11-02

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都は、明日のWAN開通拠点の、客宅ルーターのコンフィグを見直すよりも前に、金曜作ったヒアリングシートの見直しを先にすることにしたけれど、それよりも先に、末谷のところへ行かないといけないと思った。末谷が、派遣社員の都の都合で捕まるとは思わなかったが、声をかけてくれと言われている。席を立っても、柱が邪魔して、末谷の席は都の席からは見えない。少し歩いて自席を離れ、末谷の席のある島が見える位置まで移動する。末谷は席にいたので、都は末谷の席へ向かった。
社員しかいない、または社員が多い島というのは、どうも近づきづらい。社員が座っている席の後ろを通らなければならない時も、都は少し緊張してしまう。単に都の内向的な性格のせいなのか、それとも、正社員に対する気遅れ、真っ直ぐに、真っ当に生きてきた人たちに感じる後ろめたさがそう感じさせるのか。自分から正社員に話しかけるのは、都にとっては勇気がいるし、ましてそれがマネージャーとなれば、もっと勇気が必要だった。
末谷の席は小さな四人島の席で、その島は胸の高さくらいの書類棚と、大きい柱とに挟まれている。末谷の席は書類棚側で、その書類棚はちょうど良い仕切り壁のようになっている。その書類棚の上に腕を乗せて、末谷に話しかける、という光景はよく見かける光景だ。
都はその書類棚の向こうへ行って、書類棚につかまるように手をかけた。末谷の真正面が岩砂の席なので、岩砂は都が来たことに気がついて、お疲れさまです、と声をかけてくれた。都も挨拶を返した。岩砂は、あまり正社員との壁を感じさせないよう、派遣社員に気を使ってくれているのか、もともとそういうフラットな人なのかはわからないが、都にとってわりと話しやすい正社員の一人だった。
「末谷さん。」
都は声が小さいので、一回では末谷に届かず、少し声を大きくして、もう一度声をかけた。それでもデスクトップの画面を見ながら、キーボードを叩いている末谷は気がつかなかった。社員に声をかけて、気がついてもらえず、何度も声をかけなくてはいけないのは、すごく苦痛だった。緊張もするし、どこか惨めだと感じる。緊張なのか、恥ずかしさからなのか、汗も出てくる。都はもう一回呼びかけようと思ったところで、岩砂が声をかけてくれた。
「末谷課長!」
いつもの勢いのある調子で、岩砂が末谷に声をかけた。末谷はすぐ気がついて、視線を岩砂の方へ投げたので、岩砂は、間宮さんいらっしゃってます、と都を手のひらで指して言った。
「ああ、ごめんごめん、ちょっと待っててね、一本だけメール書かせて。」
末谷は、手のひらを垂直に立てて、軽く頭を下げながら、都に言った。都は了解を返した後、岩砂に礼を言った。岩砂は、謙遜を返してくれた。
都は、末谷と岩砂の席の壁になっている、書棚の上につかまるように指を乗せたまま、所在無さげに立っているしかなかった。末谷と岩砂が座っている島の4席には、全て社員が座っている。社員島の近くで、仕事をしているわけでもなく、ただ所在なく突っ立ているのは落ち着かなかった。柱のシミでも見て、このビルの古さに想いを馳せるしかない。
「無事すぱっと開通しますかねえ。」
岩砂が声を掛けてきた。明日のWAN開通のことだろう。所在なさげに、末谷がメールを書き終わるのを待っているだけなのを見かねて、気を遣ってくれたようだ。
「そうですねー…。まー、十中八九、一発で開通しないと思います。」
都は少し冗談めかして言った。
「ですよねー。」
岩砂が笑ってしまいながら、凹んでいた。その様子が可笑しくて、都は笑ってしまった。
「だって、キャリア3つくらい跨いだ回線でしたよね?絶対相接ポイントでなんかありますって。」
南アジアでは、都が勤めるこのMPLSキャリアのノードから、客宅まで回線を引くと、ほとんど一つのキャリアで完了することがない。ノードに接続したキャリアは、客宅の所在する地域にカバレッジがあるキャリアへオーダーを出し、その二つキャリアの相互接続ポイントで、接続する。さらにこの二番目のキャリアが、客宅付近のエリアにカバレッジのあるキャリアにオーダーを出し、その三番目のキャリアが、客宅から、二番目のキャリアとの相互接続ポイントまで引く。これは世界の何処でも珍しいことではないので、特段驚くことでもないのだが、南アジアの場合、キャリアが通常よりも多層になることが多い。キャリアが多層になると、MPLSキャリアは、ノードに接続するキャリアにオーダーを出し、そのキャリアから進捗を取るのだが、キャリアを挟めば挟むほど、進捗は取りづらくなる。急かされている回線が、この手の多層キャリアの構成だと、いろいろな手を使って進捗を探るのだが、全く取れないことも多い。他の地域だと、ある程度の情報、例えば設備がなくて進まない、掘削工事が必要で進まない、そして、その後どうなっているのかが全く見えてこない、という程度には進捗が取れる。
しかし南アジアでは、この最初の情報すら入ってこないことが珍しくない。また、真逆の情報が何故か伝わってくることすらある。例えば、問題ないと言われていたので、お客に希望日通り開通予定、と伝えてしまってしばらくしてから、道路掘削が必要だが、当局の許可が下りないのでいつになるかわからない、とアップデートが来たり。その逆で、真ん中のキャリアに設備がなく、増設が必要だが、いつ終わるかわからない、と言われていたのに、翌日には、問題は解決した、客宅寄りのキャリアによる、客宅への引き込みが終われば、今週にでも客宅ルーター設置できる、と急展開したり。これは別に嘘を言ったり、いい加減なことを言っているわけではなく、その時、その時点での事実は伝えている。晴れ予報から雨予報に、進捗状況が変わるのは、別にこの南アジアに限ったことではないのだが、特にこの地域では、ひっくり返ることは多い。
現地で長く仕事をした人によれば、時間の感覚がとにかく違うという。輪廻転生というのは、日本では仏教説話の世界の話だが、彼らの中でそれは現実として生きられており、いまこの時は、永遠に続く輪廻のほんの一瞬にしか過ぎない。この意識の差は大きいと言う。
しかし、都はこの説明もあまり腑に落ちていない。都は、あるお客の案件で、南アジアの拠点に、MPLSに接続する客宅ルーターとともに、SI提供で配下のL2スイッチを設置するというので、設計と構築のサポートをしたことがある。都の責任区分範囲は、本来客宅ルーターまでなのだけれど、現地法人のエンジニアから、L2スイッチを接続したものの、お客が通信出来ないと言っている、助けてほしい、と電話がかかってきてしまい、最初は客宅ルーターから見える範囲だけで、アドバイスを言うだけにしていたのだが、一向に解決せず、何度も電話が掛かってくるので、リモートからL2スイッチにログインできるように、彼に設定してもらい、そして、都がログインして、ログや状態を確認し、複数の客のL2スイッチが接続しており、その複数のL2スイッチ間の接続トポロジーのせいで、L2ループしているということを確認、説明し、接続見直すよう客に言ってくれと言って、やっと解決したことがある。都は、英語の聞き取りと喋りが得意ではないし、南アジア訛りの英語をよく理解できなかったり、都の下手な英語があまり伝わらなかったりもあって、結局都がL2スイッチにログインしなければならなくなったのかもしれない。しかし、一人で取り組むよりも、別の視点を持った人間を巻き込んだ方が、解決が早い、と言うような考えを持って、意図的に都たち東京のNIのエンジニアを巻き込んでいるような節がある。こういうことは別に一度ではないし、都だけの経験でもなかった。
だから、一概に永遠の時間軸を生きているから、タイムリーマナーについての感覚がまるで違う、というだけでは捉えきれない、文化や思想の違いがあるのだろう。こちらが急いでくれ、と思っていることは急がなくて、こちらがそこは急がなくていいんじゃない、と言うことを非常に熱心に、スピード感を持って取り組む時がある。見ているポイントというか、物事を見る視座の位置が、四次元的に異なっているのかもしれない。そんな風に都は思っていた。
「はい、ごめんね、お待たせしてしまって。」
都と岩砂が、三つもキャリア跨ぐにも関わらず、途中経過のアップデートほとんどなしで開通なんて、絶対何かトラブルが見落とされているに違いない、などと冗談めかして話していたら、末谷の仕事は一段落ついたらしく、都に声をかけながら立ち上がった。都は、末谷の謝罪に否定を返してから、岩砂に軽く会釈をして、あまり人に聞かれず、会話できる場所を探しに歩き出した、末谷の後ろに付いて行った。
末谷の席の近くは、このフロア全員と、別のオフィスビルにある人員とを束ねる、大きな括りの部の長となる部長の専用机がある。その机はフロア全体を見渡せるように、壁を背中にする向きなのだが、実際は柱の多いこのフロアを一望は出来ない。この部長専用机の近くは、役職者や、最低でも社員で占められている。課長である末谷に連行されていくような形で、この一帯を抜けていくのは、身が縮まる思いがする。偉い人に萎縮しているわけではない。むしろ都は、踏ん反り返ってるだけで、派遣社員に会釈もしないような役職者には不快感しか持っていない。そうではない、真っ当な人間だけがいるような場所を、この風変わりな三十代半ばの女が通ることは、一体彼彼女らにとって、どれだけ奇異で、奇妙なことなんだろう。その変な派遣の女が、課長に連れて行かれてるなんて、絶対何かやっちゃいけないことをやって、人目につかないところで注意受けるに違いない。そう思われているんじゃないか。そんな風に考えると、都は何処でもいいから隠れたくなってしまう。
末谷は、そのほとんど不在であることが多い部長専用机の裏手にある、部屋になっている会議室を覗いた。空いていたらしく、末谷はその会議室へ入って行く。このフロアで、部屋になっている会議室はここしかない。あとは、オープンスペースの会議卓か、仕切り板で仕切られている会議卓しかない。このフロア内で、あまり人に聞かれなくない話は、ここでするしかないようなところがある。
12人くらいでいっぱいになってしまう会議室だが、このフロアでは唯一の閉鎖された空間なので、中へ入ると、急に静かになったように感じる。ドアは開け放しのままで、真ん中くらいの席に、卓を挟んで末谷と都は座った。末谷は、まずは土曜日の現場作業員の業務を労い、長時間に渡って拘束されたことに同情を示した。
「なんかずっとお客さん怒ってたんだって?」
末谷は聞いてきた。都は、確かに客の一人がずっと怒っていたが、別にそれはその日に突然始まったことではなく、プロジェクトが進んでいく段階で色々あり、既にお客さんの不満ゲージが溢れそうなくらい溜まっていて、その日に駄目押しで溢れてしまっただけだろう、と言った。何々と言ったじゃないかと、お客が営業に言ったり、営業がPMに言ったり、ということがあったが、都は現場作業員として行っただけなので、詳しいことは何もわからない、とも付け足した。都が詳しいことがわからないことについては、末谷も、そうだよね、と同意を示した。
「で、なんかね、随分間宮さんが、実際の設定変更とかやらされたって聞いてるけど、そうなの?」
そう末谷は聞いてきたので、やらされた、と言えばそうかもしれないが、やらざるを得なかった、と都は返した。最初の、WAN開通用に渡されたスクリプトが間違っていて、バックアップ側のWANが上がらなかったところから、BGP集約の条件オプションが足りなくて、冗長試験の切り替わりが上手く行かず、この辺りからお客が激昂し始め、オフィスのPM・SEが、BGP集約の条件オプションを知らないということなので、とても一から説明している余裕はなく、都が自分で設定することにしたこと、さらにお客LAN内での冗長試験で、やはり切り替わりが上手くいかず、かなり特殊な設定を入れるか、お客にお客のLAN内の設計ポリシーを変えてもらうか、どちらかでしか解決できないが、お客が激昂している状況では、こちらに閉じて出来る、特殊な設定を入れる方向へ舵を切らざるを得ず、都が現場で入れることになった、というところまで話した。
「そうですか…。それはお疲れさまでした。でも、それはPMに差し返しちゃっても良かったんじゃないの?」
営業の方も、途中からPMに聞くのではなく、都に直接聞くようになってきたし、とにかくお客の怒鳴り声が聞こえ続ける環境に耐えられず、自分でなんとかしないとと思ってしまった、と都は説明した。
「そうですね…。確かに、PMに返すべきでしたね…。すみません…。」
都は頭を下げて謝罪した。トラブル案件で客に訪問謝罪を求められると、末谷は課長として、それこそ何十回も客宅へ謝罪へ出向いている。もちろん、冷静なお客もいるだろうが、ほとんどは怒りの言葉をぶちまけられ、無理難題を押し付けられる。課長クラスや、さらに上のクラスが謝罪に行くようなトラブル案件になると、謝罪以降、その案件については、特別な対応をしなくてはいけなくなる。しかしそれだって、十あるお客の無理難題を全部首肯してしまっているわけではないのだ。だから、お客が怒鳴り散らしているからと言って、それに流されて、ただその恐怖から逃れたいために、何でもお客の要望に従っていはいけない。
しかし、それはPMや営業の仕事だろう。都はSEだ。そう言うことが出来ないから、SEをやっているし、SEしかできないのだ。都は、あれだけ怖い思いをして、あれだけ頑張ってトラブルを収めたのに、小言をもらっていることに悲しくなってきた。
「いやいや、間宮さんにオンサイト頼む時はね、みーんな、万が一の時は間宮さんが何とかしてくれる、ってことを期待して、お願いしているわけだから、それはね、いいんだよ、いいの。」
末谷は、そもそも都が考えたようなことを言ったつもりがなかったのか、それとも都の顔色が明らかに変わったので、急にフォローしてくれたのはわからない。都が現場作業員として出る時は、オフィスのPM・SEが手詰まりになるようなトラブルの際、何か助け舟を出してくれるに違いない。みんなそう思っているのだから、そういう意味では、今回も期待通り仕事をしてもらって、みんな本当に感謝している、と末谷は付け足した。都は目に涙が溜まってくるのがわかった。
「ただね、それは本来の間宮さんの仕事じゃないから、そう言う時は良いんですよ、あたしの仕事じゃありませーん!PMに聞いてくださーい!って言って。PMに、解決できませーん!とか言われちゃったら、じゃあ、工事はリスケしてくださーい!設計一から練り直してくださーい!って返しちゃえば良いんだから。」
末谷は、都の台詞や、PMの台詞を、勢いのある調子で言った。都は笑ってしまった。笑ってしまったのは、その末谷の冗談めかした言い方が可笑しかったからではなく、そんな対応は自分には出来る訳がない、と言う自嘲からだった。
お客がずっと怒鳴り続けている異様な状況で、長時間の現場作業員業務だったと聞いて、末谷は、都が精神的なショックを受けていないかを心配していると言った。そのような事態を避けるためにも、あまりにも理不尽な状況の時は、圧しかかる波に流されず、一旦押し返してしまって、末谷に電話をして相談してくれれば良い、ちょっと直属のマネージャーと相談します、と営業やPMには言えば良いから、とも言った。
都は末谷の気遣いに対する礼を述べた。末谷は、ちゃんと代休も取るようにと付け足していた。都は、そのことにも礼を言った後、岸谷が少し心配だと、末谷に漏らした。派遣社員の都が、社員の仕事に対する姿勢や、心構えに対する影響を心配するなんて、分を弁えない行き過ぎた発言だが、それでも都は、岸谷が一瞬見せた不安げな顔が忘れられなかった。それは普段の自信も余裕もあるような、堂々とした表情からはかけ離れたものだったから。
「うん、そーねえ…。まあ、確かにほとんど初めてのオンサイトで、ちょっときつかったと思うけど、岸谷は、間宮さんいたからあたし超余裕でしたー、とか言っているみたいだしねえ。間宮さんいなかったら、お客さんと怒鳴り合いでしたー、とも言ってるみたいだよ。」
そう末谷が笑って言うと、岸谷がお客と言い合ってる姿が急に思い浮かんで、都も笑ってしまった。その話は、岸谷が電話で高松に報告しているのを、目の前で聞いていたわけだが、高松が岸谷の口調まで末谷に共有したとは思えない。岸谷のキャラクターから、おそらくこう言った、という末谷の想像で口調を真似たのだろうが、あまりにも当たっているので、都はそのことも可笑しかった。それだけ岸谷という新入社員は、各課長にも存在が浸透しているということだろう。末谷は、都が岸谷の心配をしてくれたことに、少し畏まった礼を言った。それは、何処か社員と派遣社員との壁を感じさせるものだった。やはり、余計なお世話だということなのだろう。
「岸谷は高松課長がちゃんとフォローしているから大丈夫だけど、間宮さんは、万が一これが原因で体調崩されちゃたりすると、心配しかしてあげられないから、あんまりオンサイトでおかしな事になったときは、必ず私に電話するようにしてくださいね。」
社員であれば、福利厚生含め、いろいろなフォローが出来るが、派遣社員の都には、ただそうですか、残念です、としか言えない。これが原因で、現場の戦力にならないようなことになれば、派遣先と派遣元との間で、三ヶ月ごとに結ばれる契約を、満了月を持って更新しない、とすれば良いだけだ。社員のようにケアをし、再び活力を取り戻せるようなサポートや体制を与えたりはしない。都はもう一度すみません、と頭を下げ、気遣いに感謝を述べた。末谷には、あまり無理をしないように、と最後に言われて、話は終わりになり、会議室を出た。