19-06

19-06
電源ケーブルがスライドテーブルに絡まないよう、電源ケーブルをはねながら、手前のお客はラップトップPCをを持ち上げると、ディスプレイを都に向けて持ってくれた。都は礼を言って、ディスプレイ上の旧コアスイッチ、新コアスイッチにログインしているターミナルウィンドウをそれぞれ見た。どちらもネイバーになろうとする相手から、自分と同じルーターIDを検出したというログが出ている。重複したルーターIDを検出したとログに出ているインターフェイスは、都たちのルーターやベンダーのルーターも繋がっている、L2スイッチに接続しているインターフェイスだと言う。
これが原因で、新コアスイッチのルートが、都たちのルーターへ全く伝播出来きていない。何故なら、OSPFドメインの中で、ルーターIDは一意でなければならない。そうでなければ、どちらが本物で、どちらが偽物なのか区別がつかないから、ルーディングがおかしくなる。回避策としては、ルーターIDを旧コアスイッチか、新コアスイッチかで変えて、都たちのルーター、ベンダーのルーター、新コアスイッチ、旧コアスイッチ、どれもが一意のルーターIDを持つようにしないといけない。もしコアスイッチ配下に、他のOSPFルーターがいるのであれば、それらを含めて全部の中で一意でなければならない。そう都は説明した。
手前のお客だけではなく、奥の先輩のお客も、手前のお客の肩口から顔を出して、都の話を聞いていた。背の高いお客は、都に対しての不信感のような、あるいはどこか、その風変わりな道を歩いてきたことで都が纏うようになった、普通ではない、という雰囲気を感じ取って、忌避するような態度がある。いや、そうではなく、若く、見た目も可愛らしければ、明るく愛想も良い、新卒社員の岸谷に対しての態度との違いに、都が卑屈になっているだけなのかもしれない。どちらにせよ、この若い二人にはそういうものはあまり感じなかった。もし飲みの席であれば、この二人が狙っているのは岸谷の方で間違いないが、それでも都にもきちんと気を使ってくれる。そんな感じだ。
背の高い客は、非対称ルーティングになっているから、ファイアウォール機能を持つベンダーのルーターで、通信を通すことが出来ない。そう言っていた。しかし、ベンダーのVPNルーターでも、OSPFルートがもらえていないはずだから、非対称にベンダーのVPNルーターへ到着したパケットは、そもそもルートがないとなって、不達になっているだけな気もした。もっとも非対称だから、不達すら返せないかもしれない。そのあたりはファイアウォール機能の実装によるだろうから、何とも言えない。片方向のみだというログは、デバッグか何かから取れていると言っていた。本当に背の高いお客の言っていたことは正しいのだろうか。
どちらにせよ、それはベンダーの責任区分範囲だから、いちいち都が気にする必要も、見る必要もない。都は時々、こういうちょっとした気づきに引っかかって、考えが止まってしまう。それで何か大事な見落としを発見することもあるが、逆に考えが混乱し、一人で袋小路に入ってしまうこともある。今も一瞬、ルーターID重複以外のに何か問題があるんじゃないかと、歩みを止めそうになってしまっていた。他に問題があろうがなかろうが、まずは先に見つけた問題を検証する必要がある。
手前のお客は、奥の先輩のお客に、ルーターIDってどうやって変えるんでしたっけ、と聞いたが、奥の先輩のお客は即答で、知らん、と言っている。難しいコマンドではないので、手探りでやっても見つかるようなコマンドだが、ルーターIDを普段から決めて設計する癖がないと、見慣れないコマンドかもしれない。
若いお客二人は、しばらくコマンドをあれこれ試して、ルーターIDを指定するコマンドを見つけたが、何をアサインするのか迷っていた。
「すみません、これって、何を指定したら良いですかね?」
奥の先輩のお客が都に聞いてきた。どちらかといえば、コマンドは一般的な質問になるので、それを答えることはそれほど問題でもないのだが、お客のLAN内の、OSPFノードのルーターIDに何をアサインするかなんて、完全に設計の話なので、聞かれるのこっちなのかと、都は少しずっこけそうになった。
「あー…。お客さんの中の設計のお話なので、私から言って良いのかちょっとアレなんですけど…。でも、旧コアスイッチと新コアスイッチのインターフェイスに、アサインしてあるIPアドレスの中で違うのって、管理用IPとアップリンクのVLANのIPしかないですよね?」
都は一応断ってから、お客自ら考えてもらえるよう言ってみた。聞き返されると嫌だったので、出来るだけ大きい声で言った。なんか下手な芝居みたいな調子になってしまったかもしれない。
「あー。じゃあ、管理用IPをルーターIDにすればいい感じですかね?」
先輩のお客がまた聞いてきてしまった。それはあんたが決めなさい、と言ってしまいたかった。
「そう、ですねー。それが良いかと思います。」
都は声を大きくするのを忘れたが、聞こえたようで、先輩のお客は、手前のお客に、管理用IPを新コアスイッチのルーターIDに設定するよう言っている。設定が終わると、エラーメッセージが出てきたので、お客は二人で驚いている。稼働中のOSPFのルーターIDは、コンフィグしただけでは変更することは出来なくて、一回OSPFをリセットするしかないから、リセットもしてください、と都は聞かれる前に言った。お客二人は都の方を振り向かずに、OSPFをリセットするコマンドを口走りながら打ち、最後にリターンキーを叩いていた。
「お、戻った戻った!」
奥の先輩のお客が、もう一つ奥のラックにあるスライドテーブルに乗せた、別のラップトップPCのディスプレイを見やりながら言った。
「まじっすか。」
手前のお客はそう言いながら、少し奥へ行って、先輩のお客とディスプレイを覗いている。どうも、延々と複数の宛先へpingを打ち続けてくれるアプリを動作させていて、ずっと不達を示し続けていたものが、到達を示し続けるようになったようだ。赤い丸が連続して縦に表示されているのが都からもちょっと見えた。お客二人は、いくつかの宛先のウィンドウを見て、感嘆の声を上げている。
「大丈夫そうだね。」
都は隣に並んで立っていた岸谷に首を向けて、上目遣いで言った。
「みたいですね!」
岸谷は嬉しそうに、言った。
「あの、大丈夫そうですか?」
都は頑張って声大きくして、背中をこっちに向けている若いお客二人に言った。二人は気がついて、大丈夫です、ありがとうございました、と返してくれた。都と岸谷は、ラックの表側から、荷捌きスペースに面した通路へ出ると、ちょうど背の高いお客が、こちらへ向かってきた。
「あ、何かされましたか?通信できるようになったと、向こうから連絡がありましたが。」
背の高いお客は、事情をまだわかっていないので、都たちのルーターで何か設定変更なりをしたのだろうと想定しているようだ。都はざっと事情を説明した。
「あー…。ルーターIDですか…。そうですね、そうなりますよね…。これは大変失礼いたしました。」
背の高いお客はこの問題でどうなるかを知っているらしく、またそれを見落としていたことにすぐ思いが至ったようだ。素直に頭を下げていた。その様子から、この背の高いお客が都の設計ミスだと疑っていたのは、都の思い込みでしかないような気がして、そんな風に思っていた自分が酷く見窄らしく、浅ましく思えた。
背の高いお客が、ラックの表側へ入っていき、何か若いお客と明るく話している声が聞こえる。都はため息をつきながら、ふと右手首を返すと、すでに21時30分を過ぎていた。もう今日中に東京へ帰れる新幹線には乗れない。
「あー…。岸谷さん、今日もう帰れないから、ちょっと高松課長に…。」
「えー、帰れないなんてー、あたしをどーするつもりですかぁー。」
都はかなり真面目に声をかけたのだが、岸谷は、ちょうどお客が近くにいないのを良いことに、手を胸の前で合わせて、上半身を左右に動かしながら、誰が聞いても悪ふざけをしているのが丸わかりな調子で言った。本人も笑ってしまっている。
「そーゆーのはいいから!」
笑ってしまいながらも都は一旦話を切った。岸谷は、えー、とか不満げだ。
「高松課長に電話して、まだ工事終わらなくて、もう今日東京へは帰れないんで、宿とって泊まります、って連絡しておいてもらえる?」
こうなるかもしれない恐れについては、高松課長に岸谷と二人で事前に話していた。そもそも日曜の夕刻始まり、しかもお客の責任区分範囲の切り替えにも付き合わされる工事だ。お客の線表では十分に帰れる時間に終わることになっているが、そうならない可能性もあるから、その場合はビジネスホテルを取って、宿泊になる。工事がトラブったり、待機が長くなったりで、オフィスにいても泊まりになってしまう工事は、そんなに珍しくもなく、現場作業員業務の時も、ないわけではない。
「了解しました!電話しますね。」
岸谷はそう言うと、ジャケットの内ポケットにしまっておいた、工事用の携帯電話を取り出しながら、壁際の自分のバッグまで歩いて行き、バッグの中から自身のスマートフォンを出して、高松の携帯の番号を調べ始めた。工事用携帯は、オフィス内全員の共有のものでもあるので、電話番号を登録しておくことはセキュリティの観点から禁止されている。
都もついでに自分のバッグから私用のスマートフォンを取り出して、不在着信やメッセージなどないか、ロック画面状の通知を確認したが、いつものように、何もない。人付き合いが苦手だから、人に好かれるわけもなく、良い友達がいても、自ら付き合いを絶ってしまう。そういう生き方が招いた当然の結果なのだけれど、時折、それがとても寂しく感じて、つい兄に、どんな時でもどんな些細なことでも都の相手を必ずしてくれる兄に、何かメッセージを送ろうかと思ってしまう。しかし、メールアプリを開いて、宛先に兄を入れると、兄嫁の顔が浮かんできて、結局それもやめてしまう。
岸谷が高松と電話で話し始めると、都はふと、都たちのルーターでも、きちんとLSAもルートも受け取れるようになったか確認しようと思い、一人ラックの裏へ入り込んで、作業用PCの前にしゃがみ込んだ。都は、本当に自分が、OSPFのトラブルが治っていることを、ルーターから確認したかったのか、それとも高松と電話をする岸谷の話ぶりから、女子の新入社員が担当する、客先での夜間工事対応が泊まり工事になってしまったことに、気を配ってもらったり、労ってもらっているだろうと、想像したくなかったからなのか、よくわからなかった。いや、どちらかと言えば後者なのだ。本当に浅ましいのだな、と都は自分が嫌になってくる。
「間宮さん!」
岸谷に元気よく声をかけられるまで、都はぼんやりとコマンドを叩いているだけで、中身なんかきちんと見ていなかった。しかし、確認すると、必要なコマンドはしっかり叩いていて、手が覚えているのか、病気か何かなのかと、薄笑いしてしまいたくなる。岸谷は膝に手をついて、しゃがんだ都とできるだけ視線を合わせようとしていた。
「高松課長にー、間宮さんとツインで取って良いですかー、って聞いたらー、間宮さん疲れてるんだから、シングルでゆっくり休ませてあげなさいっ、ってー、怒られましたー。」
岸谷は、わざとらしく不満げな調子を作って、甘えたように言ってくるので、都はちょっと声を出して笑ってしまって、慌てて口を塞がなければならなくなった。都は立ち上がると、苦く湿った空気に押し込められていたのが、一瞬で取り払われたような解放感を味わった。
二人は岸谷の私用のスマートフォンで、宿を探した。岸谷は都が見やすいように、都の方にスマートフォンを差し出しながら、少しづつスワイプしていた。新幹線の駅から近くで、禁煙で、などと条件を足していく。金額の上限が決まっているので、それを下回っていれば、朝食付きでも許可される。
「こことかどーですかー。」
岸谷は一つのホテルをタップして、情報を広げていた。都が北陸地方へ現場作業員として何回か行った時に利用した宿と同じチェーンのホテルだ。ここは使いやすくて良い印象がある。ただ、新幹線の駅からの徒歩圏ではなかった。岸谷はルートを探してみる。客宅から新幹線の駅へ戻る路線は、途中で乗り換える必要があるのだが、その乗り換え駅で、新幹線駅へ向かう路線とは別の路線へ行き、2つ目の駅で降りる。客宅からの距離は、新幹線の駅とそう変わらない。明日朝帰る時は、その駅からまた別の路線でまっすぐ2駅行けば、新幹線の駅だ。
「じゃあ、ここにしよっか。岸谷さん予約取ってもらって良い?」
「了解です!」
岸谷は元気に了を返すと、スマートフォンで予約を取り始めた。都は、自分も直属の上司の末谷に、泊まりになるということを連絡しておかないと、と思って、自分のスマートフォンを取りにカバンの方へ行こうと思い、スマートフォンをいじっている岸谷にちょっと道を空けてくれるように言った。
「あ、末谷課長になら、高松課長が言っておいてくれるそうですよー。」
岸谷は一旦スマートフォンから目を離して、都に言った。
「よくあたしのしようとしたことがわかったねー。」
素直に都はびっくりして目を丸くした。
「えへへ。」
岸谷は、子供のように嬉しそうな顔を都に返した。
もう作業用PCでずっとモニターしている必要もないので、都たちはラックの裏から出て、荷捌きスペースの壁に置いた、自分たちの荷物の近くへ移動して待機していた。データセンターのような轟音ではないが、ファンの音はラック間の通路にいるとそれなりにうるさい。岸谷がお腹が空いたと言い出したので、都はなんとなく右手首を返して時間を確認した。22時20分になる。おそらくは最後の作業である、どこかのアクセススイッチの更改作業に入っているだろう。そろそろ終わってくれるだろうか。遅くとも22時半には客宅を出たいなと思っていたが、難しそうだ。
もう遅いからご飯どうしようか、と都と岸谷が話していると、ラックとラックの間から、若いお客の、先輩の方が出てきて、誰かを探している。背の高い客を探しているのかと思ったが、都たちと目が合うと、都たちの方へやってきた。
「あの、申し訳ないんですけど、ちょーっと相談に乗ってもらえませんか?」
困ってはいるようだが、まるで同僚か近しい人に頼むような言い方だ。慣れ慣れしいとまでは行かないけれど、本来は都たちに聞くようなことではないのだが、聞いてしまっていることを自覚している風で、それが柔かさとちょっとした低姿勢になっているようだ。
「どうしました?」
都はつい、愛想良くそう答えてしまった。心の中では、まだ終わらないの、と不満を言ってしまいそうだったのに。