09-12

2022-01-23

09-12

 「じゃあ、私お客さんに、お客さん試験始めてくれるよう言って来ますので、すみませんが、お二人ともここで待機してもらって良いですか?」
冗長試験の前に、正常系でのお客試験となる。本社と対向の海外拠点との通信は、今はお客構築のインターネットVPN経由のはずだから、その切り替えもお客自身でやらないといけない。都たちMPLSプロバイダから見れば、LAN側はダイナミックルーティングなので、既存の両拠点のLANに、都たちが設置したルーターが新規に加わっただけなのであれば、OSPFへの再配送コストを調整したりすれば、経路は自動的に切り替わるだろう。しかし、お客のLAN内の構成や、既存インターネットVPNの設計に依存するし、既存の構成・設計についてはわかりようもないので、明確には言えない。WANが自前のインターネットVPNから、キャリア提供のMPLSになるのだから、必要なシステムや端末同士の到達性だけでなく、アプリケーションの動作なども試験するだろう。そこそこ時間はかかりそうだ。
 平下はお客のところへ行く前に、待機時間が長くなるだろうからと言って、トイレの場所を教えてくれた。PBX部屋へ入る、通路のようなスペースには扉が4つほどあるのだが、オフィスエリアへの扉、PBX部屋への扉は、強面の客が開けていたのを、ここへ最初に来た時に見ていたが、いつの間にか、通路スペースの一番奥にある扉も開け放されていた。強面の客が開けておいてくれたらしい。その扉を抜けると、窓に囲まれた細い通路に出る。窓から外を見ると、この通路が、建物の吹き抜けになっているところを渡している通路だとわかる。吹き抜けは一番上階層の天井まで抜けていて、採光窓が天井にあり、明るい陽射しが建物の内部に入って来ている。コンクリート打ちっ放しの灰色の壁とあいまって、まるでどこかの美術館のようだ。下の階には食堂のようなスペースが見える。
 通路を渡りきって右手に行くと男女別のトイレがあり、ここを使って良いと、お客からも許可をもらっているとのことだ。左手はずっと先まで廊下が伸びていて、廊下の左側は、吹き抜けを眺められる窓がずっと並んでいる。右手はレクリエーション施設と表示があり、扉が開いていて中が見えているが、学校の体育館のような施設だ。かなり大きな施設に見えるが、こんなものを本社内の、しかも上階層に作ってしまうのかと、都は思った。扉付近にある掲示板には、利用の仕方の案内がある。エクササイズのインストラクターが来ることの告知があり、参加希望者のエントリー方法などが掲示されている。社員の健康増進のための施設、と言う位置づけなのだろう。賃貸オフィスビルなどにはまず見られない設備だ。都が若い頃アルバイトをしていた郵便局の最上階にも、バスケットコートがあったのを思い出した。会社内に体を動かせる施設があって、福利厚生が良い会社と考えるか、終業後も会社に縛られかねない嫌な設備がある会社だと考えるかは、人それぞれだろう。都は後者だ。会社で企画したようなスポーツイベントのようなものがあって、終業後それに参加しなくてはいけないなんて、義務教育の学校みたいだ。義務教育の学校にある、体育館ようなこの設備と、あの高齢の客は、とても符号する気がした。全員が同じ方向を向いていないといけない、同じ価値観を持っていなければならない、透明な鉄条網に囲まれた箱庭。都が子供の頃から一番馴染めないやつだ。
 平下がお客のところへ行ってしまってから、都と岸谷は交互にトイレをすませ、吹き抜けを渡す通路に二人で出て、吹き抜けを見物した。お洒落な作りだとか、食堂が綺麗そうだとか、天井に採光窓のある建物は良いだとか、採光窓のデザインがかっこいいねとか、観光名所でも見物するような会話をした。人がいないので、通路には都たちの会話が少し木霊するから、二人で囁くように喋った。岸谷の通る声は囁くように喋ると、舌が口蓋を打つ音が聞こえる声で、くすぐったいと言うか、ずっと聞いていたいような心地良い声だった。
 「社内にジムあるとかすごくないですか?」
 岸谷は渡り通路の向こうを見ながら言った。都が同意を示すと、中入っちゃいたいですね、と岸谷はいたずらっぽい笑顔を浮かべた。都は笑って賛同した。
 渡り通路に長居してしまったが、営業かお客がPBX部屋に戻って来た時に、都たちが二人揃って不在なのはまずいので、PBX部屋の手前の通路のようなスペースにいることにした。ここは外が見える窓から陽が差し込むので、明るくて待機しているには良さそうだ。初秋の陽射しとは言え、閉鎖された空間の気温を高くするには十分だ。
 「ここ暑いですねー。」
 岸谷は手で首元を扇ぎながら言った。
 「あ、暑いな、と思ったら、サーバールーム入れば良いんだよ。」
 都はそう言って、岸谷と一緒にPBX部屋へ入った。窓もなく、コンクリート打ちっ放しの壁に囲まれた、15畳程度の小さな部屋は、空調も効いていることもあり、通路のようなスペースから入るととても涼しく感じる。
 「すずしー。」
 岸谷は安堵するように言うので、都は笑ってしまった。この部屋はあまり空調がきつくないので、ずっと居続けても寒くはならなそうだが、データセンターなどでは、ラックスペースはかなり強い空調が効いていて、30分以上作業をしていると、体が凍えて来て、寒さから手が震えるようになったりするほどの所も多い。ラックスペースへの出入りが自由なデータセンターであれば、長い待機の間、時折ラックスペースから出て、通常の気温の場所で体を「温め」て、再度ラックスペースへ入り直せば良いが、ラックスペースへの出入りにも、データセンターの人間のアテンドが必要だったり、ラックスペースへの出入りの手続きが煩雑だったりすると、そうも行かず、長いこと極寒のラックスペースで震えて待機し続けなければならないこともある。
 「そう言う時はどうするんですか?」
 そんな話をすると、岸谷が聞いてきた。
 「事前に分かってれば、上着一枚持ってくかな。上着一枚くらいじゃ効果ないところもあるんだけどねー。で、事前にわかってなければ、ひたすら震えて耐えるだけー。」
 「えー。」
 都がわざとだらしない調子で言うと、岸谷も調子を合わせて、嫌そうに言った。可笑しくて二人で笑った。
岸谷に都の現場作業員の体験談を話したり、二人で取り止めのない話題に花を咲かせたりした後、都が右腕の手首を返して時間を確認すると、12時10分を回っていた。お客試験は1時間程度かかっていることになる。平下もあれからずっと戻ってこない。オフィスエリアで、お客の側で待機し、何かあればPMや、対向拠点のエンジニアと連絡を取りつつ、お客試験をサポートしている、というところだろう。
 今回の待機は、広めの空間を自由に歩けるので、同じ場所に突っ立っているか、しゃがんだりするかよりは、疲労度は低そうだが、それでも1時間以上も待機していれば、足が痛くなったり、腰が痛くなったりしてくる。都と岸谷は、時々しゃがんだり、暑くなった通路スペースから涼を求めて、PBX部屋に入ったりしながら時間を潰した。
 平下も戻ってこないし、お客がこちらに来る気配もない。何も情報がなく、ただ待機しているだけだと、とても長い時間待たされているように感じる。通常の現場作業員としての業務であれば、拘束時間は2時間と決まっているので、決められた拘束時間の終了が近づけば、こちらからPMに連絡して作業の進捗を聞いたり、拘束時間の終了が近づいている旨注意を促したりする。しかしこの工事は、対向の海外拠点のLAN切り替えも同時進行で実施、また、現場である本社拠点の冗長試験だけではなく、対向の海外拠点の冗長試験にも待機必要と、事前から依頼されていた。先はまだまだ長い。
 都と岸谷は、もうPMに電話を掛けてしまって、どうなってるか聞いてみようかと話し始めたところで、平下が戻って来た。
 「すみません、長々とお待たせしてしまって。」
 平下はそう言ってから、正常系のお客試験が無事完了した旨報告した。そしてこれから、海外拠点側の冗長試験に入るという。またしばらく待機になってしまって申し訳ないと、平下は軽く頭を下げた。その顔には、長くなって申し訳ないが、今の所順調に来ているので耐えて欲しい、これでこのプロジェクトもようやく完了へ向かえるという、大きい労力と、長い時間を費やした仕事がようやく終わる時の、あの集中し、充実したような、力のある目の色と表情をしていた。都は、まだまだ長い待機が続くのかと、ため息の一つでも出そうだったが、入館時のお客の対応や、営業の挙動、そしてあの高齢のお客の冗談とも皮肉とも取れる発言などから、微妙な緊張状態に置かれているこの現場では、その現場作業員の気の緩みさえ、新たなトラブルを引き起こすんじゃないかと、都は勝手に心配になってしまい、不満を示すようなため息一つすら憚らなくてはいけないように感じた。
 海外拠点側の冗長試験が終わると、次は本社側の冗長試験になると言う。今回の本社側の冗長試験では、オフィスのPM・SEが、リモートでルーターのインターフェイスを閉塞・開放したりする方法は取らず、現場作業員によるケーブルの抜去・再接続で実施するという。なので、本社拠点の冗長試験の時は退屈しないと思うと、半分冗談で平下は言った。今は都たちとそんなに喋っている時間もないはずで、おそらく、現場作業員に状況を共有する、という理由で、打ち合わせ卓を外して来たのだろう、少し平下は早口だった。
 都は了解した旨答えた後、海外拠点の冗長試験にはどの程度時間がかかる予定か聞いた。平下は、言いづらそうに、1時間半程度予定されていると言った後、順調に進めば早く終わると、都たちを慰めるように言葉を足した。手順書を共有されていないので、詳細はわからないが、おそらく、メイン側のWAN断、電源断、LAN断を各30分づつ取っている、という感じだろう。バックアップ側の障害については、擬似的に障害を発生させ、メイン側のトラフィックについて影響がないことを確認する、という試験も実施するプロジェクトは多い。これだけお客の温度が高いのだから、これもやる可能性は高い。そうであれば、メイン側の時間区分は都の予想とは違うかもしれない。平下が気を遣ったのと、前倒しできるだろうと踏んだのとで、都たちには1時間半程度、と短く言った可能性もある。
 都は現場作業員の仕事を何十回もこなしている。その中には、ほとんどトラブルの起こらないはずの、日本国内の回線でトラブって、客宅ルーターからプロバイダエッジルーターまで疎通が取れるようになるまで、8時間程度待機だけ、というものもあった。また、ルーティングのトラブルで、都が現場で解決しなくてはならず、20時間以上データーセンターで缶詰作業になったこともある。それらに比べれば、この待機時間は短いと言えるのだが、本来現場作業員というのは、設置作業をして、それ以上の物理作業が不要となれば、お役御免となり、退館出来るものだ。この長い待機が、少々苦痛であることに変わりはない。
 岸谷にとっては、ほとんど初めての現場作業員だが、設置した拠点でもない拠点の、冗長試験が終わるまで待機ということには、それほど驚かなかっただようだ。オフィスでの、海外拠点のLAN切り替え工事対応は、待機時間が長くなることは多いし、1拠点だけではなく、2、3拠点、少し時間をオーバーラップさせて連続で面倒を見ることもある。そういう工事を経験していれば、2拠点しかないネットワークでの、一斉LAN切り替えだと考えれば、一日作業になることも理解出来るだろう。ただ、都たちは今日はただの現場作業員なので、本当に突っ立ているだけの待機だ。オフィスでプロジェクトのPM・SEとしてやっていれば、お客や、海外オフショアセンターと連絡をとったり、各ルーターのログ取得、疎通・経路確認、ルーティングテーブルのチェック、ダイナミックルーティングの状況確認など、待機以外にもやることは沢山ある。
 「長くかかりそうですねー。」
 岸谷は、参りましたね、という顔はしていたが、長い待機には慣れているような振る舞いだ。正社員として入社し、都が派遣社員として働く部署に配属されて、半年経つか経たないかだが、それなりに色々なプロジェクトや工事に関わらせてもらって、経験を積んでいる、ということだろう。
 「ただ待ってるだけだからねー。」
 都はそう言いながらつま先でしゃがみこんだ。椅子でもあればなあ、と思ったが、客宅ではそうもいかない。立ったりしゃがんだり、通路スペースや渡り通路を歩いたりして、足腰が痛くならないよう、時間を潰すしかなさそうだ。