14-03

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都は、LSAデータベースの省略情報一覧を出すコマンドを叩いた。このOSPFドメインには5つほどルーターがいて、LSAタイプ3がないことから、バックボーンエリアだけで構成されていることがわかる。問題になっている新しいネットワークの、LSAタイプ5が2つ存在するということは、都が今ログインしている本社ルーターの他にも、このルートをOSPFドメインに再配送しているルーターがいるということだ。メトリックに差がないから、受け取っているコアスイッチなり、ルーターなりの方で、受けているインターフェイスにコストで差分をつけていないと、ロードシェアリングになってしまって、上りについてはどちらのルーターへ上がってくるかわからなくなる。OSPFネイバーを確認すると、一つしか見えないから、コストはおそらくLAN内のコアスイッチで調整しているのだろう。もし、都がログインしているルーターと同じような、他プロトコルからのルートをOSPFドメインへ再配送しているルーターが、コアスイッチとの接続セグメントと同一サブネット上にあって、2つのルーターから、同一メトリックでルートをもらってしまうと、受け取ったコアスイッチでは差分をつけるのが難しくなるが、ネイバーが一つしか見えないので、そういうこともなさそうだ。
しかし、既存のルートは問題ないと言っているのだから、このことが問題になっていることはないだろう。LSAデータベースを紐解いて、OSPFドメインのネットワーク図を起こすのは、もっと後で良い。先に簡単なところから潰していくべきだ。
「さっきさあ、岸谷さん何かお客さんからホストのIPアドレスみたいなのもらってなかった?」
岸谷がお客との電話でIPアドレスのようなものを言われ、復唱していたのを都は覚えていて、岸谷のノートを覗きながら聞いた。ノートには確かにIPアドレスが書かれている。岸谷によれば、これが新しいネットワークにあるホストの一つだと言う。到達性を確認するのに使ってくれとお客から言われているそうだ。都は、今アクティブウィンドウになっている、本社ルーターのターミナルウィンドウで、インターフェイスの説明文一覧を出力するコマンドを叩いて、WANインターフェイスとLANインターフェイスとを特定し、客から岸谷がもらったホストのIPアドレスへのpingを、それぞれをソースにしながら打ってみた。どちらも不達だ。
「届かないねえ。」
「届きませんね。」
都がつぶやくと、専用端末のディスプレイを都にくっついて覗き込んでいた岸谷も復唱するように言った。トラブルで待機が夜遅くまで伸びつつあるのに、岸谷はどこか楽しそうだ。都は続けて、パケットが宛先までに通過する、経路のノードにIPを返させるコマンドを叩いた。ソースをWANインターフェイス、LANインターフェイスどちらでやっても、3ホップ目までは返ってきて、以降は不達表示となってしまう。今日岸谷が切り替え工事を実施したルーターにログインしているターミナルウィンドウをクリックして、インターフェイスにアサインされたIPを表示させる。本社のルーターから通過経路で最後に返ってくるIPは、このルーターのインターフェイスのものだ。インターフェイス説明文一覧で確認すると、WANインターフェイスになる。つまり、このルーターまではたどり着いていて、このルーターで宛先不達になっているか、このルーターはきちんとネクスホップへは投げていて、そのネクストホップで不達になっているか、あるいは、ネクストホップで送信元への戻りルートがなく、到達メッセージを返せないのか。工事対象だったルーターのルーティングテーブルを調べると、きちんと新しいサブネットへのルートはスタティックで存在する。念のため、そのルートのネクストホップへのルーティングも調べると、LAN側の接続セグメントになっている。
「うちのルーターまでは来てるね。」
「来てますね!」
都が岸谷に説明するように言うと、岸谷はまた楽しそうに復唱するが、楽しそうに追従するのが自分で可笑しくなったらしく、語尾は笑っていた。都もだんだん可笑しくなってきたが、笑うのは堪えて、今度は工事対象のルーターから、新しいネットワークのホストへのpingを、ソースをWANインターフェイス、LANインターフェイスと変えて打ってみる。WANインターフェイスがソースの場合は到達しなかったが、LANインターフェイスがソースだと到達した。
「届いたね!」
「届きましたね!」
都はもう岸谷のように楽しそうに言ってしまうことにした。岸谷もそれに合わせて嬉しそうに復唱するので、二人で笑ってしまった。静かなオフィスに二人の笑い声が響いてしまって、二人は同時に口を押さえ、大きい声で笑わないようにしなければならなかった。
パケットが通過する経路のノードにIPを返させるコマンドを、工事対象のルーター上でも試してみる。LANインターフェイスがソースの場合は、最後の宛先ホストまで綺麗に返してくれた。2ホップでホストへ到達できているから、この目的ホストのセグメントは、ネクストホップ機器の接続セグメントの一つ、ということになりそうだ。
しかし、WANインターフェイスをソースにすると、ネクストホップすら返ってこない。このネクストホップにとって、都が今ログインしているルーターのLANインターフェイスのセグメントは、都たちのルーター同様、接続セグメントになる。そのため、このネクストホップ機器にも確実に接続セグメントへのルートは存在する。しかし、都たちのルータのWANインターフェイスのセグメントへのルートや、本社のWANインターフェイス、LANインターフェイスのセグメントについては、ルートを持っていないということだろう。もしくは、それらへのルートが正しく都たちのルーターの方を向いていない、ということかもしれない。もちろん、日本本社のお客がテストしているセグメントへのルートのついても、事情は同じのはずだ。
都はこれらのことを、ログを辿りながら、岸谷に説明した。岸谷は、相槌を打ちながら都の話をふざけずにちゃんと聞いていた。岸谷の様子から、内容は理解出来ているようだ。
「結論としては、あたしたちのルーターから見て、この新しいルートのネクストホップ、つまりお客さんのLAN機器ね、これは既存のルートを持っているお客さん機器とは違う機器だけど、この子が本社へのルート持っていないか、あたしたちのルーターの方向いていないか、どちらかです、ということになるかな。」
「なりますね!」
都が話をまとめると、岸谷は、またさっきのように楽しそうな、どこか浮かれているくらいの調子で返してきた。都は思わず笑ってしまった。岸谷は、お客さんに報告すると言って、都が説明したことを、自分でまとめて都に話して、理解があっているかどうか確認を求めた。岸谷の理解は正しかった。岸谷は、やったあ、と快哉を上げて、PHSを左手に持ったまま両腕を上へ伸ばす。ブラウスの衣擦れの音と一緒に、首から下げている、認証カードのクリップリールとプラスティックケースがかちゃかちゃと音を立てた。PHSの落下防止ストラップが踊るように宙を舞う。
電話越しに岸谷がお客へこちらで確認したことを伝えると、お客はやっぱりそうですよね、と納得したと言う。お客の方で現地お客に連絡し、設定を確認、直させるようにしてみるとのことで、もうしばらくの待機を求められた。
「間宮さーん、おわんなーい。」
例の全くのビジネス喋りの電話を切ると、急にだらしないくらいの甘えた調子で岸谷は泣き言を言った。都は声を出して笑ってしまった。
「これあたしたち、待機している必要ありますー?」
岸谷はふざけて不満げな調子を作り、言った。
「まあ、ぶっちゃけ、ないね。」
都もかなりふざけた調子で返した。岸谷は笑いながら、えー、と不満を言う。
「何か楽しそうですね、どうしました?」
誰かが近づいてきているのは都はわかったが、少々騒がしいかもだがトラブル対応中なので、あまり気にしていなかった。振り返ると岩砂だった。肩からトートバッグを下げているので、残業を切り上げて帰るところのようだ。岸谷と都がきゃあきゃあうるさかったのか、岸谷の席へ立ち寄ったようだ。
「岸谷さんの工事、トラブってます。」
都は思わず楽しそうに返してしまった。
「え!トラブってるんですか!」
岩砂はいつもの大仰な調子で返していたが、本当に驚いているようだ。
「にしては、楽しげすぎませんか?」
岩砂は続けてまた、声を少しひっくり返しながら大仰な調子で聞いてくるから、都と岸谷は笑ってしまった。岸谷は、工事の概要と、切り替え自体は上手くいったこと、お客試験で新しいサブネットへの通信が不達となっていることと、都がトラブルシューティングをした結果を岩砂に説明し、まだお客が頑張ると言うので、引き続き待機になっている旨、付け足した。
「あんまり長くかかるようなら、こっちの責任区分範囲には問題ないから、間宮さんの言う通り、待機している必要ないし、切り上げさせてもらうようお願いした方が良いかもね。」
それが場合によって難しいことは百も承知で、岩砂はそう言った。たとえこちら側に何の咎もなくとも、同じお客の平行して走っているプロジェクトなどとの兼ね合いや、多少エンジニアの稼働が高くなっても、きめ細かく対応すれば、次の契約や新しいサービスの売り込みの見込みが持てるような場合などの、政治的判断だけではない。完全にお客責任区分範囲起因のトラブルとは言え、日本のお客も、お客の現地法人や現地オフィスの担当者との遠隔コミュニケーションだけで解決に向けて対応しなければならず、それなりにストレスのかかる状況だ。こういう時に、そのお客のWAN側を担当しているキャリアの構築担当者が、自分たちの責任区分範囲は問題ないので、あとは頑張ってください、と言わんばかりに、工事のクローズを申し出る。それは当たり前のことだと受け取ってくれる商業文化的背景があれば良いが、日本の場合、そうはいかない。そういう時にも、寄り添うような親切なサポートが求められるし、それを提供することで、ベンダーというのはお客から信頼を勝ち取るのだ、というところもある。もっとも、何でもかんでもベンダーへぶん投げてくるようなお客の場合、教育するという意味でも、場合によってはばっさりと断った方が良いこともあり、お客と常に対応しているPMのセンスや、それまでのプロジェクト運営の状況からの舵取り、というものに依ることになる。
「そう、ですねー…。」
岸谷は珍しくはっきりしない返事の仕方をした。都は岸谷なら、じゃあ、そうします、と元気に言い切りそうなものだと思ったので、少し意外だった。
「まあ、その辺は、岸谷さんがお客さんとの兼ね合いで考えれば良いよ。でも、電車で帰れる時間には終わらせてもらわないと。あまり遅くなるようなら、明日にしませんか、と言うとか、本日は一旦失礼させていただきますので、何かありましたらまた明日連絡ください、と言うか。」
確かに、徹夜までして付き合うようなトラブルではない。今日中には帰れるように、工事は締める必要があるのは確かだ。もっとも都は電話で話していないので、お客の温度というのがわからないが、岸谷の様子から見て、おそらくそれほど切羽詰まっていないと思われた。
「あたし、最後まで付き合うから大丈夫だよ。」
もしかして岸谷は都が先に帰ってしまうのを心配してはっきりしないのかも、と思い、都はそう言ってみた。こういう時は、例え東京にルーターの書き込み権限がない案件でも、あまりエンジニア力の高くない、特に岸谷のような新入社員のPMには、東京のSEは一人いた方が安心だろう。
「ほんとですかー。」
岸谷は、とても嬉しそうな表情と調子を素直に出して口を開いたが、語尾にはどこか申し訳なさそうな色合いを混ぜてきた。
「またお客さんが、あれ確認して、これ確認して、と言ってくるかもだしね。」
トラブルの内容からして、そんなこともそうはなさそうだが、聞ける相手が残っているのといないのとでは、違う。海外オフショアセンターのエンジニアに聞いても、返ってくる答えはあまり変わらないだろうし、特にネイティヴのような英語を使う岸谷には余計な心配だろうけれど、それでも夜中に一人残されるのは、都なら嫌だった。
「あれ?これ間宮さんSEじゃなかったですよね?」
岩砂がまたちょっと大仰な感じで言うので、都はそうだという旨と、都が検証で残業していて、一段落したから、休憩がてら岸谷の席へ遊びにきたら、ちょうどトラブっていたので、手伝うことにしたところまで包み隠さず話した。
「何かほんとすみません、いつも岸谷さんの面倒見てもらってしまって…。ありがとうございます。」
岩砂は、申し訳なさそうに、軽く頭を二度ほど下げながら、そう言った。岸谷も都にくっつけていた体を離して、椅子を都の方に向け、膝に手をついて同じように頭を下げるので、都は、その二人揃ってちょっと大げさな調子に笑ってしまいながら、否定を返した。都はこれで帰れなくなってしまったな、と思いもしたが、岸谷が安心するのであれば、その方が大事だ。岸谷の役に立てるようであれば、嬉しかった。
岩砂が帰ってから、岸谷はお腹が空いたと言うので、オフィスが入っているビルの1Fで、道路側に店を開いているコンビニエンスストアへ行くことになった。オフィスの中とは繋がっていないので、一旦外出して行くしかない。長い時間オフィス内にいたので、隣の建設中の高層ビルの現場に設えられた、プレハブの詰所が覆いかぶさるような圧迫感のある通路でも、外の空気に触れた解放感と涼しい風とは心地よく感じられる。秋ですね、と岸谷が言うので、都も同意を返さざるを得ないが、夏が終わってしまったな、というちょっとした寂しさをまた覚えてしまう。
お客へ報告してから一時間経っても、お客から何のアップデートもないので、都がもう一度同じテストをしてみたが、結果に改善は見られなかった。時計の針は22時を回ってしまっていた。岸谷が、お客に電話で進捗を尋ねると、お客は申し訳ないがもう少しだけ待ってほしい、と言うので、いつ終わるんだろう、と二人で愚痴を言って笑った。これだけ長い待機になるのだから、都はCJ案件の検証環境を作るなり、自分の仕事をしても良かったはずだが、やる気にもならず、時折岸谷と岸谷の隣の席とで共用している専用端末から、例のお客がくれたターゲットのホストへの、日本本社のルーターからの到達性を確認しながら、岸谷と雑談をして過ごした。
他人と雑談をしないといけない時、しゃべること自体があまり得意ではない都は、何を喋ったらいいのか、話題を何か提供しないといけないとか、一定の緊張を持たざるを得ないのだが、岸谷に対してはそんなことをほとんど感じぜずに済む。岸谷の頭の回転がとても早く、都が何も喋らなくても、岸谷が話の起点となって広げてくれることも大きかったが、話題が切れて、黙ってただ隣にいるだけでも、都は落ち着いて過ごすことができた。あまり他人に対してそんな状態になることはない。よほど都は岸谷と馬が合うのだろうか。一回り前後歳が離れているのに、そんなことあるんだろうか。人付き合いの経験が薄い都にはよくわからなかった。
結局、22時半を大きく回ってから、お客から今日は諦めると連絡があった。今回、新しいネットワークのために接続した現地のL3機器は、インターネットに出たり、現地お客内に閉じたネットワークのコアとなっている機器で、すでにプライベートレンジのルートは他に向けてしまっているとのことで、本社への通信はそこへ吸い込まれてしまうとのことだった。試しに、本社のお客の端末のホストアドレスへのルートを都たちのルーターへ向けたら、到達性を得ることが出来たという。ただ、日本本社のネットワークや、この拠点が通信必要な他拠点のネットワークに向けてルートを切るとなると、ロンゲストマッチになるようルートを何処かで分割するだけでは、上手くいかないアドレス運用になっているので、別途精査しないといけないとのことだった。もしかすると、LAN側のルーティングを現在のスタティックからダイナミックへ変更するかもしれない、とも言っていたそうだ。その場合設定変更になる旨は、お客も承知していたので、何れにせよ後日連絡する、今日のWAN切り替えについてはクローズで良い、ということになった。
「おわりましたー!」
電話を切ると、岸谷は両腕を高く上げて、快哉を上げた。
「やったー。」
都もそれに倣って両腕を上げると、二人で可笑しくなって笑ってしまった。綺麗に終わり切らなかったのだから、また後日対応が発生してしまうだろう。だから万歳というわけには行かないはずなのだが、お客が自ら締めてくれる方へ導けたのも、日頃の岸谷のお客対応の賜物だろうし、喜んだっていいだろう。
「やっぱり間宮さんいると、すっごい安心します!」
岸谷はそう満面の笑顔で言った。
「そう、かなあ…。」
そんなことないよ、と言いたかったはずなのだが、都は照れ臭いよりも嬉しくて、中途半端な返し方になってしてしまった。