09-08

2022-01-23

09-08

 「間宮さん、リモートからログインできたそうです。あとは小屋敷さんたちで、WAN試験と細かいコンフィグをするそうですので、少し待機してほしいとのことです。」
 電話を切った平下が言った。
 「あ…。でも、リモートでメインの試験とか細かいコンフィグしてる間に、バックアップルーターのマウントしてしまった方が良くないですか?」
 都はそう言いそうになったが、言葉を噤んで、了解だけ返すに留めた。
 すでにリモートで接続できるようになったルーターにもかかわらず、サービスプロバイダ側の試験やコンフィグ作業のために、万が一に備えて現場作業員を待機させておきたい、リモートエンジニアの気持ちは理解できる。何かあれば、ルーターを再起動したり、コンソール接続でのコンフィグ変更が必要になることはあるだろう。しかし、少し離れているとは言え、同じ客宅の同じフロアにいるのだから、工事時間を短縮させるためにも、バックアップ側のルーターのマウント作業は始めてしまうべきだ。
 しかし、この本社拠点のルーター設置まで来る間に、お客の温度が高くなるようなことがあったと言うことなのだから、要領よりも事前に計画した通りに進めたい、と言うことなのかもしれない。事前に検討、複数人でレビューし、決定した工事手順については変えないのが原則だ。余計なことを考えて、本来注視すべき事柄から意識が外れてしまい、思わぬ失敗、事故を招かないように、と言うことだ。しかし、余計なことを考えなくて良い、事前に決めたことをやっていれば良い、と言う、手だけ動かしていれば良いような状態は、ある意味安全ではあるが、思わぬトラブルに当たったときに、頭がきちんと回転せず、普段オフィスで仕事をしている時には簡単に思いつくようなアイディアすら、全く浮かばなくなることもある。だから都は、工事手順がしっかりしている工事でも、状況に鑑みてどうするべきか考えた方が良いと思っていた。もちろん作業項目が多く、そんなことを考えている隙さえない、と言う工事も中にはあって、そう言う余裕のない工事は失敗を招きやすい。
 「間宮さん、ケータイ。」
 岸谷は手のひらを重ねて、まるでプレゼントか何かのように、都に都のスマートフォンを差し出した。
 「ありがとう。」
 都もプレゼントを受け取るように、笑顔で首を少し斜めに倒しながら受け取った。
 都は一旦ルーターのユーザーモードからも抜けてしまって、リターンキーを叩き、ログインを試みた。設置した当初は、コンソールポートからは何の制限もなくログインできたのだが、コンソールポートにも制限が掛けられていた。スクリプトにある平文のクレデンシャル情報を使ってログインを試みたところ、ログイン出来たし、特権モードに入ることも出来た。これで万が一現場でルーターの状況の確認を求められた時でも大丈夫だろう。都は現在時刻を表示させるコマンドを叩き、ログ取りは止めないでおく。付属品の入っていたビニール袋を回収して、ダンボール箱の中へ入れてしまう。マウントに使ったドライバー類もカバンにしまっておく。ドライバーセットから組み立てた方のドライバーは分解せずそのままにして、セットごとしまう。都は右手首を返して、時刻を確認した。9時40分を回っていた。
 30分くらいラックの前に岸谷と二人で、時折喋りながらではあるが、突っ立って待っていた。ようやく平下の携帯が鳴った。お疲れさまです、の挨拶の後、しばらく会話があり、最後にバックアップ側のルーターの設置に移る旨話して、電話を切った。平下は都と岸谷に、バックアップ側のルーターの設置作業に入って欲しいので、設置場所へ移動する、必要な荷物をまとめてくれと言った。都は了解の旨返事をして、少し小走りに、岸谷がPCの電源を差してくれた壁の電源アウトレットまで行って、電源プラグを引き抜く。プラグを持ったままPCまで歩き、PC側のジャックも抜いて、電源アダプターに電源ケーブルを巻きつける。その間、コンソールケーブルとUSB変換ケーブルは、岸谷に片付けてもらった。
 ケーブル類は無造作にカバンに突っ込む。PCはターミナルソフトのログ取得を止めてからディスプレイを閉じ、その上に認証カードリーダーを乗せて、そのまま右手でお盆のように抱える。そして左手でジッパーが開いたままのカバンを持って立ち上がる。周りを見て忘れ物がないか見回す。岸谷も自分のトートバッグを持って立ち上がっていた。
 「じゃあ、良いですかね。」
 平下は都に聞いてきた。都が、はい、と返すと、平下は強面のお客に、バックアップ側ルーターの設置場所へアテンドしてくれるよう依頼していた。強面の客は、了解の旨小さく返事をして、この部屋から出て行くように歩き始めた。強面のお客が一番部屋の奥にいたので、都たちは彼のために一旦道を空けなければいけなかった。
メイン側ルーターを設置した、PBX部屋の扉も、PBX部屋へと連絡する通路とオフィスエリアを仕切る扉も、どちらも開け放しのままで、都たちは強面のお客の先導でオフィスエリアへ戻った。IT担当ブロックの向こうにある打ち合わせ卓の一つを、橋本と、黒縁眼鏡の客、高齢の客で囲んでいる。高齢の客がまず都たちが戻ってきたことに気が付いた。
 「何事もなく終わったか?」
 しゃがれた大きな声で聞いてきた。強面の客が、メイン側のルーター設置とWAN開通が終わった旨回答した。都たちに話すよりも少し冗舌な感じになり、若干の愛想のようなものもあった。シャイな人なので、内輪の人間と外輪の人間とで態度が変わるのかもしれないが、やはり都の勤めるプロバイダに対して高い不満を抱えているため、そういう違いが現れるのかもと、都は思った。
 現場作業員と言っても、今回はプロバイダ本体のリソースから出ているのだから、都はアウトソースの人間としてではなく、プロバイダの人間として来ている。だから、この客の不満をぶつけられても仕方ないと言えばそうだし、プロバイダの人間として現場に来ているのだから、プロバイダの代表としての心構えで働かなければならない、それが例え派遣雇用であっても、というのもわからないでもない。しかし、会社勤めをしていれば、会社の端から端まで同じ業務やプロジェクトに関わっているわけではないのは、よくわかるはずだ。それなのに、今まで自分が連絡を取ったことのない人間に対しても、そのプロバイダの人間だから、ということで態度が硬化する、というのは、どんな業界、どんな立場でもよくあることだが、叩かれる側になれば、理不尽だと思いたくもなる。逆の立場になった時、自分が決してそうはしないと言えるだろうか。都は自問した。
 「今のところ何も起こっていないようだな?」
 しゃがれ声でそう言うと、高齢の客は大きな声で笑った。橋本は、ご迷惑ばかりかけて申し訳ありません、と苦笑いしながら頭を下げていた。平下もその高齢の客の方へ体を向けて、腰を折って頭を下げていた。
 「それではバックアップ側のルーターを設置させていただきます。」
 「次の行程も何も問題起こすなよ!」
 平下の言葉に、高齢の客は笑いながらそう言っていた。顔は笑っているが、目は笑っていないように見えた。
 サーバールームとオフィスエリアを仕切る仕切り板の一つが扉になっていて、強面の客が鍵を開けた。強面の客、平下、岸谷、都の順でサーバールームに入って行く。都は両手が塞がっているので、岸谷は都が通れるよう、扉を押さえていてくれた。
 「ありがとう。」
 「いいえ。」
 都が礼を言うと、岸谷は笑顔で返してくれた。
 中はサーバーラックだけでなく、普通の棚ラックもあって、何か工業部品のようなものが入っていそうな、ダンボールがいくつも棚に載っている。俯瞰して見たら、おそらく碁盤の目のようになっているラックの間を抜けていき、ある棚ラックの端まで来た。その隣にあるハーフサイズのサーバーラックの手前に、中身は1Uのデスクトップサイズのルーターであることが、大きさからわかるダンボールが置いてあった。ハーフラックの表と裏のパネルは外して、側面に重ねて立てかけてある。ラックの一番下から4分の1程度の位置に棚板が設えてあり、その上に縦型のインターネット回線の終端装置が置いてあった。都は強面の客に、ルーターの取り付け位置や、方向、電源の取得位置、ラックネジのありかや、都たちのPC用の電源の取得位置などを聞いた。平下には、インターネット回線の回線IDを聞き、終端装置に貼ってある回線IDと一致することも確認した。
 都と岸谷がダンボールを開封してルーターを出している間、強面の客は平下に、打ち合わせ卓にいるから何かあれば携帯に電話してくれと言って、ラックから立ち去って行ってしまった。サーバールームと言っても、半分以上は物置のような場所なので、一般的なサーバールームよりも機械音は少なく、それほどの騒がしさもないので、強面の客がサーバールームから出て、扉が閉まる音はラックのところまで聞こえてきた。現場作業員の時、お客がずっと側にいるのは緊張するし、やりづらくもある。一挙一動を見られているようで、何について文句を言われるかと気にしながら作業をしなくてはならず、いつもなら難なく出来ることでも、硬くなってしまい出来なくなったりする。客が作業をしているその場から離れてくれて、都は安堵の溜息を漏らしそうになった。
 バックアップ側のルーターは机に載せられるようなサイズなので、横幅はラックの幅より狭い。このためラックマントキットの耳の部分は、19インチに合わせるため長くなっている。ルーターが小さいため、メイン側のルーターのように、片方ずつ二人でつけると言うやり方は、作業がしづらいので、岸谷一人でラックマントキットをつけてもらうことにした。つけている間、都はルーターを動かないよう支えて、岸谷の作業がし易いようにした。付け終わってから、都がネジの締まりを確認したが、やはり緩かったので、ネジ穴が壊れない程度にきつく締めるコツを教えて、やらせて見た。一度で都のOKが出たので、岸谷は小さく快哉を上げていた。
 一番多く出る機種は、このバックアップ側のルーターのような、デスクトップサイズと言っていい、高さが1Uサイズで幅が19インチ未満の小さい筐体だ。この小さい筐体の場合、基本現場作業員は1名のみの派遣となる。そのため、ラックマウントも基本一人でやらなければならない。都はさっきメイン側のルーターでやった、下側のラックのネジを先に緩めに差し込んでおいて、ルーターを引っ掛けて止めるやり方をもう一度説明して、岸谷に一人でやらせて見た。このルーターは小さく軽いため、片手で十分持ち上がるし、支えることも可能だ。ルーターをネジに引っ掛けたら、片手でルーターの底を支えておいて、空いた手でネジを締めていく。岸谷は右利きなので、左手でルーターの底を支えながら、まず右上のネジ穴にネジを差し込んで締める。次に左下の事前に緩めに差しておいたネジを締めるのだが、右手を左手と交差させてやらなければならないので、ちょっと姿勢的に苦しい。そこを締めてしまえば、その次は右下の事前に差し込んでおいたネジで、ここまで適度に締め終われば、底を支えていた手は放せる。あとは最後の左上のネジを差し込んで締めて、順番に少しずつきつめに締めて行けば良い。岸谷が締め終わってから、都が締め具合を確認したが、今度はちゃんと締まっていた。マウントレールに対して垂直、床に対しても平行についているので大丈夫だ。
 「合格!」
 「やったー!」
 お客も側にいないので、何かの検定試験でも通ったかのように都が言うと、岸谷は両手を上にあげて喜んでいた。