21-2

2022-02-09

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 都が泊まったホテルは、新幹線が泊まる駅の近くで、その駅はこの辺りのターミナル駅となっているが、ここからデーターセンターへ行くには、ローカルの路線を二線乗り継がないといけない。最初の路線は線路も高架化されていたり、駅舎も新しかったりするのだが、次の路線は高架の駅へ乗り入れているわけではない。高架の駅から地上へ降りて、タクシープールとバスターミナルを兼ねたような、人も車もいない、がらんと開けたローターリーをなぞる、奇妙に整備された舗道を進むと、木造の古い駅舎が、民家に囲まれて小屋か何かのように、ごく当たり前の建物のようにある。バスターミナルの近くに、そう言えば単線の線路が走っていたのだが、ぼんやりしていると気がつかなそうだ。柵もない線路が日常に溶け込んでしまっている。雪は浅く積もっていて、時折雪のないところもあった。天気は良いが、ひどく寒い。東京の寒さとは質が違うと感じるが、都が寒いのが苦手だからだろう。もしかするとこの辺りの人は今日は暖かいね、とか言っているかもしれない。
 小屋のような駅舎には引き戸がついていて、ガラガラと音を立てながら開けてみると、中は待合室で、二人ほど人がいた。多分、その人たちはこちらを見たが、都は目を合わせないようにした。余所者です、と言う雰囲気は丸出しだろう。真ん中には石油ストーブが焚かれていて、側によると暖かった。券売機があるようだが、電源は入っていないし、駅員が接客をするはずの窓口も閉まっている。無人駅、ということだろうか。次の電車までは後20分ほどあるのは、都は事前に調べてあった。これ、どこで切符買うんだろう。地方の、本当にローカルな路線へ行くと、路線バスのように整理券をとって、着いた有人駅で支払う、というのもある。
 都は、駅のホームへ出てみようと思い、一つだけある無人の改札を抜け、改札の向こうにある別の引き戸をガラガラと開けて、外へ出た。朝の早い時間の冷たい空気が、きんきんと音を立てているような気さえする。単線を上りと下りのホームが挟む形だ。ちょうどカーブに当たるらしく、ホームはゆるい弧を描いている。どちらのホームが都が乗らなければ行けない方だろうと思って、都はホームの柱の看板の方面表示を見てみる。ちょうど都が降りる駅が方面に含まれている。線路を渡って、向こう側のホームのようだ。人気が全くなく、静かだ。雀の鳴き声が時折聞こえてくる。土曜の朝だからだろうか、どこの民家もまだ寝静まっているかのようだ。線路を渡る部分には雪が積もっていて、都が歩くとさくさくと音を立てる。ホームへ上がる階段からは屋根の下だから、もう雪がなくなっていて、こつこつと都のローファーの音だけがする。ホームには、おそらく車両の昇降口のところだけ線路に向けて開いていて、あとは集合住宅のベランダにありがちな、壁が作られていたが、それほど閉塞感はない。線路は民家の中をカーブを描いて伸びていっているのが見える。寒くなければ、ここでぼんやりしていたかったが、寒いから待合室へ戻ることにした。待合室へ出たり入ったりして、迷惑な余所者だと思われるかもしれない。こういう時は、そう思われるのが嫌で、都は一度立ち去った場所へ戻らないものだが、とにかく寒いのには変えられなかった。
 都が乗る列車が到着する5分くらい前になると、近所に住んでいる人だろうか、数人ぞろぞろ待合室へ入ってきて、それが合図のように、ベンチへ座っていた先客が立ち上がり、ホームへと向かった。都もその人の流れに乗って、ホームへ向かった。小さなホームなので、十人もいないのに混んでいるようにすら見える。逆に列車の中に入ると、がらがらに感じる。都は長椅子を一人で占有出来てしまった。
 目的の駅を降りると、乗り換えた駅より少しだけ広い駅で、有人駅だった。駅舎はホームにくっついているので、改札を抜けるとすぐ待合室だ。待合室は少し広く、四つあるベンチには座布団も敷かれてあった。もちろん石油ストーブもある。駅舎を出ると、小さなバスターミナルがあり、その向こうにタクシー会社の建物があるのが見えた。中に車が2台止まっているから、あそこでタクシーを出してくれるか聞いてみようと思った。データーセンターへ行くにはタクシーしかないよ、と上野から聞いていた。
 そのタクシー会社の建物へ行くには、バスターミナルを横切っていくと早いのだが、道路の上の雪はシャーベット状になっているし、歩道に沿って、バスターミナルを回っていくにしても、この駅の周りの雪は、都のくるぶしくらいまで積もっている。タクシー会社の前の歩道は雪掻きがされていて、アスファルトがむき出しになっているから、バスターミナルを横切って行った方が、足の被害が少ないように思えたので、都は思い切って、シャーベット状の雪が轍の端で残っているバスターミナルを横切り始めた。シャーベット状の雪へ足を踏み入れると、水しぶきが上がり、逆にこっちだと、スーツのパンツの裾が汚れてしまいそうだった。あまり水が跳ねなさそうな場所を探して、よろよろと歩くのだが、ここは車道だから、そんなゆっくり歩いているわけにもいかない。子供の頃にやった、けんけんぱ、のような要領でぴょんぴょんと、バスターミナルを越えた側の歩道へ向かった。重たいビジネスバッグを持ちながらなので、雪掻きをしてある歩道へたどり着いた時には、ちょっと息が荒くなってしまった。車もバスも一台もこなかったので良かった。
 建物内の一階が車庫になっていて、駅から見えたように、2台程停まっている。どちらも綺麗に洗車されてある。特に窓口のようなところはないように見えるから、都は中に向かって、すみませーん、と声をかけてみた。一回では誰も出てこなかった。都の声が小さいからだと思って、今度は頑張って少し声を大きくして、すみませーん、と声を出した。反応はなく、ダメかな、と思った。辺りを見回すと、この建物が向かい合っている道をまっすぐ駅と反対方向へ向かうと、少し大きい道へ出るようだ。そこでタクシーを拾えないだろうか。都はそちらへ向けて歩き出そうとしたところで、中から人が出てきた。都は用向きを伝えると、すぐに車を出してくれるというので、ちょっと待つように言われた。
 タクシーは、そのタクシー会社の前の道を進むと突き当たる、国道をしばらく進んだ後、とある信号のないT字路を右折し、うねうねとした山道を登り始めた。都はこの山道を自分の車でも、チェーンを巻いて走ってみたいと思った。道路の周りを囲む木々は雪をかぶっているし、山を上へ登っていくごとに、歩道もあるのだろうが雪に埋もれてしまってどんどん見えなくなる。タクシーの運転手は走り慣れているのだろうし、雪国の車だからスノータイヤなのだろうが、結構なスピードで山道を登っていくから、横滑りしやしないかとひやひやした。車道に轍は何本かあるが、ちゃんと積もった雪が残っている。ほんとんど車は通らないようだ。
 山の一番高いところだろうか、ひらけた台地のようになっていて、そこに明らかにデーターセンターだという建物がいくつも突然現れた。タクシーを降りると一面銀世界、と行って良い風景だ。青い空と白い雪。そしてデーターセンター。その向こうには雪山。タクシーは受付棟の駐車場まで入って、都を降ろしてくれた。帰りに配車を依頼したいから、連絡先を教えて欲しいと言うと、タクシー会社のカードをくれて、書いてある番号にかけてくれるよう、運転手は丁寧に教えてくれた。
 都は受付棟の手前にある、靴の泥落としで、雪を落としてから、インターホンを鳴らして、出た相手に用向きを伝えると、自動扉が開いた。中へ入ると、都のローファーの音がコツコツと響く。電気は消えているが、窓の多いロビーのためあまり暗くはない。このロビーは突き出しの構造になっていて、光を取る窓が天井にもあるから尚更で、アーティスティックな建物のデザイン、といった感じだ。
 受付カウンターに人はいないが、ビルの内部へ進むような廊下から、人が出てきた。作業着を来ていて、工事に来た人なのかデーターセンターの管理スタッフなのか、一見わからなかったが、キャリア名と、名前を聞かれたから、管理スタッフということだ。都はキャリア名と名前を名乗ると、管理スタッフは受付カウンターへ入って、入館申請書を出し、都に書くように言って下敷きとボールペンを付けて渡した。カウンターで申請書を記入し渡すと、パソコンの持ち込みありますよね、と聞かれた。はい、と返事をすると、カウンターのそばにあるテーブルを指し、マニュアルがあるので、検疫をお願いします、と言われた。都は、マフラーとコートを脱ぎ、テーブルの前にあったパイプ椅子の背もたれに掛けてから、そこに腰掛け、作業用PCを起動するのに必要なものをバッグから全部引っ張り出し、作業用PCを起ち上げながら、ファイルされたマニュアルを読む。
 たまにこういうデーターセンターがあるとは聞いていたし、上野からもここはこれがあることは聞いてもいたが、都はこの手の検疫をやらされるのは初めてだった。持ち込むPCをデーターセンターの検疫のネットワークへ繋いで、OSのアップデート状態や、セキュリティソフトが最新の状態になっているか、などをデーターセンターの検疫システムでチェックされる。ケーブルを接続する手順、指定のIPアドレスを手動で持ち込みPCにアサインする手順、と工事初心者でも対応できるような丁寧なマニュアルになっていた。
 都の作業用PCは、セキュリティソフトの検疫は合格だったが、OSのの状態は不合格だった。受付カウンターの裏では結果が見えるらしく、管理スタッフが、よくあることだから、と言って、もう一度やってみるように言うので、都はもう一度、検疫システムに掛けてみた。するとやはりOSが不合格となってしまう。
 「もしかして、会社でOSのアップデートって制御してますかね?」
 管理スタッフが聞いてきた。都が派遣社員として勤めているキャリアに限らず、大きい会社になると、OSのアップデートはOSのメーカーから提供される全てを当てるのではなく、会社のシステムなどに影響が出るものなどは除外して、会社のサーバーからアップデートを受けるようにしている。個別にアップデートされると、インターネットへのトラフィックがとんでもないことになるから、それを抑えるため、というのも当然ある。管理スタッフによると、現時点でOSメーカーから提供されているアップデートパッチが全て当たっているかを見ているので、そういう方針の会社の人間が持ち込むパソコンはどうしても不合格になると言う。作業用PCを持ち出すと時は、社内のLANに接続して、OSのアップデートと、セキュリティソフトのアップデートを実施することは、持ち出し申請の時の必須事項になっているので、きちんとアップデートはしているが、そういう基準で検疫されてしまうと、不合格にならざるを得ない。
 管理スタッフによると、そういう場合は合格扱いになるので、持ち込んで良いということだった。厳しいのか緩いのかよくわからなかったが、持ち込めて良かった。持ち込めなかった事態は想定していなかったので、尚更安堵した。都は作業用PCのディスプレイだけ閉じ、認証カードリーダーや電源ケーブルを外して、わたわたとバッグの中へ仕舞い込んだ。バッグを片手に下げて、もう片腕に脱いだコートとマフラーを引っ掛けて、立ち上がった。管理スタッフは、このデーターセンターに常駐しているお客を電話で呼び出していた。
愛想の良さそうなお客は、わざわざ東京からすみません、と挨拶するので、都は否定を返してから、キャリア名と名前を名乗り、本日はよろしくお願いしますと、腰を折って挨拶をすると、向こうも同じように挨拶を返してくれた。
 都はデーターセンターはこのビル内だろうと思っていたのだが、ここはただの受付棟と、アテンドしてくれるお客のように常駐している人間の、オフィススペースのようなものがあるところのようだ。管理スタッフとお客、それに都は、外へ出て、雪の積もる歩道を歩き、横断歩道を渡って、いかにもデーターセンターというビルがいくつか並んだ敷地を囲む、柵の門へと続く道を上っていく。コートとマフラーを着直す暇がなかったので、都は寒くて仕方がないが、管理スタッフとお客は、よく見ると薄手の作業上着をシャツの上に着ているだけだ。やっぱりこの辺りに慣れている人には、今日は良い日和なのだろうか。管理スタッフが認証カードと、パスワードで柵にある門を開けていた。柵の内側にあるビルの入り口は、認証カードだけで開くようだ。
データーセンターには、いかにもデーターセンターという感じの内装とか、あまり普通のオフィスビルと変わらない内装とかあるが、たまに病院みたいな雰囲気のデーターセンターがある。ここはそうだった。廊下もあまり広くなく、大きい機器の搬入は大変そうだと思ったが、おそらくは機器の搬入口は別にあるのだろう。エレベーターで3階まで上がり、3階の廊下にいくつかある扉の一つを、管理スタッフが認証カードで開けた。開けた途端、猛烈なファンの音と、サーバールーム特有の尖った匂いとがしてくる。部屋の内側の扉近くに電話があり、用がある時や、退館する時は、これで連絡をくれれば迎えに来てくれると言う。押すべき番号はその電話の置いてある壁に貼り出してあった。都は礼を言うと、管理スタッフは一礼をして、この部屋から出て行った。部屋はそんなに広くはなく、10ラックくらいの列を、7つ8つ作れる程度だった。このデーターセンターは、少なくともこの棟は、こういう小部屋な感じで区分けされているらしい。部屋単位でも貸し出しているのか、冷却の問題なのかはよくわからなかった。このお客でいうところの、東京データーセンターは、ものすごい広いサーバールームに、ラック単位でお客に貸しているので、あの広い部屋を一気に冷却するよりは、こうやって小分けにした方が効率が良かったりするのだろうか。
 アテンドしてくれたお客は、客宅ルーターが入っているラックがどれか教えてくれて、ラックの前後の扉を外し、作業がし易いようにくれた。新回線の終端装置はこれだよ、と指さして教えてくれて、上野さんから言われてると思うけど、このスイッチにパソコン挿して良いよ、とスイッチの位置も教えてくれた。このお客も上野のことを良く知っているらしい。受付棟から歩いてくる道中、上野さん元気にしてる?と聞かれた。最後に飲んだの半年くらい前になっちゃうなあ、と言っていた。北陸データーセンターに常駐しているお客が、半年前が久しぶりと言うくらいだから、上野は本当にお客と良く飲みに行ってるんだな、と都は思った。お客は、別のラックで作業があるので奥の方にいるから、何かあれば声をかけてくれと言って踵を返した。都は、ありがとうございます、と笑顔で腰を折った。
 壁の電源は使って良いと管理スタッフから聞いていたので、都はまず作業用PCの準備をした。このサーバールームの床は、完全に病院か学校の廊下のようなタイル張りなので、作業はし易そうだ。網目の床だと、ネジやドライバーを落としがちなので、気を遣う。都は落としたことが何度かある。作業用PCの準備が終わり、ラックの中の指定のスイッチに、持ってきた自前のストレートケーブルで作業用PCを接続し、IPを設定、客宅ルーターや、疎通確認と通過経路確認のマクロを回す他のルーターのいくつかへ疎通を確認する。問題ない。現場にいるのだから、コンソールケーブルで客宅ルーターへログインしても良いのだが、コンソールよりもIP接続の遠隔ログインの方が、反応が早いし、ターミナルウィンドウを必要な分だけ開けるから、ログを取ったりするスピードや効率が全然良い。ただのWAN開通であれば、コンソールで客宅ルーターだけ見ていれば良いが、今回はそうはいかない。このWAN切り替えを使って、都の設計が本当に正しかったかどうか、確認する必要があるのだ。そのため、複数のルーターに入って、疎通確認や通過経路確認をしないといけない。
 都が右手首を返して時間を確認すると、工事15分前だ。まだ余裕があるが、ラックの前に到着し準備ができたことを、上野へ私用のスマートフォンのSMSで送った。それから工事用の携帯をバッグから出して、作業用PCのそばに置いておく。都のオフィスでプロバイダエッジルーターのエンジニアと統制を取ってくれるPMと上野とで入るための電話会議を、事前にオフィスのPMが取っておいてくれたので、私用のスマートフォンで試しに入ってみる。この電話会議はフリーダイヤルなので、データーセンターの中で電話会議を使う時は、工事用の携帯ではなく、私用のスマートフォンで入ることは多い。音量も大きくできる幅が大きいし、都のスマートフォンは普通のイヤホンマイクを繋ぐことができるので、それを使うこともできる。そのフリーダイヤルの番号や、会議ID、パスワードなどは、デスクトップに落としてあるメモに書いておいたので、それを見ながらかける。ホストがまだ入ってきていないので、お待ちください、というアナウンスが英語で流れる。都は一旦電話をオンフックして、工事の事前ログを先に全部取ってしまうことにした。
 ログ取得のマクロを回し始めると、私用のスマートフォンに上野から返事が返ってきた。上野は今日念の為本社データーセンターに入っておくということだったが、ちょうど今お客の本社についた、とあった。都は事前ログを取り始めてることを伝えると、らじゃー、とひらがなで返ってきた。ログが取り終わった頃、上野からまたSMSが来て、電話会議入れる?と聞いてきたので、都は私用のスマートフォンで、再度電話会議に入ってみた。さっきと同様、ホストがまだ入ってない、と言われる。電話をオンフックして、スマートフォンの時刻表示を見ると、5分前を切っている。都は、ちょっとPMに電話します、とSMSで上野に送って、作業用PCのデスクトップのメモに書いておいた、PMのオフィスの番号に工事用携帯で掛けてみる。右手でスマートフォンを持ったままなので、左手で工事用携帯を取る。落ち着いてどっちかだけ手にすれば?と自分で思ったが、やはりどこか緊張していて、心がざわついているのだろう。
 電話の相手はすぐ出た。都は名乗ると、相手は、ああ、間宮さん、おはよーございまーす、と呑気だ。呑気で良かった。これがオフィスに出勤してないとか遅刻しているとかだったら、ちょっと焦っただろう。PMは、昨年度入社だが、ヨーロッパの大学を出ての新卒のため、9月から入社した男の子で、誰に対しても壁を作らない性格もあり、都があまり気を使わずに喋ることのできる、2年目の社員の植松だ。北陸どうですか、とか世間話を少ししてから、都は本題へ入った。この話の順序がそのそも可笑しくて、都は話す前から少し笑ってしまった。
 「でさー、これ苦情の電話なんだけどー、ちょっとー、植松くん、電話会議開いてないよー。何やってんのー。」
 都は冗談だとわかる調子で、文句を言った。こういうやりとりも、植松だと遠慮なく出来た。植松は、あー、すみません、時間になってからで良いかな、と思ってました、とか言ってるので、都はわざとらしく叱るように、何言ってんの、5分前行動、ほら、早くして、とけしかけるが、笑ってしまっているので、植松もつられて笑っている。植松と隣の社員の机の間には固定電話があるので、それで電話会議にホストで入っているようだ。
 「はい、入りましたー。もう入れると思います。すいませーん。」
 植松が実際によくやる、東南アジアの人たちの挨拶のように、両手を合わせてお辞儀をしながら頭を下げるのが目に見えるような言い方なので、都はちょっと笑ってしまった。
 「ありがとー。じゃあ、そっちに入り直すね。」
 都はそう言って、電話を切る挨拶を交わしてから、右手で持っていた工事用携帯をオンフックし、左手で持っていたスマートフォンで、まず上野に電話会議入れる旨SMSで送ってから、電話会議のフリーダイヤルに掛けて、IDとパスワードを入力した。すると今度は入れた。いい加減に右手に持っていた工事用携帯を床に置いた。
 「お疲れさまでーす。間宮でーす。」
 「はい、お疲れさまでーす。植松でーす。」
 電話会議越しに、植松と挨拶を交わし、上野が入ってくるまで待っていてくれるよう言うと、すぐに上野が入ってきた。挨拶を交わしてから、上野がじゃあ、準備はいいかな、と聞いてくるので、都と植松は、口々に大丈夫な旨返した。上野は、お客に始めて良いか聞いてくんねー、と軽い調子で言って、その場を離れたか、電話をミュートにした。しばらく無言が続いた後、お待たせー、じゃあ、始めちゃってー、とまた軽い調子で言ってきた。都も、どちらかと言えばプライベートでするような口調で、りょーかいでーす、と返した。
 「じゃあ、植松くん、メルさんにさあ、プロバイダエッジのポート開けてくれるよう言ってきてくれる?あたし、その間客宅ルーターの方、コンフィグしちゃうからさあ。」
 そう都が言うと、植松は、了解しましたー、と真面目なのか不真面目なのかいまひとつ掴みづらい、彼独特の言い方で返事をして、同じオフィスにいるが席が離れている、東京のプロバイダエッジルーターの担当エンジニアのメルに直接言いに行ったのだろう、フリーアクセスをドタバタする音が電話会議の向こうから、このうるさいファンの大合奏の中でも聞こえた。都のオフィスには外国籍の派遣社員が結構いるが、メルもその一人だ。出身は東アジアで、日本語はその国の訛りがあるものの、かなり出来る。都がSEを担当している、特殊体制をとっているお客のプロジェクトは、特殊な設計を網内でしていて、プロバイダエッジルータに特殊な設定が入っている。そのため、そのお客の工事は、海外オフショアセンターにプロバイダエッジルーターの設定業務がほとんど移った今でも、基本的にメルが担当することになっているから、都とのやりとりは多い。物静かな男だが、柔和で話しやすい人だ。海外オフショアセンターへ構築業務が移る前から、このグローバルMPLS担当で、プロバイダエッジルーター担当のエンジニアとして長く働いていて、社員派遣社員関わらず、誰からも頼りにされる男性だ。
 都は、客宅ルーター、このプロジェクト目線で言えば、北陸データーセンターの国際網側WANエッジルーターに、新規WAN回線を接続するインターフェイスを、テスト用のVRFで設定するコンフィグのスクリプトを流し込む。流し込みのスクリプトでは、意図的にインターフェイスを開放しないようにしてある。スクリプトを流し込んだら、都がオフィスでテスト済みの、新品のLANケーブルをバッグから取り出し、袋から出して、新回線の終端装置のLANポートと、客宅ルーターの空きインターフェイスとを接続する。ケーブリングは既存回線と同様に、ラック脇のケーブルガイドを通して、客宅ルーターの背面まで持ってくる。ファンの騒音の中でも、RJ45インターフェイスのラッチの音がかちっとするのは何とか聞こえる。インターフェイスのLEDが点灯していないことを確認してから、都は床に置いたスマートフォンを取り上げ、植松に声をかけると、メルさんすぐ開けてくれるそうです、と何も聞く前から返してくれた。
 「おっけー。ありがとー。」
 そう返してから、スマートフォンを右耳と右肩で挟んで、都はターミナルウィンドウのログが取得されていることを確認してから、リターンキーを数回叩き、ホストネームだけの行を作ってから、現在時刻を表示するコマンドを叩く。インターフェイスの状態一覧を出すコマンドを叩いて、管理者権限で閉塞されているインターフェイス名を確認する。そのインターフェイス名を、カーソルでドラッグしてから、コンフィグモードに入り、さらにインターフェイス名をペーストして、そのインターフェイスのコンフィグモードへ入った。ターミナルウィンドウにシスログを表示するコマンドを叩いていたか、忘れたので、コンフィグモードに入っていても、そのコマンドを叩けるやり方で、シスログをターミナルウィンドウへ表示させるようにした。
 「じゃあ、インターフェイス開けまーす。」
 都がそう電話会議に向かって言うと、植松からは、お願いしまーす、と返ってきて、上野からは、やっちゃってー、と軽く返ってきた。都は何だかちょっと楽しくなってしまい、笑ってしまいながら、インターフェイスを開放した。すぐにインターフェイスが管理者権限で開放されたことと、プロトコルが上がったこと、それからBGPも上がったログも続けて出てきた。メルの方はもう作業は終わったらしかった。
 都はインターフェイスの状態や、BGPの状態を確認するが、ルートをいっぱい貰っていて一瞬驚いてしまったが、都がグローバルルーティングテーブルのBGPの状態を確認するコマンドを叩いてしまっただけだった。テスト用のVRFのBGPの状態を確認するコマンド叩き直して、BGPのピアが上がっていることを確認した。3つほどルートを受け取っているので、何を受け取っているか念のため確認する。プロバイダエッジルーターのBGPには、直接接続ルートを再配送する設定が入っているから、一つはWAN側の接続セグメントだが、当然のことながら客宅ルーターのWAN側の直接接続ルートでもあるから、もらっているだけで、ルーティングテーブルには載せられないエラーになっている。これは期待動作で問題がない。
 もう2つは、このテスト用のVRFは保守ルーターにも設定されていて、そこにテスト用のループバックIPアドレスがアサインされているので、プロバイダエッジルータでテスト用のVRFを作成してしまうと、ルートがMPBGPで伝播されてくるから、そのプロバイダエッジルーターとBGPで接続した客宅ルーターへも広告されてきてしまう。こちらも特に気にする必要もない。ルートの伝播もテストしたい時は、保守ルーターのこれを使って受信を確認し、何かダミーのルートを客宅ルーターのテスト用のVRFから広告して、保守ルーターまで伝播出来れば、ルートの送受信はOKだ、という判断ができる。都はそこまではテストしいないが、一応、そのもらっている32ビットルートまで軽くpingを打ってみる。到達する。
 都はWAN開通テストとして、プロバイダエッジルータに向けて、連続pingを実施する。新規回線を接続したインターフェイスのカウンターをクリアし、エラーカウンターなどが何も上がっていないことを確認してから、サイズを変えながら、pingを千発づつ実施する。ロスも、エラーもなかった。
 「植松くん、今プロバイダエッジルータに入ってる?」
 都は、これは事前に植松に頼んでおいた。
 「はい、入ってまーす。一万発pingですよね?」
 植松はそう返してきた。WAN開通の時、プロバイダエッジルーターへ向けて、客宅ルーターからpingを、3パターンのサイズで千発ずつ打った後、最後に、1500バイトで一万発打つ、と言うのがWAN開通の時に必須とされているテストだが、都はいつもこの最後のものは、オフィスにいて、収容されているプロバイダエッジルーターが、都がログインできるものであれば、必ず双方向から実施するようにしている。片方向からのpingでも、返りのパケットがあるから結果的に双方向になるとは言え、片側からのpingでは発見できなかった、回線の途中区間での半二重箇所を、このやり方で発見できたことが何度もあるからだ。もっとも日本国内の回線ではまず起こらないトラブルではあるが、都は石橋を三度叩いても渡らないやり方を取ることにしている。
 「うん、準備良いー?行くよー?」
 「ええ?ちょ、ちょっと待ってください。」
 都が今すぐにでもリターンキーを叩くような言い方をすると、植松が慌てるので、都は笑ってしまった。
 「ほら、はやく、はやく、もたもたしない。」
 都は笑ってしまいながら急かした。
 「みやちゃん、植松くんにはキビシイねえ。」
 上野は都と植松のやり取りを面白がっていた。
 都たちが構築するグローバルMPLSには、異なる3つのメーカーのプロバイダエッジルーターが存在し、それぞれによってコマンド体系が違うし、ましてお客のVRF名も、海外オフショアセンターが元々使っていたプロバイダエッジルーターと、都たちのキャリアが元々使っていたプロバイダエッジルーターとでは、命名規則が違うので、pingを打つにしても、コマンドを探さないといけないだけではなく、VRF名も探さなくてはいけなくて、客宅ルーターでは手の方が覚えているくらいなコマンドでも、プロバイダエッジルーターで同じようなことをしようと思うと、たとえ都のように頻繁に打っていたとしても、客宅ルーター程ではないし、まして今日のこの新回線が収容されているプロバイダエッジルーターは東京のプロバイダエッジルーター担当が、昔からの日本式の丁寧かつ確実なやり方でやってくれるので、PMやSEにとっては、自分たち自身でいじる機会が一番少ないプロバイダエッジルーターだと言えるから、まごついてしまうのも致し方ないのだが、都はわかっていて植松をからかった。
 「間宮さん、すみません、準備できました。」
 しばらく間が空いてから、植松が言ってきた。
 「おっけー。じゃあ、やるよー。せーの…。」
 都は少しそこで間をとった。
 「ごー!」
 「いえーあ。」
 都の掛け声に、植松は外国映画のようなかっこいい相槌を返した。さすがヨーロッパで大学生活を送っただけのことはある。自然だ。都は客宅ルーターで、打ち込んでおいた、1500バイトで一万発、プロバイダエッジルーターへ向けてpingを打つコマンドに、リターンキーを叩いて、pingをスタートさせた。到達を示すエクスクラメーションマークの連続が続いていく。一万発終わっても、欠けは一つもない。新規回線を接続したインターフェイスのエラーカウンターを確認するが、エラーも上がっていない。
 「欠けもエラーなし。そっちは?」
 都は電話会議で植松に聞いた。
 「大丈夫です。欠けなしでーす。」
 新規回線のWAN開通試験は問題がなかった。いよいよ、旧回線を落として、都が一ヶ月半、毎日午前3時半まで検証して完成させた設計の、冗長性が上手く動くのかどうか、実環境で確認できる。都は緊張が高まってくる。もし、またループしたり、到達性が戻らなかったりしたらどうしようかと、心配になってくるが、逃げるところは何処にもないのだから、やるしかない。都は一旦深呼吸をしてから、電話会議の上野に、新回線は問題がないので、いよいよ切り替える、切り替えるために、北陸データーセンターの国際網側WANを一旦落とすから、お客に許可をもらってくれるよう依頼した。