11-05

11-05
波打ち際で足を波に遊ばせて、最初は冷たいと、きゃあきゃあ言っていたのだが、慣れてしまえば、長く浸かっていられるくらいの水温だ。足首まで浸かって、海を眺めたり、ばしゃばしゃと水しぶきが服に跳ねないよう気をつけながら歩いたりする。二人でふざけあっているのに夢中になって、油断していたら、少し高い波が寄せてきて、腿まで水に襲われるから、また二人できゃあきゃあ言った。都のショートパンツの裾がちょっと濡れてしまったくらいなので、いくらミニスカートとは言え、岸谷のプリーツスカートの裾もちょっと被害を蒙った。濡れたその時は気にならないのだが、乾くと、細かい湿った砂が思ったよりも付いていたりする。乾いたあたりで、岸谷のスカートは見てあげないと、と都は思った。
一人だと結構歩いたな、と思うと大体1時間程度なのだが、二人できゃあきゃあ言って遊びながら歩いていたら、あっという間に一時間半が過ぎてしまっていた。車を出る前に背中や首回りに、お互いに日焼け止めを塗りあったのだが、これは焼けてしまったかもしれない。ちょっと心配になった。
都の車が止めてあるあたりまで海岸を戻ってきて、また残暑の日で焼けている乾いた砂の丘を、きゃあきゃあ言いながら駈け上がる。海に濡らした足には砂がまとわりついてしまい、アスファルトにたどり着いた時には、水分で固まった砂のコーティングが足のあちらこちらに出来てしまっている。
「間宮さーん、これどうすればいいですかー。」
岸谷は、散々外で遊びまわって、汚れまくって帰ってきたことを自慢している子供みたいだ。都の車の助手席のドアの前に立って、ミニスカートの裾をちょっとだけ摘んで、砂まみれになった白い脚を見せびらかせている。真昼の陽射しが暑く、空気も熱気を含むようだが、風が吹くと、どこか秋の涼しさが紛れ込んできて、それが気持ち良くもあった。
「ちょっと待っててね。」
都はトランクへ回って、スマートキーでハッチバックを開けると、トランクに入っている水の入ったペットボトルを取り出した。2リットルは都にはちょっと重いのでがんばらないといけなかった。蓋を開けている間、岸谷が一緒にペットボトルを持ってくれた。
「どうする?自分で洗う?あたし洗おうか?」
都は聞いた。何となくだが、都は岸谷の足を洗ってあげたいと思った。
「あ、じゃあ、洗って下さい。」
岸谷はちょっと甘えるように言った。都はペッドボトルを両手で持って、まずは岸谷の腿の辺りから水を流した。水は温度の上がった車の中で温い温度になっていて、いきなり肌にかけられても驚くような温度ではない。ペットボトルが片手で持てる重さまで水が減ったら、都は左手でペットボトルを持って、右手で岸谷の脚を洗おうと、手を岸谷の腿に触れた。さっき高い波が来たときに、残していった小さな砂粒がこびりついてしまっている。
「あん。」
岸谷が鼻にかかった嬌声を上げるので、都はびっくりして手を離して岸谷を見上げた。
「どうしたの?」
都はその時はそれが嬌声だと判断できずに、ただ何かあったのかと心配して聞いた。
「感じちゃった。」
岸谷は顔に汗でまとわりつく、ゆるいウェーブのかかった長い髪を、頬へ手櫛で梳きながら、艶めかしく囁くも、悪戯っぽい笑顔が隠し切れない。
「ばかじゃないの!」
都は笑ってしまいながらそう言うと、ぺちりと岸谷の腿を叩いた。
「いたーい。」
「痛くない!」
岸谷は笑ってしまいながら、全く悲鳴になっていない悲鳴を上げるので、都は叱るように言って、岸谷の脚をゴシゴシと洗い始めた。優しくしてください、と岸谷は笑いながら懇願するが、都は、うるさい、とこちらも笑ってしまいながら拒否した。
脚は大体綺麗になったので、都は岸谷に、助手席のドアを開けて、脚を外へ出したまま、腰を助手席に下ろすように言った。都はアスファルトに膝をついてしゃがんで、岸谷の足を洗う。岸谷の足は白くて綺麗で、砂を洗い流して綺麗にするのは楽しかった。都の膝や足に、岸谷の足を洗った水が流れ落ちて、濡らしていく。足の指の間や、足の裏を洗ってやると、岸谷はくすぐったいとまた変な声を出すので、都が黙んなさい、と叱る。そんなやり取りが繰り返されて、二人で大笑いしてしまう。
岸谷の足を洗うのにペットボトル一本使い切ってしまった。都は、自分のトートバッグにタオルが入っている、勝手に出していいから、足を吹いて待ってて、と岸谷に言った。岸谷は可愛らしく、了解を返していた。都は、空のペットボトルをトランクに入れて、もう一本水が入ったペットボトルを出し、今度は自分の脚を洗い出した。岸谷が、そんなに水のペットボトル何本も積んであるんですか、と驚いて聞いてきたので、いつも2本は積んでおくようにしておく、と返した。都は、そんなことを指摘されるように驚かれると、恥ずかしいと思うものだが、不思議と今日はそんなことはなかった。今年はもう、補充する必要はなさそうだな。都は独り言を言った。
運転席のドアを開け、都も足を外へ出して腰掛けると、ペットボトルの水で自分の足を洗う。背中で岸谷が自分の脚を拭きながら、都の足を洗おうかと言ってくる。都は大丈夫だと返した。
「えー。じゃあ、間宮さんだけあたしの足触りまくってー。セクハラじゃないですかー。」
岸谷はふざけて不満げな調子を作って言ってくる。
「黙って足拭いて乾かしてなさい!」
都は首だけ振り返って岸谷を叱りつけた。都は笑ってしまっていたが、岸谷は、ちょっと不満げに、はーい、と素直な返事をしていた。
すでに13時を回ってしまっていて、普段ちゃんとお昼を食べている岸谷は、お腹が空いたと言ってきた。都も、たくさん笑って、たくさん歩いたのたので、珍しく昼時に腹が減った。車で海水浴場を出て、そこからあまり離れていない、駐車場のある地元の食堂へ入った。蛤がとても美味しくて、二人でもう一皿食べてしまおうかと言ったくらいだった。汗もいっぱいかいたから、きっと潮の風味が良く染みたのだろう。その後は、海岸線に沿う形で太平洋側から東京湾側へと走る道路を延々とドライブ。時折観光スポットへ立ち寄って遊んだり、道路休憩施設へ立ち寄ると、スイーツを食べたり、日陰のベンチで、遊び疲れたのだろう、肩を寄せ合ってうたた寝してしまったり。日が傾いてくると、帰宅ラッシュで車が増えてくるから、その時間帯は走るのを避けようとなって、海を渡る高速道路の入り口から遠くない、アウトレットモールへ立ち寄った。薄暮に都の車のオートライトは反応し、コンソールの計器類はオレンジ色の明かりがつき始める。
アウトレットモールをウィンドウショッピングしている間、都と岸谷はずっと腕を組んでいた。時折、特に女性が、怪訝そうな顔をして見てくるが、もう都もあまり気にならなくなってきた。岸谷があまりにも自然に腕を絡めてくるし、他人から見たらどう見えるのかはわからないが、そんなにベタベタされるわけでもなく、その性格からなのかもしれないが、さっぱりとした感じで、くっついているのが苦痛ではなかったのだと思う。アウトレットモールに着くと、岸谷はポニーテールを解いた。緩いウェーブの長い髪が、肩に降りてくると、リラックスした雰囲気があり、髪をまとめても解いても、どっちも似合うね、と都が褒めると、岸谷は快哉を上げて嬉しそうに喜んでいた。
婦人服のブランドの店で、二人ともそれぞれ気に入ったカットソーを見つけたので、順番に鏡の前で合わせたりして、買い物もした。19時近くになっていたので、夕飯はここのフードコートで済ませてしまうことにした。仕事帰りに寄る人が多いのだろうか、結構混んでいた。
帰りは、都が岸谷を車で送っていくことになった。ちょうど、海を渡る高速道路を使って、東京湾の反対側へ渡った方が、陸回りでいくよりも、岸谷のマンションに近いことがわかったので、高速道路の途中にある、海の上のパーキングエリアにも寄りたい、ということもあって、食後のお茶はそこでしようとなり、まずはアウトレットモールを出発した。
海の真ん中にある、このパーキングエリアの駐車場に車を止め、車から降りると、建物の中は何か機械音のようなものが響き、鉄の柱やコンクリートの壁は音に振動している。車のドアを閉める音も響くし、騒音に掻き消されないように喋ると、人間の声も響く。フェリーに車を入れて、車から降りた時のような印象がある。コンクリーの床に鳴る、岸谷のウェッジサンダルの音も響く。
駐車場から施設のフロアへ上るには、エスカレーターを上がるが、鉄の柱や、ワイヤーなどがむき出しに見えて、この建物が普通の陸上にある建物ではないことを知らせてくるようだ。このエスカレーターから見える部分は、ここへ来るたびに、どこかしらで工事をしている。それだけ潮による侵食が酷く、しょっちゅう直してないといけないのか、それとも何か拡張工事的なものを延々とやっているのかは、よくわからない。ずっと鳴り続ける機械音は、遠くからのようなのだが、鉄骨や鉄柱に響いたり、反射したりする。そういった騒音の反響は、もし目の前に見える鉄のワイヤーが切れてしまったら、この建物ごと、海の中へ沈んでしまうのだろうかという、ぼんやりとした不安を引き起こさないでもない。あまり落ち着くとは言えない施設だ。
先日の現場作業員をした帰りに寄った、世界的に有名なカフェチェーンのテナントが、このパーキングエリアにも入っていた。そこでお茶をすることにした。岸谷が何を飲むか聞いてきたので、都はホットコーヒーと答えた。寒いわけではないが、日が落ちてから、急に涼しくなってきて、都も岸谷もパーカーを羽織っているし、都は前も閉めていた。そもそも都は真夏でもホットコーヒーなので、昼間のアイスカフェオレが珍しかったくらいだ。岸谷は、それなら自分も同じものにするから、二人分をお得に注文する技があるそうなので、それを使って岸谷が注文するとのことだった。都は全く知らないことだったので、実際にカウンターで手際よく、岸谷が注文するのを、感心して後ろで聞いていた。一回では、岸谷が何をどうしたのか、都には全くわからなかった。まるでおまじないを聞いているようだ。しかしとにかく本来二人で払うコーヒー代よりは、全然安くなっていた。
「すごーい。」
受け取りカウンターへ向かう際、都は目を丸くして素直に感嘆した。岸谷は、都があまりにも素直に驚いているので、それを可笑しがった。
「間宮さんの方が、全然すごいじゃないですかー。」
岸谷は笑顔でそう言った。都は否定を返すだけにとどめた。このカフェのチェーン店は、普通のコーヒー以外にも、クリームなどと氷をミキサーにかけた、飲み物のメニューが豊富にあり、それらはトッピングなどの色々な細かい調整が可能なようなのだが、都は全くやり方がわからなかった。コーヒーの三種類の大きさも、カフェのチェーン店に寄って呼び方が微妙に違っているので、都はたまに間違えてしまって、レジの子に言い直されてしまい、恥ずかしい思いをすることがある。そのため、だいたい一番小さいの、と言ってしまう。
こういうお洒落なカフェで、きちんとそのメニューシステムを理解し、自分が頼みたいものを、頼みたい味の調整でオーダー出来るのは、ある種の能力を如実に表していると、都は思っていた。目の前にあるたくさんの情報を整理し、それを目的に応じてきちんと引き出し、適切に使用できている、そういう能力の証明だろう。
熱さを緩和させる厚紙のついたカップを持って、テナントの外にある、テーブルを挟んで並んでいる一人がけのソファに座った。大きな窓の方を向いているが、室内の明かりで鏡のようになってしまっていて、外は見えない。もっとも、外を見ても真っ暗な海が広がり、その向こうに東京湾沿いの街の光が見えるだけなのだが。都は昔からあまり夜景に興味がなかった。
都がソファに腰掛けると、どっと今日の疲れが襲ってきて、それだけ遊んだんだということが実感されて、可笑しかった。
「疲れたー。」
都は笑いながら言った。こういう疲れ方は長いことしたことがなくて、とても新鮮で気持ち良くさえあった。
「間宮さんずっと運転してましたもんね。すみません。」
岸谷は申し訳なさそうに言った。いつもの堂々としたところが全くなく、どこか小さくなって、可愛らしかった。
「ううん。すっごい楽しくて、ちょっとはしゃぎすぎちゃった。」
都はソファの背もたれに背中を預け、首だけ岸谷の方に傾けて言った。
「あたしもすっごい楽しかったです!」
岸谷は笑顔で自慢げに言った。その笑顔はとっても爽やかで、大きな瞳でまっすぐに見つめられると、都はつい目を逸らしてしまう。恥ずかしがっている自分を誤魔化したくて、持ってきた手提げポーチからスマートフォンを取り出した。20時半になろうとしているが、それよりも、着信履歴があったことに都は少し驚いた。気がつかなかったし、あまり都の個人の携帯には電話もかかってこないので、都は実家の母に何かあったのではと不安になって、急いでスマートフォンのロックを外し、掛かってきた電話番号を見た。30分ほど前にかかってきた電話番号は電話帳に登録のない番号で、市外局番から東京だとわかる。母ではないことに少し安堵しながらも、どこかで見た電話番号な気がしてきた。
「岸谷さん、この番号って、うちのオフィスの代表番号っぽくない?」
都は、着信画面履歴を表示させたまま、自分のスマートフォンの画面を岸谷に見せた。
「あー…。そうですね、これうちのオフィスじゃないですかー。電話かかってきたんですか?」
「やっぱそーだよねー。なんだろー。きっと何かトラブルだなー…。」
都は今日は休みなので、放って置いたって良いのだが、わざわざ個人の携帯に電話してくるくらいなので、余程手詰まりなのか、手詰まりなのに、お客に今日中になんとかしろ、と言われて困っているのか。それとも、都がSEを担当している案件で、構築済みの拠点に保守上のトラブルがあり、ルーティングに関することなので、保守で解決できず、構築担当にエスカレーションがかかり、設計を担当している都に聞かないとわからない、となって、電話で聞いてみようとなったのか。電話のかかってきた時刻を見ると、20時ちょっと過ぎだ。代表電話からかかってきた、ということは、固定電話からかけてきたということだ。都のオフィスは正社員、派遣社員にかかわらず、全員にPHSが貸与されているが、各島に一つの、大きい島になれば三つくらいの固定電話も置いてある。各担当で代表番号が異なるので、番号によって一斉になる固定電話は異なる。PHSをお客との電話に使うので、海外オフィショアセンターへ電話をかけるのには固定電話を使うなど、複数の相手と同時に電話連絡をする必要がある工事の時などに、固定電話はよく使われる。固定電話を電話会議用に使って、PHSで裏から個々に連絡を取る用に使う、なども多い。
都の個人の携帯電話番号は、一緒にプロジェクトをやっているPMや、都が現場作業員の仕事をした時のPMなどに、緊急連絡先として教えてしまっていた。それで個人的な用事で何か電話をしてこられることはないのだが、掛かってくる時は、案件の工事があった翌日とかでなければ、何か設計上のトラブルに遭遇して、相談したい時と相場が決まっていた。
「コールバックしてみるかー。」
休みなのだから出る義務もかけ直す義務もないし、まして都は派遣社員なのだから、時給制で賃金が支払われているので、この相談対応は無償労働になってしまう。しかし、そんな細かいことを言っていても、実際にトラブルにあって困っている人がいるわけだし、本当にちょっとしたことが聞きたかっただけかもしれない。休みだから、派遣社員だから、電話に出ない、という態度は正しいのかもしれないが、都はそういう態度が、普段の仕事のコミュケーションの取りやすさに影響することを何よりも恐れた。そういう、本来であれば正しい態度を取っても、仕事中は普通に、何でもやります、のような態度をとるほど、優秀なコミュニケーション能力を、都は備えてはいなかった。いつでも一貫した態度をとることしか出来ない。それに、結局ネットワークエンジニアのスキルが一番伸びるのは、トラブル対応の時なのだ。
「お休みだから、別にいいんじゃないですかー。」
岸谷は普通に言った。都が派遣社員だから、気を使ってくれたのかもしれない。
「そうなんだけどねー。まあ、気になるし。かけてみるよ。」
都はコーヒーを一口飲んでから、履歴の電話番号をタップしてみた。何回かリングバックトーンが聞こえた後、電話はオフフックされた。外向きの喋り方で、会社名を名乗る声が聞こえた。声は聞き覚えがあって、今年2年目の社員の男の子だった。
「お疲れさまです、間宮です。」
「あー、間宮さん。お疲れさまですー。あれ?間宮さん、今日お休みじゃなかったでしたっけ?」
会社名を名乗った時は、かなり業務口調だったが、電話のかけ手が都だとわかると、急にリラックスした喋り方に変わった。彼が配属された時、都は席が近かったことと、彼があまり他人に対して壁を作らない性格だったこともあり、割と気軽に話せる仲だった。
「あ、ごめんね、残業中。さっきね、あたしの携帯に、誰かこの番号からかけてきたはずなんだけど、植松くん知らない?」
「え、そうなんですか?僕じゃないですねえ。ちょっと待ってください。聞いてみますよ。」
植松は電話を耳から外して、周りに聞いているらしく、声が遠くなっていった。しばらく何も聞こえなくなった後、植松が戻ってきた。
「あ、もしもし、間宮さん、わかりました。岩砂さんだそうです。代わるので少々お待ちください。」
「ありがとー。」
都の礼に、謙遜を返してから、固定電話の保留音が聞こえた。同じ代表電話番号が振られている固定電話では、何処かで取った電話を保留し、別の机の固定電話で取ることが出来る。岩砂はすぐに出た。お疲れさまです、と挨拶を交わした後、休みの日に、しかも夜分に申し訳ない旨、岩砂は都に言った。都は否定をしてから、本題に入った。
「で、どうしました?」
「あのですね、今、冗長構成の拠点の切り替え試験をしてるんですが、メインのWANを切った後は、ちゃんと切り替わるんですけど、メインのWANを戻した後、経路がメインに戻らないというトラブルに当たってまして。」
バックアップルートから、メインルートへ切り戻らない、というトラブルは時々あって、大抵は設計ミスが原因なのだが、開放したと思っていたWANインターフェイスが、実はただ閉塞したままだっただけ、というのも稀にある。しかし、こういう良くある凡ミスによるトラブルで、岩砂がわざわざ都に電話してくるとは思えなかった。都がオフィスにいたとしても、わざわざ聞いてこないだろう。
「で、これメインの方もバックアップの方も、回線NNIなんですけど、別キャリア使ってるんですね。」
「あー…。えっと、ちょっと待ってください。」
都は大まかなネットワーク図を描かないと、構成がきちんと把握できなさそうだと思った。カフェの入り口近くに、観光チラシがたくさん刺さっているパンフレットスタンドがあったのを思い出した。都は立ち上がって、スマートフォンを耳から離すと、消音ボタンを押し、岸谷にちょっと待っててね、と言ってから、パンフレットスタンドまで歩いた。裏が白紙のものを探すとすぐに見つかり、それを一枚取って、ソファへ戻った。岸谷が座っているソファと、都の座っているソファの間にある、小さなテーブルに乗せたコーヒーの位置を調整して、そのチラシの裏側を広げた。都は自分の手提げポーチからボールペンを取り出す。入れておいて良かったと思った。
「すみません、お待たせしました。えっと、まず拠点に客宅ルーターが2台、メイン、バックアップでありますよね。」
都は右手で電話をしながら、左手で、チラシの裏に図を描き始めた。
「はい、そうです。」
電話の向こうで、、岩砂が首肯する。
「で、それぞれのWAN回線は、別のキャリアのMPLS網へ繋がってますよね。」
都は、客宅ルーターを小さな丸で二つ描き、それぞれから線を伸ばし、その線の終端にそれぞれ楕円を描いた。
「ですです。で、それがNNIでうちの網につながる感じです。」
都はそれぞれの楕円の、客宅ルーターが接続する側とは逆側に、楕円の線にかぶるように、小さな丸を二つ並べて描く。その楕円二つの向こうに、その二つの楕円が入ってしまうくらいの大きな楕円を書く。ぞれぞれの小さな楕円の線上に書いた、小さな丸と対応するように、大きな楕円の線上にも小さな丸を四つ描き、それぞれと直線で結ぶ。楕円は、キャリアのMPLS網を表し、一つのMPLS網は一つの自律システムとして定義される。大きな楕円と、小さな楕円とを結んでいる小さな丸は、ASBR、自律システム境界ルーター、と呼ばれるもので、異キャリアのMPLS同士を接続する機能を持つ。ASBR同士の接続はメイン、バックアップなどの冗長構成をとるので、大抵は2台づつ接続する。冗長性の意味でも違うロケーションで接続させることが多い。2台が別の国であることすらある。
「で、客宅ルーターのコンフィグにはおかしなところはないんですよね?例えばLAN側でOSPFが回っていて、WANのBGPと相互再配送をしていてー、WANからもらうルート全部重くしちゃって、逆にLANから再配送するルート全部軽くしちゃってるとか。」
都はなさそうだな、と思いながら聞いた。
「あ、それは大丈夫ですね。LAN側コネクテッドだけで、デフォルトゲートウェイ冗長だけなんで。」
都は当初の疑いが全く役に立たなかったことに笑ってしまった。しかし、簡単に思いついたところから潰していくのは大事だった。
「ちなみに、今もバックアップ側に寄ったままですか?」
「いえ、バックアップ側のWANを切って、バックアップ側の広告を止めたら、メイン側のルート上がってきまして。それから、バックアップ側を復旧させたら、もうメイン側のルートがなくなる、ということはなかったですね。」
「うーん…。」
都は岩砂の説明に少し唸った。おかしな現象だ。さらに岩砂が言うには、都たちの網、つまり一番大きい楕円で、今現在メイン側から広告されているルートのASパス長を確認すると、二つで、一つ目は客宅ルーターのもの、二つ目は客宅ルーターのWANが直接接続しているキャリア網のものだ。バックアップ側が勝ってしまっている状況の時は、客宅ルーターでコンフィグされている通り、客宅ルーターのAS番号が3つプリペンドされ、それが4つ、バックアップルーターのWANが直接接続しているキャリア網のものと合わせて、合計5つだったという。
メイン側のWANが切れている時、バックアップ側からのルートは、都たちの網を通り、両網を繋ぐASBRを渡って、このメイン側のWAN側が直接接続しているキャリアの網に伝播する。この時、この網の中でのASパス長は、5つプラス、都たちの網のAS番号で、6つになっている。
この状態で、メイン側のWANが復旧すれば、メイン側のキャリア網の中において、メイン側の客宅ルーターから広告されたルートは、ASパス長が一つなので、ベストパス選択のタイブレークがASパス長であれば、ASパス長の短い方がより良いルートとなるので、メイン側から広告されたルートは、このキャリアの網の中でベストパスとして採用され、ついには都たちの網へ伝播される。そして都たちの網の中では、バックアップ側のキャリア網から伝播してきた、ASパス長が5つのルートを、ASパス長のタイブレークで負かし、メイン側のルートへと切り戻るはずだ。
しかし、想定通り切り戻らないということは、このメインのWAN側が直接接続しているキャリアの網で、ASパス長のタイブレークよりも優先されるタイブレークが効いてしまっていることが疑われる。BGPは、同じルートが複数のソースから伝播されてきた際、ベストパスを選定するためのタイブレークがRFCで定義されており、多くのルーターベンダーがこれに準拠している。ASパス長よりも優先されるタイブレークにおいて、全てのベンダーで共通するのは、ローカルプリファレンス、ローカル起源ルートの二つだが、客宅ルーターから来ているルートという時点で、網内のプロバイダエッジルーターが、自分のIGPから拾って広告しているルートではないので、ローカル起源は検討の余地がない。そうすると、最も優先されるタイブレークである、ローカルプリファレンス値、LP値と略されるものが、どこかで、都たちの網から、このキャリア網へ広告された時に付与されてしまっていることが最も疑わしい。
「岩砂さん、もう一回メイン回線って切ること出来ます?」
都は聞いてみた。
「あー…。どうでしょうかねえ。難しいと思うんですよねー。で、これちょっと間宮さんに聞きたかったのは、間宮さんがやった案件で、こういうメインとバックアップで別NNIキャリア使っていて、なんか、同じように上手く切り戻らない、って案件なかったでしたっけ?前に聞いたことがあるような気がして、覚えてないですかね、って思ってちょとお電話してみてしまったんですけど。」
岩砂はそう返してきた。
「あー…。」
都はそういうのがあったのは思い出したが、それは都の案件ではなく、都が相談を受けて、問題をあぶりだした案件で、都もプロジェクトの詳細は知らなかったりした。
「すいませんねえ、お休みの日に。しかも夜遅くに。」
岩砂は大げさに申し訳なさそうに言うので、都は笑ってしまいながらも、否定は返した。
「あれは、確かちょっと事情が違ったかもなんですけど、ただ、起こってることは一緒な気がしますね。えーと、これってオフショアセンターのエンジニアってまだいます?」
都は聞いた。しかし、これは構築の案件ではなく、実は保守のエスカレーションとして上がってきたものだった。この冗長拠点、メイン側を単一拠点として先に構築して、後になってから、バックアップ回線を足したのだと言う。客宅ルーターは、別部署のSI構築で、構築当初は冗長試験をしなかったらしい。そして今日、日本時間の時間外から、別部署主導で冗長試験を始めると、バックアップからルートが切り戻らず、構築当初のPMだった岩砂に、他部署からエスカレーションが上がって来た。
「ただ、オフショアセンターにもエスカレーションかかっていて、向こうのマネージャーが、向こうのエンジニア一人アサインしてくれてるみたいです。」
岩砂が言った。
「了解です。であれば、ちょっとそのエンジニアに、そのNNIキャリアへログの取得依頼をさせることって出来そうですか?」
都は聞いた。都が勤めるのキャリアでは、もし客などから網内のルーターのログを寄越せと言われても、ほぼ絶対に提出しない。他部署からの依頼でも滅多に出すことはない。しかし海外のキャリアは、ダメ元で聞いてみると、あっさりとくれることは多かった。下手すると、コンフィグすら出してくれるところもある。拠点は東南アジアの拠点で、このMPLSキャリアも、現地のキャリアだ。
「はい、多分出来ると思いますよ。」
岩砂は答えた。
「これ、このメイン側のキャリアの方のASBR、うちのじゃなくて、メイン側のキャリアのですけど、その子が、うちのASBRから受け取ったルートに、高いLP値つけちゃってるんだと思うんですよね。それだと永遠にバックアップ側のルートが、メイン側のキャリア網の中で、LP値勝負で勝ったままになっちゃうので、たとえ、メイン側ルーターから、そのキャリアのASBRまで伝播したとしても、ASBRでは、うちからもらったルートの方がより良いルートになっちゃうので、うちの網までメイン側のルートが伝播してこないですね。」
都の説明に、電話の向こうで、感心とも同意とも取れる声を岩砂は上げていた。
「このメイン側のキャリア網が、一つのAS番号で構成された網であれば、おそらく、うちからもらったルートに付けたLP値って、メイン側の回線を収容しているPEルーターまで伝播しちゃってるはずです。そうすると、おそらくは一度バックアップ側に切り替わってしまうと、そもそもそのPEが客宅ルーターからのルートを受け取れない気がします。」
「えーと、つまり…。」
岩砂は、メイン側のWANが断になった後、バックアップ側の客宅ルータからの、ルート伝播の仕方を、都の仮定を元に、口に出して反芻してみる。メイン側のキャリア網のASBRが、都たちの網のASBRからルートをもらった時、高いLP値を付与し、それがキャリア網の中で伝播すると、高いLP値のため、そのルートよりもASパス長が短いルートが、メイン側の客宅ルーターから広告されても、キャリアのPEで弾かれる、と順番に辿っていった。
「やっぱりそうですよねえ。間宮さんが前に当たったのってこう言うのじゃなかったでしたっけ。」
「あれはNNIキャリアの網の中で、こっちから見えないんですが、実はさらに網が二つに別れていて、あたしたちの網側に近い網から来たルートを、客宅ルーターに近い側の網のASBRでLP値つけてた、ってやつでした。だから、まあ事象は一緒といえば一緒ですけど、あれは確かそのキャリアのサービス全体に対してそうしてたので…。」
「そうですかー。参ったなあ…。」
岩砂は大体の検討はついていたようだが、一応裏付けが欲しくて、都に確認を取りたかったようだ。
「あ、でさっきログとかなんとか、って言ってませんでしたっけ?」
岩砂は聞いてきた。
「あ、はい。もう一回同じ状況作れなくても、そのメインのキャリアの網内では、うちからのルートにLP値ついちゃっているはずなので、うちの網に直収している拠点のどこでもいいと思うんで、一つルートを選んでもらって、それと、メイン、バックアップ拠点から広告しているルート、その二つのBGPテーブルのログを、ASBRとPEとで取ってもらいましょうか。」
そう都は言うと、都たちのキャリアで客宅ルーターに使われている、筐体のメーカーのOSのコマンドを言った。例えメーカーが異なって、コマンドの書式が違ったとしても、対象となっているお客のVRF上のBGPテーブルから、特定のルートの詳細情報だけ抜き出したログが欲しい、と言う意図が伝われば良い。ネットワークエンジニアとしての、ある程度の技術力のものさしには、都たちのキャリアが客宅ルーターとして採用しているメーカーの資格試験が広く使われている。そのため、多くのネットワークエンジニアに、このメーカーのコマンドはよく知られていた。このメーカーのコマンドで言うところの何某、という言い方は日本語でも英語でも使うことは多かった。
万が一、このメーカーのルーターを、メイン側のキャリアがASBRに使っていて、このメーカーのルーターで使用できる、RFCに謳われている、BGPルートのタイブレークよりもさらに強いタイブレーク条件を使っていたとしても、取ってもらったログでそれは確認できる。このメーカー特有の最強のタイブレークは、筐体そのものにしか効果を発揮しないので、隣のルーターには伝播しない。
「了解しました。依頼してみます!ありがとうございます!」
岩砂はいつもの勢いのある言い方で礼を言った。
「で、もしログすぐ来るようだったら、メールで送って、…ってあたし今日休みですしねー。個人のメールに送ってもらうわけにも…。あ、ちょっと待ってください。」
岩砂は、明日見てくれれば良いですよ、と言ってくれてはいたが、乗りかかった船なので、都も気になったし、今日中に目処がつくようであれば、目処がつくところまで付き合うべきだろうとも思った。
「岸谷さん、岸谷さんって自分のスマホで会社のメールって見られるようになってる?」
「はい、なってますよ。」
派遣社員には許可されていないが、社員は個人のスマートフォンから、会社のリソースにアクセスすることが出来る。もっとも四六時中会社のメールが見えてしまうので、帰宅後も仕事のメールを見なければいけない、とも言えた。
「おっけい。じゃ、ちょっと待ってね。」
都は岸谷にそう言うと、自分のスマートフォンを耳から話して、スピーカーフォンにして、テーブルの上に置いた。
「もしもし、聞こえます?」
都は一応聞いた。
「はい、聞こえますよー。」
岩砂が返した。
「じゃあ、もしログすぐ返ってきたら、岸谷さんにメールで送ってもらえますか?」
「は?岸谷?」
岩砂が、素っ頓狂に驚いていた。
「お疲れさまでーす。岸谷でーす。」
岸谷はソファの手すりにつかまりながら、少し前かがみになって、都のスマートフォンに向かって挨拶した。
「あれ?岸谷さん?お疲れ。何してんの?え?お二人今一緒にいるんですか?」
岩砂が事情を全くつかめていないので、都と岸谷はその様子が可笑しくて笑ってしまった。
「間宮さんとデート中でーす。」
「え、まじで?そうですかー。それはすみませんねえ、お邪魔してしまいましてー。」
「ほんとですよー。困りますー。」
岩砂と岸谷が真面目な風で小芝居をしているので、都は声を出して笑ってしまった。
「なので、あたしまだ岸谷さんとしばらく一緒にいるので、何かあれば岸谷さんの会社のメアドにください。あたし見せてもらいますので。」
都の申し出に、そんなに待ってなくて良いですよ、明日にでも見てください、ログも来ないかもしれないですし、と岩砂が言ってくれたのだが、岸谷は、まずあたしがメールに気がつかないかもしれないですしね、と言うので、電話の向こうもこっちも笑ってしまった。
「あ、あとちなみになんですけど、間宮さんの時って、直るのにどれくらいかかりました?」
岩砂はそう聞いてくるので、都は、まず自分の案件ではないことと、たまたま相談に乗ったので、割と深入りしてしまってトラブル内容を知っているだけで、プロジェクトについては全く無知と言うことを説明した後、その時は3ヶ月以上かかった旨答えた。電話の向こうでの落胆は、目に見えるほどだった。その時は、キャリア網の中で、以前は別キャリア網だった網を買収によって接続し、その移行中のルーティングのために、サービス全体にかかる設定として入れた設定だが、外して良いかどうかキャリア内で検討するのに時間がかかったからだ、と付け加えた。今回、もし想定通り、都たちの網との接続をしているASBRでLP値を付与しているだけであれば、このお客とのVRFには不要だから、外せとネゴすれば、早めになんとかなるのでは、と都は自分の考えを伝えた。岩砂もそれに同意して、休み中に、しかも夜分に電話してしまったことを再度謝り、お二人のデート中邪魔をして申し訳ない、とまた真面目な風で言うので、都と岸谷は笑ってしまった。