12-09

2022-01-29

12-09

 結局、岸谷と秋田の国内案件は、それからさらに2時間くらい待機があったのだが、やはりお客の中で設計を見直す必要が出てきた、とお客が観念して、そのまま体制解除となっていた。長く待機したり、お客のトラシューに付き合ったりしても、結局終わらなかった、というのは時折あることなので、特段誰も驚きもしない。もちろん、入社半年の岸谷もあっけらかんとしている。
 「岸谷さん、国内の統制取るの初めてだっけ?」
 都がそう聞くと、一人でこれだけ本格的にやるのは初めだと言う。都が全然初めて感がない、すごい慣れている人みたいだった、と言うと、岸谷はちょっと自慢げなポーズを作ってから、褒められたことに礼を言った。
 「間宮さんとこないだオンサイト行ったじゃないですかー。あれが効いてますよー。現場の様子がなんとなく想像つくようになりました。ほんとうにありがとうございました。」
岸谷はそう付け足すので、都は岸谷の役に立って嬉しかったことを素直に伝えると、岸谷は満面の笑顔を見せてくれた。
 都は岸谷と秋田の待機の間、神山にメールを転送してくれるよう頼んでおいた、簡易設定変更の相談を机上で検討していた。検討を始めたあたりで、神山が都の席まで進捗を聞きに来て、都は少し苛ついた。出来るだけ早く回答するから、とは言ったが、神山も、依頼元の営業から督促されていてると言う。何でそんなに急いでいるのかは、神山が転送してきたメールを読んで了解した。
 あるお客のアジアの2拠点が、都たちのMPLS網にそれぞれ単一拠点として接続している。この2拠点間は、裏からインターネットVPNで接続しており、この拠点間の通信はその裏のインターネットVPNを通して通信していた。しかし、裏回線の品質の問題で、拠点間通信も専用線経由、つまりMPLS網経由で行うようにし、裏回線はバックアップとして使用するよう、設計を変更したい、と言う要望が構築後出てきた。今までは両拠点とも、お互いの広告ルートについては、受信しないような設定がされていたが、簡易設定変更工事にて、お互いのルートを網から受け取るような設定に変更し、さらに、おそらくは受け取るルートの方を優先させる、という意図だと思うが、BGPの受診経路全てに、客宅ルーターとして採用されている筐体メーカーで、最も強いタイブレークの値を、デフォルトでローカルの経路に付与される値よりも強い値を付与するようなポリシーを追加していた。今までは自分のLANサブネットだけを広告していただけだったが、MPLS網に対して、この2拠点で相互バックアップをするため、片方の拠点のLANサブネットも広告するように変更している。
 この設定変更後、すぐには冗長試験をやらなかったらしいのだが、昨夜片方の拠点の、客宅ルーターのLANケーブル抜去試験を実施したところ、上手く切り替わらず、LANケーブルを戻したのだが、その拠点から網への、BGP広告が戻らない。他拠点から、このLANの断試験をした拠点へのトラフィックは、この断試験をした拠点と裏からインターネットVPNでつながっている拠点へ吸い込まれてしまい、非対称通信としてファイヤーウォールに引っ掛かり、不達になり続けていると言う。工事対象の2拠点間通信はインターネットVPN経由で行うよう設定を切り戻したため、救済できているが、LANの断試験を実施した拠点と、他拠点との通信は断が継続している。
 すでにこの設定変更はクローズとしてしまったため、設定を切り戻すためには、新たに設定変更のチケットを切らないといけない。しかし、切り戻すのではなく、今回実施したようなLAN断試験の復旧後、BGP広告もきちんと復旧するように、かつ、通常時はBGPから受け取るお互いのルートを優先させるようにして欲しいので、そのように設定変更してもらえないか、と言う至急の相談だった。簡易設定変更の相談に至急などと言うのはなくて、ましてこれは設計を相談している。簡易設定変更は具体的な設定パラメーターを営業から提出しないといけない。だいたい相談内容も、全体のネットワークと要件を把握して、設計しなければいけない内容だ。これはもう簡易設定変更ではなく、設計変更としてプロジェクトを起こす必要がある。そう突っ返して欲しかったが、突っ返しては押し返される、何とかしてくれと催促される、最後にはこちらの課長にエスカレーションがかかる。課長が断ってくれれば良いのだが、こういうものは、悪い言い方をしてしまえば、恩を売る、という意味もあって断ってくれないので、もう面倒見てしまった方が早い。
 BGPで受信する経路全てに、最も強いタイブレークの、筐体内で最も高い値を付与するようにしてしまっているからいけない。この最も強いタイブレークの高い値を、対向の拠点のルートにのみ付与するようにすれば良い。LANインターフェイスからケーブルを抜去して、LANを断にすると、それまで客宅ルーターから広告されていた自身のローカルルートが消え、プロバイダエッジルーター上でベストパスだったこの拠点の客宅ルーターから受信していたルートも消えて、もう一方の拠点からのバックアップルートがプロバイダエッジルーター上でベストパスとなる。そして、そもそもは自分のLANサブネットが、このLANが断になった拠点へと、WANから広告されてくる。同一ルートが客宅ルーター上に存在しないから、BGP起源のルートとして、筐体のルーティングテーブルでベストパスとなる。その際、例の最も強いタイブレークの、ローカルルートにデフォルトで付与されるものよりも高い値が、設定変更で追加したコンフィグにより意図的に付与されてしまう。
 この状況でLANが復旧し、たとえLAN側のルートがAD値で勝ち、筐体のルーティングテーブル上では、WAN側から受信したルートが負けてしまったとしても、BGPテーブル上は、この最も強力なタイブレークの値のせいで、WAN側から受信したルートが勝ち続ける。ルーティングテーブル上ではローカルルートが勝っているにも関わらず、BGPで広告できないという事象になってしまう。
 解決するには、自分のルートをWAN側から受け取らないようにする。受け取る必要はないのだから。また、このタイブレークとして勝たせたいのは、もう一方の拠点のLANのルートだけなはずなので、この最も強力なタイブレークの高い値を付与するのは、このルートだけに限定すれば良い。もちろん、これは客宅ルーターのBGPの部分に限った話で、LAN側のルーティングプロトコルや、もちろんお客LAN内のルーティングにもそれなりに仕掛けが必要になる。
 しかし、都は転送されてきたメールに添付されていた、この2拠点に絞ったネットワーク図を見て、そもそもこのお客の要件は不可能なのではと思った。両拠点とも客宅ルーターの配下にコアスイッチ、その下にファイヤーウォールがあり、その両拠点のファイアやーウォール同士がインターネット越しにVPNを張っているが、客宅ルーターのLANから下全てが、スタティックルーティングだ。
 「ん…?」
 都は思わず唸って疑問が口に出てしまった。そもそも、こういった他拠点同士、他拠点ではなくても、ルーターやお客機器を冗長してある構成で、WANとLANどちらからも相互に到達できるネットワークにおいて、横にも縦にも相互バックアップをする場合、LAN内のルーティングはダイナミックルーティングである必要がある。そうでなければ、ルートの消失やルートの復旧が自動で伝わらず、切り替われないからだ。
 そうは言っても、これだけきちんとしたネットワーク図をつけてくるのだから、ダイナミックルーティングが回っていないとダメだと言うのは、都の思い込みでしかなく、実はスタティックでも上手く回す方法あるんじゃないのかと不安になり、都はノートにネットワーク図を簡単に写して、しばらくああだこうだと、あれこれ書き込みながら考えてみた。しかし、どうやっても詰んでしまう。スタティックルートに、どこか適切な場所への到達性をトラッキングをしたとしても、どこかが断になった時を救おうとすると、別のところが断になった時に救えない。最悪、正常時のルーティングがおかしくなる。だいたい、このLAN内のお客コアスイッチやファイヤーウォールが、トラッキング設定が出来るのかどうかもわからない。
 この両拠点で相互バックアップをしたいのであれば、両拠点のLAN、インターネットVPN含めて、ダイナミックルーティングを回す必要がある、さらにそうした場合、回り込みやループなどが起こりやすくなるので、それも別途検討する必要があるが、これ以上は簡易設定変更の範疇を超えているので、一度、前回の設定変更をする前の、当初の状態に戻し、設計については仕切り直すことを推奨する。そう営業に返答するよう、都は神山に提案するメールを書いた。
 都はようやくひと段落ついたと時計を見ると、すでに15時半になっていた。ふうと大きく息を吐きながら背もたれに背中を預け、ずるずると腰が浅い姿勢になってしまう。そう言えば今日コーヒー全然飲んでない。そう思うと、都は急に、すごくコーヒーが飲みたくなってきた。とりあえずトイレを済まして、それから外へコーヒーを買いに行こう、と都は姿勢を戻して、脱いでしまっていたパンプスを履いて席を立った。
 都がトイレから戻り、携帯と財布を拾おうと自席へ向かうと、都の席に岸谷が座っていた。岸谷は、秋田と、秋田の隣の席の派遣社員と三人で談笑している。ちょうど岸谷は都の方に背もたれを向けていたので、都は背もたれのそばまでそっと近づいて行った。秋田と、その隣の席の派遣社員は都が近づいているのに気がついていたが、そのことについては黙っていた。都は岸谷が座っている都の椅子の背もたれに手をかけて、ゆっくりと揺すった。岸谷は揺すられているの気がついたようだが、構わず揺れながら喋っている。都が揺すっている以上に、どんどん大きく揺れ始める。
 「お前、間宮さんだってわかってて無視してるだろ。」
 秋田が笑いながら言った。
 「えー。あー、間宮さーん。」
 岸谷はわざとらしく不満そうな声を出してから、ふざけた調子で首を後ろにひねって、さらに全く驚きを感じさせない、初めて気がついた風に言った。
 「なにそれ!」
 都はそう言って笑ってしまったが、都より背の高い岸谷を見下ろす位置になっているのは珍しくて、岸谷の長い髪の毛は染めている割にあまり傷んでないことに気がついたりした。長い睫毛が彩る大きな瞳は、自分のことを見てくれているとわかると、つい見入ってしまいたくなる。
 岸谷は、都が全くコーヒーを飲んでいないだろうから、そろそろ飲みたくなるはず、一緒に外へ買いに行こうと誘いにきたのだと言う。都はよくわかったね、と笑ってしまったが、内心、とても嬉しかった。秋田が、付き人合格だな、とからかっても、岸谷は、やったー、と自慢げだ。都は、岸谷と秋田がお昼を取っていないだろうと聞くと、岸谷は待機中の合間合間でお菓子をつまんでいたからお腹空いていない、と言った。そう言えば、なんか隣でぱくぱくしてたな、と都は今更にのように思い出して可笑しかった。秋田は、作業時間枠がお昼の工事をやっていると、よくこれくらいの時間にお昼に行くことがあったが、これから電話会議だと言うので、今日はそれが終わってからだと言う。岸谷がほぼ夕飯コースですね、と当然のことのように言っていたが、この職場では誰でもあることとは言え、さすがに16時以降のお昼は、もうお昼ではない。
 都と岸谷は揃って外へ出た。都が働くこの古いビルの隣は、ここ数年間ずっと工事中だ。かなり上の方まで鉄骨が組み上がっているが、まだまだ完成は先に思える高層ビルが建築中で、工事の音がやかましかった。都たちのオフィスの入り口から、表通りへ出る細い道は、古いビルと工事中のビルとの狭い間を通る。その上部には、工事関係者の詰所となっている5階建の、仮説のプレハブの3階部分から上がはみ出していて、屋根のようにかかっている。いつ出来るんだろうね、と都が聞くと、岸谷は来年には完成するらしいですよ、と教えてくれた。この建設中のビルが完成した暁には、都が派遣社員として勤めている会社の本社機能が入るらしいのだが、都たちのオフィスは、残念ながらこのまま、古い元交換機ノードをリノベーションしたビルのままだそうで、社員の多くは残念がっていた。
 都はビルの高層階があまり得意ではないので、今のまま古いビルの1階のオフィスでもいいや、と思っていた。最も、この新しいビルが完成するまで、都がこの職場にいるのか、居続けることが出来るのかはわからない。もう海外オフショアセンターに構築業務が完全移行してから2年以上経つ。ネットワーク全体として複雑で込み入った設計が必要な案件や、お客の要望の多い案件は、未だ東京のSEがつく案件として残っていて、都はこの手の案件のSEをやっているが、こういう案件のSE業務だって、本来は海外オフショアセンターへ移行させる予定だったのだ。東京にSEは置かない、それが目標だったのだから。普通の案件でもSE業務が上手く回らず、都がやっているような案件の、海外オフショアセンターへの業務移行は止まっている状況だが、偉い人が決断さえすれば、一気に動き出すだろう。そうすれば、都のような、こういった案件のSEだけやっている派遣社員はお役御免のはずだ。
 人の行き違いをかわすために、岸谷が先頭を歩いて、都が後ろを歩いた。岸谷の背中は、とても若々しくて、元気があるだけではなく、とても頼りがいを感じる背中だ。緩いウェーブのかかった明る過ぎない茶髪が綺麗に揺れている。都はつい、背中が曲がってきて、俯き加減になりそうになる。それを意識的に抑えて、せめて背筋はまっすぐ、前を向いて歩こうと思い直さなければいけなかった。人の行き違うをかわしてしまうと、岸谷はすぐ後ろを確認して、都の隣に並べるよう歩調を緩め、都と並んで歩きたがった。
都たちのオフィスから少し離れた場所にある、先日の岸谷とのデートの際、海上のパーキングエリアでも立ち寄った、世界的に有名なカフェチェーン店へコーヒーを買いに行こうとなった。
 「今日ちょっと涼しくて気持ち良くないですか?」
 横断歩道で信号待ちをしている間、岸谷が言った。確かに、今日は気温がちょうど良く、少し風が吹くと本当に心地良かったが、その心地良さは、夏の終わりを確実に告げていた。
 「そうだねー。でも、夏終わっちゃうなー、って思っちゃう。」
 都は信号の向こうに見えるビルを焦点を合わさずに見つめながら、言った。
 「また間宮さんと海行きたいです!」
 岸谷は都の寂しさをまるで分かっていて、元気づけるように言った。
 「そうだね、でももう、海はまた来年かな。」
 別にこれくらいの気温なら、まだ素肌にシャツとショートパンツだけ着けて、裸足で砂浜を歩けるだろうが、都の口からはそう出てきた。
 「えー。そんなこと言わずに、もっといっぱい一緒におでかけましょーよー。海じゃなくたっていいじゃないですかー。」
 岸谷は両手で重ねて持っているスマートフォンと財布を横方向にスイングさせながら、文句を言った。都は嬉しかったのか可笑しかったのかわからなかったが、笑ってしまって、今度避暑地として有名な土地にちょっとした用事があるから、一緒に行こう、と何故か自然に岸谷を誘ってしまった。岸谷は両手を上にあげて、やったー、と喜んだ。その喜び方が素直すぎて、都はそんなに嬉しいんだ、と何か胸が一杯になるような気がした。