09-15

2022-01-23

09-15

 「間宮さぁん、速過ぎてー、何やってるかわからないですよー!」
 都のつぶやきに被せるように、岸谷は、小声の裏声で、ふざけた調子で言って来た。都は、岸谷に何も説明せずに、どんどん手を動かしてしまっていた。その大げさに助けを求めるような言い方が可笑しくて、都は口を押さえて、笑うのを我慢しなくてはいけなかった。さっきまでの緊張は、作業に集中したことで少し遠のいていて、そこに岸谷の冗談が追い討ちをかけ、都を笑わせた。この子は本当にすごい子だと、都は笑いをなんとか収めながら思った。今、都たちは確かに、高齢のお客が目の前にいないし、部屋も離れているので、緊迫した空気をともにしているとは言い難い。しかし都は、体が震えてしまうくらいの緊張を感じている。それなのに、岸谷はその空気を一変させてしまう。都は怖がりで、緊張しやすいので、簡単に一度高まった緊張は緩みはしない。岸谷の冗談に笑っていても、胸が痛いくらいの張り詰めた感覚は残る。
 「もー。どーすんの、あはははは、って大声で笑っちゃったらー。あー、可笑しかった。」
 都は可笑しくて出て来た涙をちょっと拭いながら言った。岸谷はいたずらっぽそうな、満面の笑顔を見せていた。
 岸谷に説明するために、都は最初からコマンドを叩き直して、出力を説明して行った。岸谷はついてこれたり、ついてこれなかったりだった。それは岸谷の経験の浅さもあっただろうが、都の説明の拙さもあっただろう。この緊張感の中で、都が焦っているせいもあったかもしれない。都の見立てでは、BGPで集約ルートを作成する際に、集約の種として採用して良いルートについて、制限がないため、また、網内にから受け取るルートに、その集約ルートで包含可能なルートが存在するため、LANが断になっているにもかかわらず、メイン側のルーターから集約ルートが1本広告されたままになっている。そのため、対向の海外拠点から、この集約ルートに含まれる宛先向けの通信が、ブラックホールに吸い込まれてしまい、不達になっているはずで、今それが問題となっているのだろう。
 「つまりー、メイン側から広告止まってないといけないのにー、止まってない、ってことですよね?」
 岸谷は整理するように聞いてきた。
 「そう。止める方法はあるから、それをPMさんたちで気がついて、設定追加してくれれば良いだけなんだけど…。」
 都はそう言ってから、再度、コンフィグのBGPの部分だけ絞って表示するコマンドを叩いた。集約設定に条件をつけるオプションは未だついていない。状況としては、都の推測は間違っていないだろうが、こうなることも、お客との間で合意済みなのだろうか。合意済みとまで行かなくとも、BGPの集約設定をするにあたり、それは都のいる部署では非推奨の設定なので、不測の事態が起こるリスクがあることを客に承知させた、などあって、ここは変更しないつもりなのだろうか。あるいは、都の推測はあってはいるが、別にも問題があって、そちらで揉めているのかもしれない。やはり、高齢のお客が怒鳴り出した原因は、聞いてみないとわからない。
 「どーしよーかあ…。」
 PBX部屋に木霊を伴って、まだ終わらないのか、何やってるんだ、という怒鳴り声が響くと、都の体にはまた緊張が戻ってくる。所在なく、ただリターンキーを叩き続けて、ホスト名だけの行を無闇に作りながら、呟いた。どうしようにも、どうしようもなかった。ここで突っ込んで行って、これじゃないですか、と言って、全く的外れだった場合、都たちの会社は、体制の統制が取れておらず、現場作業員が勝手に動いているように見えて、さらに怒りを買う恐れすらある。
 手詰まり状態でいると、誰かが小走りに通路スペースへ近づいてくる音が聞こえてきた。お客だったらどうしようと、都が思うより前に、PBX部屋に平下が入ってきた。緊張した表情をしているが、切羽詰まった感を出さないよう、抑えているように見える。
 「すみません、メイン側のルーター、再起動してもらって良いですか?」
 平下は開口一番、こう言った。おそらく、とりあえず試しに再起動してみる、とでもなったのだろう。都は、無駄な試みだということをまず言いそうになったが、都はきちんと現状起きていることを把握できているとは言い難いのだから、まずは事情を聞くべきだ、と冷静に一歩引けた。オフィスで、他人のプロジェクトのトラブル相談を受けた時や、現場作業員として入った客宅で、トラブルになって、現場でのサポートを依頼された時など、都がトラブル解消の糸口を見つけることは時折ある。そうすると、これで解決出来るかも、と気が早ったり、その自分の助言で、人が困っているトラブルを解消出来そうだ、人の役に立ちそうだと、軽い興奮と緊張が入り混じり、少し手が震えてしまったりする。都は今、まさにその状態で、ましてあの高齢の客の、癇癪の爆発への恐怖もあり、体ががくがくと震えてしまう寸前だった。
 「え、えっと、待ってください。なんでリブートなんかしたいんですか?なんとなく、向こうから聞こえてくる状況で、トラブってるんだな、とはわかりますけど、何でトラブってますか?」
 都は少し声が震えてしまったし、どうしました?とだけ聞けばよかったのに、言葉が多くなってしまった。
 「先程、お二人にLANケーブルを抜去していただいてから、メイン側のLAN断時の冗長試験ということで、お客様試験を実施しいただいているんですが、一部お客様通信が不達になったまま切り替わらない、という事象です。PMの小屋敷さんや、お客様と色々確認したところ、メイン側ルーターから、LANのルートが広告されたままになっていることが原因、というところまで突き止めたのですが、解決策でちょっと手詰まりになってまして、一先ず、ルーターを再起動してみよう、ということになりました。」
 平下は、高齢のお客の怒鳴り声に急かされていて、少し早口になりがちだったが、都にきちんと事情を説明しようと、きちんと文節を切り、冷静さを保つように話した。平下がきちんと説明しようと思ったのは、この温度の上がった客宅の現場で、この派遣の女は、スクリプトの間違いを、お客に露見することなく修正したのだから、当てにできるかも知れない、もしかすると何か気づきがあるかも知れない、と思ったからだろうか。トラブルが発生した時は、プロジェクトにずっと関わっていたメンバーより、外部の人間の、ふとした気づきが突破口になる、というのを経験として知っているのかも知れない。
 都は、推測通り、という意味で、一旦岸谷と目を合わせた。しかし、そこまでわかって、再起動とは苦し紛れ過ぎるし、この怒り狂った客には、悪手にしかならないだろう。
 「間宮さんの想定通りじゃないですかー。」
 岸谷はまた小さく裏声で大げさに言うので、都は否定の意味で手を顔の前で振った。想定通りでも、きちんと解決できなければ、この場合意味がない。再起動なんかしたところで、何も解決しないのだから、無暗にお客に期待をさせた上で、無暗に時間を消費し、無暗にお客の怒りを増長させるだけだ。
 「もしかして間宮さん、ルーターに入って何か見てくれたりしてましたか?」
 平下が聞いてきた。その顔には、都がそうしてくれていることを密かに期待していたような色があった。それだけあの打ち合わせ卓では、八方塞がりで、これは現場作業員の派遣にも意見を仰いだ方が良いかも知れないと、彼こそが苦し紛れに思ったのだろうか。
 「あ、はい。なかなか平下さん、戻ってこないし、すごい剣幕の声は聞こえてくるしだったんで、余計なことかもとは思ったんですが、ルーター入って様子見た方が良いだろうと思って。」
 そんなに流暢に話している余裕はないように思われたので、都は少し早口で言った。
 「で、再起動ではダメです。再起動しても意味がないです。ルーター落ちている間は、そのメイン側から出続けちゃってるルート、消えるので、どうしたってバックアップ側によるしかないので、一瞬直った、みたいになりますけど、ルーターが起き上がってくれば、またその出ちゃいけないルートが出始めて、またお客さんの通信が不達になる、って言う風になっちゃいますよ。」
 都がそう続けた後、平下はおそらく、それでは何か対策があるのかと聞こうとしたかのように口を開いたが、先に都がさらに続けた。
 「今、ルートが広告し続けちゃっているのは、BGPの集約設定のせいで、そうなっちゃってるんです。10.0.0.0の8、っていう、ものすごい大きいサブネットで、10点台の細かいルートを集約していますよね?」
 都がそう言うと、平下は承知していると言う意味で、相槌を打ちながら頷いた。都のオフィスでよく行われる、PMが直接お客にヒアリングするのではなく、営業にヒアリングシートを提出し、営業がヒアリングをしてくる、と言う方針で進めてきたのかも知れない。ただ、それでもヒアリングの内容を把握していない営業もいるにはいるが、平下は把握しているということだろう。都は、そのつもりで話を続けた。
 「このBGPの集約設定って、そもそそもの意図としては、たぶん、LAN側のルート、OSPFのルートだったり、スタティックルートだったり、それらの10点台の細かいルートを、10.0.0.0の8へ集約して、その集約ルートだけ広告する、っていうものだと思うんですけど、」
平下は、ここで、そうです、と言って少し大きめに頷いていた。そこには何か含みがあるようで、都は少し気になったが、続けた。
 「このBGPの集約設定ってリスクがあって、集約するルートに含まれるものが、BGPテーブルに乗っているものならなんでも、タネにして集約ルートが出来てしまうんですね。で、網内に流れているルートって、ほとんどが10点台ですよね?たぶん、対向の海外拠点のルートもこの10.0.0.0の8に包含されるルートだと思うんですけど。」
 「ちょっと待ってください。」
 平下はそう言うと、PBX部屋の端に置きっ放しにしてあった、彼のビジネスバッグを開け、書類を探すと、クリアファイルを一つ取り出し、ホチキス止めしてある、印刷したヒアリングシートを出し、ぱらぱらとめくった。
 「はい、そう、ですね、確かに…。対向の海外拠点から広告しているルートは/24のものが3つあるんですが、全部10点台ですね…。」
 実はそれ以外にも、WANセグメントや、網内で使われているネットワークに10点台があるのだが、そこまで説明しなくても良いだろう。
 「ですよね。だから、網からもらってくる、対向の海外拠点の/24のルートは、10.0.0.0/8で集約できるものなので、ここのメインのルーターは集約ルートを作ってしまって、網に広告し続けてしまうんですね。これは不具合でもなんでもなくて、想定された動きなんです。なので、再起動しても、同じ状況にしかならないです。」
 「これー…。うーん…。そうですか…。何か対策って出来ますかね…。」
 平下は、おそらく対策などないかもしれないと、半ば悲観的な感じで、都に聞いてきた。これは不味いことになった、困難な状況が近づいて来たという、緊張も見て取れる。平下の唸りながら考え込む様子からするに、もしかすると、ヒアリングでかなり手間取ったポイントだったのかもしれない。
 「はい、ありますよ。」
 都はことも無げに答えた。
 「まじっすか?」
 平下は本当に驚いていたようで、ビジネス喋りがすっかり消えていた。
 「はい、BGPの経路集約する時に、条件付けができるので、それをすれば良いです。」
 都がそう言うと、平下は再度、まじっすか、と言ってから、ありがとうございます、と少し大仰に言いながら、スマートフォンをジャケットの内ポケットから取り出し、電話を掛けだした。暗礁に乗り上げそうだった事態が、無事航路に戻りそうだと感じたのか、少し平下は興奮したような表情だ。電話の相手はPMの小屋敷で、挨拶もそこそこに、平下は切り出した。
 「現場作業員をされている間宮さんにちょっと見ていただいたのですが、今集約ルートが広告され続けているのは不具合などではないそうです。」
 平下は、それから都が説明したことと、経路集約に条件指定をすれば防げるということを、電話の向こうに喋っていた。その口調にはどこか不満めいたものがあるが、それを抑えているように聞こえる。しかし、電話の向こうは、それは出来ないと言っているようで、平下は、無事航路を進めそうだ感じたのは、平下の誤認識でしかなく、やはり暗礁に乗り上げるのだと、意気消沈して行くようだったが、それすらも抑えようとする冷静さが見えた。PMが出来ないと言っているのが正しくて、都が間違っているのか、あるいはその逆なのか、見極めたいと思っているようだ。
 「間宮さん、PMの小屋敷さんは、BGPの経路集約に、そう言った条件付けは出来ないと言っているんですが…。申し訳ないのですが、ちょっと直接話してもらって良いですか。」
 平下の表情からは、あまり感情のようなものは読み取れない。営業にとっては、都たち構築のいる部署は別部署なので、その部署の中で意見が割れているのであれば、部署の中でまず話し合ってくれ、これ以上営業を混乱させないでくれという、非難があるのかも知れない。それは、このプロジェクトが進行する中で、トラブルや揉め事が多く、営業の立場から見れば、構築が原因で起きたトラブルばかりで、ここまで来ても、またそうなのか、と言った、表に出すわけにはいかない不満の鬱積もあるように思えた。
 「はい、いいですよ。」
 都がそう言うと、平下は電話の向こうに都と代わることを伝えてから、自分のスマートフォンの表面をジャケットの袖で何度か拭いてきれいにして、都に渡した。その渡し方には、お願いします、というよりは、もういい加減なんとかしてくれという、営業部署から、都の所属する、構築担当部署であるGD部への、怒りのようなものがあるように、都には思えた。平下のスマートフォンは最近流行りの大きいもので、都はどう持ったらいいのか一瞬躊躇したが、なんとか電話として持って話が出来そうだ。
 「…お電話代わりました。間宮です。…お疲れさまです。」
 電話の向こうの小屋敷というPMに、都は面識がなかった。電話で話して、女性だということも初めて知ったくらいだ。都は、自分が仕事で関わらない限りは、あまり職場の人間と関わろうとしないので、同僚でも顔と名前の一致しない人が多い。まして、小屋敷というPMは、業務委託でオフィスに入っている会社の人間で、彼らの席の島は、コンプライアンス上、仕切りの向こうにあるため、そこのメンバーとはあまり行き来もない。都のオフィスは柱が多く、見渡しても死角になる島や机は多いので、仕切りの向こうだと、もう別の部屋だと言って良いくらいだった。
 電話の向こうは、BGPの経路集約に条件付けなどは出来ないはずだと言って来た。それは都を責めるような言い方ではなく、彼女の知る限りそうだ、というような言い方で、都が何か別のことと勘違いして、言っているだけじゃないのだろうかと、今一度都に認識を確かめたいという意図のようだ。確かに、都はただの現場作業員だし、このプロジェクトの全体設計も、お客の要件も知らない。コンフィグだって、メイン側について、今さっき問題になるところに絞って確認しただけに過ぎない。
 「いえ、条件付けは出来ますよ。この場合、自分のルートだけに絞れば良いので、自発のASパスのみを集約の対象にする、っていう条件縛りを書けば良いんですけど…。アドバタイズマップ、ってわかりますか?」
BGPの集約設定で、意図しない集約がされてしまい、トラブルになり、都のところに相談が来ることは何度かあった。その度にこの手のやり方を説明するのだが、そんなやり方あるんですね、と言われる事が多いので、もしかすると小屋敷も知らないだけかも知れないと思い、都は聞いてみた。客宅ルーターで使われるメーカーの、OSのコマンドそのものも、付け足して言ってみた。
 「アドバタイズマップ…、ですか…?少々お待ちください…。」
 小屋敷は知らないようだ。おそらく、一緒に今日の工事を担当しているSEに聞くか、小屋敷たちがいる業務委託の島は、全員同じ会社から来ているので、そのリーダーに聞くかしようと思ったのだろう。しかし、今日は週末なので、オフィスには工事がある人しか出勤していないはずだから、そのリーダーもいるかどうかわからない。電話かチャットかで聞こうと思っているのだろうか。この状態で、お客の見えないところで、確認に時間を要するにはまずいと都は思った。そしてその不安は的中する。
 「ルーター再起動するだけに何分かかってるんだ!やる気あるのか!」
 都たちはPBX部屋に入っているので、はっきりとは聞こえてはこないが、そういうしゃがれ声の怒鳴り声が、木霊を伴って聞こえて来た。都はまた強い緊張が体中に走り、胸が痛く、呼吸が苦しくなるような感覚を覚え、電話を持つ手が震えて来る。おそらく、あの打ち合わせ宅で、電話会議を開催しているか、もう一人の営業、橋本が別の電話から、小屋敷たちの席の島にある固定電話を繋いでいるかのどちらかで、オフィスのPM・SEたちにも今の怒鳴り声は聞こえたようだ。すぐに小屋敷が電話に戻って来た。その口調は明らかに慌てていた。
 「すみません、ひとまず再起動していただけますか?」
 平下も都の側へ来て、電話を返せというようなジェスチャーとともに、同じことを口に出して言っていた。これ以上いくら口で話した所で、時間の無駄にしかならなそうだ。都は、現場作業員に徹するのは諦めた。どちらにしろ、自分から再起動は意味がないと言ってしまったのだ。巻き込まれるしかなかった。
 「そうであれば、私がルーターに入ってコンフィグします。少し時間ください。あとは平下さんと話します。」