12-04

2022-01-29

12-04

 「えー…。あっそう…。」
 秋田は多少残念がったものの、特に大したことでもないかのように、岸谷に返していた。大分浅く椅子に腰掛けていたので、秋田は姿勢を直して、自分の机の専用端末のスクリーンロックを解いていた。
 「全く出来ない、って言ってる?それとも何か一部だけが出来ない?」
 秋田は、設置した客宅ルーターへログインするため、ログインサーバーへ入りながら聞いた。
 「あ、そこまで聞いてないです。ちょっと確認します。」
 岸谷は特に焦ったところもなく、落ち着いて返していた。どういった按配で通信が出来ないのか、というのをきちんとヒアリングするのは、トラブルシューティングに慣れていないと難しい。秋田が電話を代わった方が早そうなのだが、これは岸谷のOJTという側面もあるので、出来るだけ岸谷にやらせる、ということなのだろう。確かに、わからないことを言われた、言わなくてはいけないとしても、わからないことに当たったという経験は強く残るし、そのことが新しいことを覚えようという刺激にもなるだろう。結局トラブルでネットワークエンジニアのスキルは上がっていくのだ、という事実は何とかならないものなのか。そう都は時折思う。平穏が一番良いのに。
 LANを初めて切り替える、初めて接続する時は、全く何も通信できない、というトラブルは意外に多い。しかし、原因が都たちキャリアの設定ミスや回線トラブル、と言ったことよりも、お客自身の機器の設定不足である方が多かったりする。お客のネットワーク機器の設定漏れに始まって、お客の端末でデフォルトゲートウェイの設定間違い、テスト端末でブラウザのプロキシ使用を有効にしたままだった、有線でテストするのに、端末の無線が有効になったままだった、OSのセキュリティ設定やセキュリティソフトによるドロップ、などだ。
 「お待たせしてすみません。お伺いしたいのですが、通信が出来ない、と仰っているのは、特定の通信が出来ない、になりますか?それとも全く通信が出来ない、になりますでしょうか。はい…。はい、お願いします。」
 岸谷はゆっくりと丁寧に喋っていた。確かに、こういう時は落ち着いて喋るべきだが、都のエンジニアになって一年目は、トラブルについて状況をお客にヒアリングするときなど、慌ててしまって、自分でも何言っているのかわからない、というのが側から聞いていても出てしまっていた。お客に、こいつわかっていないな、というのが伝わってしまい、厳しい態度を取られてしまったこともあった。それと比べると、岸谷の対応は百点満点で、都はいかに自分が社会人としての基礎能力というものが不足しているかを、改めて自覚せざるを得ない。
現場作業員は、お客立会い者に確認を取っているらしく、しばらく岸谷は無言が続いた。
 「はい…。全く通信できない、ですね。少々お待ちいただけますか。」
 岸谷はそう言うと、耳からPHSを離し、ミュートボタンを押してから、秋田の方を向いた。秋田は既にログインサーバーから設置した客宅ルーターにログインしていて、いくつかコマンドを叩いていた。
 「秋田さん。」
 「うん。ちょっと待って。」
 秋田は、報告しようと声をかけた岸谷を遮って、インターフェイスの状態を、IPアドレスと一緒に一覧で確認できるコマンドを叩き、出力を確認している。秋田と岸谷は、あんな冗談を交わしているくらいだから、親しいのだろうし、まして岸谷の性格だから、何とも思わないだろうけれど、もし都が、何もわからない新人で、メンター役の人間にトラブルの状態を報告しようとして、それを遮られたら、きっと萎縮してしまって、どんどん声が小さくなってしまっただろう。LANインターフェイスは上がっているようなので、秋田はARPテーブルを叩いた。自分の物理アドレス以外何も見えていない。
 「ちょっとお客さんに、ルーターのLANインターフェイスへping打ってもらって、届くかどうか確認してもらってみな。」
 秋田はざっくばらん、と言った感じで岸谷に言った。岸谷は了を返して、PHSのミュートを解除して、秋田に言われたことを、まるで自分で考えたことのように喋った。
 「はい…。はい、そうです。はい…。はい…、少々お待ちください。」
 また何かわからないことを聞かれたから、秋田に相談するのかと思ったが、岸谷は都の隣の席の専用端末で、既にログインしていたルーターの、現在運用中のコンフィグを表示するコマンドを叩き、一度で全部表示されないので、2、3回スペースキーを叩いて、さらに表示を進めていた。
 「よろしいでしょうか。」
 岸谷はそう言うと、IPアドレスを読み上げた。おそらくお客から現場作業員経由で、LANインターフェイスのIPを聞かれて答えたのだと思うが、もしそうだとすると、これは面倒な案件になってきたかもしれない。現場のお客立会い者が、LAN接続試験をすると言うのだから、お客の担当者自身か、お客が雇っているベンダーのどちらかのはずだが、それが客宅ルーターのLANインターフェイスのIPアドレスを知らないと言うのは、このLAN接続のための、お客機器の設定が全く適切になされていないことを意味すると言って良い。稀に、事前に設定ずみの機器を、物理的に接続するだけのベンダーか担当者がいて、レイヤー3情報については全く知らないと言うことは、ないことではない。彼彼女の後ろに控えているお客担当者に聞くよりは、この場の現場作業員を通して、キャリアの担当者に聞いた方が早い。そう思ったのかもしれない。どちらにせよ、これは長くかかるかもしれない。
 都は既にシュミレーターに並べた4台のルーターを起動し、1台目のコンフィグに入っていた。お客のコアスイッチを表すルーターのインターフェイスを開放したところで、PHSを耳につけたまま黙っていた岸谷が口を開いた。
 「届かない、ですか。」
 岸谷は、それでも落ち着いた様子で、視線だけ秋田に向けた。
 「それはお客さんの機器がちゃんと設定出来てないね。この拠点、LAN側コネクテッドセグメントしかないからね。」
 秋田はそう岸谷に言った。
 「あー…。」
 岸谷は、いかにもわかってます、と言う風に感嘆の声を電話の向こうに聞かせた。
 「物理的にはお客さんの機器繋がっているように見えるけど、何のIPもルーターのARPテーブルに見えてこないから、お客さん機器が正しく設定されていないっぽいよ。まず確認してもらったら。」
 秋田は岸谷にそう言うと、岸谷は首だけ縦にふって、ほぼそのまま、ビジネス的な言い回しに変えて、現場作業員に伝えていた。淀みなく、自信を持っているかのように喋るので、側から聞いていると、本当に岸谷が頼もしく映る。
 「はい…。はい…。かしこまりました。では、ご確認いただけましたら、私の方までご連絡いただけますでしょうか。はい、よろしくお願いいたします。失礼いたします。」
 「お客さん確認するって?」
 岸谷が電話を切ると、秋田は岸谷に聞いた。
 「はい、作業員さんの話によると、お客さん何か思い当たる節があったみたいで、確認するから少し時間欲しいそうです。」
 そう岸谷は報告すると、秋田が何故物理的に接続されているのに、お客さん機器が正しく設定がされていないとわかったのかと質問していた。ARPも理解していないと言う。
 「え?あんなに私わかってます、って風だったのに?」
 秋田がちょっと笑ってしまいながら言っていた。都もつられて笑ってしまう。
 「お客さまに不安を与えないのは大事ですから。」
 岸谷は、拳を腰に当てて、何か自慢げにまた言っている。
 「いや、お前が話してるの現場作業員だからね。」
 秋田に冷静に突っ込まれたが、現場作業員にも不安を与えないのも大事だと、岸谷は全く負けなかった。都は可笑しくて笑ってしまった。本当にこの子は、ビジネスの現場に必要な基礎能力が高い子なんだろうなと感心もした。
 秋田が岸谷に、お客の機器が物理的には繋がっているようだが、正しく設定されていないと判断した要因を、対象の客宅ルーターにログインしたターミナルウィンドウを見ながら説明してる間、都はシュミレーター上に配置したルーターをコンフィグして行った。
 都は、必要な検証環境のコンフィグが終わると、一応全部のBGPのピアがちゃんと上がっていることを確認した。それから、MPLS網を表しているルーターにループバックインターフェイスを作り、適当なIPをアサインし、それを網内のルートとして、メイン、バックアップルーターを表している2台のルーターへ広告させる。メイン側ルーターは、その受け取ったルートにMED50を付与、バックアップ側のルーターはMED150を付与し、LANのコアスイッチを表すルーターへ伝播させるように、それぞれコンフィグしてある。コアスイッチを表すルーターで、ベストパスを確認してみると、運悪く、メイン側をベストパスにしてしまっていた。これではMEDを評価してしまっているように見えるので、メイン側ルーターで付与するMEDを200へ変更して、コアスイッチを表すルーターでBGPのソフトリセットをかけてみる。想定通り、メイン側からのルートのMEDが重くなったにも関わらず、メイン側からのルートがベストパスのままだ。異なるASから伝播してくる同一ルートのMEDは評価されない、と言うことが確認できた。これが今起きている問題ということになる。
都が調べた通りだとすれば、この状態のコアスイッチに、異なるASからルートをもらったとしても、付与されているMEDを評価するコマンドを足してやれば、MEDに従ったベストパス選択をするはずだ。都は、コアスイッチを表しているルーターに当該のコマンドをコンフィグし、BGPのセッションをソフトリセットする。そして、BGPテーブルを確認すると、MEDが小さいバックアップルーターからのルートがベストパスに変わっていた。都は念のため、メイン側ルーターが付与するMEDの値を50に戻して、BGPのセッションをソフトリセットし、再度コアスイッチを表しているルーターでBGPテーブルを確認してみる。きちんと、メイン側からのMED50のルートがベストパスに変わっていた。
 大森から相談のあった件はこれで間違いなさそうだ。コマンドが足りてないはずだから、それを足してもらうよう言ってもらおう。都は、お客が送ってきたログを、大森が転送してきたメールを開いて、返信ボタンを押し、メールを作り始めると、岩砂に声をかけられた。
 「間宮さん、今ちょっと大丈夫でしょうか?」
 いつものように変な勢いがついた調子で聞いてきた。しかし少し切羽詰まっているようにも見えた。
 「あ、はい。どーしましたー?」
 都も、いつものようにちょっと間が抜けたような返事をした。
 「ちょっとですね、先日工事した拠点でデフォルトゲートウェイ冗長プロトコルがフラッピングしまくっていてですね、お客の通信に影響が出てしまっていて…。ちょっと間宮さんに見てもらえないかなー、と思いまして。」
 岩砂はいつものように冗談めかした勢いのある調子で言うものの、困っている感が多めに出ていた。今すぐ話を聞いた方が良さそうだと都は思った。大森の件は、もう検証結果は出ているし、都たち、このキャリア側の原因ではないので、少し置いておいても良いだろう。デフォルトゲートウェイ冗長プロトコルのフラッピングは、回線の品質や、設計ミスの場合があるので、原因がすぐに突き止められるものなら、突き止めた方が良い。ましてお客の通信に影響が出ているなら尚更だ。
 「えー。なんですかねー。見ますよ。CR番号とかすぐ出ます?」
 都はそう聞いて、自分の専用端末のスクリーンロックを解いた。CR番号さえわかれば、コンフィグ集積データーベースから、ログイン情報を引っ張り出し、都の机で客宅ルーターにログインできる。
 「あ、今向こうの専用端末でログインしているので、そっちで見てもらった方が早いです。」
 今絶賛トラシュー中だと言うことらしく、岩砂がどこかの専用端末で既にログイン済みらしい。そうであれば、都がそっちに行って見たほうが早い。
 「行きましょう!」
 都はちょっと勢いのある調子を真似して、そう言うと、立ち上がった。
 「すいません、お忙しいのに。」
 岩砂は頭を下げながら、少々大仰に気を遣うので、都は否定を返した。岸谷が椅子ごと秋田の席の方へ行っていて、岩砂は岸谷の後ろと、机の間にできたスペースにいた。都もそこを通り抜けた。
 「ちょっとお客さんの端末のIP聞いた方が良いね。」
 秋田はそう岸谷に話していた。未だお客端末と客宅ルーターのLANIPとの疎通が取れていないようだ。誰かがトラブルになると、どう言うわけか回りもトラブルに当たって、辺り全員で別々のトラブルシューティングに四苦八苦している、と言う図になる時がある。
 「あ、間宮さん、ちょっと相談に乗って欲しいことが…。」
 岩砂について、通路になっているスペースを歩き出ししたところで、今度は二年目の社員の植松が、直截に相談だと言ってきた。こうやって複数のトラブル相談が一度にやってくることが、都には時折ある。
 「ごめん、ちょと岩砂さんの見たら寄るからちょっと待ってね。」
 都は、すまなそうに言った。決して突き放しているわけじゃないんだと、意思表示したかった。そんなことは都はしない、と言わないと、そう思われるんじゃないかと不安だった。
 「あ、はい、大丈夫です。いつもすみません。」
 植松は自分の方こそ申し訳ない、と言った調子でそう言うと、いつも都に何か依頼をするときにやっているように、東南アジアの挨拶のような、両手を合わせて軽く拝むようなポーズをしていた。
このフロアには専用端末しか置いていない机と言うのがいくつかあって、それは工事や、調べ物、トラブルシューティングなどに誰でも使うことができた。数台固まって置いてあるので、同時に複数拠点を見なくてはならない工事や、複数人のSEをアサインしてある案件などでは、隣同士に座って、相談したり、障害試験のタイミングを合わせたりが可能になる。
 岩砂は、この専用端末のみの席で、トラブルシューティングをしていた。隣の席が空いていたので、都はその椅子を、岩砂が見ている専用端末のディスプレイをのぞき込める位置まで、岩砂の席に寄せた。岩砂が、ログインしているルーターのログ履歴を見せようと、ログ出力のコマンドを叩いたところで、都はまた声をかけられた。
 「間宮さん。」
 「ひゃあー。」
 都は変な声を出しながら振り返った。流石にこうも立て続けに相談事を持ちかけられると、いっぺんには無理だし、全部捌き切れるか自信もないが、ちょっとカオスだと、可笑しくもあった。それは、派遣社員でしかない自分が、こうやって頼りにしてもらえるということに、ほんの少しだけ、嬉しさを感じているから、そのことを可笑しいと感じることができるのかもしれない。