17-04

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門乃園と岸谷は、在庫を保管してあるラックスペースへ行って、最初は同じ機種の在庫3台のうちから一台を選んで持ってくるだけと考えていた。ラックの一番下にダンボール3つが、床に直置きで重ねられているのを見て、どれにしようか、と門乃園が冗談でくじ引きでも引かせるように岸谷に聞くと、岸谷は、どれを引いても天板が歪んだものが出てきたら全部ハズレですね、と冗談で返した。二人で何か気になって、全部開梱し確認することにしてみたところ、全て都と岸谷とで検収をした筐体と同様、天板が少し歪んでいて、シャシーとの間に隙間が空いてしまっていたと言う。倉庫の同一機種を1台梱包したらダメ、2台目もダメで、3台目も同じじゃないか、いや、3台目は大丈夫でしょう、三度目の正直と言いますし、とか、二度あることは三度あるとも言うよ、とか、わいわいやりながら開梱した3台目もダメだった、という状況は、笑っている場合ではないのは百も承知でも、正直面白かったに違いない。都はその場にいることが出来なかったことがちょっと残念だった。
門乃園と岸谷の二人が、その開梱していく様子を話している時の、仲の良さそうな空気感、ああだった、こうだったと、互いに確認するように片方が言って、片方が相槌を打つテンポの良いやり取りは、都に安堵と嫉妬が混ざった複雑な感情を呼び起こした。安堵は、新入社員の岸谷が、他の担当の、長く勤める派遣社員と上手くやれていることに対するものだろう。嫉妬は何だろう。都と喋るよりも、ずっとテンポ良く話が進んで、二人の関係性がどこか大人の友人のように感じられて、自分と岸谷との関係と比較すると、自分が職場の先輩として、人間として信頼されていないように見える気がする。都の子供っぽさから新入社員の岸谷に甘えているようなところがあって、門乃園と岸谷とのような大人っぽい雰囲気のやり取りが出来ていない。
「とりあえず、ベンダーに連絡して、全部初期不良だから至急交換してくれるよう言うね。」
門乃園がそう言うまでに、二、三会話が門乃園と岸谷との間であったのだが、都は聞いていなくて、この門乃園の言葉で我に返ったような感じだった。ルート・ターゲットのトラブルが結構重たいから、そこから逃げようとして、そんなよく分からないネガティブな感情にわざと自分から囚われたのかもしれない。
「うん、かどちゃんありがとう。よろしくお願いします。」
都は二人を出迎えた時に立ち上がっていたので、手を前に揃えて、かしこまった風ではなくて、どこか軽妙な感じで頭を下げた。門乃園は謙遜をやはり軽妙な調子で返してくれた。
「あ、かどちゃん、これどうしよう…。」
都は、通りの邪魔にならないよう、自席の袖机にぴったりとくっつくけるように置いてある、検収をして、機能上の問題はないことがわかっているものの、天板が歪んでいることを最後の最後で見つけてしまった筐体を納めた、口を閉じていないダンボールを指差して言った。
「ああ、それねー。」
門乃園が改めて発見するような言い方をするので、都と岸谷は笑ってしまった。
「付箋に天板歪んでます、とか書いてつけてもらって、ひとまず倉庫へ入れておいてもらえれば良いよー。」
門乃園が倉庫と言ったのは、さっきまで岸谷と門乃園とが、同じ機種の在庫を調べに行った、都たちのオフィスが入るビルのすぐ隣のビル、これはどちらも都が派遣社員として勤めるキャリアのビルだが、そのビルの中の空いているラックスペースを間借りした、日本国内のMPLSの客宅ルーターとして、都たちの構築担当で扱う筐体メーカーの、ルーターの在庫を保管している倉庫ではなく、都たちのオフィスのフロアの一角にある、もともとは交換機の並ぶフロアの、小さな執務室のような小部屋を再利用した、案件に割り当てられたルーターを一時保管しておく倉庫のことだ。
「了解。そうしておくね。」
都はそう返してから、ダンボールの止めていない蓋を一旦開いて、付属品をきちんとしまってあるか確認してから、袖机からガムテープを取り出し、蓋の合わせ目に沿って、側板から側板へ渡すようにガムテープを貼った。ちゃんと蓋を閉めて止めておかないと、席の島と島を通る時に、箱を斜めにしたり縦にしたりしないといけないので、危険だ。
都がダンボールを立てようとすると、岸谷が手伝います、と言って手を貸してくれた。都がダンボールを引っ張り、岸谷が押す形で、二人で席の島と島の間を通り、フリーアクセスに敷かれたカーペットの上でダンボールを滑らせていく。都が進行方向先頭なので、すみません、通ります、と声を出しながら進む。両脇の島の人たちは椅子を少し引いたりしてくれた。
島と島の間を抜け、開けたスペースに出ると、そこには調達担当の台車が数台置いてあるので、1台拝借して二人で台車の上にルーターのダンボールを載せる。台車は都が押すことにしたが、台車に載ったからといって、軽くなるわけでもなく、最初台車の車輪を回すにはそれなりに力がいる。大きい台車でそんなに小回りも利かないから、方向を直すのには結局台車を持ち上げるか引っ張るかしなくてはならない。台車の置いてあった場所から、オフィス内の倉庫までは導線がほぼ真っ直ぐなので、立ち話をしている人でもいない限りは、ただまっすぐ進めば良い。台車が進むと、台車の取っ手やキャスターの接続部にある遊びが軋む音を立てる。台車があった位置とは対面になるフロアの角辺りに、倉庫はある。倉庫の近くの衝立だけで仕切られた会議スペースの辺りまで来ると、岸谷が台車より前に出て、先に会議スペースと倉庫の間の狭い通路に入り、通路から押し開きのドアを開け、中の電灯をつけていた。
台車のハンドルの方を頑張って持ち上げて、ドアに対してできるだけ垂直になるような位置にして、台車ごと倉庫の中へ入る。できるだけ奥へ入って、ドアを押さえている岸谷に声を掛ける。
「ありがとう、もういいよ。」
岸谷がドアを押さえている手を離すと、ドアはバタンと閉まってしまう。倉庫前の会議室のあたりでも、電話や相談が多いオフィスの喧騒は聞こえてくるが、この倉庫のドアを閉めてしまうと、その喧騒は嘘みたいに遮られ、静かな空間になる。喧騒から突然静かな空間へ入ると、安堵感というか、もうここに隠れてしまいたいというような、閉所に収まって覚える奇妙な安心感のようなものすら覚える。そんなに広い部屋でもないが、かといって、二、三十台のルーターがダンボールで積み重ねられている割には、狭くもない。都と岸谷は、壁際にちょうど空いているスペースがあったので、そこへルーターを下ろした。力仕事をしたからだろう、少し暑くなってきて、都はシャツの襟元を引っ張ってパタパタと仰ぐ。
「あっついですねー。」
岸谷は手で顔に風を送りながら言う。さっきまで門乃園と別ビルの在庫倉庫で、同じ機種の筐体を3台も開梱しては梱包し直していたのだから、岸谷はもっと力仕事をやった後だ。
「ごめんね、さっき手伝えなくて。」
「いえいえ!とんでもないです!門乃園さんが、みやみやまた捕まっちゃったからー、って言ってました。」
都は苦笑いするしかなかった。都が捕まる、と言う表現は良く周りにされていた。都が保守に限らず、他部署、あるいはオフィス内の都が含まれていないプロジェクトから相談をちょくちょく受けているのは、それなりに目撃されているらしく、間宮がまた捕まっている、と言う表現になるらしい。
「ここ静かで良いですねー。」
岸谷は、声を低めてしゃべる時の特徴である、口蓋に舌が当たる音をさせながら言った。都はこの声が好きで、ずっと聞いていたい。
「ねー。席帰りたくない。」
都は素直に言ってみた。少し足を動かすと、カーペットをパンプスが踏みしめる音だけではなく、パンツの衣擦れの音まで聞こえる。
「間宮さん。」
岸谷は、いつまでも都が聞いていたいと思うその低めた声で、都を呼んだ。
「二人っきりですね!」
岸谷は、両手を胸の前で斜めに合わせて、わざとらしいくらいの恥ずかしがりかたで言い始めたが、語尾はもう笑ってしまっていた。
「ばかじゃないの!」
都がそう返すと二人で大笑いしてしまった。遮音の効いた部屋の中で二人で大笑いすると、うるさくて仕方ない。それでようやく動く気になり、ドアを開けて台車を出し、二人とも外へ出た。耳元に喧騒がまた戻ってきて、さて、次は何をしないといけないんだっけとモーターが回り始めるように、考えが巡り始める。後から出た岸谷は、電灯のスイッチを消していた。
都が席へ戻ると、机に付箋が貼ってあり、大森から電話があったことと、折り返し欲しいことが書かれていた。
「あ、間宮さん、NOCの大森って人から電話ありましたよ。」
都の隣の席の派遣社員が声を掛けてきた。電話も彼がとってくれたらしい。
「了解です、すみません、ありがとうございます。」
都は礼を言ってから、充電器に立ててあるPHSをとって、発信履歴から大森の番号を探し、掛け始めてから、椅子に腰掛けた。
「あ、間宮です。…お疲れさまです。すみません、電話出れなくて…。今大丈夫ですか?」
都は、右肩と右耳でPHS挟みながら、通常端末、専用端末と、順番にスリープモードから起こし、スクリーンロックを解いて行く。
「間宮さん、すみません、今日って、構築のウィークリーってありましたよね?」
大森が挨拶もそこそこに言った、ウィークリー、とは週に一度電話会議で、海外オフショアセンターの構築PMチームのマネージャーに、東京のPM自身でエスカレーションを実施できる機会を設けたものだ。そうしなければ、常にマネージャーには、東京のPM担当者からメールや電話でのエスカレーションがひっきりなしで、ナイトメアだと言うので、案件を担当しているPMから直でエスカレーションするのは、このウィークリーの電話会議だけにしてくれとなった。そもそもは、海外オフショアセンターのマネージャーが、24時間365日何かあれば、東京のマネージャーを通さなくて良い、いつでも電話して来い、と頼もしいことを言っていたのだが、あまりにもエスカレーションが多く、向こうが音を上げた。
例えば、回線キャリアの進捗が全く上がってこず、お客が進捗報告がまるでないことに強いクレームを上げてきているのに、海外オフショアセンターのPMは、回線キャリアから何もアップデートがない、の一辺倒でどうにもならない時、東京のPMが海外オフショアセンターのマネージャーへ、この件をエスカレーションしたとする。大抵、エスカレーションを受けた海外オフショアセンターのマネージャーは、海外オフショアセンターの担当PMに状況の確認と、さらにキャリアにプッシュを掛けるよう言うだけで終わりだ。回線キャリアのマネージャーへエスカレーションしてくれ、と言ったところで、やっていないことがほとんどだ。案件規模や、どの程度利益になるのかなど、大局的な見地から考えて、キャリアのマネージャーへのエスカレーションというカードを切るのに見合ったプロジェクトなのか、ということをかなり厳しく見ているからだという。回線キャリアへの催促が一向に進まないから、東京のマネージャーを通してエスカレーションしてみると、少しは話が進むことがある。そのため、結局マネージャー通したエスカレーションでなければ効果がない、となって、東京のPMは、ほとんどこのウィークリーを使わなくなり、エスカレーションしたい時は、東京のそれぞれのマネージャーを通して実施することが多くなってしまっている。そしてこの東京のマネージャーを通したエスカレーションは、何かしら毎日のように実施されている。
こうなると東京のマネージャーもエスカレーションばかりになるが、彼らは日本本社に勤める日本人で、まして東京に閉じてやっていた頃は出来ていた「日本式サービスレベル」が維持出来なくなっていることが起因して、部下ばかりでなく、営業、さらには謝罪先のお客と、各方面から十字砲火を受ける身だから、エスカレーションをやってはくれる。しかし、受ける海外オフショアセンターのマネージャーはそうはいかない。部下、営業を教育しろ、そして何よりもお客を教育しろ、そう東京のマネージャーに口酸っぱく言ってくる。グローバルビジネススタンダードは、グローバル回線インプリメンテーションのスタンダードは、こういうものだ。キャリアが何も返してこなければ、それは進捗がないことでしかない、それで終わりだ。日本のように、何もないのであれば何もないことを、しかも進捗を取るために過剰な稼働をきちんとかけた上で連絡してこい、という風習はない。それはグローバルではただの無駄な、無意味な稼働としか見なされない。それなのに、むやみに上長の稼働を使い、担当のPMとともに長い残業までさせて、進捗を取らせようとするが、結局無駄足になる。待っているしかないのに、朝から日付が変わるまでやたら何度もメールをし、何度も電話をかける。日本のお客は、結果無駄足になろうが、その長い稼働を使った上での、進捗がない、という報告しか是認しないのはクレイジーだ。その時間を他のプロジェクト、稼働に使うべきだ。そのコストの無駄を全く気にかけない労働意識が、彼らにしてみれば全く理解できないのだ。
それに、東京のPMは何でもかんでもエスカレーションしてくる。そうも海外オフショアセンターのマネージャからは見えているらしい。それはそうだ、東京で閉じてやっていた頃は、当たり前だったことが何一つ出来ていないのだ。現地法人がやっていた粘り強いキャリアへのプッシュ、トラブル時の複数回のオンサイトエンジニアの派遣、しつこいくらいの回線テスト、東京のSEがやっていたような作成したコンフィグのレビューやチェック・確認、WAN開通工事、またはLAN切り替え工事後の、お客VRF内の拠点間疎通・経路確認など。全てはコストに見合うか見合わないかをきちんと見極めて、物事のやるやらないを決める。そんなことを言っている場合ではない、今この回線のデリバリはトラブっているのだから、全力でいち早く解決しなければならない。しかしそう東京が切羽詰まっている時でも、彼らは問いたいのだ。本当にそれは絶対に今すぐにでも解決しなければいけない問題か、と。企業文化が違い過ぎる、このオフショアセンターを何故使うことにしたのか、未だに都はよくわからなかった。
都がエンジニアになる前、グローバルMPLSのオーダー事務をやっていた頃に、このグローバル担当を含む部署の部長だった人が、事業そのものを統括する部署へ移って、このオフショアセンターの導入を決めたのだと、都は聞いた。都のような、事務の派遣の人間の名前も顔も覚えてくれる、この会社の部長以上の役職者には珍しい人だった。都がSEをやるようになってから、たまたま、都も世話になった社員の送別会で会った時に、「間宮さん、SEになったんだって?すごいね!」と声をかけてくれた。そんな労働力の調整弁でしかないような派遣社員の動静を気にかけられるような人が、何故こんなサービスそのものの根幹がめちゃくちゃになるような変革をしたんだろうと、都はひどく疑問だった。その部長が昇進とともに系列会社へ行くことになった時、都たちのオフィスでも、挨拶が行われて、「ようやくグローバルビジネスの一歩を踏み出した」と言っていたのが、都には引っかかっていた。それがこういうことなのかもしれない。お客の要望だからと言って、掛けられる稼働を全てかけて、それに応えようとするのは果たして正しいのか。本当に海外オフショアセンターの言い分は全てがおかしいのか。
「あー…。ありますね…。14時からだと思いました…。」
都はメーラーを開いて、ウィークリーという名のついた、受信トレイ配下のフォルダを開いた。一番最新の、ウィークリーの周知メールを開くと、確かに今日の14時から開催になっていた。エスカレーションする必要がある人は、お客名、オーダー番号、エスカレーション内容、プレゼンテーション資料がある場合はそれも添付して事務局まで返信するように、ということも書かれてある。
このウィークリーの開催と、メール周知はその年の新入社員が担当することになっていて、夏からこの部署へ配属になった3人が持ち回りでやっている。このメールは岸谷から出ていた。
「間宮さん、大変申し訳ないんですが、そこでこの件エスカレしてもらえませんかね。」
「ええっ?」
これは保守フェーズで起こったトラブルだ。まして構築のプロジェクトは東京では何も走っていない中で、急に構築のウィークリーの、海外オフショアセンターのマネージャーとの電話会議でこれを議題にあげろというのは突飛すぎる。まして都はSEなので、こういった海外オフショアセンターのマネージャーへのエスカレーションなどしたことがない。案件でトラブルになって、向こうのマネージャーにエスカレーションするのは、案件ごとのPMか、PMのマネージャーだ。都はそんなに英語も出来るわけではないのに、まずこのトラブルを英語で説明しなければならない。しかも相手は海外オフショアセンターのPMやSEではなく、マネージャーだ。無理、と都は思ったが、このお客は構築も特殊な体制だから、東京側のPMは他部署で、オフィスのロケーションも異なるし、それこそ全く構築と関係のない話で他部署のPMを巻き込むことも出来ない。大森のいる保守担当と都のいる構築担当はビル内のオフィスも異なるが、部署的には同一部署になる。
都が驚いてしまって返事に躊躇していると、大森はそう依頼することになった背景について説明し出した。すでに大森のマネージャーから、海外オフショアセンターの保守のマネージャーへはエスカレーションを実施した。しかし、バックボーンの更改作業は、海外オフショアセンターではインプリメンテーション扱いになり、実際に工事をやっているチームは、海外オフショアセンターのPMのチームと一緒にいつも構築を担当しているSEのチームだと言う。東京の場合、構築のSEとバックボーンのSEは、チームどころか所属部署が違うから、まずこの違いに、大森も、話を聞いた都も驚いた。それを理由に、そのトラブルは工事ミスによるものだから、構築のマネージャーへエスカレしろ、と撥ねられてしまったと言う。それでも、海外オフショアセンターの保守のマネージャーは、このトラブルにアサインされた担当者から、設計上の問題を確認しろと、SEチームへチケットだけは上げておくと言っていた。SEチームはこのマルチ・ルート・ターゲットを最初から見落としているのだから、このままだと設計には問題はないと保守担当へ返して、ピンポンになる可能性が高い。
本来なら、大森と、大森のマネージャーでウィークリーに参加して、彼ら自身でエスカレーションするところだが、生憎これから別の特別保守体制を敷いているお客宅へ、打ち合わせに行かなければいけないという。この特別保守体制を敷くお客全て対して、大抵一月に一度、回線利用状況や、起きたメンテナンス、トラブルなどについて報告する、ミーティングが設けられる。保守担当と営業が客宅に出向くパターンが多いが、電話会議で行われるパターンもある。
特別保守体制のお客担当マネージャー、カスタマーマネージャーとしてアサインされているので、それ程たくさんのお客を持てるわけではないが、大森もいくつかのお客のCMを兼任していた。このミーティングは、利用状況を報告するだけでなく、お客の困りごとを聞き出したり、それに応じて新たなサービスや、単純増速など提案していくという営業機会にもなっているので、お客にとっても、キャリア側にとっても重要なミーティングになっている。
大森と大森のマネージャーが外出から帰ってき次第、都がウィークリーの後に出したメールにでも被せて畳み掛けるので、都にはまずウィークリーで状況の説明と、早急な解決が求められる点だけ説明してほしいとのことだった。特に、状況の説明、つまり更改後のプロバイダエッジルーターに何が足りなくて、トラブルになり、更改後のプロバイダエッジルーターにはこういうコンフィグが入っていないといけない、ということを説明してほしいとのことだ。都は、それを英語で、しかも喋って説明なんて、逃げ出したくなりそうだった。しかし、この件で頼れる人は誰もいない。
「…わかりました。上手く伝える自信が、正直全くないんですが…やってみます。」
都は声が小さくなってしまっていた。
「大丈夫です!とりあえずやばいこと起きてるんだから、なんとかしろ、ってことが伝わってくれれば!」
大森はそう都を励ますけれど、技術的な背景を説明しなくてはならない、今現在この件でそれを出来るのは自分しかいない、という現状では、大森のそれは全く励ましになっていなくて、都は可笑しくて笑ってしまった。都は通常端末の下部のタスクバーに表示されている時刻を確認した。12時を回っていた。時間はない。
「とりあえず資料急いで作って準備します。」
都はそう電話の向こうに言うと、大森はもう一度、こんなことをお願いしてしまって申し訳ないと、平謝りだったが、都は否定を返すしか選択肢がなかった。
都は電話を切ってから、とんでもないことを引き受けてしまったと後悔した。出来ません、と断っても良かったんじゃないか。それこそ、マネージャーの末谷にエスカレーションして、保守からこんなこと頼まれたと泣きついても。あるいは末谷から海外オフショセンターへエスカレーションしてもらえるよう頼んでも。しかし、これは東京にしてみれば構築で起こった問題ではないのだ。あくまで保守フェーズで起こった問題だ。誰に相談したところで、保守に押し返すよう言われるだけだろう。押し返す時の保守との交渉は都がやらないといけない。押し返す時に揉めるのは目に見えている。そんな無駄な時間を使っているなら、もう資料を作り始めた方が良い。どちらにしろ、そんな揉めるなんてことは、都の性格上出来ないのはわかりきったことなのだから。
技術的な話だけなら、たどたどしくともなんとか説明くらい行けるかもしれない。海外のエンジニアとは、工事中のやりとりや、トラブル時の作業依頼や状況報告を受ける程度の会話は、PMの代わりに時折することがあるし、プロジェクトによっては技術的な説明をすることも稀にはある。都はネットワークエンジニアになったのがグローバル担当、それからずっとグローバル担当だから、技術資料は全部英語で作らないといけなかった。なので資料作成については、時間的制限を除けば問題はない。
誰か社員に相談を、とも思ったが、都は派遣社員だ。派遣社員が一人で背負わされた仕事なんて、線にならない仕事で、点の仕事だ。どこにも繋がらないし、誰とも繋がらない。これだって、大森と保守のマネージャーさえいればやらなくて良い仕事だ。でも彼らが不在の時間すら惜しいと言う危機感は、このお客を担当している担当者ではないと、理解はできるだろうが、共感は難しい。今、この問題を、このオフィスで共感できる人間は誰もいないのだ。誰に相談したところで、保守の人間が帰ってくるのを待っていれば良い、いくら外出で時間がないといはいえ、東京の保守のマネージャーから海外オフショアセンターの構築のマネージャーへ電話して一言依頼することは、出来なくはないだろう。ましてCMはからなずバックアップ担当者がいる、そのバックアップCM担当がやれば良いだろう。そう言われてしまうのがオチだし、それはその通りなのだから、反論のしようがない。そもそも都が、それは保守の問題だから、そちらでやってくれと、押し返せれば良かっただけなのだ。こういう社内の責任区分の隙間を埋めるために、派遣社員はいるのだろうか。良いように使われて、良いように捨てられる。そんなネガティブな方向へどんどん考えを巡らせている場合じゃない、とにかく資料を作らないと。都は空のプレゼンテーションファイルを開いた。相変わらず、ただ起動するにも時間がかかるアプリケーションだ。
「…もう…。遅い…。」
都はつい小さく声に出して不満を漏らした。
ウィークリーでエスカレーションしたい案件がある場合、ウィークリーの周知メールに、全員返信で内容を知らせないといけない。この周知メールは海外オフショアセンターの人間もCCに含まれているから、英語で書く必要がある。都は、南アジアのノードのプロバイダエッジルーター更改で、障害が起きている件について間宮から一件、資料はあとで送る、とだけ書いて送った。今日ミーティングの進行を務める岸谷にも口頭で、一件あるから、と伝えておきたいが、時間的にお昼を食べに行ってしまっただろう。とにかく時間がないから、簡単な資料を早く作ってしまわないと。都は慌てていた。胸が痛いくらいに緊張していて、息が苦しく、呼吸が激しくなってしまいそうだ。なんでこんなことに。都は涙が目に溜まってきてしまう。
机の上に寝かせておいた私用のスマートフォンが振動した。私用のスマートフォンなんで見てる暇はないはずだが、今の緊張から一時でも逃れたいからだろう、自然と手が伸びた。持ち上げてディスプレイを見ると、チャットアプリにメッセージだという。岸谷だった。今日はあたしが担当です!一緒に出ましょう!と、自慢げに了解する顔文字付きで送ってきてくれた。正社員は自分のスマートフォンなどのモバイルデバイスで、社用メールを読めるようにしているから、岸谷はそれで都から議題提議が来たのに気がつき、すぐ反応した方が良いと判断して、わざわざチャットアプリを使い、いつもの調子で返事をくれたのだろう。都は嬉しかったのか、安堵したのかよくわからないけれど、溢れそうになるから涙を拭わないといけなかった。