09-22

09-22
エレベーターに乗り、扉が閉まった後、小さい声でお疲れさまでした、と声を掛け合ってから、客宅の門を抜けるまでは、都と岸谷は何も喋らなかった。疲れていたから、というのではない。ここはまだ客宅だ、という社会人としての常識からそうしたというよりは、ここはまだ敵のテリトリーだといった、ふざけた警戒心のようなものからそうしていた。真夏ほどではないが、夜になっても昼間の暑さが残り、スーツの上着は邪魔だった。
「間宮さーん、お腹すいたー。」
岸谷はいつもの通る声で、甘えるように言ってきた。都は、まだ体に緊張も残るし、体に震えもある状態なのに、そんなさっきまでの状況とはまるで結びつかないようなことを、岸谷が言ってくるので、可笑しくて笑ってしまった。笑い声は、人通りのない、工場の高い壁に反射して少し木霊した。都は慌てて口を片手で押さえた。
団地の通りは静かだったが、人通りが全くないわけではなく、外出先から家へ帰る途中の人がぱらぱらと通り過ぎる。土曜の夜というのは、どこかリラックスした賑やかさがある。電話をしながら歩く女性の声も楽しげだし、塾帰りなのか、ただの遊びからの帰りなのかわからないが、高校生くらいの男の子たちも、えらくはしゃいでいるように見える。買い物帰りのカップルも、まだ明日もう一日休みがあるから、という心の余裕を持っているようで、会話が弾んでいる。土日が休みな人ばかりではないはずなのだけれど、こういう空気を醸造してしまうくらい、カレンダー通りの休日の人が多いといことなのだろう。
「あのおじいさん怖かったですねー。」
岸谷は、今経験したことは、確かに都と一緒に体験した現実だと、確認するかのように、聞いてきた。
「ねー。ほんと、怖かったー…。あたし、もうがくがく震えちゃって…。一人だったら、泣いちゃってたよー…。岸谷さん一緒にいてくれて良かった。岸谷さんいなかったら、あたしどうなってたか、わかんない…。」
都は、薄く笑顔を浮かべ、前髪を掻き上げながら、岸谷とは目を合わせずに、正直な気持ちを言った。言って良いのか少し迷ったが、都自身は口に出してしまって、すきっりしてしまいたかったのかもしれない。口に出してしまうと、涙が目に溜まってくるのがわかった。
「そんなことないですよ!あたしだってー、間宮さんいなかったら、もう、何していいかわかんないしー、あーのおじいさん、何やってんだー!って怒鳴ってばっかりだしー、あたしもー、しまいにはー、あたしにわかるかぼけー、って怒鳴っちゃってカオスでしたよー、きっとー。」
岸谷は、高齢の客の言葉を言う件と、岸谷自身が怒鳴る件とで、あの高齢の客の、しゃがれ声の癇癪を真似た。その真似の仕方も、極端にデフォルメしているので、都は可笑しくて大笑いしてしまい、大きな声を出さないようにするのが大変だった。岸谷は、都が大笑いしたのが嬉しかったのか、しばらく高齢の客の怒鳴り声を真似してやっていた。それは時々のけぞる程可笑しくて、都は歩くのがゆっくりになってしまった。あの状況でも動じることがないくらい強くて、後でその状況を面白可笑しく話すこともできる。この子はきっと優秀なPMとして育つだろうな、と都は思った。都は涙が出てきてしまったが、それは怖かったことを思い返して目に溜まった涙なのか、可笑しすぎて出てきた笑い涙なのかよくわからなかった。もしかしたら、岸谷は、都が泣いてしまいそうなのを察して、大笑いさせてくれたのかもしれない。そんな風にすら思えた。
「あー、可笑しかった。もー…。涙出てきちゃったよ。」
都はビジネスバッグの外側のポケットに入れておいたハンカチを取り出して、目を拭った。まだ少し手が震えていた。
「まだ、手震えてるし…。ほんと、怖かった…。」
都は自分の手のひらを見つめてつぶやくように言った。
「間宮さん、手、握りましょっか。」
岸谷は、立ち止まって、広げた右手を差し出しながら言った。
「へ?なんで?」
都は一瞬何を言っているだろうか、と思ったが、そうして欲しかったのだろうか、自然と自分の左手を差し出してしまった。岸谷は都の左手を握った。
「じゃあ、駅までおててつないで帰りましょー。」
岸谷はそう楽しそうに言うと、歩き出した、都は引っ張られるように、ついて行くしかなかった。
「な、何これ?」
都は、緊張や恐怖を覆い潰すように上ってきた感情に整理がつかず、とりあえず笑ってしまいつつ、聞いた。
「不安な時とかって、誰かの手握っていると安心しません?」
岸谷はなんでもないことのように言うが、いい歳した大人の女が二人、スーツ姿でビジネスバッグを片手に下げて、手を繋いでいるなんて、奇異な光景だろう。実際通り過ぎる、仕事帰りの中肉中背の男性が、怪訝そうな顔でこちらを見えていた。蒸し暑いくらいの夜の空気の中、岸谷の手は冷たかった。手の冷たい人は、心の暖かい人だ。古い言い回しがすぐ頭に浮かんだ。
「そ、そうかもしんないけどさー…。人目が…。」
都はそうは言ったものの、一体自分に、今更人目を気にしなくてはいけないような、真っ当な部分があるとでも言うのだろうかと、思いもした。実際、恥ずかしくもあったが、なんとなく手を繋いでもらっていると、岸谷が言う通り、安心する気がする。手を人と繋ぐなんて、一体どれくらいぶりだろう。付き合った彼氏たちのことよりも、兄と手を繋いだことがすぐ思い出される。小さい頃はもちろん、大人になって一緒に暮らしていた頃、兄と一緒に買い物に出かけたりすると、兄は都がせがめばいつも手を繋いでくれた。恥ずかしいから手を繋ぐなんて嫌だ、と言う男子は多いし、まして妹となんて、と思ったっていいはずだが、兄は嫌がりもせず、両手が必要な場面にでもならない限り、ずっと繋いでいてくれた。今思えば、それはいつかは都を置いていかなければならないことをわかっていて、この甘えん坊の、強度のブラコンの妹に、何かを伝えようとして、手を握ってくれていたのだろうか。同じように、岸谷が今、都の手を繋いでいるのも、都に何かを伝えようとしているのだろうか。
「あたし、今日間宮さんに来てもらって良かったです!大正解でした!」
岸谷は楽しそうに笑いながら言った。岸谷が今回の現場作業員の業務に、都の同行を希望したんだっけ、と都は思い出した。岸谷の右手は、都の左手を優しく握る、と言うよりは、しっかりと握っていた。
団地を抜けて、車の行き来が多い2車線の国道へ出ると、歩道が狭い。車のヘッドライトが眩しく照らしては通り過ぎ、その光の差分から真っ暗闇に入ったように変遷する中、人が行き交うには、歩道の建物側か、車道側に寄って一列にならないといけない。岸谷が都の手を握ったまま、先頭を行き、都が後ろからついて行く形なのだが、都は引っ張られている感じはなくなったけれど、大人の後ろについて、しっかりと前を進む子供のようだった。狭い歩道を行き交う人々は一様に、手を握ったまま一列になって歩く、ビジネスバック片手のスーツ姿の女子二人に一瞥をくれていた。好奇の目なのか、訝しげな目なのか。都は、さっきまでは恥ずかしいとか、いい歳して女同士で手を繋ぐだなんて、と思ってはいたが、好奇の目に晒される中、しっかりと都の左手を握り、背筋を伸ばして歩き、シュシュから伸びるウェーブのかかった長いポニーテールが揺れる、岸谷の背中を見ていると、このまま手を握っていようと、逆に強く思った。
狭い歩道の国道は、駅のバスターミナルに接続する。バスターミナルの辺りまで来ると、二人で並んで歩ける余裕が出来た。もう手を離しても良いかな、とも思ったし、パソコンがなくなったので軽くなったとはいえ、工具やら念の為持ったラックのネジやらで、都にとっては重いカバンなので、そろそろ持ち手を変えたかった。10分ちょっと歩いたら、暑くなってきたし、握った手も汗をかいている。しかし、どう切り出したものかと悩んでいると、岸谷のスーツの内ポケットに入れっぱなしだった、工事用携帯のバイブレーションが鳴った。岸谷は自然に都から手を離し、携帯を取り出した。
「あ、やばーい、課長に終了連絡してなーい。」
あまり危機感があるのかないのかはっきりしない調子で言うので、都は笑ってしまった。電話の相手は岸谷の直属の課長、高松のようだ。そう言えば、都も自分の派遣契約書に、現場指揮責任者となっている、直属の課長、末谷に連絡をしていなかった。完了後に私用のメールアドレスから、課長の会社のメールアドレスへ一報入れておけば良かった。都は自分のスマートフォンをバッグから取り出し、フリーのウェブメールのアプリを立ち上げて、メールを作り始めた。道の真ん中に立っているのは通行の邪魔なので、都はメールを作るのをやめ、既に高松と電話で会話を始めていた岸谷の、空いている方の手を掴んで、駅舎の壁まで避けた。
「はい、もー大変でしたぁー。お客さんの一人がー、ずーっと怒ってらっしゃっていてー。…はい、もー、パワハラとかで訴えて欲しいですー。」
岸谷は笑いながら言っていた。都はメールを打ちながら、一緒に笑ってしまった。
「色々トラブルがあったんですけどー、全部ー、間宮さんが解決しちゃいました!…はい、私は全然何やっているかわからなかったです。間宮さんが魔法使いに見えました。…はい、もー、魔法でした。魔法以外の何物でもなかったですよー。魔法使い都ちゃんです。」
持ち上げ方がおかしな方向に行っているので、都は笑ってしまった。岸谷が自分の下の名前を覚えていてくれているのが、ちょっと嬉しかった。
「何かトラブルがあるとー、お客さんの怒鳴り声が遠くから聞こえてきてー、しばらくするとー、営業さんが私たちのとこくるんですよー。すみません、助けてください、みたいにー。そうするとー、間宮さんがー、ぱぱぱぱー、ってー、解決しちゃうんです。そうゆーのが4、5回ありました。」
そう高松に報告すると、岸谷は一笑いしてから、高松に何か言われたのか、ほんとすごかったですー、と電話口に答えていた。都は否定の意味で、手を横に振った。4、5回もやってないよ、と都は口に出しても否定した。
大変だった工事が終わり、それが最終的に首尾よく完了したとしても、嫌な思いだけ残っていれば、直後の上長への口頭での報告は、沈みがちなものになってもおかしくはない。しかし、岸谷のそれは、まるで何か面白く刺激的なものでも体験してきたかのように、自分の興奮に多少色を付けて、冗談を交えて報告している。都がやったことを、ちょっと大仰だけど、自慢気に話しているのは、恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。岸谷は、今回の以前にも現場作業員として客宅へ行ったことがあるが、その時は何もせず、すぐに終わってしまったというから、今回が実質最初の現場作業員といって良かった。岸谷が、この仕事が嫌になってしまわないようにしないと。そう都は思っていたのだが、引き受けてみたら、こんな炎上案件で、現場でもあんなにお客が激昂するのは想定外だった。それでも、岸谷は今回の経験を前向きに捉えることが出来ているようで、都は安心した。
「いえ、間宮さんのやってることは魔法なのでー、私には全く理解できませんでした。だからそういう意味ではー、全く勉強になってないです。」
そう電話口に言うと、岸谷は大笑いしていた。そう言えば途中までは、これはこうでと、岸谷に説明していたが、お客が怒鳴り始めたあたりから、とても一つ一つ説明している時間的な余裕も、精神的な余裕もなくなっていた。これは申し訳なかったな、と都は反省したが、正直、あの状況で、落ち着いてトラブルの原因と起こった問題点、それにどういう対策とったのかを、岸谷にわかるようにきちんと説明できたかと言うと、それは難しかっただろう。
「…はい、お客さんがずっと怒っていたのが、きつかったですー…。私は間宮さんいてくれたので、結構余裕でしたけど、間宮さん、ほんとつらそうでした…。」
岸谷は都の方を見やりながらそう喋っていた。その瞳は心配の色が見えたので、都は笑顔を返した。岸谷は安心したような笑顔を見せた。都の手や体の震えは、随分治っていた。
「はい、はい…。はい、お願いします。はい、ありがとうございます。はい、間宮さんが一緒にいてくれて本当に良かったです。はい、お疲れさまでした。はい、失礼します。」
高松との会話が終わったらしく、岸谷は電話を切って、工事用携帯を閉じた。
「間宮さん、あたし、今日間宮さんに来てもらって本当に良かったです。ありがとうございます。」
岸谷は笑顔で、都に再度礼を言った。嫌味の全くない、素敵な笑顔だ。可愛らしくて、良い子だな、と都は素直に思った。
「とんでもない、あたしだって、岸谷さんいなかったらどうなっていたか…。こちらこそ、今日は本当にありがとう。岸谷さんいてくれて本当に良かった。」
都は謙遜を表してから、自分こそが、岸谷に助けられたことに、カバンを持ったまま手を前に揃えて軽く腰を折って礼を述べた。岸谷がいなければ、あれだけちゃんとトラブル原因を見極め、対策を講じることは出来なかっただろう。まして、都は初めてコンフィグする設定もあったのだ。
「なんか、あたしたち付き合っちゃいそうですね。」
岸谷はちょっと跳びはねて、都に体がくっつくくらい近づくと、悪戯っぽい大きな瞳を輝かせて言った。語尾は笑ってしまっていた。
「告白か!」
都がそう言うと、二人で大笑いした。
駅舎の中に、世界的に有名なチェーン店のカフェがあるから、そこで軽くベーカリーでも食べてお茶しようと言うことになった。岸谷は歩き出す時に、自然と都の左手をとって、また手を繋いで歩き出した。もう離して良いよ、と都は言いたかったが、ふと、都は工事中に岸谷が一瞬だけ見せた、不安げで、助けを求めるような顔を思い出した。それと同時に、都の兄が、兄の結婚披露宴の最後で、父母と都に対して読んでくれた、手紙の一節も思い出した。
都は、いつも兄に守ってもらっていると言っていたが、それは反対で、いつも兄こそが都に守ってもらっていたのだと、その手紙で兄は言っていた。都を守るために、兄は強くならなければと思うことが出来、強くなれたと。だから結局、兄が都を守っていたのではなく、都が兄を守っていたのだと。都はあの披露宴の席で、泣いてばかりで本当に迷惑をかけてしまったと、今思い出すと恥ずかしいばかりだが、最後の手紙のこの件を読まれた時は、兄の言いたいことがよくわからなくて、一瞬嗚咽が止まったのを覚えている。兄が側にいないと生きていけない、兄が他の女の人のところへ行くなんて嫌だ。二十代半ばになっても、そんな甘えた思いしかなかった都が、どうやって兄を守ってきたと言うのだろう。あれから十年経っても、都の腑には今ひとつ落ちていなかった。
しかし、目の前で起こる緊迫した状況を、冗談として捉えてしまうくらいの余裕を見せていた岸谷が、心の動揺を露わにし、都にすがるようになった姿を見て、都は、自分がしっかりしないと、と気持ちを立て直すことが出来た。特に最後のトラブルは、思いついた設計を実現するコンフィグが、あるかのかどうかもわからなかったし、もちろん具体的なコンフィグ方法もわからなかった。それでも、パニックに陥ることもなく、その場で調べて、上手く設定し、トラブルを無事収めることが出来た。それは、あの岸谷の顔を見て、しっかりしないと、と思えたからこそだろう。
兄が言いたかったことは、こういうことなのかもしれない。明日にでもちょっと電話して聞いてみようかな、と都は思った。兄と話す理由づけが出来て、都はちょっと嬉しくなってきた。岸谷は、駅の階段を都の手を引くようにして上っていく。都は、人目も恥ずかしいから、手を離したくもあったが、それでも見知らぬ土地で、岸谷と二人だけの空間のようなものに収まっているような気もして、もう少し岸谷の手を握っていようと思った。