09-16

09-16
都はそう言って電話を耳から離し、平下が口を開くよりも先に都が喋り始めた。
「平下さん、私が集約条件をコンフィグしてしまいます。お客さんには、作業員に作業指示のために、状況を説明したら、作業員が同じような問題に当たった経験があって、対処方法を知っているので、現場で設定させます、5分10分ください、と言って来てもらえますか。」
「わかりました。そう説明して来ますので、設定の方お願いできますか。」
平下はスマートフォンを受け取りながら言った。暗礁に乗り上げずに済むかも知れないという、一縷の望みを見つけたような光を、瞳に宿しているように見えたが、それをよく確認することも出来ないくらい、平下は素早く踵を返し、走ってPBX部屋から出て行った。
「さあて、やらないと。」
都は深呼吸をしながら言って、PCの前にしゃがみこんだ。ターミナルウィンドウを叩き、ログを取り続けていることを確認してから、ホスト名だけの行を数行作り、まず、現在保持されているログを出力する。その後、現在時刻を表示させてから、書き込みモードへ入り込む。少し手が震えているのがわかったが、キーボードを打つのに困るほどでもない。ただ、慌てて変な打ち間違いをしないよう、気をつけないといけない。リターンキーを数回叩いて、書き込みモードを示す表示が、ホストネームのすぐ後に出ているだけの行を、数行作ってから、もう一度深呼吸して落ち着かせる。
「じゃあ、書いちゃうね。」
都にくっつくくらいに、都のそばにしゃがみこんで、一緒にPCの画面を覗き込んでいる岸谷に、都は宣言した。
「はい、お願いします!」
岸谷は、小さい声だが、勢いのある調子と、笑顔で言った。都には、その心地よい岸谷の小声の発声と、笑顔にかなり励まされた。岸谷の柑橘系のシャンプーの香りも、まだ感じる余裕はあった。肩が触れ合うくらいの距離に岸谷がいてくれるのは、都には支えだった。緊張から手の震えが止まらない。この緊張は、あの老人の癇癪への恐怖もあったし、これで問題が解決出来そうだ、自分の力で問題を解決出来そうだという、興奮からくるものも混じっている。
まず、自発のASパスを定義する条件文を書かないといけない。これは正規表現で書かなければいけないのだが、自発を意味するものは、記号のチルダとダラーの組み合わせだ。どちらが先でどちらが後だったか、都はよく忘れる。それはつまり、正規表現の意味をよく理解しておらず、字面だけで覚えようとしているということだ。それにASパスは、横書きの出力だが、一番古いものは一番右だということに、都が全く慣れず、順番ということであれば、英語の横書きは左から始まるのだから、一番古いものは一番左じゃないの、という頑なな考えが、足枷にもなっている。チルダが行の先頭を表し、ダラーが行の末尾を表すので、この二つを並べると、間には何もない、つまりASパスが何も付いていない、自発のルート、という意味になる。しかし、この「先頭」と「末尾」が、都には混乱の種だった。ASパスは、一番左が一番新しいものなので、「末尾」のASパス、一番右側のものが一番古い、オリジンのASパスなので、本来「先頭」のASパスだ。都にとってはややこしいことこの上ない。
「自発は猫さんだらしない」と、果たしてこちらを覚えるほうが苦労なんじゃないかという独自の覚え方で、都は自発ASを表す正規表現の書き方を覚えていた。チルダは顔文字で、猫の耳として使われることもあることから、都はそう覚えていた。その自発のAS番号を表す正規表現のみが入った、AS番号のリストを作成し、そのリストをマッチ条件にしたポリシーを書く。ポリシーの名前は、BGPの集約コマンドの頭3文字を使って適当につける。あとは、このポリシーをBGPの集約設定に足してやれば良い。都はここまでは手打ちで書いた。大抵のコマンドは、途中まで手で打って、あとは補完機能を使えばそれほど難しくはない。しかし、IPアドレスはそうはいかない。
書き込みモードでも、確認コマンドが打てるやり方で、コンフィグをBGPの部分に絞って表示させる。集約設定のところを、タッチパッドを使ってドラッグし、その部分だけ反転させる。ターミナルソフトは、これでコピーが完了しているので、BGPを設定するモードに入ってから、そのコマンドを右クリックでペーストする。ペーストしたコマンドの最後にスペースを開けてから、条件付けのオプションコマンドを足し、さっき都が書いたポリシーを当てて、リターンキーを叩く。一気に書き込みモードを抜けてしまって、BGPをソフトリセットしてから、広告しているルートを確認する。広告されていた、10.0.0.0/8は広告されなくなり、ループバックアドレスの1本だけが広告されている。もう1本の172.台の集約ルートは、今は問題になっていないから、この集約条件を設定しなくても良いのだが、後で対向の拠点でそれに含まれるルートが増えた、あるいは、後日利用を始めた網内のサービスにアサインしたアドレスが、この172.合の集約ルートに含まれるIPだった、などがないとも限らないので、10.台の集約設定に、条件づけをを足したのと同じ方法で設定を足す。BGPを再度ソフトリセットしてから、広告ルートを確認する。先ほどと変わらず、ループバックアドレスの1本だけだ。ルーターに保存されたコンフィグと、現在筐体のRAM上で動いているコンフィグとの差分を表示するコマンドを叩き、都が変更したコンフィグのみが、差分となっていることを確認してから、コンフィグを保存した。
「ふー。」
都は深呼吸ついてでに溜息を吐いた。
「終わりました?」
岸谷は囁くように聞いてきた。
「うん。いちおーね。」
都はまた溜息混じりになってしまった。
「おつかれさまです。」
岸谷が可愛らしく言うので、都はつい和んでしまった。岸谷と二人で笑っていると、PBX部屋の天井には、あのしゃがれ声で、どうした!とか、何!とか言っているのが小さく響く。おそらくだが、メイン側ルーターのLANケーブル抜去以来、不達だった通信が復旧しだしたのだろう。都は構わず岸谷に、自分が追加したコンフィグとその効果について、一つ一つ説明した。猫さんだらしない、の件は、間宮さん可愛いと少々大げさに言うので、都はなんだか恥ずかしくなってしまった。
バックアップルーターにリモートアクセスし、バックアップルータのBGPテーブルを表示して、自発のBGPルート、つまり、このルーターで他プロトコルからの再配送や、ピックアップでBGPテーブルに乗ったルートには、網からもらったルートと違って、ASパスが何もついてないことを、都が岸谷に見せていると、平下が小走りに戻ってきた。
「すみません、もう一度LANの断試験をやり直すと言うことなので、一度、LANケーブルを再接続してもらえますか。」
平下は少し早口だったが、先ほどの緊張感は少し和らいでいた。岸谷は、都に確認を仰ぐでもなく、了解の旨返事をしながら立ち上がって、一人でラックの裏へ向かった。
「間宮さん、ありがとうございます。おかげで、上手く切り替わりました。助かりました。」
しゃがんだままの都に対し、腰を折って平下は言った。まるで大きい問題が片付いたかのような安堵が、平下の調子にはあった。
「とんでもないです。でもまあ、LANの断試験もう一回ちゃんとやって、ちゃんと切り替わって、さらにケーブル戻して、ちゃんとルートが元に戻って、OKでした、ってなると思います。」
都は立ち上がりながら言った。平下は、あの剣幕の中、最初は八方塞がりだと思われた最前線で、怒鳴り声が、耳のそばでがんがん響く環境にいたのだ。今の状況は、荒波を脱したようにすら感じるのかもしれない。しかし都は、まだ何かあるかもしれないと言う心配は、持っておいた方が良いと思っていた。LAN断試験をもう一回やってみたら、実は上手くいかない、新しい問題が出る、などがあるかもしれない。
「平下さーん、繋いで良いですかー。」
ラックの裏から岸谷が平下に聞いた。もちろん、客が目の前にいる環境ではないし、激昂の源となっていた問題は解消する見込みだが、なんともお気楽な調子だった。一応あまり大きい声は出さないようにしているようだが、岸谷はもともと通る声なので、この声が向こうの打ち合わせ卓まで聞こえてしまったらどう思われるだろうと、都は心配になるよりも可笑しかった。
平下は、岸谷に接続してOKだと言い、岸谷がLANケーブルの接続をすると、また都と岸谷にしばらく待機を依頼し、足早にPBX部屋から出て行った。平下はPMに連絡していないようだが、良かったのだろうか。都は少し気になった。そう言えば、最初のLANケーブル抜去の時、平下がPMと電話していた内容から、経路が変わったことを確認できた、と言っていたはずだ。おそらく、172.台のホストを、到達性と経路の推移の確認に使っていたのだろう。都はもう一度しゃがみこんで、コンフィグのLANインターフェイス部分にだけ絞って表示させた。するとLANインターフェイスには、172.台のアドレスで、/24のマスク長のネットワークがアサインされていた。デフォルトゲートウェイ冗長プロトコルを回しているので、おそらくオフィスのPM・SEは、このバーチャルIPに対して、疎通・経路確認をしていたのだろう。デフォルトゲートウェイ冗長プロトコルを回している拠点の冗長試験では、経路切り替わり確認の常套手段だ。だからあの時、PMは平下に、経路が切り替わった、と言ったのだ。
もちろんターミナルウィンドウには、LANインターフェイスが上がったログと、OSPFのLSデータベースのロードが完了したログ、そして、デフォルトゲートウェイの冗長プロトコルで、状態遷移はこちら側がメインで終わったことのログが出ていた。BGPの広告ルートを確認すると、ループバックアドレスと、10.台の集約ルート、172.台の集約ルートの3本がきちんと広告されていた。
都は緊張した中、急遽その場でコンフィグを直打ちしたが、一応問題の解決には奏功したようだ。疲労感なのか安堵感なのかはっきりしないものが一気に襲ってきた。
「ふー。」
都は大きくため息をついてしまった。もう割座でしゃがみこんでしまいたかったが、それはなんとか我慢した。ラックの裏から出てきた岸谷は、都の隣にしゃがみこんで、開いたPBX部屋の扉の向こうを見やっている。岸谷は、PCに向かっている都の隣にしゃがみ込む時、毎回都にほとんどくっつくんじゃないかと言うくらいそばに来る。そう言えばさっき腕触られたっけ、と都は思った。岸谷はボディタッチが多い女子なのかもしれない。都はあまりボディタッチの多い女子が得意ではなかったが、岸谷に対しては嫌な気がしなかった。このまま、都が甘えるように、頭を彼女の腕にくっつけても良いんじゃないか。そんな気すらした。
PBX部屋から見える、通路スペースに差す陽射しは、すでに夕方の色合いだ。都が右手首を返して時刻を確認すると、16時半を回っていた。オレンジ色がかった、夕方の陽射しを見ていると、草いきれのにおいがしてくるような気がする。一番暑い時間帯が過ぎると、やってくる気だるさや、一日の終わりが近づいてきたことで想起される、既知の寂寥感。その陽射しを見つめている岸谷の横顔。白い頬にかかる、ゆるいウェーブの茶色い髪。大きな瞳と長い睫毛。鮮やかなピンク色のリップがよく似合う。それがちょっと羨ましい。今向き合わなければいけない仕事とは無関係の、取り留めのない思考が頭を巡る。
平下が戻ってきて、LANケーブルをまた抜去するよう、岸谷に声をかけると、岸谷は、いかにも若者らしい、気持ちの良い返事をして立ち上がり、ラック裏へ行って、平下に抜去する旨伝えてから抜去した。都はぼんやりと、ターミナルウィンドウを見ていた。LANインターフェイスである、ギガビットイーサーネットの0/0が落ちたログが出る。岸谷と平下との間で、ケーブル抜去完了した旨の報告と、お客さんに試験を依頼してくるというやりとりの後、PBX部屋から出て行く平下の足音が聞こえた。すると、岸谷はまた都のところに戻ってきて、都にくっつくくらいの距離で、隣にしゃがみこんだ。ログには、OSPFのネイバーが落ちたログも出てきている。
もしかしたら岸谷は、都がこの緊迫した状況にとてもショックを受けていて、気持ちが弱っているのをわかっていて、そばにいてくれようとしているのだろうか。都は、何度か体を震わせて驚いたり、怖がったりしたから、それを見ていたのかもしれないし、都がBGP集約の条件づけをコンフィグしているのを横から見ていて、手が少し震えているを悟られたのかもしれない。そうだとしたら、年も上、職業上の経験も上の都が、一年目の新入社員に守ってもらうようになっしまっているのは、情けないことだ。だから派遣社員しかできないのだ。そんな自虐も頭を擡げる。しかし都は、岸谷の存在が正直ありがたかった。もし、今日一人でこの現場作業員をしていたら、この緊張に都は耐えられたかどうかわからなかった。体を震わせながら、涙を流し、所在なく渡り通路を行ったり来たりして、精神の平衡を保たなければいけなかっただろう。BGP集約の条件づけのコンフィグも、どこか間違えてしまって、事象が解消すると言ったのに解消せず、お客のさらなる怒りを買って、事態はさらに混迷を深めたかもしれない。そうなったら、都はどうなってしまっただろう。そう思うと、都は恐怖で体が固まってしまう。
ふと考えると今は、都が対策を施した後、本当に事象が解消したかどうかを確認する、メイン側ルーターのLANケーブルの再抜去だ。都は、はっと我に返って、急いでターミナルウィンドウから、BGPの広告ルートをチェックした。無事、広告ルートは、ループバックアドレスの1本だけになっていた。
「うまくいったあー。」
都は、大きいため息を吐きながら言った。
「さすがです!間宮さん!」
岸谷は、小さく拍手をしながら言った。
都は体が固まっていたのが少し解れたような気がした。すると、尻をつかない姿勢で長いことしゃがみこんでいたので、足の指や膝が痛くなっているのに気がついて、立ち上がった。岸谷も一緒に立ち上がったが、相変わらず都にくっつくくらいの距離にいるので、ちょっとスーツの袖が擦れたりした。都は、なんとなく離れて欲しくないような気がして、自分からは離れられず、かと言って、どうしてくっついているのかとはっきり聞いてしまうと、距離を置きたがっているように取られたら嫌だと思い、都は可笑しそうな笑顔で、岸谷を見上げることしか出来なかった。
「あのおじいさん怖いんで、間宮さんのそばにいれば怖くないかなー、と思って。」
岸谷は都の意図がわかったのだろう、小さい声で、ふざけてわざとらしい可愛らしさを作って言った。都は破顔してしまった。喉乾いた、と都は言って、自分のバッグの中のペットボトルを取りに行くために、やっと岸谷と離れた。岸谷とくっつくくらいの距離にいた都の右腕が、何となく暑くなっている気がして、都は袖を引っ張って肘までまくった。