、一時的に許されている余所者に過ぎない。その業務が終わったり、あるいは会社の方針によって業務担当の地理的場所を変更したり、その業務を遂行するにあたって求められるスキルや人間像などが変わったりして不要とされれば、門の通過は許されなくなり、まるでそこにいたことすらなかったほどに突き放される。多くの場合、共に働いた正社員の人間とはそれきりの付き合いになる。転職した正社員の人間が、多くの場合、いつまでも友好を保つのとは異なる。
大学や高専を卒業し、新卒採用で入社し、学生を卒業すると同時にきちんとしたスタートラインを切って、社会人としての人生を歩み始めた同志たちから見れば、派遣社員というのは、何か正当な理由がないのであれば、人生で躓いたか、無計画に生きてきた人間に違いないと、見做されているのだろう。確かに自分はそうなのだから、どこか色眼鏡で見られても仕方がない、都はそう思っていた。だから、同じオフィスにいて、業務上一緒に仕事をし、しゃべる機会の多い正社員の人間でも、業務以外の話題で自分から声をかけるのは苦手だった。
「トンネルのデスティネーションの指定が間違ってましたね。」
おそらく、一般的なIPSecバックアップのコンフィグを他のルーターからコピーして、この拠点特有のパラメーターだけ書き換えて今回のスクリプトを作成した時に、変え忘れたのだろう、と都は平下に説明した。ただ、このIPSecのベーシック部分のコンフィグは、担当のPM・SEが作成したのか、海外オフショアセンターから送られてきたスクリプトなのかはわからない旨も伝えた。スクリプトは正しくなかったのだが、誰が間違えたのかは判断がつかないから、担当PM・SEの責かどうかは判断しかねた。
「つまり、小屋敷さんたちの間違いとは限らない、ということですね。」
平下は都の言いたいことを理解したが、彼の言い方にも含みがあるように聞こえた。
「そうですね。」
「了解です。とりあえず、バックアップ側ルーターの設置完了したこと小屋敷さんに伝えます。」
都の回答を受けて、平下は携帯電話を掛け始めた。お客の温度が高くなっているのには、海外の回線敷設の進捗において、問題が多々あったということもあるのだろうが、もしかすると、担当PMとお客との間で、進捗報告以外でも何かあったかもしれない。例えばヒアリングにおいて、お客と設計で揉めたとか、出来ないことを出来る、と言ってしまって、後日それは出来ないと言って不興を買ったとか。あるいは、必要なパラーメータや可能な要件について、後出しや五月雨式になり、お客に設計の練直しを強いることになってしまった、とか。
このプロジェクトがどうやって進行してきたのか、都には全くわからない。もし設計で何か揉めたのだとしても、全てがPM・SEの落ち度だとは思えない。多くの場合、お客の要件がはっきりしない、お客自身が自分の要件をきちんとまとめたり、伝えたりすることが出来ていない、あるいはWANしか買っていないのに、LANの設計などについて無償でのサポートを、まるでそれが当然であるかのように求めてくる、などが揉める原因になる。
外資のお客の場合、かなり高スキルのIT担当者がいて、あくまで設計の主幹は客自身だという意識が、お客の中でも強いことが多い。しかし内資の場合、IT担当者は外部ベンダーをマネージメントすることが主業務であり、担当者当人はあまり設計に詳しくないことが多い。新しく買ったWANをお客のネットワークに繋ぐのだから、それに伴う、全体設計の変更や、各拠点端末の設定変更、切り替え時のケーブル繋ぎ変えなど、お客自身で考えて手配しなければならないことは沢山ある。しかし、お客装置を接続するケーブルの繋ぎ変えを誰がやるのか、具体的にどのケーブルを繋ぎ変えるのだとさえ、PMに聞いてくる場合もあって、上手くお客の機嫌を損ねないよう、なんとかお客自身の責任区分範囲について、今一度理解してもらうよう説得を試みなくてはならない。それが不調に終わったり、また、そもそもPMが、はっきりと断ってしまって、本来正しい責任区分範囲を今一度示しただけなのにも関わらず、お客が怒り出したりすることもある。
「…はい、また間違いがありましてですね…。トンネルインターフェイスのデスティネーションが間違っていた、とオンサイトエンジニアの方からご指摘を受けておりまして…はい、オンサイトエンジニアの方にコンフィグ自体は修正していただいて、今バックアップ側は上がっている状態です…いえ、バックアップ側の設置作業している時は、たまたまお客様外されていてですね、お客様には見られていないですね。ですのでその辺はフェイルセーフだった、ということになりますね…。」
平下はそういう会話の後PMに、今一度設計の確認、バックアップ側のコンフィグ作業、WAN試験を実施し、完了したら連絡くれるように依頼して電話を切っていた。平下の口調は冷静だが、どこか苛つきを隠せていないように聞こえた。平下は、「また」を強調していた。営業とPMの間で、揉めることは多い。営業があまりにも本来の責任区分外に当たる事柄をPMに押し付けてくる、やらせようとすることに対して、正面から拒否一辺倒で挑み、揉める。PMの方で、あまり頑なに営業の要求を撥ねてしまうと、構築側のミスで問題が起こった時に、そこにつけ込まれ、再発防止策と称して、結局撥ねていたものを押し込まれることもある。営業にもよるのだが、構築の部署での稼働コストは全く考慮されていないことは多く、構築の部署で案件ごとの稼働を計算・記録しておかない風習もあり、湯水のように稼働を使わされることは少なくない。これはベンダーやプロバイダによって違うようだが、都が勤めているこの会社は、そういう傾向にある。
このプロジェクトで、PMと営業との関係が、比較的協力的なのか、それともほとんど抗争状態なのかは、都にはわかりかねた。しかし今までとても冷静で、表向き嫌な印象を抱かせないビジネス的な口調を維持していた平下の口調が、少し崩れたような気がした。どちらかと言えば、あまり良くないのかもしれない。
オフィスにいるPM・SEで、バックアップ側ルーターの詳細コンフィグや、WAN開通試験を実施するので、都たちはまた待機となる。これで一応基本的には、現場作業員としての「作業」は終わりになる。後は何かあった時、つまりオフィスのPM・SEが遠隔でルーターにログイン出来なくなった場合などの際、コンソールでルーターに入って確認・設定変更や、PM・SEの指示で筐体の再起動などの物理作業をする必要が出て来た時のために、待機しているだけとなる。
「一応、これであたしたちの作業はおしまい。後は待機するだけー。」
都はそう言うと、ターミナルソフトのログは取り放しにしておいて、立ち上がった。膝を畳んでしゃがんでいただけなので、足の指の関節が少し痛くなってしまった。立ち上がると少し立ちくらみのような、頭から血が抜けていく感覚がするが、返って空気が新鮮になるような気さえする。
「後はずっと待機ですか?」
岸谷も立ち上がって、タイトスカートの裾を少し直しながら言った。
「基本的にはねー。何かPMからこっちでやってくれ、って言われればやるかもだけど。」
都は岸谷に答えながら、フリーアクセスの床に散らばった、付属品が入っていたビニール袋を回収する。岸谷は閉じてしまっているダンボールの蓋を開けて、ルーターの両サイドを固定していた緩衝材をしまっていた。
「今日の待機って長いんですよね。」
岸谷は、都が回収したビニール袋をダンボールに入れられるように、腰を折って蓋が閉まらないように押さえていてくれた。後ろ髪は束ねているが、残してあるサイドがゆるいウェーブを描いて、岸谷の顔を少し隠しているのが可愛らしい。
「そうだねー。…平下さん、今日ってあたしたち、いつリリースしてもらえるんでしたっけ?」
都は岸谷に、ダンボールの蓋を押さえてもらっていることの礼を言ってから、かわい子ぶりっ子にならない程度に首を傾げながら、少し意地悪な感じで平下に聞いた。正社員は派遣社員に対して、別世界の人間のように接する人が多い。それは駅からこの客宅までの、平下と橋本の岸谷への態度と、都への態度の違いから、この営業二人もそういう人種であることはわかっていた。しかし、いざ仕事を一緒にしなくてはならくなると、そんな壁を作っていては仕事は進まない。まして客に対峙する客宅のような現場での業務中は、客から見れば、正社員だろうが派遣社員だろうが、ベンダーの人間であることに変わりはない。問題が起きれば、全員協力して、その問題を出来る限り早急に解決しなくてはいけない。だから、急造の「チーム」としての連帯感のようなものが生まれ、その業務に向かっている間だけは、コミュニケーションが円滑になる。それはそうせざるを得ないからだ。
現場作業員としては、本来PMに差し戻していい躓きを、自らものの数分で収めたことを、平下がどう評価しているかはわからなかったが、明らかに態度に変化があったので、都は少し愛想を振りまいても良いだろうと思った。
「あー…。ほんとすみません、今日は長くなってしまうと思いますね…。」
平下は背筋は伸ばしたまま、申し訳なさそうな顔で言った。このバックアップ側の詳細コンフィグ設定、WAN開通試験が終わると、次は海外拠点側の冗長試験だと言う。日本側の現場作業員は、日本側の設置作業が終わればお役御免なので、日本側の現場作業員の稼働時間を減らすために、日本側の冗長試験を先にやることは検討・提案したと言う。しかし、お客からは海外拠点の冗長試験を先に実施する希望があり、また、今日の切り替え試験及び冗長試験については、本社、及び対向の海外拠点に現場作業員を待機させることを、強く要望されていた。プロジェクト進行の中で、トラブルが多く、お客の温度が高くなっていることもあり、これは受け入れざるを得なかった。この手の「ご要望の多さ」は日系企業の日本人担当者には頻繁に見られる。トラブルを形にとって、支払っている金額以上の稼働をキャリアやベンダーに強く要求する常套手段だ。そしてこう言う時、詰め寄られた日本のベンダーやキャリアは、断りきれず応じてしまう。今日の工事もこの例に漏れない。
都たちが担当するグローバルMPLSの構築では、海外拠点のルーター設置は、海外オフショアセンターの手配する、拠点の所在する国の現地外部ベンダーが、あくまで現場での客宅ルーター設置作業員としてだけ派遣されるだけだ。こう言った後日のLAN切り替えや冗長試験時の、万が一の場合の現場サポートのために、そう言った外部ベンダーの作業員を手配することはしない。どんなにエスカレーションしたところで、海外オフショアセンターでは受け付けてくれない。これは日系企業と外資系企業とのビジネスに対する根本的な考え方の違いだと言って良かった。
都はそれを知っていたので、対向拠点の今日の現場作業員をどう手配したのか平下に聞いた。対向拠点が所在する島嶼国には、都が勤めるこのMPLSプロバイダの現地法人があり、その現地法人が対向拠点のPBX更改を、このMPLSを契約する流れで現地契約で獲得している。それに託けて、営業の上の方から現地法人へエスカレーションを掛け、今回のLAN切り替え工事の際、現場にエンジニアを一人待機させてくれるよう依頼したそうだ。通信キャリアやSIベンダーの現地法人にいるエンジニアは、どこの国でも、何でも出来てしまうような多岐多様なスキルを持っていることは多く、今日対向拠点の現場で待機しているエンジニアはPBX更改を担当しているエンジニアだそうだが、客宅ルーターの設置や、レイヤー3の構築も出来るので、万が一の時には頼りに出来ると言う。
日本本社拠点も、この会社の別の部署がPBXを担当していて、都が音声接続があるだろうと想定した通り、後日音声の切り替え試験もあるそうだ。対向の海外拠点の新しいPBXのデリバリーが遅れていることと、データ通信をMPLSに載せる方が喫緊の課題であることとで、PBXの接続は後日となっているが、どちらにせよ本社とこの拠点間の通信切り替えについては、データ通信と、音声通信とは分けて実施する当初からの予定だったと言う。
「たぶん結構長くなってしまうと思うんですが、よろしくお願いします。」
平下はそう言って軽く腰を折った。腕をきっちり脇に揃えて、真面目な顔だった。
「了解しました。順調に終わると良いですね。」
都は少し息を吐きながら、そう言わざるを得なかった。