10-01

10-01
日曜日、朝普通に目は覚めたのだが、なかなか起きられなかった。体が重く、起き上がれない。夜眠れないということもなかったので、とにかく疲れているのだろう。それに今日は休みだし、別に無理に起きなくたって良い。寝てれば良いや。寝返りを打って、肌にまとわりつくケットの感触を楽しんだ。今日もまだ暑くなるみたいで、今もちょっと暑い。都は暑いのは好きだったが、疲れのせいか、朝の暑さが少し不快に感じられる。枕元の、小さいペンギンのぬいぐるみに預けていた、エアコンのリモコンを取り、クーラーをつけた。ケットを肌蹴ると、涼しい風が直接全身の肌を撫でていく。隣で寝ている少し大きめのペンギンの抱き枕を抱き寄せて、胸に抱えて抱きしめる。ふわふわしたぬいぐるみが、直接肌に触れるのは心地良くて、このままもう一度眠ってしまおうかと思った。暑さの不快さが消えるくらいには涼んだので、つけたばかりのクーラーを切ると、物音のほとんどしない静寂が、都の部屋を覆い尽くしていく。遮光カーテンと壁や床の隙間から漏れる陽の光は、都を誘っているようだ。それはまだ残る夏の空気を、出来るだけ楽しんでおきたいと、都が思っているからだ。
目は覚めたような気がするが、体が重たくて起き上がれない。都は枕元のスマートフォンを仰向けに寝転んだまま、左手で手探りで探し、拾い上げると右手に持ち替える。スマートフォンを頭上に掲げて、ロック画面を見てみると、チャットアプリに新着メッセージがある通知が出ていた。指紋認証でロックを解く。既に11時半になっていることは、ここで気がついた。せっかくの日曜がもったいない。今日は予報によれば、まだ夏日だったはず。都は体を起こして、敷きマットの上にあぐらをかいた。ペンギンの抱き枕は上半身で収まってしまう大きさなので、ペンギンのお尻を組んだ足の上に乗せると、ちょうどペンギンの顔が頬の横に来るので、抱き枕がちょうど都に甘えているような仕草になる。
抱き枕を抱えたまま、スマートフォンのチャットアプリを起ち上げる。メッセージは岸谷からだった。朝の挨拶と、昨日のお礼、それに都を心配する内容だった。派遣社員とは言え、自分よりひと回り程度年が上の先輩が、キーボードもまともに叩けないくらい、震えてしまっているのを見た、社会人になって半年の子の気持ちはどうだったろう。そう考えると、恥ずかしいし、本当に申し訳なかったなと、一晩眠った後では思う。しかし、そう思ったからといって、あの時、堂々と動じずに対処できたかというと、そんなことは決してない。結局、自分はこの弱さのせいで、こういう強さを持つことが出来ないので、正社員の仕事に就くこともできないし、なることを選ぶこともしないのだろう。
都は、朝の挨拶と、昨日の長い工事の労い、そして色々心配かけてしまったことを謝るメッセージを送った。自分の情けなさにまた気が滅入ってきたので、抱き枕を抱きしめて、スマートフォンを持ったまま、また敷きマットの上に横になった。掃除もしないといけないから、起きなきゃ、とは思うが、体が重たくて仕方がなかった。
ふと、昨日末谷課長に送ったメールに返信が来ていたのを思い出した。昨日工事が終わった後、岸谷と客宅最寄り駅の駅中カフェで、まるで今までの工事中の緊迫感を遠ざけるかのように、他愛もない話で大盛り上がりしている最中に受信したものだったから、適当に読み飛ばしてしまっていた。フリーメールのアプリを立ち上げて、昨日来た末谷課長からのメールを読み返した。長い時間の現場作業員としての業務と、本来の業務範囲を超えたサポートを労ってくれた後、事情は高松から聞いた、詳細を月曜にでも聞かせてくれ、というものだった。昨日、岸谷が高松に、都が辛そうだったと報告していたから、そのことを高松が末谷に知らせたのかもしれない。その時に、都が現場で色々と対応したのも聞いて、出だしの文面になったのだろう。もう、出来れば、あの件で誰かと関わりたくなかった。時間が経てば、笑い話にでも出来るかもしれないが、しばらくは振り返りたくもないし、思い出したくもない。
都はまた目を閉じてしまって、もうこのまま夜になってもいいや、と思い始めた。良い天気で、夏日だという。都の大好きな夏。暑い季節。それの残り香がまだ楽しめるのに、カーテンすら開ける気にならない。仕事で疲れてるから。なんて言い訳だろうか。例えば兄嫁はきっと今、まだ小学校低学年で元気が有り余ってる娘の相手を、兄と一緒にやっているだろう。最愛の兄を奪われた、三十半ばのひとり暮らしの妹は、仕事で疲れたと言って、カーテンも開けず、ペンギンの抱き枕を抱え、敷きマットに横になったままだ。こんな人間だもの、しょうがないよ。都は否定的な思考のスパイラルに堕ちて行く。この下り坂は、どうしようもなく嫌な気分がすると同時に、本当にどこかへゆっくりと堕ちて行くような、浮遊感のようなものがある。それは、自分はこんな人間なのだから、頑張ったて仕方がない。もう何もかも止めてしまったらどうだ。そんな心の底からの誘いが、四六時中どこか力んでいることを諦めさせ、解放感のようなもの味わわせる。
おそらく眉間にしわを寄せて、目を閉じていただろう。スマートフォンが、チャットアプリの新規メッセージを知らせる通知音を鳴らした時、今日初めてまともに目を開いた。都は、また起き上がり、あぐらをかいて、抱き枕を抱いたまま、スマートフォンのロックを解いた。メッセージは岸谷からの返信で、そんなこと言わないでください、間宮さんいたからあの工事終りました、もし間宮さんいなかったら、きっとまだ岸谷はあのPBX部屋にいたはずだと、顔文字、絵文字を取り混ぜながら、励ましてくれている。これ以上岸谷が、年上の派遣社員に気を遣わなくてはいけないのは苦痛だろうし、都自身が、まるで励ましてもらいたがっているような文面を書いてしまうのも、申し訳ないし、それ以上に自分が惨めになってくるので、都は、お礼と、岸谷が一緒で良かったと、笑顔の絵文字で締めて送った。スマートフォンを置こうと思ったのだが、都のメッセージはすぐ読まれたことが、表示でわかった。すぐに返事が来るのかな、と期待してしまって、しばらくアプリを開いたまま見ていた。すると、岸谷も、都と一緒で良かったということと、もう一度礼を書いてきた後に、もし都がいなかったら、きっとあの高齢の客と、言い争いになっただろうということを、ガチギレ大会待ったなし、などと書き、とても今まで都に気を遣い、素直な礼を書いてきた女子と同一人物とは思えないくらい、高齢の客におかしな罵詈雑言を浴びせるので、都は声を出して大笑いしてしまった。都は、その大笑いでやっと起き上がる勢いがついて、クーラーで冷えた床に裸足で踏み出し、遮光カーテンを開けた。
掃除を始めたものの、あまり集中が出来ず、布団や敷きマット、下に敷いているスノコを片して、その部分に掃除機を掛けたら、スマートフォンを覗き、台所付近に掃除機をかけたら、またスマートフォンを覗き、などとやっていたので、結局掃除、洗濯、洗顔に化粧、お腹も空いたので軽く冷蔵庫にあった野菜で味噌汁を作って食べたりしていたら、15時になってしまった。都は小さな手提げバッグに、財布やら化粧道具やらポータブルミュージックプレイヤーなどを突っ込んで、夏をまだ感じることのできる暑さを味わって来ないとと、急いで散歩に出かけようと思ったが、着るもので若干悩んで、また出発が遅れてしまう。
都が住んでいるマンションから歩いて10分程度で、細い川沿いにずっと続く散歩道があり、都はそこを散歩コースにしていた。陸側へ向かうコースは、ほぼ平らでまっすぐな道だ。そのため、ジョギングをしている人が多く、葉桜の木がびっしりと並ぶ散歩道を、ぼんやりと歩く、というのはあまりできなくて、前から来るジョガーを避ける時は、後ろにも気をつけないといけない。右端を歩いていればいいかな、と思うと、反対方向から、同じ側を走るジョガーがやってくる。じゃあ、左端を歩いてていればいいかな、と思うと、反対方向から同じ側を走るジョガーがやってくる。そうかと思うと、後ろから走ってきたジョガーが、ぎりぎりのところで都を避けて後ろから追い越すので、びっくりするし怖い。こっちのコースは歩くのは楽なのだが、天気の良い日はそういう危険がある。
海側へ向かうコースは、起伏やカーブが多く、住宅街と川の間に散歩道がある。ずっと歩いていくと国道にぶつかり、国道を渡ると、散歩道は河口まで続く。河口付近には親水公園があり、散歩道と道路を挟んだ向こうには、大きな商業施設もある。都は海側のコースの散歩ついでに、この商業施設で買い物をすることもあるし、買い物ついでに、このコースを散歩、ということもあった。今日はこちらのコースをとった。
信号待ちをしていると、夏の勢いは薄れたとはいえ、ビーチサンダルの素足の甲に、太陽の光は刺すように照りつけてくる。ちゃんと日焼け止め塗ってきたけど、大丈夫かな、とちょっと心配になるくらいだ。しかし、歩き出すと、気温30度にも関わらず、少し風が吹くと、どこか気持ちが良く、ショートパンツから覗く脚や、体の線が出るデザインのポロシャツの、開襟から裾へ抜けていく空気は、真夏のあのむせ返るような、暑いのが嫌いな人には不快でしかない、まとわりつくような感じはもうなくて、どこか清々しいように感じる。空は一面の青空だが、時折見える雲は、もう夏の雲ではなく、秋の雲だった。いわし雲の下、気温30度とはなんとも奇妙といえなくもないが、夏の大好きな都には、まだ暑くて良かったし、その光景も趣があって良いと思った。
オレンジ色のポロシャツに、白いショートパンツ、小さな手提げバッグから、イヤホンを伸ばして音楽を聴きながら、ビーチサンダルで歩く姿は目立つのだろうか。通り過ぎる人が、都に一瞥をくれる人が多い気がした。いい歳してなんて格好してるんだ、とか思われているんだろうか。ふと全身が映る鏡面になった、ビルの柱を通り過ぎたが、都はそんなことはない、十分可愛らしいじゃない、と自分の映った姿に満足した。日曜の昼下がり、いくつなのか微妙にわからない大人の女が、一人で音楽を聴きながら、ビーチサンダルにショートパンツで散歩しているのが奇妙なのかもしれない。30度あると言っても、すでに9月も中旬だ。季節外れの格好をまだしている、と思われたのだろうか。でも、都はまだ夏が残っているなら、その夏を楽しみたかった。
20分以上歩くと、ポロシャツの下は大分汗をかいてくる。信号待ちになると、ポロシャツをパタパタさせて少し扇いでみるが、そんなに効果があるわけでもない。本当は、もっと解放感を楽しみたくて、下着をつけないでこようと思ったのだが、これだけ汗をかくと、この体の線が出る、びったりとしたデザインのポロシャツでは、いくら胸の小さな都でも、えらいことになるだろうから、つけてきて良かったと思った。そこまで社会性を捨てる気になれないのは、都の良いところなのか。結局はその思い切りの悪さが、いろいろなことを取り逃がしているんじゃないかと、考えることもあった。
歩きながら、ポータブルミュージックプレイヤーで音楽を聴くのは、都は十代の頃から好きだった。しかし、いつからだろうか、音楽が全く楽しくない日が時々あるようになった。音楽を聴いていても、耳から先に入ってこない、頭に、体に入ってこない、ただの騒音にしか聞こえない日がある。それはひどいと一週間くらいそうで、何を聴いても全く楽しくないと感じる。聴くジャンルを変えてみると、効果がある時があって、それまでロックばかり聴いていたのを、ジャズ一辺倒に変えてみると、急に音楽が体に入ってくるようになり、音楽の楽しさを取り戻せたりする。しかし、それも効果がないことは多く、そういう時は、音楽を聴くのをしばらくやめてみるしかなかった。聴かないなら聴かないで、音楽のない生活はつまらなかった。都には、コヒーと音楽は毎日欠かせない。
今日は音楽がしっかりと体に入ってきて、暑さと一緒に楽しめた。ミディアムテンポより、ちょっとだけ早い曲になると、それに合わせて踊るように歩いてみてしまう。腕も体も動かしてみたいが、さすがにそこまでやるほど、社会性を捨て去れない。いや、そうではない。ヘッドホンをしながら、音楽に合わせて体を動かしている人は、数は多くはないが、いるだろう。結局、ああいう人のように、自ら自由になれないのだ。自由になりたいと思っているくせに。
親水公園が近くなると、大型商業施設も目に入る。駐車場の空きを示す電光掲示板は、ほぼ全ての駐車場で満車を示していた。都はこのコースを散歩すると、親水公園か、商業施設の中のカフェか、どちらかで休憩をとるのだが、今日は商業施設のカフェは諦めた方が良さそうだった。汗もかいたので、お気に入りのカフェの、冷たくて甘いアイスコーヒーでも飲みたかったが、親水公園の入り口にはある、自動販売機の缶コーヒーで済ませてしまうことにした。
公園の中に入ると、コンクリートの堤防で囲まれた大きな河口が見える。河口のさらに先は、工場などの荷下ろし場になっていて、海までたどり着くことは出来ない。国道が河口の上を、大きな橋をかけて渡っていて、もともと慢性的に渋滞している道だが、休みの日はさらに車の動きが遅く見える。雲のほとんどない空は真っ青で、良い天気、と思わず都は呟いてしまう。海は見えなくても、ここからは空が広く見える。人は数人いるが、いつもこの公園は空いていた。都はベンチも兼ねている、植え込みの石垣に腰を下ろした。下も結構汗をかいていることに座った時に気がついた。都はビーチサンダルを脱いで、裸足を晒してみる。裸足で石垣の上に胡座をかこうと思ったが、結構ゴツゴツした石が痛くて、笑ってしまった。膝を手で抱えて、足をぶらつかせながら、工場の上に広がる青空を見る。もう陽は少し傾き始めていて、そのことでも、夏が過ぎたのだということがわかる。しかし、まだ終わらないよ、と訴えるかのように陽射しは強く、とても日焼け止めなしでは外へ出られない。40分ほど歩いてかく汗は気持ち良かった。
まだどこか体が重い。明日1日休みたかったが、末谷と昨日の現場作業について話さないといけなさそうだから、行かないといけない。それに、結局昨日、都は一体どんな設計をその場で考え、コンフィグしたのか、それを説明しろと、あのプロジェクトのPM・SEから聴取されるかもしれない。あれだけ心配してくれた岸谷に、それに一人で対応させるわけにもいかない。都に聞かないとわからない、と言ってくれれば良いだけだし、そう言ってくれるだろう。でも、岸谷の顔を見たかった。実は都よりも、岸谷の方が、感じていたプレッシャーは強かったかもしれなくて、岸谷の顔色をちゃんと確認したい。岸谷の顔色が悪かったからと言って、果たして都に何が出来るというのだろう。何か出来るわけでもない。しかし、昨日一緒に現場へ行った人間が、昨日のことを、一緒になって、大変だったよね、と共通の体験として話すだけでも違うだろう。無用な心配かもしれないが、一人で昨日の出来事の反芻を抱え込んでしまうと、仕事に対する否定的な考えや態度というものが生まれ、増幅されてしまうかもしれない。それは、その元となる経験は、一人に突きつけられたものではなく、昨日一日、二人で頑張ったものなのだと、もう一度思い出してもらうだけでも良いと思った。
あの時、一瞬だけ見た、岸谷のすがるような、不安げな顔が、都にそう考えさせていた。そうだ、兄が、兄の結婚式の時、都に送ってくれた言葉、兄が都を守ってきたのではなく、都こそが、兄を守ってきたのだという言葉の真意を、都は10年経ってようやく掴んだっぽいということを、兄に確認しようと思ったのだった。都はスマートフォンを手さげバッグから取り出し、メッセージアプリを開いた。兄と電話で話すのは久しぶりだと、少し気分が浮かれてきた。けれど、少し考えてから、スマートフォンにロックをかけ、またバッグへしまった。日曜の昼下がり、兄嫁と姪とで、家族水入らずの時間を過ごしているだろうから、そこを邪魔するようなことはやめようと思った。こんな時間に兄に、都と話す時間をとってもらおうなんて、何か、兄嫁と比べて都が惨めだと、わざわざ証明することのような気がする。そんな、とても陰鬱で否定的な感情が燻る。もちろん、いきなり電話するわけではなく、ショートメッセージで、ちょっと話したい、都合大丈夫、と兄に送ると、都合が良ければ、兄からすぐ折り返し電話が来て、都合が良くなければ、メッセージが返ってくるような形なのだが、もし、今そうやってメッセージを送って、折り返しすぐに電話がかかってきても、今都合が良くない、ごめんね、とメッセージが返ってきても、どちらでも惨めに感じるだろう。
兄嫁の、兄を心から慕っている、愛していることのわかる笑顔は、可愛らしいもの以外の何物でもないのだが、都にとっては、受け入れ難いもの以外の何物でもない。都は大きくため息をついて、体に入り込んでくる音楽に合わせ、まるで余裕のある人のように、少し首を揺らした。石垣に座ったまま、裸足の脚を伸ばしてみる。白いショートパンツから伸びる素脚が、都が自由であることを証明してくれているような気がして、そのことが、嫌な考えを散らしてくれるようですらあった。