11-06

11-06
都と岸谷は話に夢中になっていたので、コーヒーは熱い状態で飲むよりも、冷めた状態で飲む分量の方が多くなってしまった。一時間近く話し込んでしまってから、岸谷はスマートフォンで会社のメールを確認してみたが、岩砂からは特に何も来ていなかった。もう帰ってしまっても問題なかったし、あまり遅くまで岸谷を連れ回すのも何となく気が引けた。しかし、もう少し岩砂のメールを待っていたいような気もした。
「うーん。もう帰っちゃってもいっかー。でも、もうちょっと待ってても良い気もするしなー…。どーしよっか?」
都はソファの肘掛けに肘を乗せて、背中を背もたれに預けながら、岸谷の方を向いて言った。
「あたしはもう少し間宮さんと一緒にいたいです。」
岸谷は背筋を伸ばし、両手を膝につき、腕を伸ばした姿勢で、少しはにかんだ顔をして、囁くように言った。
「そうやって甘えられちゃうとねー。」
都は体を起こしながら、ふざけた調子で言うと、岸谷は笑ってくれた。
都がネットワーク図をメモしたチラシを四つ折りにして、自分の手提げポーチにしまうと、二人でソファを立ち、飲んだコーヒーのカップをゴミ箱へ捨てた。
「じゃあ、もう少し時間潰して待ちましょー。」
都はそう言って岸谷の方を見ると、岸谷は飛びつくように、都の左腕を抱きしめた。背丈の差があるから、岸谷は少し前屈みにならないといけない。
「何言ってるんですか、デートですよ!」
岸谷は大きな瞳に悪戯っぽい光をいっぱいに宿し、笑ってしまいながら言っていた。
「そうだね、デート、デート。」
都もそう笑って返すと、岸谷は嬉しそうな笑顔で、都の左腕に自分の右腕を絡ませた。
結構敷地面積の広いお土産屋を見て回る。このパーキングエリアの立地を組み込んだデザインやキャラクラーの入った商品を見ては、これは可愛い、これは可愛くないなどと、品定めして遊んだ。それから外へ出て、人の疎らな、ボードウォークになっている展望デッキを、岸谷のウェッジサンダルがこつこつと音を立てるのを聞きながら歩く。秋風と言って良い涼しさの風が弱く吹いているが、まだ夏日と言って良い気温で、海の上ということもあるのだろう、湿度も高く、冷えるということはない。しかし、もしパーカーを脱いでしまうと、ちょっと涼しいと感じるかもしれない。
展望デッキから対岸の街の灯が、まるで遠くにロウソクでも綺麗に並べたかのように見える。岸谷はその夜景にとても喜んでいて、綺麗だと言うことに同意を求めるので、都が同意を示しつつもあまり夜景に興味がないと正直に言うと、酷く驚くので、都はそれが可笑しくて笑ってしまった。
展望デッキから、外の階段をずっと降りて行くと、一階の消波ブロックの手前に広がるスペースには、海底トンネルの掘削に使用したシールドマシンのカッターの実物がモニュメントとして展示されている。ライトアップもされていて、大きな工業部品にも関わらず、それほど違和感なく鎮座しているのは、これが実際に、この人工島に辿り着くために使われたものだから、ここはあたしが作ったのよと、主張しているからなのだろうか。それとも、この海に浮かぶパーキングエリアという特殊性が、特殊なものを当然として受け入れる土壌となっているのだろうか。
都は、夜景よりもこのシールドマシンのカッターの方にいつも惹かれた。こんな大きなカッターが回転して、海底を掘り進んでいくなんて、ちょっと想像がつかない。想像もつかないスケールのものが、実際にあるのだということを、ちょっと実感させてくる感覚がすごく良くて、それが何か、もう何処にも自分が描き得る希望や夢などが叶う余地などないと思っていても、まだ自分が知らない、思い描くことさえしない新しい道がどこかに存在し、ただそれを見つけることが出来ていないだけなのだということを想起させて、いつもどこかうっすらと曇っているような頭の中が、急に晴れ渡るような、そんな全身感覚が、控えめにだが沸き起こってくる。都はこのモニュメントの下で、これを見上げるのが好きだった。昔付き合っていた男の子が、そんな都を見て、変わってるねと、理解できないという風に言っていたのを思い出した。そこからすれ違い始めたことも、あの時も手を繋いでことも含めて。
指を絡ませて、手を繋いでいた岸谷は、そんな都の側で、都の気が済むまでじっとしていてくれた。しばらくしてから、岸谷が空いた手でスマートフォンをチェックすると、岩砂からメールが来ていたようで、都に声をかけた。
「間宮さん、岩砂さんから返信来ましたよー。」
都は、思考が現実に返る前に、岸谷と繋いだ手の感覚が先に戻ったように感じた。
「ほんと?見せて。」
都は岸谷のスマートフォンを覗こうとして、ちょっと背伸びをしながら言った。岸谷は都との背丈の差を考慮し、少し手の位置を下げてくれて、都が見やすいようにしてくれた。メールには、文面の宛名がしっかり都になっていて、行を変えて括弧書きで岸谷の名前があった。本文には、こんなログが来ました!、の一文と、都たちの網内からメイン側のキャリア網へ広告されているサブネットと、問題となっている拠点のLANサブネットとがそれぞれ記載されていた。そして、添付ファイルが二つあった。
「岸谷さん、これ開いてもらって良い?」
都は添付ファイルを指差したつもりだったが、画面をタップしてしまい、勝手に開いてしまった。
「開いちゃった。」
都は可笑しくて笑ってしまうと、岸谷も一緒になって笑った。ログは確かに、特定のVRF上の、特定のBGPルートの詳細情報だった。あまり見慣れない出力で、都たちのキャリアで使っている客宅ルーターのメーカーのものではないことは一目でわかる。海外オフショアセンターが導入しているプロバイダエッジルーターのメーカーのログ出力に酷似しているが、ちょっと違うような気もする。設定方法が微妙に異なっていたり、使ったログの出力コマンドが微妙に異なるのかもしれない。都は、海外オフショアセンターがコンフィグするプロバイダエッジルーターにはしょっちゅうログインして、確認コマンドだけは散々叩くのだが、やはり確認コマンドの出力を見るだけで、実際にコンフィグしないソフトウェアについては、どうも知識が乏しくなる。しかし見慣れない形式のログでも、じっくり辿っていけば、欲しい情報は手に入ることが多い。
ログを上から下までスワイプして見てみると、確かに、岩砂が書いてきた二つのルートについて、個別にログが出ている。今見ているファイルでは、都たちの網から出ているルートについて、ルート受信時はLP値100、つまり何も操作していない状態なのだが、BGPテーブルに実際に載り、確定ルートとなった時にはLP値が200になっていることがわかる。受信した時のLP値のログがあるということは、今見ているファイルがASBRということだろう。
「あー…。やっぱりねー…。」
都は声に出して言った。もう一つのルート、つまり問題になっている拠点から広告されているルートのログも見てみた。すると、こちらは最初からLP値が150となっている。LP値は何も操作していなければ100のはずなのだ。これは拠点が直接接続しているプロバイダエッジルーターでもLP値を意図的につけてしまっているということだろう。このキャリア網がどういう設計ポリシーなのかよく分からなかった。
「これ、このファイルどうやって閉じればいいの?」
都はディスプレイいっぱいに広がってしまっているファイルの閉じ方がよく分からなかった。社員がモバイルデバイスから、会社のリソースにアクセスするには会社作成のアプリを使うのだが、このアプリの使い方を派遣社員の都は全く知らない。
「あ、ちょっと待ってください。」
岸谷は親指だけで、タップしたりスワイプしたりして、閉じるボタンを表示させて、開いていたファイルを閉じた。元のメールの画面になったので、都は岸谷に礼を言ってから、もう一つのファイルを開いた。こちらはメイン側の客宅ルーターが収容されている、プロバイダエッジルーターのログのようだ。都たちの網内から広告されているルートはすでにLP値が200となっているが、拠点の方から広告されているルートは、受信時の情報ではLP値100、確定後の情報ではLP値が150となっている。このプロバイダエッジルーターで、客宅ルーターから広告されたルートにLP値150を付与しているということなのだが、それはどういう設計思想でそうしているのか、都には見当がつかなかった。何かトラブった時に、苦し紛れに入れてそのままになっているのではないだろうかと疑わしい。
「想定通りだなー…。ちょっと想定外のこともあったけど。岸谷さん、このメールに返信してもらって良い?」
「良いですよー。なんて書きますか?」
都の頼みに岸谷は快諾して、メールの全員へ返信ボタンを押すと、フリック入力で、岩砂の宛名、文頭の挨拶まで入力している。都はスマートフォンになってから、フリック入力を止めて、キーボード入力にしたので、フリック入力が早いのを見ると素直に感心してしまう。フリック入力は若い子が得意、キーボード入力はおばさん、とウェブ上のどうでも良い情報で読んだのを思い出して、ちょっとむかついてしまう自分が都は可笑しかった。
「えっと。」
都は、岸谷に言った通りに打ってもらうことにした。
うちの網から広告しているルートに、彼らのASBRでLP200を付与してしまっています。それがそのままメインを収容しているPEまで伝播してしまっているので、一度メインが切れてしまうと、バックアップルートもLP200でPEまで伝播してしまって、メインが復旧してもこのPEが客宅ルーターからルートを受けられないです。あと、なぜかこのPEで、客宅ルータから上がってくるルートにLP150をつけてしまっていますが、これはこの問題とは関係ないとは思いますが、謎ですし、何かのトラブルの遠因になりそうなので、これもやめてほしいですね。ただ、これってプロダクト主管は知っているんですかね。SO部の連中には、原因はこうだと説明して、プロダクトと確認する、と言って一回保留してもらって、プロダクトに確認した方が良いかもです。
SO部の連中、というところで、岸谷ははそれを復唱して笑っていた。
「…って間宮が書けって言ってます、で締めとけば良いんじゃない?」
都がそう言うと、岸谷は、間宮さんが書けって言ってますって言ってます、と日本語になっていない文章にわざとして、二人で笑ってしまった。
「じゃあ、送っちゃいますね。」
岸谷は終いがふざけた文章になっているのか可笑しいらしく、笑ってしまいながら言った。最後に、よろしくお願いします、岸谷、と書いて送信していた。結局岸谷と都は、シールドカッターのモニュメントの前でずっと手を繋いだままでいた。
22時半を回ったこともあり、そろそろ帰りましょう、となった。トイレに立ち寄ってから車に戻って、エンジンをかけたところで、岩砂からまたメールが来たと言う。遅くまで付き合わせたことへの謝罪と、お礼、都が提案した方向で進める旨、そして二人のデートを邪魔したことへの平謝りが書かれていた。シフトレバーの上あたりに、岸谷はスマートフォンを差し出してくれて、二人で覗き込むようにして読んで、最後のくだりで声を出して笑ってしまった。
岸谷のマンションの住所をカーナビゲーションシステムに登録し、道案内を開始してからパーキングエリアを出た。しばらく海上の高速道を進むと海底トンネルへ入る。ずっと真っ直ぐな海底トンネルの道を夜走るのは、ちょっと他にはこう言う道がないこともあり、不思議な感覚で、岸谷は楽しいですね、と喜んでいた。
岸谷が住んでいる賃貸マンションの前に着いたのは、もう23時を回っていた。ここから都が自分の家に帰るとなると、日付が変わってしまうが、そんなことはどうでも良かった。
「…間宮さん、少し、あたしの部屋で休んで行きます?」
岸谷はわざと、ちょっと艶っぽい言い方をふざけた調子でした。
「送られオオカミか!」
都はすぐに岸谷の意図を察して、大げさに突っ込んだ。二人で大笑いしてしまった。残念、と岸谷はため息交じりに言いながら降りる支度を始めた。都は忘れ物ないかと聞いた。岸谷は大丈夫だということと、送ってもらったことへの礼を言ってから、車を降り、後部座席のドアを開けて、岸谷のトートバッグを取り出していた。ドアを閉めると、ウェッジサンダルをこつこつ鳴らしながら少し小走りに、運転席側へ回ってきた。都が窓を開けると、岸谷は前屈みになり、都と視線が合うようにした。
「間宮さん、今日は本当にありがとうございました。あたし、すっごく楽しかったです!」
岸谷は夜だから近所を気にして静かにしゃべっているが、満面の笑顔は本当に嬉しそうで、こんなに嬉しそうな他人の顔を、自分に向けてもらったことなどあっただろうか。都はあまり記憶がなかった。都は、その満面の笑顔を向けられる照れ臭さよりも、その新鮮な経験に少し驚いてしまって、岸谷の真っ直ぐに都を見つめる大きな瞳から、目を逸らせなかった。
「あたしも、すっごく楽しかった。こんなに楽しいな、って思ったの、ほんとに久しぶり。今日はありがとう。」
都は素直に自分の気持ちが言えた。岸谷は目を細めて嬉しそうに微笑んでいた。
「絶対、またデートしましょうね!」
岸谷は少し気恥ずかしそうな色を頬に浮かべているけれど、それでも相変わらず真っ直ぐに都を見つめて言った。
「うん、またデートしようね。」
都はそれがなんだか微笑ましくて、素直に調子を合わせることができた。岸谷は道中気をつけて帰ってくださいね、と言うと、もう一度今日は楽しかったことと、お礼とを繰り返して、都を見送った。都は、こんなに丸一日誰かと遊んだことなど、7、8年はやってないだろうから、体は疲れてはいたが、とても清々しい気持ちだった。岸谷に手を振ってから、前方を確認して、ゆっくりとアクセルを踏んだ。