18-02

18-02
都は私用のスマートフォンのチャットアプリで、営業や回線作業員と一緒に客宅へ入ったこと、回線の開通作業が始まったことを岸谷に連絡した。回線開通が終わり、ルーターのマウント作業を始める前にもう一度連絡することも書き送った。岸谷からはすぐに、了解しました!と言う文字と、ペンギンが敬礼をするスタンプとが送られて来た。
都が今待機している、サーバールームの中のパーティションで仕切られた、お客が作業スペースと呼ぶエリアには、六人がけの打ち合わせ卓が二つ、壁沿いに設えた机が五つある。来週末のLAN切り替えの時、ここへベンダーもお客のエンジニアも来るとなると、結構手狭かもしれない。ラックとラックの間はあまりスペースがないから、都はコンソールケーブルだけなんとかベンダーやお客の邪魔にならないよう引っ張って、ラック近くの床に直に座り込んで作業するしかないだろうな、と思った。
都は、バッグからノートPCと電源ケーブル、認証用のカードリーダを出した。このノートPCは、現場作業用のPCにも関わらず、電源を接続しないとほとんど使えないので、起ち上げて準備をするにしても、電源が必要だ。果たしてこのスペースの電源を使って良いものかどうか。電源タップは打ち合わせ卓の下に5穴のものが2つ転がっている。いくら現場作業で入った客宅だからと言って、客宅の電源を断りもせず使うのは気が引ける。営業に聞こうにも、この営業と挨拶以外に直接しゃべったことがない。先日一緒にこの客宅に来たのにだ。直接話したことがあるのは、あの背の高いお客だから、都は立ち上がってパーティションの脇からラックの方を覗き込んだ。ラックの並びの少し奥にある、EPSへ繋がる扉の前で、背の高い客はスマートフォンをいじっていた。EPSへ繋がる扉の中からは、作業員が電話で話している声が、ラックのいたるところから鳴り、合奏するサーバーのファンの音に紛れながらも、少し聞こえる。
「あの、すみません。」
ファンの音がうるさいサーバールームだからと言うのもあるが、都は声を大きくして人に声をかけるのが苦手だったから、どうしても2回は声を掛けないといけない。2回目で背の高いお客は気がついてくれた。
「あの、あそこの打ち合わせ卓にある電源をお借りしてもよろしいでしょうか。先に作業用のパソコンとか用意しておこうと思ってまして…。」
愛想良く都は言ったつもりだが、緊張が声に出てしまっているし、良い年してビジネスの現場でその言葉遣いどうなの、と自分で思ってしまうくらい、酷い言い方だ。
「はい、構いませんよ、お使いください。」
背の高い客は、笑いもしなかったが、丁寧な調子で返してはくれた。しかしどこか何でこの女が声をかけて来たんだ、とでも取れる怪訝そうな表情が一瞬見えた。もしかすると営業と、こないだ来たSEは誰なんだといった話になって、東京本社の派遣社員だとでも営業が言ったのだろうか。いや、お客の大事なネットワークの設計を派遣社員がやっているなんて、営業の立場で言うものだろうか。そうでなくても、だいたい、派遣社員と正社員というのは、見分けがついてしまうものだ。派遣社員は、その会社の仕事を明らかに背負ってはいない。それは当事者にどんなに責任感があってもだ。それが透けて見えてしまう。どんなに仕事を頑張ったところで、会社で評価されることは決してないから、その報われない、おそらくは正社員から見れば、無駄な足掻きのような、ただ自分の存在証明のためにもがいているような、社会人という人間を象る鋳型から何かはみ出してしまっている不格好さが見え隠れするからだろう。
いや、それよりも、先日のお客責任区分範囲である、移行設計の相談の打ち合わせの席で、都がしゃべった設計には考慮漏れがあって、後日メールによる訂正があったから、それを起因とした不信感なのかもしれない、こんな女がSEで大丈夫なのか。そんな疑念がお客の中にあったとしても、都はどう反論も出来ない。何もしないうちから、いきなりお客の前で喋った設計に考慮漏れがあったのだ。都は、このお客たちに対しては、マイナスからのスタートになってしまっている。
「ありがとうございます、では使わさせていただきます。」
都はいっぱいの愛想笑いで頭を下げたが、その背の高いお客は軽く会釈をしただけですぐに視線を都から外した。都は、許可を得て電源を使うことができることになったことを素直に喜んで、足取り軽くパーティションの裏へ戻った。所詮中年を超えた男は若い女にしか興味ないんだろう、という悪態をつきたくもなった。ああいう男は、女は二十代までだな、とか男同士での飲みの席で品のない大笑いをして喜んでいるに違いないのだ。
作業用のノートPCの準備だけではなく、ルーターもダンボールから出し、蓋をしたダンボールの上に乗せ、一度電源を入れてコンソール接続をし、ルーターのコンフィグやOSを確認した。それくらい待機時間には余裕があった。このルーターをダンボールから出すのは、都一人ではかなり一所懸命にならないと厳しい大きさだが、営業は手伝ってくれなかった。これがもし岸谷だったら手伝ったのだろうな、と考えると少し惨めな気持ちになってくる。営業はモバイルルーターとシンクライアント端末を打ち合わせ卓に置いて、ずっとシンクライアント端末で仕事をしていた。時折電話がかかって来ては、お客に迷惑にならないようにということだろうか、このパーティションで区切られた作業スペースの一番端の方へ行き、片手で口とスマートフォンを覆って、声の漏れを小さくするようにして喋っている。サーバールームのファン音はパーティションがあってもそれなりにするので、結局営業はある程度声を出さないといけなくなっている。
1時間くらい経った。ケーブリングの作業は終わって、これから終端装置を設置、試験に入るようだと、背の高い客がパーティションの上から顔を出し、営業に報告していた。作業用のPCのデスクトップやドキュメントフォルダなどに、他の人が使って残ったままになっているログを整理していたりしたら、割と1時間はあっという間に経ってしまった。セキュリティ上、この共有の現場作業員業務用の持ち出しPCは、ログやスクリプトなどを返却時に消去することになっているのだが、やらない人は結構多い。
試験には30分くらいかかるだろうから、あとは私用のスマートフォンでブラウジングしているしかない。待機中に何かの記事を集中して読めるわけはなくて、あっちこっちの興味もないようなどうでも良い記事をつまみ読みしては次を探す。英語の勉強のためと、毎日海外のネットワーク関連のニュースサイトの記事を一つ読むようにしているので、それにもトライしてみるが、全く頭に入ってこない。知っている単語だけしか並んでいないパラグラフすら、まるっきり内容が理解できない。理解するために集中できないのだ。それは要するに、集中しないと英語の長文が読解できない、という英語力のなさを示してもいる。
背の高い客がこれから回線試験だと言って来てから、さらに1時間以上経った。確かに、回線開通作業というのは2時間枠だから、別に作業開始から2時間かかったっておかしくはない。しかし、基本的には回線開通の現場作業員は、次のスケジュールも決まっているから、作業は予定時間通りに完了しないといけない。だから、ルーター設置も請け負っている場合、お客試験でトラブって、待機が長くなると、作業員の会社のマネージャーから、担当のPMへかなり強い調子の文句の電話がかかってくるのだ。
時計の針が15時15分を回ると、営業が立ち上がり、パーティションの向こう、ラックの並ぶ方へ向かった。状況を確認するためだろう。パーティションだけで仕切られた、作業スペースと呼ばれる完全には閉じられてはいないが、閉鎖した空間に、口も聞かずに2時間も営業と一緒にいるのは苦痛だったから、一人きりにされると、都は背もたれに背中を預けて、大きくため息をついた。足も打ち合わせ卓の下へ放り投げてしまう。足が下に転がる電源タップに当たってしまったので、打ち合わせ卓の下を確認したが、電源が抜けたりしてはいなかった。
しばらくすると営業は戻って来て、客宅に入るときに声をかけて以来、2時間半ぶりに都に声をかけた。
「すみません、ちょっと開通でトラブってるようでして。もう少し掛かりそうです。」
少し困ったような、申し訳なさそうな顔をしているが、未だ慌てるほどではない、という感じだ。
「そうなんですね。わかりました。ありがとうございます。」
都は状況を教えてくれたことに対して、軽く頭を下げながら礼を言った。営業は会釈をしてから、またパーティションの向こうへ消えた。
岸谷と時折チャットはしていて、未だですか、未だですよ、などと可笑しなスタンプを混ぜながらやっていた。都は、回線開通がトラブっていて、未だルーター設置には入れないことを、メッセージで送り、ペンギンがしょんぼりしているスタンプを送った。岸谷からは、猫がびっくりしたスタンプと、その猫が血を吐くような擬音とともに倒れるスタンプとを送って来た。都はこの状況に関わらず、笑ってしまいそうだった。
長時間のトラブルシューティングはもちろん体力的にも精神的にも参ってはくる。しかし、ただ待機しているだけというのも、それなりに疲れてしまう。待機だからどこかへ息抜きに行っていいわけでもないし、何か他の仕事をしようにも派遣社員の都にはリモートで仕事ができる環境は貸与されていない。
16時半を回ってしまった。パーティションのこちら側、作業スペース側に都が一人にされてからもう1時間以上経つ。営業はずっと開通作業を見守っているのだろうか。見守りついでにお客と何か会話をしているのかもしれない。営業がお客と会話をするのは重要で、そこから何か新しいビジネスチャンスへの手がかりが掴めたりするのだから。先日ここへ岸谷と一緒に打ち合わせに来た時も、営業は道中岸谷とはよく喋っていたから、本来はよく喋る人なのだろう。きっとお客ともテンポ良く会話を成立させているはずだ。都個人にとって印象がまるっきり異なるのは、派遣社員とは喋ることもない、ということなのだろう。
都は立ち上がって、少し足を伸ばしたり、左手で右手を掴んで、伸びをしたりした。体がだるい。ずっとファンの音がする部屋でただ座っているだけなのだ。またちょっとした監禁になったなあ、と都は冗談を思いついた。データセンターや客宅のサーバールームで長時間の待機を強いられることを、監禁、とか拉致、とか言うのは、都の職場では業界用語のようなものだし、IT業界ならどこでも同じだろう。
パーティションから向こうを覗いたが、終端装置の設置場所はラックの向こうなので何も見えない。少し強い口調で、電話口に作業員がしゃべっているのが、ちょっとだけ聞こえてくる。いつ終わるんだろう、と都は思いながら、パーティションの打ち合わせ卓側に戻り、また椅子に座って、ため息をついた。作業スペースにある窓はブラインドがかかっているが、その向こうではだいぶ日が傾いてしまっているのがわかった。こんなこともあるだろうと、帰りの新幹線の切符を買っておかなくてよかった。
都は、ルーター設置と同時に国内の回線の開通作業をする工程で組まれた工事の、現場作業員に行った時、国内の回線の長いトラブルに当たってしまうのはこれで二度目だった。一度目は9時間待機した。今日はそこまでは行かないと思っているが、ほぼ長時間トラブルなどない国内回線の開通作業なのに、なんて引きの強さだと、都は自分で呆れてしまって、今誰も見ていないのを良いことに笑ってしまう。