12-08

12-08
秋田は電話口の向こうに対して、いつもそうなのだが、とても慇懃でにこやかに応対していた。秋田が電話の向こうと会話を始めると、岸谷は秋田に何かを相談しようと思ったらしく、椅子に座ったまま、秋田と都の間に入るような勢いで寄ってきたが、秋田が電話中だとわかって、声をかけようとしたのを、その勢いとともに止めていた。
「どうしたの?」
都が代わりにと言っては何だが、聞いた。
「現場作業員の人がー、もう時間過ぎているから体制解除にしてくれー、って言っててー…。」
岸谷は少し困っているようではあったが、やはり余裕を感じる。お客試験がトラブっていて、工事は終わっていないのに、現場作業員が早く帰らせろ、などと言ってきたら、都だったらかなり緊張するし、焦りもして、顔に出てしまっただろう。現場作業員の作業時間枠は通常の設置工事の場合、2時間と決められており、ルーターの設置、WANの開通は完了している現状では、お客の通信は対向拠点とは出来ていないものの、設置したルーターのLANインターフェイスまではpingが通るということだから、現場作業員としての仕事は完遂していると言って良い。こういうトラブルの時は、現場作業員には何かあった時のために、待機してほしいものだが、状況を聞き知る限り、リモートで対応出来ることばかりなので、都たちのオフィスから出している現場作業員ではないから、リリースするしかない。
「あー…。でももう、作業員さんとしての仕事は終わりだし、オンサイトの人はリリースするしかないね…。今って、岸谷さん現場のお客さんと直接話してる?それとも現場作業員さん通して?」
都は聞いた。
「最初は現場作業員さん通してたんですけどー、途中で直接話してくれって言われてー、それから直接話してます。」
お客試験が始まってから、通信が出来ず、確認事項のやりとりが多くなって、間に入っている意味がないと現場作業員が感じたのだろう。
「じゃあ、急に連絡手段変わるわけじゃないから、そんなに問題ないかも。お客さんに、現場作業員さん次の現場に行かないといけないので、退館させてください、あとはあたしたちがリモートで対応します、ってお願いすれば良いね。もしごねられたら、すみません、って言うしかないけど…。場所どこ?」
設置場所がどこだと聞くと、都たちのオフィスの最寄駅から15分程度の場所だと言う。
「万が一どうしよもなくゴネたら、あたし行くから。」
「ほんとですかー。」
もしお客が、終わってもいないのに作業員が帰るとは何事だと、怒りだした時のための非常線を張っておく意味で、都は何かあれば自分が作業員として出る旨付け足すと、岸谷は、申し訳なさそうではあるのだが、どこか嬉しそうな表情をして、有り難そうな声を上げた。ただ、都の助言は間違っていて、本来であれば、どんなにゴネられても、追加の作業員を無償で派遣してはいけない。余程こちらに落ち度があれば話は別だが、既にルーターの設置、開通作業は無事完了している。都のこういう甘さも、PMには不向きなところだった。しかし、現場でしか見えてこないものもあるので、あまりにもお客がゴネた時に、都が行く意味が全くないかといえばそうでもないところが、難しい。
秋田が電話を切る挨拶をちょうどしていて、その慇懃でにこやかな挨拶からは、電話での会話が非常に実りが多く、友好的なものになったようにしか聞こえない。
「あの野郎、ほんっとにいつもいつも上からもの言いやがって。」
電話を切るといきなり悪態だったので、都は笑ってしまった。
「まるでこっちが向こうから仕事もらってるみたいですよ。」
秋田はそう微笑みながら言うが、とても厳しいやりとりがあったことは想像に難くなかった。それでも全く動じた様子も、狼狽えた様子もなく、あれだけ慇懃で愛想の良い対応を最後まで保つのだから、凄いと都は思った。都なら、現場作業員の会社のマネージャーから、いつまでやらしてんだ、早く帰せ、次もあるんだ、と怒鳴り込まれたら、狼狽えてしまうだろうし、怖くて声も震えてしまうだろう。想像しただけで、都は気持ちが萎縮して、緊張が強くなってきてしまう。
岸谷は秋田に、現場作業員からタイムアップだから退館させてくれと言われたことを報告すると、秋田は、今ちょうど作業員の上司から同じことで電話があったと言った。岸谷はそういうことがあるのを知ってはいたらしく、ほんとにかかってくるんですねー、と驚いていた。
「じゃ、まずー、お客さんに電話して現場作業員帰します、って言いますね。それから作業員の方に体制解除すれば良いですか?」
岸谷は、すぐに必要な対応を自身で考え、秋田に確認を取った。
「うん。それで良いよ。お願いします。」
秋田は首だけ動かして、岸谷に依頼した。岸谷は、元気に了を返すと、電話をかけ始めた。都は、いい加減に大森にメールを書かないと、と思って、自分の机に椅子ごと戻った。大森には、都の想定を簡単に説明した後、軽い検証で今のお客の状況を再現できたことと、今お客のスイッチで不足していると思われるコマンドを足して、BGPをソフトリセットしたら、メトリック通りのベストパス選択になることが確認取れたので、お客には、以下のように伝えてくれと、英語で想定される原因と、推奨対策を書いた。英語に関しては大森の方が二枚、三枚どころか九枚も十枚もはるかに上手だが、技術的な文章というのは、エンジニアが書いた方が、きちんと要点が伝わることが多い。
隣の岸谷は、お客への説明は終わったようだ。二、三度ほど申し訳ありません、と言っていたので、多少ごねられたか、文句か嫌味でも言われたのかもしれない。謝罪している間も、声が小さくなったり、酷く謙ったりするようなところはなく会話を済まし、丁寧に挨拶をして電話を切っていた。一応、作業員を帰すことには納得してもらったようだ。岸谷は、すぐに発信履歴から現場作業員の電話番号を呼び出して、PHSをオフフックしていた。
都は、ふと岸谷の案件のトラブルで試してみたいことを思いついた。まずは、大森へのメールの宛先や、内容をチェックしてから、送信した。送信するメールには自分のメールアドレスを自動でCCするようにしてあるので、自分が送ったメールが受信トレイに新着すれば、無事送信できた確認になる。都は誤送信防止のため、送信を1分程度遅らせてもいるので、ちょっとの間確認は出来ないから、椅子ごとまた秋田の机の方へ移動した。
「秋田さん、まだNATテーブルって何も引っ掛かってないですか?」
都がそう聞くと、秋田は自身の専用端末のターミナルウィンドウで、NATテーブルを表示するコマンドを叩いた。
「何も引っ掛かってないねえ。」
秋田は呟くように言った。煙草を吸う人独特の喉の掠れがその声にはある。
「秋田さん、試しに、ログ付きACL引っ掛けてみません?」
都は少し身を乗り出しながら言った。秋田は何それ?と聞いてきたので、都は、とりあえずコンフィグモードにに入ってもらって、あとは都の言う通りコマンドを叩いてくれと、お願いした。秋田は、都が言う通りにコマンドを叩いていった。送信元も宛先も何であれ許可する、という一行だけのアクセスリストだが、最後にこのアクセスリストに引っ掛かれば、引っ掛かったパケットについてログを吐き出すようにするオプションをつけたものだ。
「それを、LANインターフェイスにイン方向で設定してもらえますか?」
あと、ターミナルウィンドウにログが出るようにしてあるか聞いたが、それはやってあると言う。
「LANのイン方向ね。」
「はい。」
秋田の確認に、都は返事をした。秋田は念のため運用中のコンフィグを表示し、LANインターフェイスの部分までスクロールして、説明書きや、IPアドレスなどから、LANインターフェイスになっている物理ポートを確認し、そのインターフェイスのコンフィグレーションモードに入り、先ほど設定した一行だけのアクセスリストをインバウンドで適用する。全て許可、のためトラフィックには影響がない。ただ、ルータへLANインターフェイスから入ってきたパケットの宛先や送信元IP、プロトコルなどをログへ吐き出してくれる。効果はすぐに出た。
「あー…。これ使えば見えちゃうんだっけ?」
秋田はこのアクセスリストのオプションは知ってはいたが、この使い方を今は思いつかなかったらしい。それはそうだろう。都も、正直これで引っ掛かる自信はなかった。といのも、この拠点のLANのホストにとって、現在テストしている通信対向のホストは、自分のサブネット内に存在しているホスト、と言うことになっている。つまり、デフォルトゲートウェイは都たちのルーターを向いていない可能性が高く、その場合、ARP解決が出来ずに、レイヤー3のIPレベルまで、通信の処理が進まずに終わっているはずだ。しかし、ログは吐き出されてきた。
「送信元って、お客さんの端末のIPってそれであってます?」
都は出てきたログを見ながら聞いた。
「送信元はあってるけど…。宛先、なんだこりゃ。」
「へー。これなんですかー。」
秋田がログの宛先IPの部分をマウスでドラッグして反転させ、そう言うと、作業員に退館指示を終わった岸谷が、秋田と都の間から顔を覗かせて、興味深そうに聞いてきた。
「お客さん、全然違う宛先にping打ってるよ。」
秋田は返した拳の親指でディスプレイの方を差しながら、首だけ岸谷に振り返って言った。宛先NATをしている、と言うことだから、ちゃんと変換前のIPを宛先とした通信が、お客さん端末からやってこないといけないのだが、実際アクセスリストで引っ掛けて見ると、違うIPに向けて通信しようとしている。第4オクテットが130でなければいけないところが、13になっている。これではずっと通信が成り立たなくて当たり前だ。
都が思いついたアクセスリストには、本来は引っ掛からないはずなのだが、おそらく、通信できないと言うことで、お客が、お客端末にデフォルトゲートウェイを都たちのルータに切ってみた、あるいは元々他の通信先もあって、デフォルトゲートウェイがそもそも都たちのルーターに切られていたかだ。LANのサブネットは24ビットの後半25ビットだから、このお客が宛先にしている13は、別サブネットということになる。
「えーーーー!まじですかー?お客さんー、そっちが間違えてんじゃないっすかー、くらいの勢いだったのにー。何それー!」
半分冗談であるが、岸谷はちょっと怒っていた。
「まあまあ。でも酷いねー。」
都は笑って宥めた。第4オクテットを間違えただけだ、なのだが、NAT要件から察するに、お客はこの拠点の、LAN内のホストの通信相手は、自分と同一セグメント内だと言う見せかけをしたいはずだ。まして、25ビットマスクと、LANのネットワークを少し小分けにしているのだから、それなりに各ホストのアドレスアサインというのはある程度計画的に決まっているはずだ。それを別サブネットのものと間違えたのだから、お客LAN内の設計、もしくは通信対向とのルーティング設計において、大きく間違えている可能性がある。お客が、お客端末からの通信宛先を直せば、あるいは都たちのルーターのNAT設定を変更すれば済む話なのかはわからない。単純に、テスト中のタイプミスで間違えただけであったり、書類の書き間違い、申請間違いであれば、それで良いかもしれないが。
「あたし、もー、文句言います!ほんっとに、こっちが間違ってるみたいにずーっと言ってたくせにー。まじふざけんなです!」
岸谷は、そう勢い良く言うと、PHSの発信履歴で、お客担当者の番号を呼び出し、掛け始めた。都が隣で聞いていた限りは、勤めて冷静に、穏便に話していたが、どうも電話の向こうからはいろいろ言われていたらしい。今の今まで文句も弱音も吐かず、淡々とやっていたのだから、本当にすごいな、と都は感心してしまう。通る声で怒っているので、周りの若干名がこっちを見ている。
「お、どんな文句を言うのかな、お客に向かって。」
秋田は冷やかすような微笑を浮かべて、からかうように言った。しかし、岸谷は相手が電話に出ると、とても丁寧なビジネス口調で、しかもいつもよりも少々愛想が乗っているくらいの温和な調子で挨拶をした。都は思わず、豹変、と秋田にだけ聞こえる程度の声で、言って笑ってしまった。
「念のためご確認させていただきたいのですが、今、お客様が端末からテストされている宛先のIPアドレスは、10・245・132・130、でよろしかったでしょうか。」
非常に丁寧で柔らかい対応と言って良いかった。逆にそれが秋田と都の笑いの琴線に触れる。
「はい…。はい、ありがとうございます。私たちもそのような認識だったのですが、今、お客様の端末からテストされている通信を、ルーターの方で拝見させていただいたのですが、宛先のIPアドレスは、10・245・132・13、となっております…。」
13を少し強調しているが、それはわかりやすくするためにそうしているだけで、特に嫌味などは感じられない。さっきの勢いと全くの真逆で、むしろ慇懃で親切な印象さえある。通る声で話すので、必要以上の堂々としているようにも映る。しかも落ち着いていることを示すかのように、早口にもなっていない。
「こいつほんととんでもない大物ですね。あんなにキレてたのに180度態度変えて。」
秋田は静かに笑いながら都に言った。都は声が出ないように大きく口だけ開けて、両手を音が鳴らないように合わせて叩き、笑った。