09-18

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その高齢の客の怒鳴り声は、都が油断をして気が緩んでいたせいなのか、長時間続いた工事で、お客にかかっているストレスが大きくなっているせいなのか、一段と激昂しているように感じられた。都は、驚きと恐怖とで、体が二回ほど大きく震えてしまう。
「えー、またですかぁー。」
岸谷は少し小声で、不満と驚きを、苦笑いしながら表した。
「ねー…。やだ…。もう…。」
都は、本当に嫌そうな、子供のようなぐずり方で、声を震わせ、小さく言った。設置作業は終わった。客宅ルーターでの冗長試験も終わった。冗長試験時に起きたトラブルも、現場作業員ながら、その場で原因を特定し、その場で対応策を設計、コンフィグし、解消した。一体これ以上何のためにここにいないといけないのか。もう帰して欲しい。あとは担当のPM・SEと一緒にやって欲しい。現場作業員として、このプロジェクトに対して、何の予備知識もないまま来たのだ。設計上何か問題があったからと言って、現場作業員に何もわかりはしない。どうしてこの現場作業員を引き受けてしまったんだろう。そんな後悔も、都には過ぎるようになってきた。
「間宮さん、さっきみたいにルーターに入って、状況確認してみます?」
岸谷は、都と目の高さが合うように、少し身を屈めて、まるでぐずる子供をあやすように言った。
「うん…。」
都は、子供のような返事しか出来なかった。岸谷の提案はありがたかった。PBX部屋へ逃げ込めば、少しはこの怒鳴り声も聞こえずらくなる。出来るだけあの激昂したしゃがれ声から離れたい。都はすぐに踵を返すと、少し小走りにPBX部屋へ駆け込み、PCの前にしゃがみこんだ。スクリーンロックを外そうとする手は震えてしまって、ショートカットキーを押すのにも苦労した。ターミナルウィンドウをクリックしようとして、震える手でタッチパッドを操作すると、間違ってターミナルウィンドウを閉じるボタンをクリックしてしまい、ターミナルウィンドウをもう一度起ち上げないといけなくなった。
「うう…。」
デスクトップのターミナルソフトのショートカットも、上手くクリックできず、別のソフトを起動しまったりした。もし一人でいて、誰も近くにいなかったら、都はパニックになったような声を上げてしまっただろう。
「ふー。」
都はとにかく深く深呼吸をして、なんとか少しでも落ち着こうと思った。効果は微妙だったが、岸谷が、また都にくっつくくらいに、ぴったりと都の横にしゃがんでいることに、気がつくことが出来た。思わず岸谷を見てしまった。
「またあのおじいさん怖いからそばに来たの?」
都は、本当にそう思ったのではなく、何かしゃべって、この緊張と恐怖を誤魔化したくて、岸谷がさっき言った冗談を持ち出した。
「はい。」
岸谷は、落ち着いた、ゆっくりとした口調で、しれっと、当然ですよと、自慢げでもあるかのように、小さい声だが、大きく頷いて、笑顔を見せていた。もしかしたら、さっき岸谷が都に、ルーターに入って様子を確認してみようと言ったのは、あの怒りが増したような怒鳴り声が響いてから、都の様子がおかしいと思って、少しでも都の気が逸れるようにと、気を回してくれたからなのだろうか。まだ社会に出て半年程度の新入社員が、こういう少し常軌を逸した状況にも関わらず、落ち着き、しかも同行した派遣社員の状態にも気を回せるなんて、この子はすごい、そう都は思った。PMをやっていれば、相手が何らかの原因で怒り出すことはある。相手はお客な場合もあるし、社内の別担当や営業だったりする場合もある。そういう時に、相手に、その場の雰囲気に飲まれずに、冷静に判断、行動できるための強さや、精神力というものが、PMには必要になるが、岸谷にはこう言ったものが既に備わっているようだ。
それに比べて、都は、その新入社員よりも一回り前後年齢が上なのに、現場作業員として行った客宅で、お客の激昂で作られた雰囲気に飲まれてしまい、恐怖と緊張とで、胸が痛くなるくらい呼吸が苦しくなり、体が震えるほど固くなってしまう。事情もわからないプロジェクトなのだから、第三者的に、それこそ、岸谷がそうしていると見えるように、舞台の上で演じられている喧騒だと、客観的に捉えれば良いだけなのだ。しかし、都は飲まれてしまって、まるで自分が詰られ、怒られているかのように、緊張し、恐怖している。
「そっかー…。」
そう都は言いながら、また深呼吸をした。手はまだ震えているが、キーボードを打てないほどではない。今度は正しく、閉じてしまったターミナルソフトを起ち上げ、ターミナルウィンドウのログ吐き出し先を、さっきまで取っていた同じファイルに設定してから、メイン側のルーターへログインし直した。
インターフェイスは全部上がっている、BGPももちろん上がっている。プロバイダエッジルーターから、ルートも受け取っているし、こちらからも、所定の集約ルート2つと、ループバックアドレスを広告している。WAN側のルーティングは問題なさそうだ。LAN側はどうかと思い、ルーティングテーブルで、スタティックのものだけに絞って表示させてみるが、こちらは問題ない。しかし、OSPFに絞って表示させると、ルートは一切ないことになっている。都は変だと思い、OSPFのネイバーを表示させるコマンドを叩いてみると、ネイバーが一つもないことになっている。冗長デフォルトゲートウィプロトコルの状態を確認してみると、確かにメインにはなっているが、バックアップ側のルーターが見えていない。LAN配下の、どこかで不具合があったのか。いや、平下は、お客のLAN内で冗長試験をやると言っていた。今はお客が、LAN内のどこかで、擬似的に断を起こしているということだ。客宅ルーターのLANインターフェイスと、直下のお客LAN機器の間では断になっておらず、客宅ルーターのLANインターフェイスは上がったままになっている。この客宅ルーターの設計は、こういうLAN内の断に対応できる設計にはなっていない。こういう障害が発生した場合、スタティックルートが問題なく上がっていることこそが、問題になってしまう。
都は、急いでバックアップ側のルーターへ、さっきと同じ方法を使ってログインした。そして、コンフィグのスタティック部分だけ表示させ、スタティックルートのネクストホップになっているIPをコピーしてから、pingコマンドを打ち、スペースを空けてそのIPをペーストし、リターンキーを叩く。pingは不達だった。pingのソースを変えて試して見たが、結果は同じだった。これは、このネクストホップが、お客のファイヤーウォールか何かで、こちらからのpingを受け付けないようになっているのだろう。もし、これが受け付けてくれれば、ここへの到達性をメイン側のルーターでトラッキングして、そのトラッキングをスタティックルートに引っ掛けておけば、たとえメイン側ルーターのLANインターフェイスが上がったままで、LAN内の、メイン側ルーターへのパスのどこかで断が起きても、到達性が失われたことをトリガーに、トラッキングが引っ掛けてあるスタティックルートを、全部落とすことが出来る。トラッキングによって、スタティックルートが落ちてくれさえすれば、OSPFはネイバーへの到達性が無くなった時点から、デッドタイマーが切れれば落ちるので、BGP集約ルートの「種」は全てなくなり、集約ルートの広告も止まり、対向拠点から本社へのトラフィックは、バックアップ側へ寄ることが出来る。
都はBGPの集約条件を考えた時、このスタティックルートにトラッキングがないところまで、頭が回らなかった。自分が一から設計したものではないから、ぱっと見では注意がそこまで回らなかった。そういう言い訳もできるだろうし、あの高齢の客の怒鳴り声に、恐怖と緊張を覚え、冷静に考えられなかったと、泣き言を言ったっていいだろう。しかし、これは気がつくべきだった。LAN側のルーティングが、OSPFだけではなく、スタティックもある環境の場合、BGPの集約設定の条件設定を入れるだけでは、お客LAN内で断があった時に広告が止まらない。そういう指摘を入れてやれたはずなのに。これは都が自分で設計を担当している案件であれば、常に施している対策だったから、思いつくのは簡単だったはずだ。
しかし、実際に今起こっている状況は何なのだろう。都の想定はそうだが、本当はどこで何が起こっているのかわからない。それに、PMがヒアリングや設計段階で、こういう期待しない動きが起こりうることは、注意喚起していたかもしれない。それでもやっぱり都が悪いんだろうか。こうなることを知っていたはずなのに、指摘できなかった都が悪いのか。都はだんだん何も考えたくなくなってきた。考えが回らなくなると、緊張が意識にどんどん上ってきて、怖いという感覚もしっかり知覚してしまう。
「何かわかりました?」
岸谷は、優しく労わるような調子で言った。それは、何か聞こうと思って言ったのではなく、おそらく岸谷は、都の指の動きがどんどん遅くなり、固まってしまったのを心配して、声をかけたのだろう。その言葉で都は我に返った。思わず岸谷を見てしまった。岸谷は、どうしました?とでも柔らかく言うかのように、首を少しだけ傾けていた。
「あたし、一つ見落としていたかも…。一つ、さっき指摘できたことを指摘出来ていない…。」
都は正直に口に出した。酷く落胆し、どうしようと、後悔と焦燥とが露骨に表れた調子になっていた。
「え、でも…。」
岸谷が何かフォローしようと、言葉を掛けようとすると、バタバタと走ってPBX部屋へ近づいてくる足音が聞こえた。今度こそ、客に違いない。きっと、さっき現場作業員がいい加減な設定をしたからだと、怒っているのだ。都は大きく体が震えてしまう。なりふり構わず、岸谷の腕にしがみついてしまいそうだった。都は悲鳴のようなものを口走ってしまいたかった。
岸谷は、すっかり真っ暗になってしまって、開け放しになっているPBX部屋の扉と、オフィススペースへとつながる扉から、漏れる明かりだけが床を照らす寂しい空間へ、睨むような視線を送っていた。
「間宮さん、本当にすみません、もう一度お知恵を拝借できませんか。」