13-01

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カフェでコーヒーを買ってすぐにオフィスに戻っても良かったのだが、ちょうど席が空いていたので、少し休んで行こうとなった。オフィスビルの一階にある店舗で、それほど広くもないこともあり、常に混んでいるのだが、運が良かった。他愛もない話に花を咲かせて、30分も居座ってしまった。昼休みを取っていないから、それくらい休んだところで、この現場では問題にはならないが、さすがに話に夢中になり過ぎたと二人で笑った。コーヒーも飲みきってしまっていた。
19時半を過ぎても、今日片付けようと思っていた仕事が終わらず、もう上の自販機のドリップコーヒーを買ってこようと思ったところで、下山と岸谷が二人で都の席までやってきた。
「間宮さん、こんな時間に本当に申し訳ないんですが、今ちょっと私目にお時間をいただいてもよろしいですか?」
下山はいつものように、大仰な調子で言うので、都は笑ってしまいながら、了を返した。岸谷は少し不安そうな、真面目な顔をしていた。珍しいな、と都は思った。既に秋田も、秋田の隣の席も退社していたので、下山と岸谷は、その二人の椅子を都の方に向けて座った。都も椅子を回転させて、三人で膝を突き合わせて話すような形になった。
「あのですね、CJ案件なんですけど、ちょっとお客さんからですね、ヒアリングシートの説明に一度SEと一緒に来てくれ、と言われてまして。」
都は、結構丁寧に作ったつもりですけど、分かりづらかったですかね、と言うと、下山と岸谷二人に、そんなことはない、とまるでコントのように同時に否定された。都は別にがっかりしたわけでも、落ち込んだわけでもなく、どんなに丁寧に作ったり、注釈を多くしたところで、都たちが使っているヒアリングシートのフォーマットは、見慣れていなければかなりわかりづらい。そう常々都は思っていたので、お客によっては、いちいち解読するよりは、一度説明してもらったほうが早い、と思う人が出てきても、一向におかしくはないと思っていた。
「ヒアリングシートの説明だけなら、私と岸谷だけでも、行けるんですが、営業からですね、マイグレ移行期間の設計についても話したい、とお客さん言っているらしくてですね。」
下山の言葉の切れ目切れ目で、岸谷が頷いている。このプロジェクトのメインPMとしてアサインされているのは岸谷で、下山はサポートという立場だ。新入社員が初めて担当する、一からの新規構築案件が、他ベンダーからの移行プロジェクトであるということと、全く新規のお客の新設プロジェクトということで、下山が岸谷とのメインPM双頭体制のような形で関わっている。岸谷は、黙ってついているだけ、という状態になってもおかしくはないだろうが、積極的に自分がやるんだ、という姿勢が見て取れた。そう言えば今日の定時過ぎの時間帯に、どこかで下山と岸谷が電話会議をしている声が聞こえてきていた。あれはこの件だったのかもしれない。
「あー…。ほんとはそっちの話がしたい、ですかね、もしかして。」
都は聞いた。
「まあ、そうですねー。」
下山は、致し方ない、という感じでそう返してきた。岸谷は隣で大きく頷いている。営業とはそういう話もした、ということだろう。
こういう、都たちキャリアにとっては新規のネットワークだが、お客にとっては、WANネットワーク更改によるマイグレーションであるプロジェクトの場合、都たちの部署はあくまでMPLSサービスの構築部隊なので、ヒアリングに基づき、新規のネットワークとして構築するだけになる。移行設計については、既存のWANネットワークや、既存機器、お客機器の設計変更、設定変更も伴うので、お客責任範囲の事項になり、お客自身で検討・実施してもらう必要がある。都たち移行後のキャリアへは、移行後に必要なパラメーターだけくれれば良い。お客のマイグレーションの都合で、何段階かに分けて、設定を変更する必要があるのであれば、最初のステップで必要なパラメータを初期構築時にもらって、あとは都度設定変更をオーダーしてもらえれば良い。
しかし、お客内部のネットワークエンジニアがスキル不足、知識不足だったりする場合、既存のベンダーにとっては、自分たちの儲けが減るようなマイグレーションなのだから、いくら既存ベンダーの責任区分範囲に設計変更や設定変更が発生して、その分の工賃はもらえたとしても、移行後の全体設計については、既存ベンダーも協力はしてくれない。こうなってしまうと、マイグレーション先である都たちのキャリアに、移行設計の相談がやってくる。本来であれば、お客からマイグレーションマネージメントも受注し、別部署で統括プロジェクトを立て、そこで移行設計については面倒を見る、ということをやらなければならない。そうしなければ何百万も請求可能な高い稼働を、無償で提供しなければいけなくなる。しかし、営業によっては、ここまで競合相手に打ち勝つために、かなりお客に良い顔をしてしまっていて、それとの齟齬が出せない状況だったり、あるいはこの後にさららにビジネスチャンスの広がりが見込まれるという名目だったりで、こういう移行設計を都たちの部署へ投げてくることは少なくない。
こうなることは、ヒアリングシートを作成するにあたって、お客から既存環境の拠点ルーターのコンフィグが出てきたところから、なんとなく想定はしていたので、都はあまり驚かなかった。
「それでですね、大変申し訳ないんですが、間宮さんにもちょっと、ご同行お願いしたいと思ってまして。」
下山は、そんなに気を使わなくても良いのに、というくらい気を遣った言い方をした。都はPMをやらないので、こう行った打ち合わせのためのお客訪問は、本来の業務範囲ではないということで、そうしてくれているのかもしれないが、純粋に技術的な会話、ということで都は客宅に何度も行っていた。社員ではないので、業務都合で何でもやらせてはいけない、ということも下山の念頭にはあるだろう。
「構わないですよ、行きましょう。」
都は出来るだけ、気軽な感じで答えた。下山と岸谷は、声を揃えてありがとうございます、と言った。岸谷はどこか嬉しそうな顔を見せていたので、都は笑顔を返しておいた。
「で、ちょっとどの程度まで聞かれるか正直わからなくてですね、まあ、向こうのベンダーも同席するらしいんで、あんまり向こうのデマケのことについては聞いてこないとは思うんですけど…。」
下山は、当日の議事の成り行きを心配している、というよりは、あまりあれこれ聞かれてしまった時の場合、都が取るべき対応について気を遣ってくれているようだ。
「まあでも、あんまりこっちじゃわからないこと聞かれたら、正直にわかりかねます、と言ってしまいます。ただ、出来るだけ協力してあげたほうが、後々やりやすくもなりますし、お客さんが抱えている問題があるようなら、それも事前に掴んでおけますし。これがわからない、あれがわからない、となれば、そこ把握してないんだ、とか、わかりますしね。」
「間宮さん、めっちゃ前向きー。」
岸谷がそう真面目に感心するので、都は笑ってしまった。都は、自分たちのデマケーションよりも、ちょっとだけお客さんの方へ寄った方が、見えてくるものも多いんだよ、ということを岸谷に話そうと思った。しかし、これと逆の考え方の人もいて、それは、きちんと自分たちのデマケーションを守り、お客にも自分たちのデマケーションには責任を持ってもらうよう教育する、という意味でも、自分たちのデマケーションを超える質問にはNGを返す、という姿勢でのぞむ、というものだ。厳密に言えば、そちらの考え方の方が正しい。もしかすると、岸谷はそういう風に仕事のやり方というものを教わっているかもしれないので、二律相反するようなことを都が言わない方が良いだろう。それに都は派遣社員だ。技術的な不明点や、純粋な作業関連の問題になら、積極的に答えてやった方が良いだろうが、社会人として、この会社の社員として取るべき仕事の姿勢について、新入社員の教育に口を出すべきではない。
久しぶりに兄の方から連絡があった。三連休が二週続くので、どちらかで日を合わせて、実家へみんなで帰ろう、というものだった。都は兄に会えるという喜びよりも、兄嫁と顔を合わせなければいけない、という方に気を取られた。携帯メールを読んだ時、すでに帰宅していたこともあったから、思わず、えー、と声を出してしまった。しかし、姪がとても都に会いたがっている、と書かれているのを読んで、ささくれだった心が少し和らいだ。都に懐いてくれる、あの小さな可愛らしい笑顔を思い出すと、会いたいな、と都は自然に思った。ゴールデンウィークに会って以来だから、一夏越えてしまった。海には連れて行ってもらえただろうか。都が連れて行ってあげれば良かったのかな、と少し思ったが、すでに都だけの兄ではなくなってしまった兄に遠慮もあったし、何よりも兄嫁への遠慮というよりは忌避が強くて、とてもそんなことを兄夫婦に提案する気にもなれなかった。兄が結婚してから10年以上経つのに、都は未だ自分の心を整理できていない。
母は孫をとても可愛がっているし、子供二人が揃って帰ってくるのは喜んでくれるだろう。しかし兄嫁に対する微妙な感情というのは母親も、都ほどにではないにしろ、持っているので、そう考えると、兄嫁が不憫だと思ったし、それでも笑顔を絶やさず、明るく都の実家で振舞ってくれる兄嫁は、本当に良い子なんだ、兄を選んでくれて良かった、とすら思いさえするのだが、逆にその良い子であることが、都の燻る思いを余計に捻らせたし、どこか粗を探してやろうと、酷く歪んだ思いすらも抱いてしまう。他人が自分を凌駕すると思えるような、眩しいほどの、その人の良さに接した時、そのことで自分の全てが否定されると曲解して、自分にはその人以上に素晴らしいものがあるのだと、力任せに証明しようとするかのように、その人を、その人の価値を消し去るくらいの勢いで、馬乗りになって物理的にも心理的にも見下して貶めようとする。世の中のいびりやらいじめやらは、半数以上そんな感情の決壊から起こるんじゃないだろうかと、都は思っていた。
天気予報を鑑みて、兄一家と一緒に実家に帰るのは月曜の祝日にしようとなった。
月曜は朝は涼しかったものの、日中はまた夏日になるという予報の通り、兄が都の賃貸マンションまで車で迎えにくる時間には、もうかなり暑くなっていた。実家には車の駐車場は一台分しかないので、二人一緒に帰る時は、兄が車で都を拾ってから実家に帰ることになっていた。実家のある土地は小さな住宅街で、家々の間を私道が囲んでいるような所だから、多くの家では都たちのように離れて暮らす子供や、親戚などが訪ねてくると、駐車場に入りきらない車を、道脇に停めたりしているのだが、これを時折、都の実家の駐車場の出口近くにやられて、車が出せない、出しにくくなったりすることがある。同じようなことをするのはやめようと、兄と話して、実家から距離の遠い、兄の車で一緒に帰ることになっていた。
服装は少し悩んだ。夏物か秋物かで悩んだのではなく、普通の、それこそビジネスカジュアルのような格好で行こうか、それともいつもの自分が着たい、自分の好きな服装で行こうか。これはいつも兄嫁と会わないといけない時にぶつかる問題だった。ある程度きちんとした身なりをして、余所余所しく振る舞い、没個性な、法律上の義姉を演じるだけで、何も考えたくない、嫌な方にも、良い方にも。そうではなく、家族に会うのだから、自分がその時着たいと思った服を着ていけば良いんだ、兄嫁にどういう印象を与えようが知ったことではない。そんな投げやりな気持ちと、理解しがたいと思うのであれば、理解なんかしてもらわなくて結構だ、こっちだってあんたのことなんか知るもんか、という子供じみた喧嘩腰の混在。
結局ミリタリー調の長袖シャツ、ダメージジーンズのショートパンツにビーチサンダルと言う、少し秋を意識はしているけれどまだ夏にしがみついているような、都らしい中途半端な服装になった。三十半ばを回った、同じ歳くらいの女が、こんな格好をしているのを見て、一体兄嫁はどう思っているのだろうか。そう考えるとひねた薄い笑いを浮かべてしまう。
兄が都を拾いにくる時間が近づいたので、都は部屋を出て、事前に待ち合わせ場所に決めてあった、近くの公園の周囲を囲む、歩道の一角へ移動した。昨年まで、都の賃貸マンションの前の道路には、人の送り迎えや荷物を上げ下ろしできる、ゼブラゾーンがあったのだが、その道と交わる道が整備された際に、この道路のラインも引き直され、そのゼブラゾーンはなくなってしまった。歩道の外は側道ギリギリになり、その車道は片側一車線なこともあって、車を一時的に止めるのは危険になった。
祝日の朝は、まだ公園にも人があまり出ておらず、あまり騒がしくなかったが、草野球くらいはできる運動場からは、サッカーボールを蹴る音が響いてくる。公園の周りを取り巻く歩道と、公園とを仕切る背の低い柵に腰を乗せて、道路側をぼんやり眺めながら兄を待った。しかし、狭い車道の向こうはビルが並んでいるだけで、何も面白くない。しばらくそうしていたが飽きてしまって、都は少し後ろに体をひねって、公園の方を見遣った。ここから見ると、小さな丘の頂上に、大きな抽象的なモニュメントがあるが、それを視界から隠すように、大きな木々の緑の葉が幾重にか重なっている。草木の匂いはまだ強くて、蝉の声も残る。何で今日OKしちゃったのかなと、都は今日、兄家族と一緒に実家に帰ることにしたことを少し後悔しつつも、兄の顔を見られることに、嬉しさを少し感じてもいた。小さな丘の向こうにある、親水広場の、噴水の音や滝の音が少し聞こえてきて、この落ち着かない状況でも、公園の向こうの大通りから聞こえる喧騒で消えそうな水の音は心地良く感じた。
都が公園の方に体をひねっていると、都がいる位置の歩道脇に、車のゆっくり近づいてくる音がして、ついには都の体の正面の位置で停まった。都は体の向きを戻すと、見覚えのある、青色のSUVが停まっていた。すぐに車窓の向こうの顔を確認するのが怖くて、都はまずナンバーから確認した。兄の車だった。都はぱっと運転席を覗くと、兄が笑顔で軽く手を振っていた。都がよく知っている、都が大好きな、柔らかい表情の顔だった。都は跳ねるように柵から腰を下ろして、兄に手を振ろうとしたが、すぐに助手席の女の顔が目に入った。都に似ていると言えばそうだとしか言いようがない、童顔で、短めの長さの髪。フロントウィンドウから見える上半身の範囲から、背丈も都くらいの小ささだとわかる。久々に都に会ったことを、本当に嬉しく感じているような、素直な笑顔を浮かべて会釈をしている。都も同じくらいの愛想で笑顔を返したつもりだが、どこか引きつってしまうのが自分でもわかる。側から見てもわかっただろう。兄の側にいることの出来ている女と、兄から離れなければいけなくなった女。兄が取った女、兄に捨てられた女。そういう自分勝手で、僻み妬んだ言葉が、都の心の中で沸騰する湯の気泡のように、膨れては破裂し消えていく。立ち止まってしまいそうになる自分を奮い起さないと、一歩も動き出すことができなかった。
助手席側のリアドアのアウトサイドハンドルに手をかけると、リアドアガラスの向こうに、運転席後ろの後部座席に座る姪と目があった。姪は本当に嬉しそうな、興奮したような笑顔を見せていて、シートベルトに引っ張られながらも、自分で助手席側のリアドアを開けそうな勢いだ。その幼い瞳の曇りのなさは、むしろ自ら光を発しているんじゃないかとすら錯覚する。その姿が、都の燻る歪みを一気に覆って行って、楽しさが素直に都の全身に通い出す。都は急いでリアドアを開けると、姪の名をちょっと高い声で呼びながら、後部座席に駆け上がって乗り込んだ。