09-21

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都は、ターミナルウィンドウで、現在時刻を表示させてから、ホストネームだけの行を数行作るために、リターンキーを数回叩いた。そのまま、しばらくターミナルウィンドウを凝視し続けた。何のログも出てこないので、コンソール接続がログアウトしてしまわないよう、またホストネームの行だけを数行作るため、リターンキーを数回叩く。それからしばらく待っていると、ようやく、OSPFのネイバーが落ちるログが次々と出てきた。3つ目のネイバーが落ちると、ほぼ間をおかずに、スクリプトがちゃんと流し込み終わったら、出力するようにしてある、BGPの広告を意図的に止めました、という英文のログが出力された。本当に設計を変更するスクリプトが上手く回ったのかどうか確認するため、都はまず、現在のBGPの広告ルートを表示するコマンドを叩く。広告ルートは0になっていた。このルーターのBGPテーブルを表示するコマンドを叩くと、BGP集約で作られたルートは存在している。存在はしているが、広告はされていない。都が意図した通りの状態になっている。スクリプト自動流し込みによってコンフィグは変更はされているが、NVRMには保存されていないので、現状稼働中のコンフィグと、NVRMに保存されたコンフィグとの差分を確認すると、BGPのアウトバウンドに適用されているポリシーに、全て拒否のシーケンスが差し込まれていることだけが、差分として表示される。
「ふー…。一応上手く行ったっぽい。あとは、ちゃんと戻るかだなー…。」
都は、大きく息を吐いて、安堵を口に出して言った。都は、もう我慢できず、割座になって、しゃがんでしまった。裾から覗く素脚に冷房で冷えた床は冷たかったが、体が緊張で暑くなっているのだろう、気持ち良くすらあった。
「さすが間宮さん!凄すぎです!」
岸谷は、都の緊張が目に見えて綻んだのを感じたのだろう、まるで問題が全部解決したかのような、大喜びで、都を持ち上げた。
「いや、まだ、これがちゃんと戻るかどうかが残ってるから。」
都は、自分が持ち上げられたのを否定したいし、まだ喜んじゃだめだとも否定したかった。しかし、岸谷が喜んだ顔をしているのが、とても嬉しかった。どうか、この笑顔がこの後も続いて欲しい。
今は、お客LAN内で断が起きた時の、お客テスト中ということになるだろうから、しばらく、PCの画面を見つめたまま待機になる。ルーターからログアウトしてしまわないように、時々エンターキーを叩いて、ホストネームだけの行をターミナルウィンドウに作る。ターミナルウィンドウが、一列のホストネームだけの表示で埋まってしまうと、エンターキーを叩いた時、きちんと新しい行が作られているかがわからない。そうなった時は、現在時刻の表示をさせて、その時刻表示の行が、上へ流れていくのを見て、きちんとホストネームだけの行が作られているのを確認するようにする。あの高齢の客の怒鳴り声は、もう聞こえてこなかった。もうあのしゃがれ声の癇癪は聞きたくない。
10分、15分ほど待機していた。エンターキーを時々叩いたり、現在時刻を表示させるコマンドを叩いたりして、ルーターからログアウトしないようにしているだけの時間だった。現在時刻表示を2分おきくらいに実行するマクロを作って、回せば良いのだが、それも面倒臭かったし、都は一からマクロを作ることが出来ないので、元になるマクロが何かないと、作りようがなかった。怒鳴り声も聞こえず、PBX部屋の機器類が出す機械音だけが、ホワイトノイズのように薄く漂う中、割座でしゃがみ込んだままでいると、徐々に気持ちが落ち着いてきて、酷かった緊張も少し引いて来るような気がする。それと同時に、今日一日の疲れが、どっさりと襲って来るようで、目を閉じそうになる。早く家に帰りたい。家へ帰って、窮屈なスーツもなにもかも全部脱ぎ、大好きな熱いコーヒーを淹れて飲んで、素肌でケットにくるまり、横になりたい。
疲れからくる眠気が強くなってきた頃、OSPFのLSデータベースのダウンロードが完了したログが、ターミナルウィンドウに一行出た。すぐに、都が仕掛けたイベントトリガーのスクリプト流し込みが、上手くいったことを示す、OSPFのネイバーが戻りました、という英文のログが吐き出された。それがもう一セット繰り返される。都は、OSPFの隣接状態を確認するコマンドを叩いた。ネイバーは3つ、ちゃんと上がっている。
念のため、LANインターフェイスのコンフィグを確認する。客宅ルーターは、OSPFの代表ルーターにならないような設定になっていた。OSPFは、この本社拠点のLANのように、一つのセグメント内に、幾つものOSPFノードがぶら下がるようなネットワークの場合、代表ルーターとバックアップ代表ルーターが選出され、それらのルーターとだけ、LSデータベースのやり取りをする。そのため、OSPFの隣接相手としては3台いるものの、LSデータベースのダウンロードは、代表ルーターと、バックアップ代表ルーターからしか行わないため、代表ルーター以外のルーターである客宅ルータでは、そのログは2台分しか出ない。
都は念のため、BGPの広告ルートを確認した。ルートの広告はきちんと戻っている。
「やったー。上手く行ったー。」
WAN側インターフェイスの状態を確認するコマンドを叩きながら、大きい声にならないようにしながら、都は快哉を上げた。
「間宮さーん!さすがすぎですー!」
岸谷は声を低めながらも、大きい声を出しているような調子で、破顔して言った。その声が小さいのにもかかわらず、叫んでいるような言い方なので、都はつい笑ってしまった。
「よーし、もういい加減に帰してもらおう。」
都は、NVRMに保存されたコンフィグと、現在動作中のコンフィグとに差分がないことを確認するコマンドを叩いて、差分がないことを視認してから、現在時刻を一度表示させると、割座を解いて、立ち上がった。床につけていた脚が少し痛いし、立ち上がると少し立ちくらみがするけれど、ちょっとした爽快感のようなものがあった。岸谷は都を追いかけるように、ゆっくりと立ち上がった。都は右手首を返して時計を確認した。もう19時40分を回っていた。
「もう帰りたいねー…。」
ため息をつきながら、都はわざと疲れ切ったような調子を作って、大仰に言った。岸谷は同意を示しながら笑っていた。手や体に震えは残るが、それでも気持ちは随分軽くなっていた。今度こそ、本当に終わりだろうと思う気持ちと、そうやって楽観的に考え始めた途端に、またトラブルが舞い降りてくるような不安はあるが、今度は行けるはずだと、強く思うことにした。
15分程度経ってから、平下がPBX部屋へ戻ってきた。長時間の客先対応での疲れが顔には見えるものの、その颯爽とした様子や、素軽い歩調から、結果は聞かなくてもわかった。
「お客さん試験無事終わりました。」
少し嬉しそうな声で、平下は報告してきた。都は両腕を上にあげ、ようやく終わった、自分の施した対策でなんとか完了まで漕ぎ着けた、ということへの快哉を表現し、平下は両手を胸の前で合わせて、ほぼ初めての現場作業員としての仕事にもかかわらず、通常の設置工事よりも、6倍近くも長かった工事の終了を喜んだ。
「本当に長い間すみません、ありがとうございました。」
平下は両手を脇に揃え、腰を折って頭を下げていた。都と平下は口々にとんでもないです、と謙遜を表してから、礼を言った。都は、ほんと、長かったですね、と言いたかったが、冗談として通じる程、平下と親しくなってはいないし、まして、都が勤めるこのキャリアでは、営業と構築とはどこか対立しているところもあるのだから、嫌味か苦情にしかとられない可能性もあるので止めた。
都たちは退館で良いということなので、片付けを始めて欲しいと言われた。都は、PMには連絡したのかと聞くと、PMには既に体制解除の旨伝えてあり、都たち現場作業員には、平下から体制解除することで話がついているという。本来は、PMからの体制解除の指示が必要だったが、今日はあまりにも特殊な体制になってしまっていたので、その辺はもうどうでも良いだろう。
ふと、メイン側のルーターが入っていた段ボールが目に入った。お客によっては、持って帰れ、と言われることもある。それがたとえ、大きなルーターであって、現場作業員が、帰りは公共交通機関で帰らなければならないとしてもだ。そういう場合は、客宅から最寄りのコンビニエンスストアなどを見つけて、空のダンボールをオフィスへ送らなければいけないこともある。
「平下さん、ルーター梱包してたダンボールって、お客さんで処分してもらえますか?」
都は工事用PCのをシャットダウンしながら聞いた。
「はい、お客さんに処分してもらうことで話ついてますから、そのままにしておいてもらえれば良いですよ。」
平下の回答に都は礼を言って、ずっと刺さったままだった、コンソールケーブルをルーターから抜いた。都は、声に出さず、コンソールケーブルにお疲れさま、と声を掛けた。都がコンソールケーブルを片付けている一方で、岸谷は電源ケーブルを片付けていた。
「あ、間宮さん、パソコンあたし持って帰りますよ。」
行きは都が持って来たから、帰りは岸谷が、と言うことだ。10インチの小さなパソコンだが、電源ケーブル、認証用のカードリーダーを含めると嵩張るし、それなりに重たい。都は、一旦は、大丈夫だ、自分が持って帰るとは言ったが、いいえ、私が、のやりとりが岸谷との間で一往復あった後、岸谷に任せることにした。そもそも、会社の共用パソコンでもあるわけだから、工事が終わり、業務で使う予定がないのであれば、派遣社員の都が持っているより、正社員の岸谷が持っているべきだ、とも言えた。
都も岸谷もカバンのジッパーを閉め終わった。都は一応あたりを見回して忘れ物がないことを確認した。平下にPBX部屋を出て良いか聞かれたので、大丈夫な旨答えた。PBX部屋と、オフィススペースから漏れる明かりだけが、誘導灯のように照らしている通路スペースに出ると、日中の強い日差しで暑くなっていた空気は、だいぶ落ち着いていた。ここを出る前に一度トイレに立ち寄って、化粧を直したり、髪をチェックしたいと思ったが、とにかくこの客宅を早く出たいし、お客を待たせてしまって、余計なことで怒らせてもまずいと思い、諦めた。PBX部屋の電灯はつけっぱなしで良いのか平下に聞いたが、そのままにしておいてくれと客から言われているそうだ。あの高齢の客のいるオフィススペースへ行くのかと思うと、都は少し気が重くなった。これだけ時間がかかったことに対して、嫌味や文句を言われるかもしれない。レクリエーション施設のある方へ、渡し通路を伝い、そちら側から退館できないだろうか。都はちらっと考えた。
何を言われるか、直接怒鳴られるのか、起こり得る嫌なことを想定して心がまえする前に、オフィススペースへと入ってしまった。オフィススペースは明るくて、都は少し眩しく感じたくらいだった。PBX部屋の明かりは小さい蛍光灯が一本だったが、こちらは天井からたくさんの白く明るい明かりが、人のいるスペースを隈なく照らしている。もっとも人のいる箇所だけ電気をつけて、省エネ対策はしていた。奥の方は、都たちがバックアップ側ルーターを設定したサーバールームも含めて、窓から差す街灯の明かりや、打ち合わせ卓あたりの明かりで照らされてはいるが、暗くなっている。IT担当者島には、朝見かけた時と同様、共通の作業上着を着た若い男性社員が数名いた。そして、打ち合わせ卓には高齢のお客、高齢のお客と共に現れた黒縁眼鏡の客、強面の客と、平下の上長である橋本とがいた。その全員が都たち一行を見ていた。
「それでは作業員も、体制解除とさせていただきます。」
平下は、打ち合わせ卓に歩み寄り、軽く腰を曲げながら言った。
「ああ、はい。どうもご苦労さまでした。」
黒縁眼鏡の客は平下に返事をした後、都たちの方に体をひねりながら、笑顔で労いの言葉を掛けた。その笑顔につられて、都も笑顔になってしまい、ありがとうございます、と頭を下げた。岸谷も、都に続いて頭を下げて、労ってもらったことに感謝を述べていた。
「大活躍だったんだってな、お嬢ちゃんたち!ありがとな!」
高齢の客はしゃがれ声で、ビジネスの場面ではどうなのかと言う言い方だったが、その大きな声には裏もなさそうだ。この高齢のお客だって、長い時間、お客から見れば、使ったキャリアのミスで滞ることの多かった工事で、疲れているだろうに。それでも、その不満一杯のキャリアから来た現場作業員に、破顔一笑で、労いの言葉を掛けている。それは、この世代が持つ基本的な礼儀姿勢がそうさせるのか。あるいは、このキャリアは大きな会社であることは良く知られたことなので、現場作業員としてきたこの二人が、本プロジェクトには全く関わっていない立場なのは承知済みで、次々と起こった問題が、現場作業員に持ち込まれると解決していったことを、評価してくれているのだろうか。
「お嬢ちゃんたちが最初っから全部やってくれれば良かったのにな!」
高齢のお客はそう言うと大きな声で笑った。他のお客たちの間からも笑いが起きていた。強面の客すら、うっすらと笑顔を浮かべている。営業の平下と橋本は苦笑いするしかなかった。
「では、私たちはもう少しお客様とお話がありますので、先に退館されてください。本当に今日はどうもありがとうございました。助かりました。今度ともどうぞよろしくお願いいたします。」
平下はそう言ってから、来客バッジは、朝来た時に立ち寄った、駐車場スペースにある、警備員の詰め所に返却するように付け足した。都と岸谷は、平下に礼を言って、バッジの件は了承した旨返した。
「それでは失礼させていただきます。お忙しい中、どうもありがとうござました。」
都は両手でビジネスバッグを前に持ち、腰を折って頭を下げ、退館の挨拶をした。岸谷も都の隣で同じようにしてた。客たちも一様に会釈程度に頭を下げていた。都は、IT担当者島の方も向いて会釈をすると、向こうも 全員こちらを向いて会釈してくれていた。
「どうもありがとうな!夜だから気をつけて帰りなよ!」
暗いエレベーターホールの方へ、都と岸谷が消えていこうとすると、高齢の客のしゃがれ声が、背中からそう聞こえてきた。都と岸谷は目を見合わせてから、二人で打ち合わせ卓の方をを向き直り、もう一度カバンを前に持ったまま手を揃えて、一度頭を下げた。そして踵を返し、エレベーターホールへ入った。