09-17

09-17
通路スペースで、弱くなった陽射しの中、二人で待機していると、岸谷がスーツの内ポケットに入れていた、工事用携帯のバイブレーション機能が振動した。岸谷は、誰?、と言いながら電話を取った。
「はい、岸谷です。…あ、はい、お疲れさまです。」
岸谷は愛想良く挨拶をしていた。知らない人ではないようだ。
「はい…。はい…。あ、はい、そうですねー。…え?今ですか?今はー…。LANをまた抜いたところですね。」
岸谷は電話で喋りながら、都を見た。おそらくこの工事の現在状況を聞かれているのだろう。電話を掛けてきたのは、岸谷の直属のマネージャーの、高松課長だろうか。現場作業員として、朝一から現場へ直行しているのに、夕刻になっても未だ完了連絡がない。状況を確認しようと、連絡してきたのかもしれない。炎上案件のフォローのために、外部ベンダーではなく、都たちのオフィスから現場作業員を出すことにしたプロジェクトなのは、高松課長もわかっている。これだけ長い時間がかかっても工事が終わらないということは、何か問題が起こっている、と懸念したのかもしれない。
「あ、はい。それは間宮さんがやってくれました。間宮さんがそれをやってくれたのでー、問題が直った、とお客様の確認が取れてー、もう一度、LANの断試験をー、やっているところになります。」
岸谷は、畏まらないで喋る時、少し語尾を伸ばして喋る癖があるが、直属の課長に話をしているような調子ではないように思えた。都が派遣されている現場の正社員たちは、一般社員から課長クラスくらいの間は、割とフラットな関係なので、そんなに畏まって上長と話す正社員はあまりいない。しかし、伝えている状況が細かいので、高松が聞いても伝わらないような内容だ。
「え?そうなんですかー?…あー…、でも平下さん、今お客さんのとことー、あたしたちのいるところをー、行ったり来たりしてるんでー、連絡する時間なかったかもです。」
都は、え、PM?と、小さく岸谷に聞いた。岸谷は大きな瞳で都を見て、そうですそうです、という感じで、首を軽く縦に2回振った。
「はい…、はい…。承知いたしました。次にLANケーブルを繋ぐ時は、繋ぐ前にお電話するようにしますね。」
そう話した後、電話を切る挨拶をして、岸谷は工事用の携帯を閉じた。
「なーんにも連絡がないからー、状況がわからなくて困る!、だそーです。」
岸谷はちょっとふざけて、文句を言っているような調子で言い、可笑しそうに笑った。都は、その岸谷の言い方が可笑しくて笑ってしまった。
「平下さん、さっきからPMに連絡しないで、どんどん進めちゃってるからねー…。」
実際に現場にいないとわからない事情があるから、しばらく現場だけで何か試験をやる、と言う状況は稀にある。また、現地お客担当者が、勝手にケーブルの抜き差しをしてしまって、オフィスのPMから連絡を取ろうにも、電話はとってもらえない、メールは返事が返ってこないで、しばらく待っているしかない状況でやきもきしていると、現地お客さんから冗長試験終わった、今日はありがとう、これでクローズ、とかしれっと言われてしまい、結局都たちのキャリア側で、冗長試験の綺麗なログも取れないどころか、冗長がきちんと機能しているのかどうかも確認が出来ずに、終わってしまうこともある。お客がOKと言っているのだから良いのだ、と言えなくもないが、実はお客の確認が甘く、保守に入ってから、回線断があった時に、きちんとバックアップへ経路が切り替わらなくて、問題になってしまうこともある。構築段階できちんと冗長試験をやっていないと、そう言う問題が起きた時に身を守れなくなる。そのためにも、冗長試験がOKだったという、証拠になるログをとって、保存しておく必要がある。今回、日本拠点の構築なので、東京で専任のSEを置く案件ではなくても、客宅ルーターへの書き込み権限は東京で持てるし、オフィスのPM・SEで設計もするので、自分たちで設計したものの正当性を、担保するためにも、工事時の冗長試験、ログ取得は大事だった。
15分くらいで平下は帰ってきた。LANケーブルを再接続してくれと言うので、平下にさっきのPMのクレームを伝えようと、岸谷と都は一斉に「あ」と、口を開いた。二人は声が揃ってしまったことに笑ってしまった。都は岸谷が言うように促して、岸谷はPMの小屋敷から電話があって、今どう言う状況なのか知りたがっていたので、状況については岸谷が説明したことと、LANケーブルを再接続する時は、事前にPMに連絡して欲しい旨伝えた。
「あー…。」
二人で声が揃ってしまったことに、まだ口元が緩んでいる岸谷と都の二人とは対照的に、平下は、あまり建設的ではない考えが頭に浮かんだかのように、目を細め、笑顔もなく、小さく感嘆の声を上げた。
「あたし電話しましょうか?」
岸谷は、平下があまりPMに電話を掛けたがってないと思ったのか、自分でその役目を引き取ろうと言い出した。確かに、平下の言葉の節々や、折々の態度には、構築サイドに対する不満が滲み出ていた。このPMの依頼も、ちゃんと連絡しろ、というクレームと言えたし、岸谷の都への説明ぶりからも、どこか不満めいたものが、電話の向こうにもあったのだろう。
「いえ、私が電話します。」
何かを噛み潰したかのような含みを持たせながら、平下はそう言って、自分のスマートフォンで電話を掛け出した。挨拶もそこそこに、平下は、連絡をしなかったことを丁重に謝っていた。
「岸谷さん、すみませんが、LANケーブルを繋いでもらえますか?」
平下はスマートフォンを少し耳から離して、岸谷に依頼した。岸谷は了解した旨返して、ラック裏へ向かう。都は、PCの前にしゃがみこんで、スクリーンロックを解く。ターミナルウィンドウを見ると、ログアウトしてしまっていたので、岸谷にちょっと待つように言ってから、ログインし直し、ログが取れていることの確認をする。現在時刻の表示、インターフェイスの説明文一覧、OSPFのネイバー状態、BGPの広告ルート、それぞれを確認するコマンドを矢継ぎ早に叩いてから、岸谷に接続して良い旨伝えた。
「じゃーあ、つなぎまーす。」
「お願いしまーす。」
明るい調子で岸谷が宣言をしたので、都も調子を合わせて返した。未だ強い緊張感は残るし、放っておけば体も震えてしまいそうだが、岸谷のおかげで、都は、口先だけは明るく振る舞えた。岸谷がケーブルを接続すると、ギガビットイーサーネットの0/0が上がり、しばらくするとOSPFの、LSDBのダウンロードが完了した旨のログや、デフォルトゲートウェイ冗長プロトコルで、こちら側がメインとなったログが出る。都はBGPの広告ルートを表示するコマンドを叩いて、元通りに、集約ルート2つの配信が始まったことも確認した。
「はい、大丈夫です。全部上がりました。」
都はターミナルウィンドウから目を離さずに言った。平下はそれを待っていたらしく、都と岸谷に礼を言ってから、またお客試験を始めてもらうと言って、PBX部屋から出て行った。
「これで問題なければ、やっとおしまいかなー。」
都はそう言いながら立ち上がった。ラック裏から戻ってきた岸谷は、やったー、と両手を高く上げながら、喜んでいた。お客さん試験終わってないから、まだだよ、と都が笑いながら窘めると、えー、と岸谷はわざとらしく凹んで見せていた。都は、そんな岸谷に和んでしまった。都の方も、これで終わるかも、という期待のせいか、緊張が少し緩んできてはいた。緊張は緩みはしたが、さっき感じた恐怖は尾を引いていて、その恐怖の方が強くなったのか、都は体が少し震えていた。いたずらで驚かされ、心臓が止まりそうなくらいびっくりして、その後、仕掛け人当人と大笑いしている時も、心臓の鼓動が高まったままで、体の震えが止まらなかったりするが、その状態に似ている。
もう終わりだろう、と思ってしまったせいもあったが、二人で交互にトイレに行って、少し化粧を直したりした。通路スペースの窓から見える空の青さは力強さを失い、射し込む陽射しもなくなっていて、通路スペースは少し暗くなって来ていた。
「もう17時半になっちゃいますねー。」
岸谷は右手首を返しながら言っていた。
「あれ?岸谷さんって時計右にするの?」
都は気がついて言った。確か左にしていたはずだと思った。
「いえ、いつもは左ですよ。間宮さんのまねしてみました。」
岸谷が悪戯っぽい笑顔で、右手首を見せながら言った。
「え、いつ?」
都はいつ変えたのか全く気がつかなかったので、思わず聞いてしまった。そんな他愛もない話をしていると、平下が戻って来た。開きっ放しの扉の向こうは、電気が既に付いていて明るい。
「我々のルーターでの冗長試験は、無事全部終わりました。お客さん試験も全てOKでした。色々と助けていただいて、本当にありがとうございました。」
平下は軽く会釈をしながら言った。都は、恐縮を示す否定の言葉を言いながら、会釈をした。岸谷も軽く頭を下げていた。しかし、まだこれで終わりでないのは、平下の言葉から明らかだった。
「長い間待機してもらったのに、さらに待機をお願いするのは、大変申し訳ないんですが、この後、お客様自身で、お客様LAN配下での冗長試験が一つありまして、それが終わるまで待機お願いします。」
「えーと…。どれくらいかかる予定ですか?」
平下は申し訳なさそうに言っていたが、正直、現場作業員としてはもうやることは何もない、あとはオフィスのPM・SEとやれば良いだろう、と都は思った。しかし、露骨に嫌だと言うのも、気が引けたし、さっきのお客の怒りもあるから、ここでこれ以上の待機は無理です、リリースしてくださいと言って、営業を、現場作業員とお客との板挟みにするわけにもいかない。なので、都は予定時間だけ聞く言いぶりになった。本来であれば、上長にエスカレーションしてくれと、言っていい。
この建物の中を埋めていた、張り詰めた空気というのは、今はいくらか和らいでいる。しかし、またちょっとしたことで、それは一瞬にして強張り、都を震え上がらせるまでになる。そんな兆候がある。だから、少しでも早く、都はここら立ち去りたかった。
「本当にすみません、上手く行けばあと30分程度で終わりますので。」
平下は、ほぼ初めてと言ってくらい、本当に申し訳なさそうな顔をして、都たちに言った。
「了解しました。」
都は、少し困ったような顔になっていたかもしれないが、愛想をつけて承知の旨返した。平下がオフィススペースの方へ戻ってしまってから、あと1時間ちょっとくらいかかるだろうなー、と都が間の抜けた調子で、平下の発言を全否定するように言うと、岸谷は笑っていた。もう夜になっちゃいますね、と岸谷は苦笑いで言うので、都も苦笑いで同意した。
お客のLAN側での冗長試験とは何だろうか。このお客の、他の海外拠点や日本の支社は、別のMPLSプロバイダを使っていると言うから、本社からその他社MPLSへは、足が二つ伸びていて、そちらもメイン・バックアップ構成になっており、そのポイントでの冗長試験だろうか。そうだとすると、ますます都たちの出番はない。そこで問題があっても、ほぼほぼその他社MPLSや、お客のLAN内の設計の問題だ。
すっかり窓の外は暗くなってしまい、通路スペースは、オフィスエリアから差し込む明かりと、PBX部屋から差し込む明かりとで、真っ暗にならずに済んではいるが、とても寂しいただずまいになってしまった。暗いところにいて、明るいところを見ていると、そこは楽しげで陽気な雰囲気だと、反射的に思ってしまうが、ここでは決してそんなことはない。都にはそれが少し可笑しかったけれど、この寂れた暗い場所が、妙に落ち着く。明るいところは騒がしいが、暗いところは静かだ、という安易な紐付けから、ここにいれば緊張と恐怖から逃れられると、思ってしまっているのかもしれない。
都は朝コーヒーを飲んだっきり、コーヒーを補給出来ていない。コーヒー飲みたいな、とふと気が緩んだように思った。コーヒーのことを考えられるくらい、余裕ができたということだろう。平下がオフィススペースへ行ってしまってから、もう1時間くらい経ってしまう。これはまた何かが上手く行っていない可能性がある。下手したら、終電コースかもしれない。緊張してきたと言うより、やれやれ、と思い始めた時、またあのしゃがれ声の怒鳴り声が響いてきた。
「何で出来ないんだ!やらんか!」