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タクシーで最寄り駅まで着いたが、次の電車は40分以上経たないと来ない。いわゆる通勤、通学の時間帯を除けば、1時間に一本しかないようだ。しかも今日は土日ダイヤだ。時刻表を見ると、平日には二本ある時間帯も、一本きりになっている。駅の待合室には、高齢の女性が一人と、ダッフルコートから覗くのは学生服のプリーツスカートで、話ぶりや顔立ちから、高校生だろう、二人組の女の子がいた。ここでおしゃべりをすることが、まるでカフェでお茶でもするみたいな、普通のことであるかのようにすら見えた。静かな待合室に遠慮がちに響く高校生二人の会話には、この土地の訛りがあって、聞いていて心地が良く、ずっと二人の話を聞いていたいくらいだった。都にはもう20年近くも昔のことになってしまうが、あんまり高校生って変わらないな、とも思う。もっとも都の頃とは、携帯電話が普及していたり、スマートフォンが当たり前だったりと、随分違うのだろうけれど、あの少女時代独特の、溌剌とした、無責任さと無邪気さの合間にあるような、大人が嫉妬で苛ついてしまいがちな溢れる活力、そんなものは今も昔も同じな気がする。
都が新幹線の到着駅へ着いた方が、岸谷が東京から着いたよりも遅かった。チャットで打ち合わせた通り、岸谷は新幹線の改札を出てすぐにある、大きな土産屋でウィンドウショッピングをしていた。淡いピンク色のコートは、会社には来てこない普段使いのもので、白いマフラーがゆるい茶色のウェーブの長い髪を包むように巻かれていて、後ろから見ても可愛らしかった。コートの裾からは黒いストッキングがちょっとだけ見えてジョッキーブーツにすぐ隠れてしまう。岸谷は結構背丈があるから、ジョッキーブーツのようなロングブーツがよく似合って良いなあと思った。可愛らしさと大人の素敵さがいい按配で混じり合っている。
「菜奈ー。」
都は近づいてから声をかけた。都は声が小さいから、こんな雑踏ではほとんどの人に都の声は届かないのだが、岸谷は大抵、都の声を拾ってくれる。
「あ、みやちゃん!」
振り返って、都を認めると、ぱあっと笑顔になって、都を呼び返した。それからすぐ二人で、いえーい、と言いながら両手でハイタッチした。何これ、と都が笑ってしまうと、岸谷も一緒になって笑っていた。 辺りで数人、訝しげにこっちを見ていたが気にしなかった。急にハイタッチなんかしたくなったのは、都がようやく自分の冗長設計が正しいことを実際に証明出来たこともあっただろうし、本当に運良く、二人とも順調に今日の工事が終わって、もともと時間のかかる方の工事は、既に北陸に入っている都のやつだったから、長い時間どちらかを待つことなく、落ち合えた嬉しい偶然もあったろう。
岸谷はお腹空いた、みやちゃんとご飯食べたいから、我慢して来た、と言うので、まずはちょっと遅いお昼を食べることにした。この土産屋は、明日帰る前にゆっくり見ようとなった。二人で今日の工事が終わったら、北陸で落ち合って小旅行というのは、都と岸谷、どちらとも親しい派遣社員や正社員には言ってあるので、お土産を買っていかないといけない。都は、派遣社員だろうが正社員だろうが、どこの会社にでもあるであろう、休みの日に旅行へ行ったのであれば、お土産を買ってこないといけない、のような慣習が好きではなかった。有休を取ったのであれば、休んですみません、という意味もあるだろうが、土日に、しかも土曜日は働いているのだし、これで何でわざわざ、旅行へ行ってすみません、のようなお土産を買って帰らないといけないのか。それに、他人に話しかけるのが苦手な都にとっては、買ったものを配るのも苦手だった。しかし、今回は岸谷と一緒だし、二人で選んで買って帰り、オフィスで二人一緒に配り歩くのはちょっと楽しそうだな、とも思っていた。
二人で駅前のホテルに荷物を預けた。岸谷は、あちこち出歩けるようちゃんとハンドバッグを持って来ていたのだが、都はそれは忘れていた。そのため、最低限必要なものをコートやスーツのポケットに突っ込んで行くしかなかったが、ポーチなどのかさばるものは、岸谷が彼女のハンドバッグへ入れてくれた。荷物を預ける前に、岸谷は都に、着替えますか、と聞いてくれたが、さすがにトイレで着替えたりするのはどうかと思った。出張前は、コートの裾からスーツのパンツが覗く姿で観光なんて嫌だ、などと思っていたのだが、着替えるために、広いトイレを探したり、そのためにトイレの中で荷物を整理し直したりしないといけない手間を考えると、煩雑すぎるし、時間がもったいない。今日はコートの下はスーツ、靴もローファーのままで行くことにした。でも帽子は被った。岸谷は、可愛い可愛い、と飛び跳ねながら喜ぶから、都はちょっとくすぐったかった。
お昼を食べてから、事前に決めてあった二箇所へ行くことにした。今日は天気は良いが、寒いのが苦手な都はそれでも寒かった。
「さむいぃー。」
「じゃーあー、腕組んでくっついて歩きましょ。」
以前は、岸谷がそう言うと、岸谷が都の腕を取って、都の腕を自分の腕に絡めさせていたものだが、最近は都が、自分から岸谷の腕を両腕で抱きしめて、体をくっつけに行く。厚着をしているから、あまり岸谷のにおいはしてこなくて、コートの羊毛の無機質なにおいがするくらいなので、ちょっとつまらない。岸谷の長い髪の毛はマフラーで包まれてしまっているから、柑橘系のシャンプーの匂いも漂ってこない。菜奈のにおいがしてこなーい、と岸谷の大きな胸に顔を押し付けてみるが、羊毛コートのにおいしかやはりしない。みやちゃんはわがままですね。そう岸谷は愛おしそうに微笑んでくれた。
土曜日だから、観光地として知られた駅周辺は、どこを歩いても人が多かったが、一箇所目の周辺にまで歩を進めると、人通りはかなり減った。岸谷は都にしがみつかまれているから、空いている左手だけでスマートフォンの地図アプリを見ては、こっちですね、とか言って都を引っ張っていく。都はただ、岸谷に甘えているだけで何もしない。岸谷が引っ張っていってくれるのは嬉しかったし、楽しかったが、これじゃ兄に甘えていた時と同じだと、都は一瞬吐瀉物が喉元にまで戻ってきたような苦さを感じた。結局、都は誰かに甘えていないと生きていけない。いつまでも一人じゃ歩けないどうしようもない人間なのだ。そんな嫌な気持ちになってくる。
「みやちゃん。」
岸谷少し首を下げて、背の小さい都を覗き込むように、都に目を合わせるよう促すように言った。
「楽しいですね!」
都は自分が俯き加減になり、岸谷にしがみつく腕の力も弱くなって、体が離れがちになっていたのに気がついた。
「うん、楽しい!」
都は素直にそう言うことが出来、またしっかりと岸谷の右腕にしがみついて、体をくっつけた。都が、恋人同士みたいだ、という意味で、何このやりとり、と言うと、二人で大笑いした。
住宅街を少し歩くと、少し開けた土地に目的地が見えてきた。雪に覆われた木々に囲まれ、明らかに外観が周りと異なる作りの入り口。しかし、木々より高い建物はないのか、雪が上部に降り積もった壁は、中をどうなっているか見ようとする野次馬から遮る。世界的に有名な日本の仏教学の偉人で、読書が好きであれば何度か名前を目にすることのある機会のある人物だが、北陸出身だと言うことは、ここへ来て初めて知った。都がここへ来るのは二回目だ。人も少ないのもあるが、中に入ると、少し無機質だと感じるコンクリートと、壁の向こうから見える木々の組み合わせが寄与するのか、不思議と柔らかく閉じられたような、静かな空間と感じる。
入り口の自動扉を開くと、いかにも博物館や美術館といった雰囲気だが、電灯があまり明るくなく、少し暗いな、とも感じる。受付の係りの人に、いらっしゃいませ、と声を掛けられたので、都はしがみついていた岸谷の腕を離し、二人で並んで受付まで歩き、入場料を支払った。最近のこういう施設にしてはびっくりするくらい入場料が安い。見るものがそんなにないから、ということもあるだろうが、もう少し取ってもいいんじゃないの、と都は思ってしまう。
最初に本人の功績や、直筆の書簡などが展示されているコーナーを通るが、都は正直あまり興味がなかった。岸谷もあまり興味がないようで、ちらっと見ては、二人とも次に進んでしまう。都が途中で可笑しくなって、まるで興味ないみたいじゃん、と小声で岸谷の肩を軽くはたきながら言うと、岸谷は両手で口を押さえて、大笑いしそうになるのを我慢しなくてはならなくなって、その様子が都をもっと可笑しくさせた。都の兄は文化人類学だの深層心理学だのの本を読むのが好きだったから、よくそれらの本で引用されているこの人物の名だけではなく、世界に与えた影響についても見知っているので、以前ここへ来てすごく良かったよ、と報告したら、すごい!行きたい!と大興奮だったのを思い出した。それとは正反対の自分たちの様子が、そんな兄の反応を思い出すと可笑しくて仕方なかったが、受付からつながるこの展示コーナーには、今は受付係りの人と、都と岸谷しかいないから、声を出して笑うわけにもいかず、あとはあまり展示物も見ず、ただ笑うのを我慢して先へ進んだ。
「わぁー。すごーい!」
展示コーナーを出ると、庵のような空間の向こうに、コンクリートの壁に囲まれた、広い水面が広がる。水面は、直線で囲まれていて、幾何学的な造形とも言えなくもない。壁の向こうに見える雪の帽子を被ったような木々と合わさる光景は、どこにも似たところはないはずなのだが、なんとなく入念に庭師が整えた日本庭園のように映る。岸谷はその光景に素直に感動していて、都は連れてきて良かった、と思った。都は北陸へ来る機会があれば、またここを見たかったのだ。しかし、実際に地図を見ながらここまで都を連れてきたのは岸谷の方だったはずなのだが、言い出したのは都なので良いのだ、と勝手に思っていた。
庵の水面に面している方へ出て、辺り一面を眺めてみる。人が二人ほど、水面を囲う壁沿いの直線で佇んで、水面を見つめている。都と岸谷もしばらく立ったまま、その光景に目を奪われていた。とても静かだ。実際は風が木の葉を揺らす音や、積もった雪がずり落ちる音などが、遠くに聞こえるのだけれど、物音一つしないのではと思ってしまう。目の前の光景以外には、自分たちが吐く息の白さだけが、動いている物質のような気すらする。
「ちょっと座ろう。」
都は岸谷の右手を軽く握って引っ張って、庵の方を指して言った。庵の中は、畳が敷かれた、背もたれのないベンチのような椅子が、方形に並べられていて、囲まれた中には、ストーブが焚かれている。中には誰も座っておらず、都たちは、この水面が見渡せる一番良い椅子に座った。ストーブで背中が少し暖かい。座る時にまた都は岸谷の腕を抱き寄せて、体をくっつけた。
「ここすごい良いですね。」
周りがとても静かなので、岸谷は囁くように言った。岸谷が小さい声で喋る時に出す、口蓋に舌が当たるような音が心地良くて、この光景と相まって、都はとても心が安まるような気がした。都は、岸谷の腕を抱きしめたまま、両手で岸谷の右手を包んだ。
かなり長い時間、その庵に二人でいた。いつもよく喋る岸谷もほとんど何も言わず、ただじっとしていた。都はほとんど何も考えず、ただぼんやりと心を安めた。そろそろ出ようと思ったのは同時だったようで、二人で顔を見合わせて、何が言いたいか二人で分かってしまい、大声を出さないよう気をつけて笑った。
昨年のクリスマスを都の部屋で過ごした時には、この工事ついでに北陸を小旅行する、というのは決めていたから、こことあとはどこへ行こうかと、二人でホールケーキを食べながら、岸谷のスマートフォンの地図アプリで、この世界的に有名な仏教学者の記念館の近所をなんとなく見ていたら、偶然、都が派遣社員として勤める、そして岸谷が新卒新入社員として今年採用された、通信会社のビルがあった。この北陸の、世界的に有名な仏教学者の記念館の近所にあるビルには、国内網のプロバイダエッジルーターの開通部門があって、社内ではどこでも、その土地の名前で、某センターと呼ばれている。ここだ、ここだ、と二人で大騒ぎした。都はSEなので、自分自身でここへ連絡をすることは少ないが、PMの岸谷は、しかもOJTとして、国内網のみのプロジェクトを担当することが多かったから、何度も電話をしていたはずだ。ここへ行こう、と二人で盛り上がってしまって、行くことになった。中には入れないから、当然外から見るだけなのだが、それでも面白そうだ。この会社で、国内の回線を開通させる業務に、どんな立場でも担当でも携われば、必ず関わることになるセンターだ。一見の価値あり、と大仰に思っては可笑しくなってしまう。
仏教学者の記念館を出ると、また都が岸谷の右腕を抱きしめて体をくっつけるから、岸谷はハンドバッグを左肩にかけて、左手でスマートフォンの地図アプリを表示させながら歩かないといけない。
「これってさあ、あたしがスマホ見るべきじゃない。」
都は言ってみた。
「いいんですよー。みやちゃんがぴったりくっついてくれてるの、あたし大好きですから!」
大きな瞳になんの曇りもなく、いつものように通る声で爽快に言うから、都は安心してしまって、岸谷は都に甘えられると嬉しいんだと、思いそうになった。実際、そうなのかもしれないのだが、兄との関係の経験から、そう思ってはいけない、都に甘えられることはきっと最後には迷惑にしかならないのだ。そんな枷のようなものが都にはあって、素直に岸谷の言葉を喜ぶことができなかった。それでも都は、もっと自分の体を岸谷にくっつけて、岸谷の右腕をもっと強く抱きしめてみた。すると、やっぱりこれじゃあ恋人同士みたいだとなって、また二人で大笑いしてしまう。
岸谷のスマートフォンの地図アプリを辿ってきてみると、大きな駐車場についた。その背後には、城壁かと思ってしまうくらいの、ブロック積みの高い壁がある。元々ここは切り立った台地との境目の崖か何かだったらしく、土砂崩れを防ぐような目的で、コンクリートブロックを建てつけたのだろうか。もっとも地図によれば台地の上に街も広がるので、堅牢な台地であることは間違いがないだろう。コンクリートブロックの高さはかなりあって、ブロック塀の上には木々しか見えず、その向こうは何も見えない。そして、駐車場の脇の道を壁まで行き切ると、そこには長い階段が壁の上まで続いている。
「ひえー。長いー。」
都は笑ってしまった。岸谷は釣られて笑っているが、上る気満々に見えた。
「上りましょーよー、運動になります!」
岸谷は、都が回り道はないか探そうと、岸谷のスマートフォンの地図アプリを覗いたのを見て、元気にそう誘った。
「そっかー。じゃあ上ろっかー。」
運動になる、と言われてると反応してしまう年齢の都は、簡単に誘いに乗ってしまった。
二人で並んで上れる幅の階段だから、腕を組んで引っ付いたまま歩調を合わせて上る。それなりに使われる階段のようで、階段の雪はなくなっている。晴れた天気のためか、階段のコンクリートはほとんど乾いていた。二人で一緒に階段を上るのは楽しくて、最初はばらばらだった二人の足音を途中から揃え出して、二人三脚のように上っていく。コンクリートをかつこつと、都のローファーと、岸谷のジョッキーブーツとが叩く音は、少しだけずれて重なるから、音の揺らぎが出ているようで面白い。普通の生活道路にもなっているのか、途中、地元の人と思わしき下りてくる人とすれ違うため、二人で縦に並んで上ったりもした。子供がやる電車ごっこのように、都が岸谷の腰に手をやって、二人で足を揃えて上る。
途中までは楽しく上っていたが、とても長い階段で、だんだん息が切れてきた。都はもう親しさとか愛おしさで岸谷の右腕を抱きしめて体をくっつけているというよりは、ただ自分を物理的に引っ張ってもらうためにそうしていて、それはちゃんと岸谷に伝わった。
「みやちゃーん、もーあたしにー、引っ張ってもらおうとしてますよねー?」
ちょっと息を切らせて、笑ってしまいながら岸谷は言った。
「わかっちゃった?」
そう都が白状すると、二人で足を止めて大笑いした。上を眺めるとあと少しだ。あと少しと言っても、3階くらいの高さは上る必要がありそうだ。
息を切らせながら階段を上り切ると、植え込みがある散歩道のようなところに出て、上ってきた階段を背にすると、散歩道をその向こうから仕切っている幅の広い植え込みがある。そしてその向こうに、見慣れたような、元々電話線の収容局の設備ノードだったが、固定電話の縮退で、オフィスとして転用されているような、見覚えのある体裁のビルが見えた。植え込みに沿って回り込むと、都が派遣社員として勤める、岸谷は今年度入社の正社員として勤める、通信会社のロゴマークを配した看板が見えてきた。二人でそれを見つけた途端、あった、あった、ときゃあきゃあしてしまい、いい大人が騒ぎすぎだと二人で窘めあってしまう。
「ここでやってるんですねー。」
岸谷はビルを見上げて言った。このキャリアのノードビルにありがちな、通気口のようなものか、小さな窓しかない側壁面だが、ここで国内網のプロバイダエッジルーターの設定作業や開通作業をやっていると思うと、確かに感慨深いものがある。
「プロバイダエッジ、開けてくださーい、って上に向かって叫んだら、誰かポート、ノーシャットしてくれるかもしれないですよー。」
「しないよ!」
岸谷の語尾にかぶり気味に都がすぐに否定するので、二人で大笑いしてしまった。
ビルの周りを歩いて、正面の門へ出た。駐車場がビルの前にあるので、車が出入りできるくらいの鉄製の門は閉まってはいるが、通用口の守衛の詰所に守衛はいる。岸谷は、社員証見せたら通してもらえますかね、と笑って言うので、通れないよ!と都も笑ってしまいながら突っ込んだ。ちょうど会社のロゴが背景になるような場所を見つけて二人並んで立ち、岸谷が都の肩を抱き寄せながら、岸谷は自撮りの要領で、スマートフォンを高めに掲げて記念写真を撮った。ここへ来てから何回か、二人このやり方で写真を撮っているが、岸谷が都を抱きかかえる時も、都が岸谷の腕を取ったままの時も、都は自分から岸谷にくっつきに行った。岸谷も背の小さい都の頭に頬をつけてくれたりと、ぎゅっと抱きしめてくれたり。こういう感じで仲の良い女の子たちって、高校生の時同級生に時折見かけたなあ。都は自分が過ごすことの出来なかった青春を、ここで取り返そうとでもしているんだろうかと、天邪鬼に思った。その年頃の都は、既に一人暮らしを始めていた兄への想いを募らせる、ブラコンの塊のような女の子だった。周りにそれを告白したことはないけれど、行動や物事への反応から、かなり変わった子だと見なされていたに違いない。この年頃から人付き合いが難しくなった。
土曜日の夕方近くになると、日も暮れるのも早くて、暗がりが人の間を埋めるからだろうか、観光地は人混みが酷くなったように感じる。実際、食事が出来るようなところや、土産屋が入っているような道やビルは、どこも混雑していて、都にとってはただ興醒めだ。岸谷は人混みは全く平気なのだが、そういう都の性格を理解してくれていて、今回のホテルの予約は、夕食朝食どちらも付いているプランになっていた。ホテルなら少しはゆっくり食べられるだろう、と気を遣ってくれていたし、岸谷も、食事の後のお酒は部屋で都と二人で飲みたいと言っていた。飲み屋の喧騒を都が嫌いなのは、岸谷は良く知っているから、というより、いつも都の部屋で二人そうしている通り、甘え、甘えられて飲みたい、ということだろう。それは都も同じだった。ちょっと人前では恥ずかしい。
ホテルの夕食は、適当な量に適当な味だった。よく旅館にありがちな、多過ぎてとても食べ切れない量を出されるよりは良かったけれど。味も不味くはないが、小躍りするほど美味しいかと言われるとそうでもない。こんなんだったら、せっかく観光地に来ているのだから、外で美味しいものを食べた方が良かったかな、と都は思った、都の人混み嫌いに気を遣ってくれた、岸谷に申し訳なかった旨、都は素直に謝った。
「何言ってるんですかー。部屋で二人っきりでゆっくり出来る時間が増えたじゃないですかー。」
岸谷はちょっとふざけ気味に嬉しさを大げさに表しながら言った。いつもなら、ばかじゃないの!と突っ込むのだが、都は満面の笑みを返すので精一杯だった。
今日はダブルの部屋だから、部屋に余裕があって、広いー、と二人で喜んだ。とは言っても、結局どちらかのベッドで二人で並んでくっついて座って、お酒を飲んで喋っているのだから、あんまし意味ないね、と二人で笑った。都はもともとそんな飲めるわけではないので、弱いフルーツ系のサワーを350ミリ缶の半分飲んだだけだが、二人とも朝早くからの工事だったし、二人で落ち合ってからはしゃぎまくったせいだろう、都はそれですっかり酔っ払って眠くなってしまった。岸谷はビールを一缶空けていたが、強いのでそれほど顔には出ていないものの、都につられて眠くなったらしい。二人は着ているのもを全部脱いで、裸で一つのベッドへ収まった。二人で肌を合わせてみるが、お互いのにおいや肌のぬくもりが心を安堵させるだけで、愛し合う気にはならず、落ちるように眠ってしまい、目が覚めたのは日付がちょうど変わる頃だった。
この時間になれば、流石に大浴場も空いているだろうと、岸谷に大浴場行こうよと、起こすと、岸谷は嘘みたいにぱっつり目を覚まして、行きましょう!といつもの通る声を寝起き一発目から出すので、都はお腹が痛いくらい大笑いしてしまった。
大浴場は空いていて、都と岸谷はゆっくりと風呂を楽しんだ。露天になっている湯船との仕切りを開けると、とんでもなく寒いから、一旦中の湯船に入る。しばらく中の湯船で温まったら、仕切り窓を開けてその寒さに耐えながら、外の湯船に入ってみるが、今度は湯船がとても熱く感じてそれに耐えるのが大変で、また一旦中へ戻ったりと、行きつ戻りつ慣れるまで大騒ぎした。
いっぱい温まって部屋へ帰ると、都は飲みかけのお酒を、岸谷はもう一本目を空けた。湯で温まった体と、軽く回る酔いとでまた結局眠くなってしまい、二人で浴衣を脱いで、証拠隠滅、とか二人でふざけながら、大浴場へ行くまで寝ていたベッドとは別のベッドに入って、からだをくっつけて眠ってしまった。別に愛し合わなくたって良い、ただ二人で肌を合わせているだけで、心地良かったし、癒される気さえする。
朝、一応朝食に間に合うように目覚ましを掛けていたが、それよりも先に目を覚ました。ベットの中はとても暖かいが、雪国のホテルの部屋の中はとても寒い。ベッドの中は二人のからだのにおいで満たされていて、都はそれをずっと嗅いでいたいくらいだった。ツインの部屋だから、ベッドとベッドの間に集中コントローラーがあって、そこにエアコンのスイッチもあるので、都は岸谷の上に覆いかぶさるような格好で、エアコンのスイッチを探したが、暗くてよく見えない。都が探しているうちに、岸谷が目を覚ましたらしい。ちょうど目の前にあったのだろう、都の胸を甘く噛むから、都は変な声を上げてしまった。岸谷は都を抱きしめながらベッドへ引き戻すと、自分の左手で手探りで暖房のスイッチをつけていた。
「おはようございます。」
岸谷は囁くように都に挨拶をした。大きな瞳はまだ寝起きで完全に開いていなくて、その無邪気な物憂げさは、岸谷が囁き声を出す時にする、口蓋の中を舌が当たるような音とともに、すごく都を刺激する。
「おはよ。」
そう都は返すと、唇を重ねた。それからは、二人とも火がついたようにお互いを求めて愛し合った。都は岸谷が悦楽に身を踊らせる姿や、漏らす艶っぽい声だけではなく、自分の嬌声にも興奮を覚える。剥き出しの自分を受け入れてくれる人。そんな人を自分は探しているのだろうか。岸谷を愛しながら、ふと考えた。兄は血が繋がった兄弟だし、剥き出しの自分でいることになんの遠慮もなかった。小さい頃から、兄にくっついて甘えてばかりいたから、その剥き出しの自分を受け入れてもらえるということが、都にとって当たり前になってしまったのかもしれない。都に友人がほとんどいない、常時連絡を取っているような友人が皆無だというのは、自分からそうしているのだとか、一人が好きだからとか言っているけれど、いつも、常に、友人になる可能性がある人に、この剥き出しの自分というものを受け入れるようにと、都が無言の要求をしているからじゃないのか。都のちょっとした立ち振る舞いとか、ふとした言動とか、そんなものからそれを感じ取って、いつも、誰も、都の方へ一歩も踏み込んでこようしないのだ。都が、いつも一歩他人に踏み込もうとすると、引き下がられてしまっているのは、そういう都の深層にあるものが、憑き物のように背後に見え隠れしまっているからじゃないのか。
岸谷は、剥き出しの都を受け入れてくれている。そう都は思っていた。それは物理的に、肉体的に、剥き出しの自分を晒し、愛し合っているから、そう感じるような勘違いしているわけではない。今まで付き合ってきた男たちにだって、物理的に、肉体的に剥き出しの自分を愛させ弄ばせてきたけれど、剥き出しの自分を受け入れてもらったことなどなかった。そんな関係に至ったことはない。別れは、一人とは自然と音信不通、他の子たちとは都から別れを切り出したのだが、向こうも、もうこの女には付き合いきれないと思っていただろうから、いつも別れはスムーズに行って、カーテンを閉めるくらい簡単に関係を終わらせられた。それでも別れた後は、何かが引き千切られるような痛みを覚えて、一度は一人大泣きするけれど、からだで愛し合うことと、剥き出しの自分を受け入れてもらうことは全く別のことだ。お互い愛し合うのが好きで、毎日のように逢瀬を重ね、一日に何度も愛し合うこともあった男もいたが、剥き出しの自分を受け入れてもらった、と感じたことはない。おそらく都と付き合った男たちは誰も、そういう都の、剥き出しの都を受け入れてくれという、無言の要求が、面倒臭く、鬱陶しくて、付き合っていくことが嫌になったのだろう。
しかし、岸谷は違う。剥き出しの自分を、都は岸谷に自然と差し出していたし、岸谷はそれを自然に受け止めてくれている。剥き出しの自分というのは、肉体的に裸の自分というものと近似したものがあるけれど、岸谷の場合もそれは愛し合うということとは別のことだ。岸谷は何故、剥き出しの都をあれほどの明るさで爽やかに、受け入れてくれるのだろう。
もし岸谷にそんな話をしたら、そうなんですかー、とあっけらかんと言いそうだ。言葉通りに馬が合う、というくらい気が合って、趣味と性癖がびっくりするくらい一致した。お互いの友情、というより恋愛とは違う、シンプルになんか好きだ、という感情を、肌を通して伝えて、確かめ合いたい。そんなちょっと変わった趣向がたまたま同じだった。それだけなのかもしれない。その剥き出しの自分にはどうせ誰も触らないのだから、触らないでくれ。そんな意味で、都はボディタッチの多い女子が苦手だったのかもしれない。都は女子の体に親しさや何かの表現で触るのも好きではなかったが、岸谷には、まるで普通の女子がそうするように、いろいろなことを表現するために、岸谷のからだに触れるようになった。
二人で何度か気持ち良くなっているうちに、朝食の時間になってしまっていることに気がついた。二人とも一瞬でとろけた雰囲気から、素へ戻り、慌てて髪の毛だけ直し、浴衣をちゃんと着て、バイキング形式の朝食へ向かった。エレベーターで人と一緒になったり、当然会場で他の泊まり客と一緒になるのだが、ほとんどの人は朝食後すぐに観光に出かけるのだろう、普段着へと着替え終わっている。浴衣姿の人もいくらかいるが、みんなちゃんとさっぱりしている。都と岸谷だけ、なんだか艶っぽいから、二人で可笑しくて、お互いを指差して笑ってしまう。朝食の味もそれほどでもなかったが、二人で楽しく食べた。コーヒーは結構美味しいと、都が喜んでいるのを見て、岸谷は、みやちゃんはほんとに美味しいコーヒーさえあればごきげんですね、と笑っていた。
コーヒーを飲みながら、二人で三月に行こうと計画している、温泉旅行の予定についてわいわいと話した。途中から雪道になるから、チェーン巻くぞー、と都が力こぶを作るポーズをすると、岸谷は楽しそうに笑った。しかし、この計画は、その通りには行かなくなってしまった。