09-13

09-13
岸谷は自分のスマートフォンでブラウジングしつつも、時々都に話しかけたり、面白いネットの記事を見つけると、一緒に覗くよう都を誘ったりして、二人で静かにわいわいやっていた。都は、岸谷が正社員で、自分が派遣社員だという区別をあまり意識せずに、岸谷と喋るようになっていた。営業の平下の態度に変化があったように、都の方にも心持ちの変化はあったようだ。客宅でお客を眼の前にしていると、目の前の喫緊のチャレンジに対応する必要があるので、正社員だ派遣社員だとう壁は気にしている場合ではなくなり、まるで一時停戦のように、お互いへの構えを崩す形になる。
一箇所にいると足腰が痛くなるという理由で、都と岸谷は「お散歩」と称し、レクリエーション施設のある側へ接続する渡り廊下を歩き、吹き抜けをまた眺めたりした。散歩だからと、ふざけて、渡り廊下を二人で並んで歩いてみる。
「なんかデートしてるみたいですね。」
岸谷は、口蓋に舌が当たる音を伴う囁き声で、悪戯っぽく言った。
「そうだねー。」
都は一瞬、気恥ずかしいような、くすぐったいようでありながら、胸の奥が熱くなる、悦びのようなものが込み上げてきそうになった。けれど、真面目に取るものではないことを理性的に判断し、年上の余裕のようなものを漂わせながら、冗談として可笑しい、という風で笑いながら返した。
ふざけていても、神経はきちんと張っている。だから、PBX部屋がある、通路スペースの方に足音が近づいてきたのがわかった。二人でやばい、と笑いながら慌てて戻った。足音の主が通路スペースに入ってくるより先に、都たちは通路スペースへ戻れた。入ってきたのは平下だったので、二人は思わず笑ってしまった。
「どうしました?」
平下は不思議そうな顔をして聞いてきた。都は、一箇所に突っ立っていると足腰が痛くなるので、少し渡り廊下を歩いていたら、誰か来るようなので、慌てて二人でここへ戻ってきた旨説明した。平下は、待機が長くなってしまって申し訳ないと平謝りだった。都が右腕の手首を返して時間を確認すると、13時45分だった。
平下が来たのは、対向海外拠点の冗長試験が無事完了したことの連絡と、これから本社拠点側の冗長試験を始めるので、ケーブル抜去などをやって欲しいという依頼だった。3人はPBX部屋へ入り、都はまず、すっかりスリープモードのPCの前にしゃがみこんで、スクリーンロックを解除した。メイン側のルーターへログインし直し、ターミナルソフトでログ取得が出来ていることを確認してから、現在時刻を表示させる。それから立ち上がって、岸谷と二人でラックの裏へ回った。ラックの裏と壁の間のスペースは広くないので、都が一番奥、続いて岸谷、という順序で収まった。
まずはメイン側ルーターのWANケーブルを抜去し、メイン側のWAN断時の試験をする。ケーブルの抜去は岸谷にやってもらうことになった。平下はまず、お客に開始を宣言して来るとのことで、小走りにPBX部屋から出て行った。ケーブルを抜いてはまた繋ぐだけの、大した仕事ではないのだが、ようやく待機から解放された。本来であれば、何もしなくて良い状態から、仕事をしなくてはいけない状態への移行なのだから、「解放」という言葉は似つかわしくないのだが、淀んでいた流れが、一気に動き出したような爽快感のようなものすら感じる。ラック裏の狭い空間にいると、少し落ち着く気がする。そんなことを都は一人思っていたら、なんか狭いとこって落ち着きますね、と岸谷が言ってきて、都は笑顔で同意を返した。
平下は電話で話しながら戻ってきた。
「はい…。ではギガビットイーサーネットの0/1ですね。承知いたしました。少々お待ちください。」
平下はラックの裏へ入って来ると、電話を耳から離した。
「すみません、ギガビットイーサーネットの0/1のケーブルを抜いてもらえますでしょうか。」
平下にそう言われた岸谷は、はい、と返して、ギガビットイーサーネットの0/1に差してあるケーブルを指差した。
「これですよね?」
岸谷は都に確認を求めた。
「うん。それ。抜いちゃってください。」
都は愛想良く返した。
「はーい。じゃ、抜きまーす。」
岸谷はちょっと楽しげにそう言うと、RJ45端子のラッチを押して、ケーブルを抜いた。
「はい、今抜去しました。」
平下は、電話の向こうに報告していた。しばらく電話の向こうからは何もない。おそらくオフィスのPM・SEは、対向拠点か、網内の保守ルーターから、本社拠点のLAN内で到達性があるホストのIPに向け、連続でpingを打ち続けていて、岸谷がWANケーブルを抜去した途端、その到達性が失われたが、網内のルーティングテーブル収束されれば、到達性が復旧するはずなので、それを待っているのだろう。岸谷は腕を少し伸ばし、RJ45端子を持ったままでいた。手を離してしまうと、ラックの下にあるケーブルスペースへケーブルが落ちてしまうので、そうしているようだ。都は、ラック側板にある、ケーブルを通すための穴にケーブルの先を少し入れておけば落ちないことを助言して、その通りにさせた。ケーブルは側板に引っ掛かって、流してある状態になった。
「ありがとうございます。」
岸谷は小さくお礼を言った。都も、いいえ、と小さく返した。2分近く経ってから、平下が電話の向こうと会話を再開した。
「…はい、あ、戻りましたか。はい…。バックアップ側に経路が変わったことの確認が取れた、ということですね、わかりました。ありがとうございます。では、お客様に試験を依頼します。」
そう言って平下は電話を切ると、岸谷に礼を言い、お客試験に入るので、またしばらく待機してくれと言い残して、小走りにPBX部屋を出て行った。都と岸谷は、ラック裏の狭い空間が気に入って、ここで待っていようかとも冗談で言いはしたが、結局ラックの前に戻った。都はPCの前にしゃがんで、ターミナルソフトに出ているログを確認した。ギガビットイーサーネットインターフェイスの0/1が落ち、次にBGPのピアが落ちる。そして次に、おそらくプロバイダエッジルーターへの到達性をトリガーにしたトラッキング設定が落ち、最後にLANインターフェイスに設定されているのであろう、デフォルトゲートウェイ冗長プロトコルの状態が、副系に変わったログが出ていた。トラッキング設定が、このデフォルトゲートウェイ冗長プロトコルに使われていて、強制的に状態を推移させていると想定される。LAN側ではOSPFが回っていたはずで、ダイナミックルーティングが回っているLANには通常、スタティック環境で必要なデフォルトゲートウェイ冗長プロトコルは不要だ。しかし、メイン側ルーター、バックアップ側ルーターのLANインターフェイスが、ともに同一セグメントに接続する構成で、その接続セグメントの中に、ダイナミックルーティングが動作しないホストがあり、そのホストのためにデフォルトゲートウェイの冗長が必要な場合がある。時折見かける構成なので特に珍しくはない。
「ふーん…。」
都は、そうなんだ、という程度の意味でつぶやいた。
お客試験が無事終わると、平下が戻ってきて、WANの復旧を都たちに指示し、岸谷がケーブルの再接続をする。平下は、電話の向こうのオフィスのPM・SEから、経路がメイン側に戻ったことの確認を受けて、またお客試験のため、お客のいる方へ移動する。平下は、オフィスエリアとPBX部屋を行ったり来たりしなければならない。電話会議を用意して、そこへお客も入れて連絡を取った方が良いように思えるが、リカバーし切れる小さいトラブルも、その電話会議でお客に聞かれるのを避けたいのだろう。もし、さっきのルーター設置の報告・連絡を電話会議でやっていれば、バックアップ側ルーターにコンフィグ間違いがあったことを、お客に知られてしまっていた。そういうことを避けるために、電話会議を二つ作ったりとか、電話会議はお客との間だけ使う、あるいは、都が勤める会社側の人間だけで使うとか、対策を講じておくことは多い。
メイン側ルーターのWANの断試験は、復旧試験も含めて無事に終わり、同じような流れで、メイン側ルーター筐体の、電源断の試験も実施した。こちらも首尾よく完了。あとはLANインターフェイスの断試験をやってしまえば、終わったも同然だ。待機は長いが、工事自体は順調に進んでいると行って良い。特に何事もなく終わりそうだが、そう思った時が一番危ない。都はいつものネガティブシンキングで、気を抜かないようにしようと思った。対象の工事から注意が逸れた時に、トラブルが起こるなんて、気のせいでしかない。それは、ついこないだの工事の時にも証明済みだが、都はいつも気にしてしまう。
「間宮さん、お腹空きません?」
メイン側ルーターの電源を復旧させ、お客試験のため平下がオフィスエリアへ行ってしまってから、岸谷が都に話しかけてきた。
「そろそろおやつの時間だもんねー。」
都は右腕の手首を返して時間を確認すると、14時45分になろうかというところだった。都は、昼ごはんを食べない習慣になってしまっていて、お昼に何も食べなかったところで、それ程空腹を覚えないが、普段ランチをとる習慣であれば、空腹感は酷いだろう。都も岸谷も、小さいペットボトルのお茶を自分のバッグに忍ばせてあったので、ちょっとした水分は隙を見て補給できていた。そう考えると、平下たち営業は水も飲めてないかもしれない。
1日かかるような工事の場合、間にお昼休みを設けるプロジェクトもあるが、工事は一気にやってしまいたい、あるいは、トラブルが起きることを想定して、予定終了時間の後ろに設けているバッファに、出来るだけ余裕を持たせたい、という考えで、昼休憩を置かない工事も多々ある。今回のこの工事は、この調子だと、終了時間は16時くらいを予定しているのだろう。もし昼休憩を入れると、その分終了時間が遅くなり、また、トラブルが起きた時は、リカバリーのためさらに終了時間は遅くなる。そう考えて、昼休憩を挟まなかったのかもしれない。万が一の時の切り戻しも考慮すれば、尚更だろう。
与えられた職務に対して、献身的に取り組むことが労働文化となっている日本拠点の場合、それでも良いが、海外拠点の場合、国によっては、そんなランチタイムも挟まず一気にやるなんてことは非常識だ、というビジネス習慣の国もある。宗教的な慣習で、作業員や現地お客担当者が、丸一日現場に張り付いていることが不可能な場合もある。その辺りの事情はきちんと考える必要があるが、おそらく今回の昼休憩なしの工程表は、このお客の指示だろうから、日本本社のお客が、海外拠点の現地お客を説得したのか、あるいはそもそも現地に日本人担当者がいるのか、どちらかだろう。
メイン側ルーター筐体の、電源復旧後のお客試験が無事終わり、平下が戻ってきた。次はLANの断試験になる。WANの断試験と同様に、平下が電話でPMと話をしながら、岸谷が当該のLANケーブルを抜去する。そして、PMの方で、疎通を確認するホストへの到達性が復旧し、経路がバックアップ側を回っていることの確認が取れると、平下がお客に、メイン側LAN断時のお客試験の依頼をしに、オフィスエリアへ戻る。そんな流れで進んだ。
各ステップでのお客試験に段々時間がかからなくなってきていた。それはお客が慣れてきたので、確認が早くなったようだ。なので、この工程もそんな待たないだろうと都は思っていた。しかし、平下はなかなか戻って来ない。都と岸谷が、平下が戻って来ないとを話題にし始めると、オフィスエリアから離れたPBX部屋にも、木霊を伴って聞こえるくらいの大きな、しゃがれ声の怒鳴り声が聞こえてきた。
「何やってるんだ!早くしろ!」