19-07

2022-02-06

19-07

 作業手順書の大項目では最後の工程になっている、このお客ビルの6階にあるアクセススイッチの更改作業を実施したところ、そのフロアからどこへも通信できなくなってしまったと言う。コアスッチで意味のわからないエラーメッセージがシスログに上がってきているから、もし知っているようなら教えて欲しいとのことだ。
 都は、ネットワークエンジニアになってから、ルーター、つまりL3ばかりをやってきたので、L2についてはどうしようもないくらい素人だ。時折L3ルーターに積んだスイッチモジュールや、L3スイッチを設計、コンフィグすることはあるので、基本的なことはわかってはいるし、ある程度のトラブルシューティングも出来るが、L2だけで構成されたネットワークというものを、設計も構築もやったことがないので、こういう企業内のLANで起こったトラブルに何か知見があるかというと、無いに等しい。都が派遣社員として働いている、大手通信キャリアのグローバルMPLSのメニューには、VPLSサービスもあるので、それはL2サービスになり、都もPMをやっていた頃に、数件程度やったことはある。しかし、レンタルの客宅ルーターやスイッチがない案件だったこともあり、ほとんど回線デリバリーや、プロバイダエッジ担当へのパラメーターの提出、ポート開放調整だったので、どちらにせよスパ二ングツリーなど意識などすることはほとんどなかった。
 稀に、たまたま配下のL2スイッチが、別部署や現地法人のSI提供で、LAN切り替え工事の際、トラブルシューティングに巻き込まれ、調べたり切り分けたりするので、その程度の知識はあるが、所詮その程度である。
 コアスイッチに出ているログを見るのはいいが、自分はL3しか担当していないので、L2の問題はほとんどわからないですよ、と都は断ってから、それが都の謙遜だと否定を返す、先輩のお客の後について、ラックの表側へ入って行った。岸谷は都の後ろからついてきてくれていて、それが都には心強かった。都が技術的にわからないことを、岸谷がわかるということはほぼないのだが、一人にされるよりは良かった。そんな風に、派遣社員の自分が、一回りも下の新卒社員に頼ってしまうことは、情けないことなのだが、考えないようにした。
 さっきまでいた後輩のお客はいなくなっていて、二つのラックから伸びているスライドテーブルには、どちらにもラップトップが載ったままだ。
 「このログなんですけど…。」
 先ほどまで後輩のお客が見ていたラップトップPCを持ち上げて、都の方にディスプレイを見せると、新コアスイッチのターミナルウィンドウを指差しながら、先輩のお客は言った。なるほど、確かに気が利くなと思った。これだけ自然に気を配ることができると、女子に点数高そうだ。都は素直に思ってしまう。
 シスログに出ているログは、都が見慣れないものだ。知らないです、だけでも良かったのだが、都も何であるか少し気になった。英単語としても読み取りづらい文字列で、何かを略した頭字語のように見えるが、シスログにはそういうものが多いので、ちょっとでも見慣れないと、よく読めば意味がわかるようなものでも、初対面だと面食らってしまって、全く意味がわからない、と思い込んでしまうこともある。
 そのエラーが出ているインターフェイスは、都たちのルーターが接続している、L2スイッチへ繋がるインターフェイスではなく、その6階のアクセススイッチへ繋がっているインターフェースだと言う。冗長されていて、2ポートある。2ポートどちらでもそのログは出ているようだ。平面積は広いビルだし、フロア跨ぎなので、光ケーブルで接続しているはずだ。2芯のどちらかが、コアスイッチ側か、アクセススイッチ側かできちんと接続できていない、あるいは、フェルールをきちんと磨いていない、などは確認したか聞いたが、その辺りは確認していると言う。
 「そのログは知らないですね…。すみません…。」
 都は素直にそう言ってしまってから、このラップトップがインターネットへ抜けられるか聞くと、抜けられると言う。都が普段、見慣れないログなどに出会ったら、とりあえず検索エンジンで検索してみているように、先輩のお客に、そのログの頭の部分をコピーして、検索エンジンへ貼り付けて検索してみてはどうかと提案してみた。先輩のお客は、そうですね、と言って、ログを検索し始めた。ずらっと並ぶ検索結果の内、いくつかの内容説明に、ループと言う文字が出ていた。都は今回と似たようなトラブルが、自分が担当した工事でもあったのを思い出したが、その時見たログがこれだったか記憶は曖昧だ。
 「…あの、もしかして新しくしたアクセススイッチの配下でどこかループになっちゃうような接続ってないですか?」
 「あー…。」
 先輩のお客は何か思い当たる節があったのか、それともこういう時は確かにループだなというのは経験で知っていて、都に言われて思い出したのか、何れにせよ何かひっかかったようだ。
 「…あ、もしもし、あのさ、お前今コンソールケーブル持ってる?」
 先輩のお客は内ポケットから携帯電話を出し、履歴のリダイヤルでオフフックすると、出た相手にすぐ要件を言っている。おそらく先ほどまでここにいた後輩のお客だろう。
 「あ?持ってねえの?…じゃあ今から俺コンソール持ってそっち行くわ。」
 後輩のお客は作業用のラップトップは持っていったようだが、コンソールケーブルは持って行かなかったらしい。おそらく、無線経由で社内LANを通して管理用IPにはログイン出来るから不要、という想定だったのだろう。そのスイッチでループが起きていれば、管理用IPへの到達性はなくなっているか、繋がったり切れたりしているか、どちらかのはずだ。
 先輩のお客は電話越しで、数週間前にやった、何かの拡張工事の際、フロアの何処かでハブを1台直列に増設したが、そこからアクセススイッチへのケーブリングどうした、とか聞いている。この会社内でしか使われない用語が多く、どんな拡張だったのか良くわからないが、急にハブを拡張しないといけない工事があったらしく、そこからアクセススイッチへのケーブリングに、アクセススイッチを更改するとループするような接続があるようだ。
 「すみません、ありがとうございました。多分、すぐ治るんで。」
 先輩のお客は電話を切ると、そう都に言い、ラックの下の方から、コンソールケーブルと、そのDB9をUSBへ変換するアダプターとを拾い上げて、さらに奥のラックのスライドテーブルに載せていたラップトップの蓋を閉じ、その上にケーブル類を載せてラップトップごと持ち上げると、都たちのいる側とは反対方向に、ラックとラックの間から抜けて小走りに出て行った。都と岸谷が、荷捌きスペースへ移動すると、ちょうど先輩のお客はサーバールームの出入り口を、認証カードで開けていた。認証が通ったチャイム音がする。
 あまり知らないことを突っ込まれなくて良かった。そう都は安堵すると同時に、これで解決しなかったら、また何か聞かれるんだろうか、そうしたら今度こそ本当に何も思いつかないだろう、と不安になる。所詮、ネットワークエンジニアになってから、たった6年だ。経験も浅ければ知識量も圧倒的に足りない。今の職場でやっていけるだけの力を築き上げているのだとすれば、基盤は脆弱で、あちらこちら補強材でなんとか持たせているようなものだ。パソコンそのものの使い方だって、実は良くわかっていない。
 さっきのログだって、ループかも、と言ったけれど、ループじゃない場合もある、と言う説明文が検索結果にあったもの気が付いていた。でも、都にはL2のトラブルといえば、ループ程度しか頭に浮かばない。それ以外のややこしいトラブルになっていたら、どうしようか。さすがにもうお客も営業も、都たちを解放してくれるだろうか。客宅から最寄駅の路線の最終電車を調べて、それまでには解放してもらうよう、岸谷から営業に言ってもらうしかない。もう都たちで何かできることはないはずだ。
 しかし、こういう都たちの責任区分範囲ではない箇所でトラブルになって、切り分けた結果、完全に都たちの責任区分範囲に問題がないことがわかっていても、待機を依頼されることは少なくなく、営業から都たちのマネージャーにエスカレーションがかかってきて、下手をするとマネージャーまで待機になって、そんなに稼働をかけているのに、提供している回線は安価な低速のインターネット、拠点は2つしかないとかだったりすることもある。営業にしてみれば、どんな時でも万全の体制をとっていることを印象付け、次の商機へと繋げたいという意図もあるのだろうけれど。
 岸谷に聞くと、営業からは特に連絡はないという。最後に電話があったのは、LANを都たちのルーターに接続し、トラブルになった時だという。都たちがすでに東京に帰れなくなっていることは気にしていないのか、あるいは知ってはいるが、待機を続けて欲しいから連絡をしてこないのか。
 しかし、20分程度経つと、営業から岸谷に電話がかかってきた。今日の工事は全部無事完了したという。若い二人のお客が戻ってきていないし、背の高いお客も何も言ってこないので、どういうこと?と最初は何かの間違いかと都は思った。若いお客の二人は、6階でそのまま最後のテストも実施したということのようだ。多分労ってもらっているのだろう、岸谷は電話の向こうに、何度も謙遜や否定を返していた。
 「…はい。…あ…はい。…はい。あー…。少々お待ちいただけますか。」
 謙遜や否定を返していた時とは、明らかに声のトーンが落ちていて、岸谷にしては珍しいはっきりしない調子で電話の向こうに返したあと、携帯電話の音声入力をミュートにした。
 「間宮さん、営業さんがー、明日午前中もー、ここへきて待機してくれないかー、って言ってるんですけどー…。」
 都は、ええっ、と大きい声を出しそうになったが、なんとか抑えた。背の高いお客が、無事全行程が終了したことを、パイロット拠点に入っている営業に電話で報告した際、そう依頼してきたらしい。PMの岸谷に直接言ってこなかったのは、正しい順序を、これがイレギュラーな依頼だということをわかってのことだろう。通常、追加料金が発生する稼働だ。営業が言うには、今日来ているSEに、つまり都のことだが、色々サポートいただいた、大変助かった、明日からこの新しいネットワークで実業務を開始するので、万が一のトラブルに備え、万全の体制で臨みたい。待機してもらうだけになるかもしれないが、お昼までで良いので、どうにかならないか、と言っていると言う。
 こういう週末工事の後は翌営業日待機、というの基本ではあるのだが、それはオフィスで別の業務をしながら待機し、何かあればリモートで対応する、というものだ。しかし運悪く、この工事では既に東京に帰れず宿泊になっているから、明日はオフィスからリモートで、となると逆に移動が大変になるし、朝も早く起きないといけない。もう明日は10時半くらいにオフィスへ戻るようにゆっくり出よう、と都は岸谷に提案するつもりだった。工事が無事終わらなくて、トラブルが続いていれば、そんなことは言っていられないが、工事は無事終わっている。正直一回ゆっくり休ませて欲しい。そうなると、移動距離的には客宅へ出向く方が良いということになってしまう。
 「うーん…。」
 都は、そんなことを岸谷に説明した後、唸ってしまった。
 「どっちにしろ、営業から高松課長へエスカレーションしてもらうのが筋だと思うから、高松課長にエスカレーションしてもらえますか、って営業に言う、でいいかも。」
 都たちに瑕疵があるトラブルもないのに、2日連続で客宅へ作業員業務として入るのは、通常の業務範囲を超えているので、やはり課長に判断してもらう必要がある。
 「最初に高松課長に言った方が良いですかー?」
 「いや、二度手間三度手間になるから、営業に言って貰うで良いよ。多分、すぐ高松課長から、岸谷さんに電話かかってくるよ。」
 岸谷の質問にそう返すと、岸谷は了を返して、携帯電話のミュートをオフにして、営業に高松課長へエスカレーションするよう、丁寧に依頼していた。
 結局、そのエスカレーションは通り、高松課長から岸谷に連絡もあって、明日も客宅へ出向くことになった。他の業務も都と岸谷にはあるので、絶対にお昼までの待機とし、それ以上はさせないこと、と高松課長が営業に釘を刺しておいてくれたようだ。昼まで厳守は、営業からもお客へ伝えるとのことだった。その交渉が終わってから、ようやく都たちも帰って良いことになった。もう23時になっていた。
 作業用PCを片付け終わって、ベンダーのエンジニアたちと一緒に客宅から出してもらうため、荷捌きスペースで待っていると、若いお客二人がサーバールームへ戻ってきた。先輩のお客は会釈をしながら都の方へ近づいてきた。
 「すみません、今日は遅くまで。色々とありがとうございました。助かりました。」
 後ろで後輩のお客も頭を軽く下げていた。都は否定と謙遜を返しておいた。
 「じゃあ、すみませんが、明日もよろしくお願いします!」
 ちょっと冗談がかった言い方で、先輩の客はきちんと頭を下げるので、都と岸谷は笑ってしまいながらも、こちらこそよろしくお願いしますと、同じように二人できちんと頭を下げて返さざるを得なかった。つまり、都たちを明日もここで待機させることは、電話かチャットかで、背の高いお客と相談済みだったと言うことだ。
 すっかり暗くなっているから、見知らぬ土地がさらに見知らぬ土地になっていて、都はもし一人だったら無事に駅まで辿り着けたか怪しかった。車通りもある程度減っているので、あたりは静かになっている道を、また先日の設計打ち合わせの時同様、ベンダーの連中が前を歩き、少し離れて都と岸谷が歩くと言う、呉越同舟という四文字熟語を思い浮かべずにはいられない状況で、駅まで歩かなければいけない。夜になると、スーツのジャケットだけではちょっと涼しかった。もう11月なのだから当たり前といえばそうだ。しかし薄手のトレンチでもコートを羽織ると日中はまだそこそこあったかいので、10分も歩いていると暑くなってしまうだろう。
 前を見るのは岸谷に任せて、都は私用のスマートフォンから、私用のウェブメールで、自身の直属の上長である末谷に、本日の業務終了と、帰れなくなったので現地で宿泊すること、明日も客宅へ出向くことなどをメールした。カバンは片手で持ち続けるの重たいので、メールを打っている間はショルダーを引っ張り出して、肩から斜めに掛けていたが、肩が痛くなってしまう。高松課長が末谷には連絡しておいてくれるそうだが、勤怠の証跡とするため、メールは送っておく必要がある。末谷からはすぐに返信が来て、今日の工事と、泊まりになってしまったことへの労いと、明日もよろしくと、一文一文感嘆符付であった。都は思わず笑ってしまった。
 駅へ着くと、都はベンダーの連中に声をかけ、化粧室へ立ち寄るので失礼する旨伝えると、本日はお疲れさまでした、とわざわざこちらを向き直って、挨拶をしてくれた。都と岸谷も二人で並んで、バッグをきちんと前で下げ、二人で同時に頭を下げて、挨拶をして別れた。きっと、コアスイッチを切り替えた時のトラブルの時は、都たちに対して、お手並み拝見、といった感じだったろうに。都は天邪鬼に思ってしまう。
 客宅に入ってから、そういえば水分も取っていなければトイレにも立っていなかった。もっともサーバールームからは一人では出られないから、トイレに行くにはお客に断らないといけないので、それなりにハードルは高かった。駅のトイレは空いていて、二人で洗面台を占領して化粧直しをしていても問題なかった。都は化粧下地だけなので、都の方が簡単なはずなのだが、岸谷はテキパキとさっさと直して、すっかりばっちりとなっている。都は、岸谷が脇から胸へ下りているウェーブを手で直している様子を見てしまう。予定より3時間遅くなったとはいえ、6時間の工事対応だから、定時の勤務時間より短かい。それほど疲れてもいないからだろうけれど、すっかりシャキッとしていて、これからどこか遊びにでも行くようにすら見えて、また明日客宅へホテルから直行で行かなきゃいけないのに、そんなことも忘れてしまいそうだ。都はちょっと可笑しかった。
 そういう都も、ベンダーとの呉越同舟から逃れて、気が緩んだのか、岸谷がビジネスホテルを略してビジホ、ビジホ、というので、その言い方やらしい、とくだらない突っ込みをして、そういう間宮さんがいやらしいです、と岸谷が返してきたりとやって、二人で声をあげて笑ってしまう。きっとトイレの外では、馬鹿な酔っ払い女が二人騒いでる、と思われてしまったかもしれない。
 もうご飯を食べるには遅すぎるから、ホテルの近隣の駅を降りたらすぐにあったコンビニエンスストアで、本当に軽く済む食べ物とお茶程度を買うことした。都はちょっと甘いものが食べたくなっていたから、少し大きめのゼリーを買うことにした。岸谷はそこそこ食べ出のあるサラダを買っていた。少量でもきちんと栄養とろう、ということだろう。そういうとこなのかな、可愛さの違いは、と都はふと思った。岸谷がお風呂上がったら少し飲みましょうよ、というので、軽めのサワーをそれぞれ一本ずつ買った。
 電車で移動中、二人で泊まるホテルのウェブサイトを見ていて、このホテルの大浴場は深夜2時まで利用できることを知った。都が使った、北陸の同一チェーンのホテルにあった大浴場はそういえば気持ち良かったっけ、と都は思い出した。コンビニエンスストアを出て、時間を確認すると23時50分を回ったところ。さっさと食べるもの食べて、さっさと落ち着いて、ばーってお風呂行くよ、と都がおかしな気合を入れると岸谷は大笑いしていた。ホテルはほぼ駅前と言っていい立地で、これなら都は一人でも迷わなさそうだった。
 ホテルのロビーはがらんとしていて、カウンターにはもう誰もいないし、照明もいくつか落とされていた。都たちがカウンターへ近づくと、フロントの男性が奥から出て来てくれた。岸谷が、例のしっかりしたビジネス喋りで予約を確認してもらっている。領収書を二人別々に切ってもらうことも依頼していた。後で別々に旅費精算をする必要があるためだ。領収書はチェックアウトの時に渡すので、カードキーは返却ボックスではなく、フロントへ返してくれと言われている。このチェーンのホテルは前精算で帰りが楽だ。カードキーはフロントの手前にある返却ボックスへ入れてしまえば良く、特に何の手続きもなくチェックアウト出来る。しかし、領収書を切ってもらうにはそうは行かないらしい。都が北陸のホテルを利用した時は、支払った時に切ってもらえた記憶があるから、運用方法が変わったのかもしれない。都も岸谷の次に署名と支払いを済ますと、フロントの男性はバイキング形式の朝食の会場と時間などを教えてから、ごゆっくりお過ごしください、とカードキーを恭しく渡してくれた。
 このホテルのエレベーターは、乗った客が持っているカードーキーで照合出来る階でしか降ろしてくれない。都と岸谷は、同じ階に予約を入れてもらえた。日曜の夜だから、空きに余裕があった、ということだろうか。ホテルのエレベーターというのはどこか独特な雰囲気がある。それは、このエレベーターを色々な人が、あまりにも色々な人が使っているからなのだろうか。そんな感受性が自分にあるとは、都には思えなかったが、落ち着く空気と、落ち着かない空気とが、奇妙に混ざり合った、違和感がすごくする。
 エレベーターを降りると、既に間接照明だけになっていて、静かで心地よい空気だ。二人の部屋は向かい合わせの部屋だった。軽くそれぞれ買ったものを食べて、落ち着いたら大浴場へ行こうとなった。12時30分までには行こう、行けそうになったら、チャットで知らせようとなって、一旦お疲れ様でした、と二人で大仰にお辞儀をしあって、大声を出さないように気をつけて笑ってから、それぞれの部屋へ入った。
 ドアを開けて、カードキーホルダーにカードキーを挿し込んで、電気をつけると、都はとりあえず靴を脱いで裸足になってから部屋へ入った。土足用の絨毯はそんなに足触りは良くない。シングルの部屋は狭いが、鏡のある机は鏡台みたいで使い勝手が良さそうだ。ユニットバスの電気をつけて、中を覗くと、意外にユニットバスの空間が広く、そんなことはないのだけれど、部屋より広いんじゃないかとちょっと笑ってしまう。
 服を全部脱いでとりあえず裸になって、まずは色々なものからちょっとだけ解放された気分を味わうと、声を出してため息をついた。手を洗ってから、ベットの上に腰掛ける。ベッドの端には脱いだ服がぐちゃぐちゃに重なっている。机の鏡に、ベッドに座る裸の自分が映っているのを見る。首を傾げたり、両手で頬を包んでみたりしてみる。やっぱりあたし可愛いんじゃないか、と部屋の間接照明のお陰で、いい感じに映っているだけかもということは考えないようにして、そう自惚れてしまうと、にやにやしてしまう。いい笑顔だ、とこれもまた鏡を見て思ってしまう。初めて来たホテルの狭い部屋の中で、一人で裸でいると、少し変な気持ちがふつふつとしてくる。自分の腋のにおいを嗅いだり、肌の上で自分の手をゆっくりと滑らせたり、自分の上腕に口付けてみたり。しかし、明日も客宅なので、そういうのは抑え込む。その前に岸谷とお風呂へ行く約束しているし。さっさと食べるもの食べて、大きいお風呂へ入ろう。
 とりあえずスーツはきちんとハンガーに吊るしておかないと。そう都は自分を律して立ち上がり、ぐちゃぐちゃに脱ぎ捨てた服を片付け始めた。下着類も畳んで、本当に使うことになるとは、と思いながら、汚れた下着をしまうために持って来ていた、アパレルブランドのビニール製の袋を、バッグの中から、工具類を掻き分けて取り出して、今日着ていたカットソーシャツと一緒に小さくなるように丸めて仕舞い込む。ベットの枕元近くには浴衣が用意されていたが、しばらくは裸のままでいたい。都はテレビをつけてみる。日曜の夜中なので、意外とニュース番組がなく、チャンネルをあれこれ回してみたが、やかましいか、面白くないものしかなく、結局公共放送の静かな番組にした。
 部屋の中はそんなに寒くはなく、裸のままでいても良かったが、一応浴衣を広げて肩に羽織り、買って来たゼリーを食べることにした。疲れたような、そんな疲れなかったような、微妙な感じだ。自分が食べている様子を鏡で見るのは好きではなかったが、今日はなんとなくぼんやりと鏡に向かって食事をしている。阿呆みたいな顔してるなあ、と都は可笑しくもなく、思った。
 都たちが起因のトラブルはなかったから、落ちついた気持ちを維持出来ているのかもしれない。しかし、明日も来いと言われてしまって、また明日予期せぬトラブルが起こらないとも限らない。客宅は8時半業務開始らしいのだが、都たちの業務時間は通常9時半開始なので、それに合わせて9時半に来てもらえれば良い、となっているから、それほど慌てて出て行かなくても良いが、かと言ってゆっくりも出来ない。
 パイロット拠点は中国地方にあるので、そこへ入っていた営業はどうやったって明日の午前中には間に合わないから、何かあれば電話で対応するとのことだった。つまり、お客がサポートを求めてきたら、それが責任区分範囲外であっても、二人で頑張って対応してくれ、ということだろう。明日もまた何かあるんだろうな、と思うと、急に気が重くなってくる。買ったペットボトルのお茶を一口飲んでみるが、相変わらず美味しくなかった。しかし、そういえば喉が渇いていたことを思い出して、まるでそのお茶が美味いかのように、ごくごくと飲んだ。