15-03

2022-02-04

15-03

 都は時間を気にしていなかったので、今何時だか微妙にわからなかった。門乃園とルーターの納期の話をしたのは確かお昼近くだったはずなので、もう14時くらいだろうか。岸谷の席の島へ行く途中で壁時計を探す。進んでいる通路の一番奥に一つあった。既に15時45分を回っている。あまり時間がない。都はますます焦った。出来るだけ今日の業務時間中にお客に伝わっていたい。
 普段なら、あまり話したことのない、関わったことのない社員や派遣社員の多い区画に行くのを躊躇うのだが、都はとにかく足早に進んでいった。そんなことはないのだろうけれど、多くの視線が、何しに来たんだと、都を訝しげに見やっているような気がして、竦んでしまいそうだ。
 岸谷は、自席でディスプレイの画面を見つめながら、左手で充電スタンドのPHSへ手を掛けている。電話をかけようと思っているらしいが、話す内容を頭の中で整理しているのか、手を掛けたまま止まっていた。都は、声を掛けようか迷ってしまう。岸谷の席は島の角から一つ入ったところなので、島の間に入らなければいけないのだが、その間にはいるのも躊躇してしまい、結果、あまり仕事上絡まない人しかいない区画で、ただ突っ立っているだけの不審な人になってしまった。怪訝そうな目で都をちらちらと見る人もいて、都は自席へ戻りたくなる。
 自席の近くに誰かが所在なさげに立っていて、周りの席の連中が怪訝そうにそちらを気にしていれば、流石に誰でも気がつく。自分に置き換えても、都の斜め後ろの席の秋田は、島の角に当たる席だが、その近くで誰かが秋田に話しかけるでもなく、所在なさげに立っていたら、気がつくだろう。ここはオフィスなのだから、所在なさげに立っている、というのは異様な景色だからだ。故に、岸谷も気がついた。都もちょうど岸谷を見ていたこともあり、岸谷はすぐに自分に用事だと察してくれた。
 「あ、間宮さん!」
 その通る声で都を呼ぶので、今度はそれが周りに聞こえるのが恥ずかしくて、今まで躊躇して一歩踏み出せなかったくせに、席の島と島の間へ割り込むように入った。
 「ごめんね、今電話しようとしてなかった?」
 都は岸谷の席の後ろにつくと、まるで岸谷に言葉を継がせないように、自分から口を開いた。
 「大丈夫ですよー。間宮さんがあたしに用事ならー、電話切っちゃうんで!」
 岸谷は楽しそうに、通る声でそう言うから、都は周りに反応されても、反応されなくても恥ずかしいので汗が出てきしまう。そのこともあって、都の失敗が岸谷を失望させるとか、そういう個人的な思いは引っ込んだ。こんな自分に好意的な反応を見れば、その不安は大きくなってもいいはずなのだが、その通る声で自分への好意を、恥ずかしげもなく、開けっぴろげに示されると、ただ隠れてしまいたくなるくらい恥ずかしい。それだけ都は、自分が人ら好かれるような人間ではないという、それは自負と言っていいような逆説的な自信を持っていた。引いて言えば、それだけ心から欲していたものが、急に目の前に出てくると、どう対処していいかわからないのだ。
 「あのね、CJの設計固めるために検証してたんだけど…。」
 「あ、もうやってくれたんですかー。ありがとうございます!」
 都がまず検証したことを報告すると、都に早めに検証すると言われていたことを鑑みてだろう、岸谷はとても嬉しそうに感謝を述べた。都は一旦謙遜を返して話を切らないといけなくなった。
 「それでね、ごめんなさい、こないだお客さんのとこで、あたし少し間違ったことしゃべっちゃったことがわかって…。」
 「えー。そーなんですかー。」
 すんなりと都は白状出来たが、岸谷は大したことではないように返したのは、都に気を遣ってくれたからだろう。岸谷は少し声を低めていた。
 「どの辺りですかー。」
 岸谷はそう言うとディスプレイ上にある、CJ案件の共有フォルダのショートカットをクリックし、開いたフォルダから、8桁で年月日を表す数字と、客先打ち合わせという文字列とを、アンダーバーで繋いだフォルダ名のフォルダをさらに開き、中から議事録、というファイル名のテキストファイルを開いた。これは、打ち合わせの最中、岸谷が取っていてくれた議事録を、帰りの新幹線の中で、都と一緒に岸谷が清書し、訪問翌日に客や営業へ送ったものだった。
 「えっとね…。」
 都は前かがみになって、岸谷のディスプレイを覗き込んだ。脇の髪が前へ降りてきてしまうので、耳わきに搔き上げる。
 「あ、ちょっと待ってください。」
 岸谷はそう言うと、都の髪の毛が靡くくらいの勢いで立ち上がった。バタバタとハイヒールでフリーアクセスの床を叩きながら、近くの柱まで行き、そこに重ねて置いてある丸椅子を持って戻ってきた。
 「間宮さん、座って座ってー。」
 岸谷は、都がちょうど腰を下せば座れるいちに丸椅子を置きながら、まるで家に遊びに来た友人でも迎えるように、都に座るよう勧めた。都は思わず笑ってしまいながら礼を言った。
 「それでー、どこですかー?」
 岸谷はディスプレイに映し出された議事録と都を交互に見やって言った。都は、ディスプレイ上に映し出された議事録の、PBRのパスの監視は、ベンダーのルーターのLANインターフェイスIP、それとWAN側インターネット回線の、ISPプロバイダエッジのIPへの到達性で実施、そのため、ベンダーのルーターでこのパケットをNATして、インターネットに出してもらう旨と、このパケットの行き戻りを、ポリシーで許可してもらう旨書いたあたりを、差した指で囲む。
 「ここであたし、ISPのプロバイダエッジのIPを、あたしたちのルーターからポーリングするから、あたしたちのルーターのLANインターフェイスIPがインターネットに出て戻れるようにしてください、って言っちゃったんだけど…、これ、要らなかった。要らないし、さらにこれだと足りない。これだと足りないから、要らない。」
 「え、そうなんですか?」
 都の話を、きちんと聞いていることがわかるような相槌を、途中で一度打って聞いていた岸谷だが、都の結論の意味が良くわからないという反応をした。
 「えっとね、どういうことかとゆーと…。」
 都は持ってきたノートを、岸谷の机の空いているスペースに広げた。岸谷はキーボードを立ててくれたり、マウスを避けたりしてくれて、都のノートが広げやすようにしてくれた。都は検証環境を作るために書いたネットワーク図を使って、そもそものお客要件のPBRについて、岸谷の復習のため簡単にしゃべった。
 「海外拠点のLANから、本社のあるサーバーにアクセスしに行こうとすると、ルーティングに従ってメイン側をこうやって流れて行っちゃうから、メイン側のあたしたちのルーターでPBRして、無理やりお客さんのルーターの方へ投げちゃう、っていうのが、そもそもお客さんのやりたいことね。」
 「はい。」
 岸谷の返事はちゃんと聞いていて、理解もしていることが表れていた。
 「でー、こないだお客さんとこで、あたししゃべったみたいに、バックアップ側、つまりお客さんのルーターの方ね、そっちのLANとかWANとかで断が発生した時に、あたしたちのルーターでPBRし続けちゃって、お客さんのルーターにぽいっ、て投げちゃうと、そもそも届かないとかあ、お客さんのルーターでどーしよーもない、ってのはこないだ話したでしょ?」
 「はい、覚えてます。」
 この話は帰りの新幹線の中で、都が一度説明していた。岸谷は、はきはきと返事をしてくれるので、都は話しやすかった。
 「それでー、こないだお客さんに言っちゃったのは、ここと、ここをポーリングしておけばー…。」
 都はそう言いながら、ネットワーク図上で、海外拠点のバックアップ側ルーターのLANインターフェイスと、そのWANが接続しているインターネットを表すルーターのインターフェイスに小さく丸を描いた。
 「バックアップルーターのWANでもLANでも切れたとしても、大丈夫!…だったんだけど…。あ、本社側も同じね。」
 同様に、本社拠点のバックアップ側ルーターのLANインターフェイスと、そのWANが接続しているインターネットを表すルーターのインターフェイスにも小さく丸を描く。
 「これだとね、例えば、こっち側のWANかLANどっちかで断があったとしたらー…。」
 そう言いながら、都はネットワーク図上の、海外拠点のバックアップ側ルーターを表す円から伸びる、WANケーブルとLANケーブルとを表す直線の上に、それぞれバツ印をつけた。
 「こっちのメイン側ルーターは、落ちたのわかるからあ、こっち側ではPBRやめて、まっすぐメイン側のパス使って、あっちまで行くんだけどー…。」
 都はシャープペンシルの先を、海外拠点側のバックアップで断があった時の、PBR対象のトラフィックのフローをなぞるように、本社側のコアスイッチまで動かした。
 「でもー、こっちのこの子はさあ、あっちのバックアップ側で断があったのなんかわからないからあ、戻りはふつーにPBRされちゃうのね。そうすると、あっちは落ちてるから、戻れなくてー…。」
 「あー…!ほんとだー!間宮さん、すごーい!」
 岸谷は都の説明を理解したらしく、都の説明に被り気味に、その通る声で驚いていた。近くの席で数名がこちらに視線を向けた気がして、都はまた汗が出てくる。岸谷は素直に驚くので、都がお客の前でこの問題に気がつけずに、間違ったことをしゃべってしまった、という論点が何処かへ行ってしまう。都は可笑しくて笑ってしまった。しかも未だこれの回避策を説明していない。
 「でー、これじゃダメだからあ、どうするかとゆーと、お互いのLANインターフェイスを、こうやってバックアップ側のパス経由で監視するのね。」
 都はシャープペンシルで、海外拠点のメイン側ルーターのLAN側から、曲線を書き始め、バックアップ側ルーターのLANを通り、さらにインターネットを通過、本社拠点のバックアップ側ルーターを抜け、本社のLANのL2スイッチを経由して、メイン側のLANインターフェイスまで到達させ、線の両端に矢印をつけた。
 「これだと、さっきみたいに、こっちのバックアップ側でどこかが落ちても、あっちでも落ちたことを検知できるから、行きも戻りも、メイン側のパスを通るようになるのね。」
 「すごーい!さすが間宮先生!」
 岸谷は何かすごいことでも都が発見したのかのように、若干ふざけ気味に、通る声で喜んでいた。都は笑ってしまったし、周りにうるさいかもと気を揉んだが、本題に入らないといけない。
 「これで上手く行くのはあたし確認したからー、これをね、お客さんに言わないといけなくて…。こないだの打ち合わせでは、間違ったこと言ってしまいました、すみません、検証の結果、こうすれば上手くいくので、こうします、って謝らないといけない…。」
 都は、岸谷にお客への謝罪を頼むのではなく、自分がやると言うべきじゃないのか、という疑問が、しゃべっている途中で頭を擡げてしまい、口調が誰に向かって喋っているのかはっきりしなくなってしまった。
 「あ、そんなことですかー。全然あたしお客さんに謝り侍しますよー。」
 岸谷は都の迷いのようなものを察したのか、朗らかなほどに明るく言った。謝り侍、なんて言葉誰が岸谷に教えたんだ、と都はちょっと思った。
 「でも、間違ったこと言ったのあたしだし、あたしが自分で謝った方がいいかな、と思って…。」
 新入社員に相談するような言い方になってしまい、ここで自分が悪いんだから自分でやる、と都が言い切れないのは、自分の弱さだと、吐瀉物のように自責の念がこみ上げてくる。しかし、それだと自分一人で決めてしまって、岸谷をPM、プロジェクトをマネージメントする役割、として扱っていないことになる。
 「PMはあたしですから!あたしがお客さんに言います!」
 岸谷は、左手の指先を自分の胸に当てながら、どこか自慢げに言った。
 「だってー、あの日間宮さん、いっぱいお客さんから聞かれてたじゃないですかー。ほとんどあたしたちのデマケ外のことだったですよね?間宮さん、こーんなにいっぱいのこと聞いて答えてー、ちゃんと検証もしてー、想定と違ったこと発見したらー、教えてもくれてー、きっとお客さんもー、さーせん、あざーす、って感じだと思いますよ。」
 岸谷は身振り手振りを交えて、都を諭すかのように話した。冗談を交えて話す様は、まるで岸谷の方が先輩みたいだ。
 「…どうしたの?何か問題?」
 くっついて並んで座るようにしている、都と岸谷の後ろから声をかけられた。下山だった。岸谷は通る声だし、都も一所懸命喋ってしまったから、うるさいと何処からから、岸谷のメンターである下山に苦情が入ったのかもしれない。しかしもっと大きい声で話している声も、あちこちであるので、都たちだけやかましいということはないはずだ。誰かに意地悪でもされているのかと、都は少し疑心暗鬼になった。
 「こないだー、間宮さんとあたしでー、お客さんとこへ移行設計の相談に行ったじゃないですかー。」
 「あー、間宮さん無双だったやつね。」
 岸谷の話を聞いた下山は、そう返した。岸谷は、そうですそうです、と嬉しそうに繰り返した。無双って、と都は苦笑いするしかなかった。おそらく岸谷の業務報告か何かで、そう言われたのだろう。
 「その場でー、間宮さんお客さんにー、PBRのところどうしたら良いですか、とかー、どう設計すれば良いですか、とか聞かれてー、お客さんの質問にー、全部答えてくれたんですね。でー、間宮さん検証もしてくれたんですけどー、ちょっとだけー、間宮さんが最初想定したことと違ったことが出てー、お客さんに間違えました、って謝らないといけないんですけどー…。」
 岸谷は最初いつものように、通る声で話していたが、途中から少し声を抑え始めた。都が間違えた、と言うことに気を遣ったようだ。
 「え、どんなことですか?」
 下山が都に聞いてきたので、都は一通り説明した。
 「あー…。いやー、それは良く事前に気がついてくれましたね、で済むと思いますよ。検証したところ、想定と違う部分がありましのたで、お知らせします、って感じで良いと思うから、そんな感じでお客さんにメール書いておけば良いよ。」
 「ですよね!」
 下山の指示に、岸谷は我が意を得たりとばかりに、体も動かしながら、嬉しそうに同意を示した。かちゃかちゃと、認証カードを下げるリールクリップが音を立てる。ゆるいウェーブのかかった髪が揺れると、柑橘系のシャンプーの香りが、ほとんどくっついて座っている都に漂ってくる。
 「これって、ヒアリングシート変える必要あるんでしたっけ?」
 下山が都に聞いてきた。
 「あ…。バックアップパスを監視するポーリングの宛先が変わりますね…。あと、そのためにお客さんのファイヤーウォールの穴あけとか、NAT対象とか追加してください、って打ち合わせの時あたし言っちゃったんですけど…。それいらなくなっちゃいました…。」
 都は、それと既存のお客ルーターのコンフィグを見る限り、そのままであれば問題なさそうだが、都たちが提供する客宅ルーターのLANインターフェイスのIP同士のICMPが、IPSec対象とならないといけない旨、念のため伝えた方が良いかもしれない、ということも付け足した。
 「あ、それは議事録のー、ここの部分要らなくなりましたー、で良くないですか?あとー、あたしたちのルーターのLAN同士の通信がIPSec対象となるようご留意くださいー、みたいな。」
岸谷は、自分の考えを述べた。都は、上手くまとめるなあ、と感心した。
 「そうだね、あとはさっき間宮さんが言ったところを訂正したヒアリングシートを添付して、ご確認ください、ってお願いするくらいだね。それだと短くまとまって良いんじゃないかな。」
 「あ、じゃあ、あたしヒアリングシート直してきます。」
 都は下山の言葉尻に被せるように言って立ち上がった。自分の失敗を早くリカバリーしたい、と焦ってもいたし、自分の失敗で必要以上に岸谷に稼働を掛けてしまうことへの後ろめたさもあった。しかしそれよりも、派遣社員である自分のミスで、新入社員に負荷をかけてしまっている自身への、嫌悪感が苦しかった。
 「あ、じゃあ、間宮さん、ヒアリングシート直したらー、教えてください。あたしメール下書しちゃいますね。」
 てきぱきと都と自身に仕事を割り振った岸谷は、どこか楽しそうで、自分が先頭に立って仕事ができていることに、充実感を覚えているようだ。都は、自分で一人で動いてしまわずに良かったと、少し安堵した。
自分のミスで、岸谷に余計な稼働を掛けてしまうこと、下山に心配をかけたことに都は頭を下げた。下山と岸谷は、コントのように二人がかりでそれを否定した。間宮さんがいてくれるから、間宮さんがそうやってきちんと検証してくれるから、などと二人から励ますような言葉をもらってしまい、それが嬉しかったような、そう言わせてしまっている自分が情けないような、複雑な気持ちに入り込んで、どういう表情をしていいのかわからず、都は愛想笑いだけ浮かべるので精一杯だった。
 結局、お客からの返信には、検証してくれたことへの礼と、岸谷が説明した事項は理解した旨、それと新しいポーリングの通信はIPSec対象に含まれているので問題ない、という旨とが書かれているだけだった。このメールを受信するとすぐに岸谷がすっ飛んできて、ほら、大丈夫だったじゃないですかー、と笑顔を都に見せに来た。都は、これがお客と揉めるきっかけにならなくて良かったと、胸を撫で下ろした。
 異なる二つのWAN網を併用するPBRを含む設計について、机上の設計だけで正解を出せるほどの力は、自分にはないのだ。やはり複雑な冗長構成の検証作業は必ずやらないといけない。そんなことを、都はまるで自分の感情の起伏をおし隠すためのように、論理的に再認識もしたが、それよりも岸谷が、都の失敗のフォローをするということに嫌な顔一つせず、その仕事は自分の仕事だと、自ら率先して取り込んだことに、頼もしさを感じたし、その前向きさが羨ましいくらいに眩しかった。